あわいを往く者

  [?]

邂逅

  
  
  
「ここが私達が滞在している村で、この大きなのが、火の山トランヴォールです。この森をぐるっとまわって『赤岩』がここ。今いるのはこの辺りかな。あと二里ってところでしょうか」
 息の上がってしまった朗を気遣ってくれているのだろう、岩場を越えたところでシキは足を止め、傍らの石の上に地図を広げた。優雅な書体で飾られた地図は、アンティークショップに持って行けばそれなりの値がつきそうな風情の代物である。
「この印は、何だろうか」
 朗は、予定進路から少し外れた所にあるバツ印を指差した。
「あ、それは、『ししむろ』と呼ばれている洞穴です。五日前に調べに行きましたが、ごく普通の洞穴でした」
「ししむろ……」
 殊更に朗は考え込んでみせた。洞窟、しかも調査済みの。木陰か岩陰かを考えていたが、これはまさしく「もってこい」な場所ではないだろうか、そう心の中でだけ笑みを浮かべると、引き続き深刻な表情を作ってみせる。
「どうかしましたか?」
「いや……、何か……記憶の片隅に、ひっかかるものが……」
「え、何か思い出しそうなんですか?」
「分からない。だが、何かが……」
 難しい顔で黙り込む朗を、シキは心配そうに見つめた。何度か進行方向に視線をやっては、しばし逡巡する。やがて、彼女は何かを決意した様子で胸を張った。
「『ししむろ』に行ってみましょうか」
「え?」
「失われた記憶の手がかりになるかもしれないし。少し寄り道になるけれど、方角的には悪くないから、レイ達には『赤岩』で合流できるだろうし」
 もう一度、うん、と頷いてから、シキは彼らのいるほうを向いて指を複雑に動かし始める。何か祝詞のような音の羅列を吐き出してから、くるり、と朗のほうへ向き直った。
「これでよし。じゃ、行きましょうか」
 シキはすっかり失念していたのだ。昨日のサンの言葉を。
  
 ――この辺り、何か色々歪んでるとかで『風声』使えないから――
  
  
 木々の葉に隠れるようにして、暗闇が躊躇いがちに口を開けている。辺りに微かに漂うのは硫黄――硫化水素の臭いか。火の山の麓なだけあって、どこかにガスの噴出孔でもあるのかもしれない。相変わらず芸の細かい夢だ、朗は少し感心したように呟いた。
「ししむろ」は、侵食性の洞窟のようだった。灰色の岩肌に絡みつく木の根が、レース細工のように洞の入り口を飾っている。身を屈めながらおそるおそる中を覗き込む朗に、シキがさらりと解説を入れた。
「この洞穴で、塩漬け肉に使う塩の原料が取れるらしいです。ここがお肉の貯蔵庫に使われたこともあったとか」
「なるほど、それで『肉室ししむろ』か」
 岩塩に火山となれば、ブリテン島よりも南欧か。未だに夢を判じようとしてしまうおのれに苦笑を漏らしながら、朗がそっと一歩を踏み出すと、闇の中に突如沸き起こった風音が一斉に朗に向かって押し寄せてきた。
 驚きのあまり声を上げることすらできずに、朗はその場に尻餅をついた。その傍らを、何十、何百もの黒い羽音が通過していく。
「大丈夫ですか?」
「蝙蝠か……」
 未知のウイルスの危険性を思いかけて、朗は慌てて頭を振った。これ以上余計なファクタを夢に加えてやることはない、と。
 そうだ、夢なのだ。これは、この私の夢なのだ。だから……ほしいままにする。全てを。……彼女を。
 朗は、改めて視線を洞内に転じた。入り口の高さは朗の背丈ほどしかないが、内部はかなり広いようだった。石筍を削って均されたと思しき平坦な床面が、少しずつくだりながら奥のほうへと続いている。実におあつらえ向きの「部屋」ではないか。少し趣向がアブノーマルな気がしないでもないが、夢ならでは、ということにしておこう。
 シキが何事かを呟いたかと思えば、その指先にほのかな明かりが灯った。
「何か思い出せそうですか?」
「……そうだな。少し中のほうを見てみたいのだが……」
「じゃ、行きましょうか」
 ほくそ笑む朗に気づかないまま、シキは暗黒へとその身を沈ませていった。
  
 広いホールのような空間を抜けた先には、学校の廊下ほどの広さの通路が、ゆるりとのたうちながら奥へと伸びていた。
「前来た時は、ここで宿営したんです」
 途中、ふと足を止めたシキが、壁際の一角を指差した。それに合わせて不可思議な灯りも高度を下げ、焚き火の跡を浮かび上がらせる。
 洞窟内で火を使ってキャンプとは、なんと大胆な、と朗は心の中で眉をひそめた。もっとも、古くから人の手の入った場所なれば、経験上安全な場所であると認知されているのだろう。
 明るく照らし出された地面をよく見れば、床一面に蝙蝠の糞が積もっていた。朗が靴で表層をそっと削ってみると、堆積物の下から白っぽい石の層が現れた。
「グアノ(糞化石)? ……そうか、塩は塩でも、硝酸塩のほうなんだな」
 昔から硝酸カリウムは保存料としてハムの加工に使われている。この洞穴は、グアノ由来の天然硝石の採掘地であったのだ。そういえば、ここまで来る途中にも、ところどころ石を切り出したような跡があった気がする。この焚き火跡を囲むベンチのような岩棚も、そうやって偶さか形作られたに違いない。
「しょうさん?」
 志紀が相手なら、説明の必要なぞないだろうに。不意に熱いものが胸の奥をせり上がってきて、朗は思わず目を伏せた。ぐ、と奥歯に力を込め、押し寄せる波をやり過ごす。それから大きく深呼吸して、前方を行くシキの背中を凝視した。
 どうして自分は教師なのだろう。志紀と関係を持ち、そして付き合うようになって、何度も朗は詮ない事実を自問したものだった。
 自分が十年遅く生まれておれば。志紀が十年早く生まれておれば。この先、どんな未来が待っていようと、この歳の差は埋まらない。彼女が大学を卒業すれば、社会人という同じカテゴリに収まることにはなるが、それでもこの十二年という歳月は、純然と二人を隔て続けるのだ。
 おのれと同じ歳かさの、おのれに釣り合った、理想の……志紀。だが、彼女の視線が朗に向くことはない。望むものと引き換えに、かけがえのない何かを失ってしまうというのは、実にありがちな展開ではないか。
 そう、例え夢の中であろうとも、二人を分かつ奈落は形を変えて存在し続けるのだ。……ずっと。永遠に。
「どうします? もっと奥へ行ってみます? ここから下りが急になってくるんですよ。足場も悪くなるし」
「いや、ここで充分だ」
 無理矢理に飲み込んだ想いの代わりに、劣情が再び朗の奥底に染み出してくる。
 紆余曲折の果て、志紀と想いを通じ合わせた時に、もうあのようなことはするまい、と心に誓ったはずだった。手のひらに棘を食い込ませ、おのれ自身も血を流しながら、独占欲のままに相手を有刺鉄線で縛りつけようという真似など、もう二度とするものか、と。
「……君が、悪いんだ」
 大きく一歩を進み、朗はシキの至近距離に迫った。腕さえ伸ばせばすぐにでも彼女を抱きしめられる距離に。彼女を慈しみ、包み込むことのできる距離に。
 だが、彼が今から為そうとしている行為は、そのような甘いものではない。
「え?」
「違うな。『私』が問題なのか。そうだな、これは私の夢なのだから」
 朗の右手が、シキの肩口に伸びる。
 シキが怪訝そうに小首をかしげた。その信頼しきった眼差しが、鋭い錐のごとく朗に突き刺さる。
 僅かな躊躇いののち、それでも朗は、シキの肩を鷲掴みにした。
  
  
  
 ぐるりと地面が回ったかと思えば、朗の背中に激しい痛みが走る。我に返った時には、朗は真っ暗な中をただ独り床に這いつくばっていた。
 朗がシキの身体を捕らえたその瞬間、足下から突き上げるような衝撃が襲いかかってきたのだ。続いて訪れる激しい振動。朗は二、三度壁にぶつかった挙げ句に、あえなくバランスを崩して転倒したのだった。
 地震、だ。朗は慎重に身を起こした。微かな地鳴りがどこか遠くでまだ響いている。P波(縦揺れの波)とS波(横揺れの波)がほぼ同時に来たということは、直下型、おそらくは火山性の地震に違いない。あれだけの揺れで、良くぞ洞窟が崩れなかったものだ、と朗はひとまず胸を撫で下ろした。
「シキ、大丈夫か?」
 魔法だか何だかの灯りはすっかり消えてしまっていた。漆黒の闇の中、硫黄の臭いが辺りに漂い始めてきたことに気づいて朗は慌てて立ち上がった。ずきずきと疼く背中を気にしながら、暗闇に声を投げる。
 闇に目が慣れてくるに従って、物の輪郭がおぼろげに浮かび上がってき始めた。壁や天井から土塊が剥がれ落ちたのだろう、平坦だったはずの床面には複雑な起伏が生まれていた。ふと、足元の影に不吉なものを感じて、彼はそっと膝をついた。
「シキ……!」
 まさか、と伸ばした手が温かいものに触れた。おそるおそる指で辿れば、柔らかい頬にかかる髪の毛に続いて、ぬるりとした感触が。
「怪我をしているのか」
 濡れた指先からは、微かに鉄錆の臭いがした。彼は慌てて手探りでシキの身体を確認する。どうやら頭部の他には、とりたてて出血は無いようだ。落下物に当たったか、転倒の際に強打したか、彼女は頭部に衝撃を喰らって気絶したのだろう。脈こそしっかりしているが、地面の上に投げ出された腕は微動だにしない。
 朗は、下唇を強く噛んだ。
 このままここに留まっていては硫化水素中毒の危険がある。余震による崩落だってあるかもしれない。一刻も早く彼女を連れて洞窟から脱出しなければ。
 朗は素早く辺りを見まわした。僅かに闇が薄まっていると思われる方角を見定めて、シキを抱きかかえる。
「……まさか、こういうオチの夢だとはな」
 自分の付き合いの良さに自分で感心しながら、朗は慎重に出口を目指し始めた。
  
  
 緩やかなカーブを辿るうちに、辺りは次第に明るくなってきた。崩れ落ちた鍾乳石や土砂に躓かないよう足元に注意しながら、朗はシキを抱えて進み続けた。
 彼女の意識はまだ戻らない。耳の後ろから流れ出す鮮血は、彼女の襟元を鮮やかに染め上げ、朗の腕にも色を落とし始めている。ぎりりと奥歯を噛み締めながら、朗は最後のカーブを曲がった。確かこの先にはこの洞窟で一番広い「肉室」があったはずだった。ホールのようなその空間を過ぎれば、出口は目の前である。
  
 次の瞬間、朗は我が目を疑った。
 普通教室ほどの大きさだったその場所は、奥行きをおよそ半分に減じていた。出口に向かう部分は落盤で崩れ塞がり、見る影もない。
 呆然と、朗は足を止めた。そっとシキの身体を壁際に下ろして、もう一度周囲をじっくり見渡してみる。
 出口からと思っていた光は、崩れかけた天井から漏れるものだった。進路を塞ぐ土砂の一番上部、まだ辛うじて崩落を免れている部分との境目から、幾つもの光の筋がスポットライトのように洞内に差し込んでいる。
 細心の注意を払いつつ近寄ってみれば、微かに草の臭いがした。いっそ掘ってみるか、と袖をまくり上げた朗だったが、彼はすぐにそのアイデアを却下しなければならなくなった。
 光差し込む土塊の隙間のすぐ横に、今にも崩れそうな巨大な岩が見えたのだ。下手に掘れば、支えを失った大岩がこちら側へと落下してくるのは必至だろう。逆に言えば、この岩を上手く洞窟内に落とし込むことさえできれば、外への出口をひらくことが可能になるのだ。
 遠隔操作で何かできないだろうか。スラックスのポケットを探りながら、朗は苦笑を浮かべた。小銭と、鍵と、ケータイが一体何の役に立つというのか。
 ロープでもなんでもいい、使えそうな物があれば。そう思ってシキのもとに戻った朗は苦々しげに舌を鳴らした。「俺が持つよ」と、レイが彼女の荷物を背負って先に行ったのを思い出したのだ。
「いいよ、これぐらい持てるって」
「うるさいな。お前はロウをしっかり補助してやってくれ」
 彼女を、そしてこの自分までを気遣うレイの言葉に、朗は心の中で歯軋りをした。その台詞は、お前のものではない、と。彼女の隣に立つのはお前ではない、と。
 突然の緊急事態にすっかり失念していた、あのどす黒い感情が、今再び朗の胸に影を落とし始めた。
  
 何を必死になっている、多賀根朗。
 所詮、これは夢だ。眠っている私がみている夢に過ぎない。時が経てば自然と夢から醒め、この洞窟から永遠に逃れることができるのだ。わざわざ無駄な努力をするまでもない。
 彼女のことは気にするな。放っておけ。怪我をしているのは現実の志紀ではない。失血死しようが、火山ガスで中毒死しようが、所詮は夢の中の出来事だ。私には何の関係もない。
 そうだ、そもそも彼女は志紀ではないのだから。私以外の男の愛撫によがり、蜜を滴らせ、私以外の男のモノを咥え込むなど、そんな女が志紀であるはずなどないのだから。
  
 不意に目の前が滲んで、朗は慌てて袖口で目元を拭った。
 ぼやけた視界に、ぐったりと横たわるシキの姿が映る。
 つい先刻まで、彼女は、緑なすこの大地を颯爽と歩いていた。艶やかな黒髪を風になびかせながら、楽しそうに笑い、語り、鼻歌を口ずさんで……。
 同じ名前、同じ顔、同じ声。だが……のだ。朗の知らない世界で、朗の知らない時間を生きてきた、志紀とは――
  
 朗は小さく息を呑んだ。それから堅く口元を引き結び、眼鏡をかけ直す。
 一度だけ大きく深呼吸してから、彼はゆっくりと背筋を伸ばした。
「物理的に力を伝えるのが不可能ならば、その場で何か反応させればいい」
 切羽詰った状況で素早く考えをまとめるには、声に出すのが何よりだ。
「硫化水素、硫酸……、いや、硝酸エステルよりも、そう、硫黄があれば……」
 朗は弾かれたように顔を上げると、辺りを見まわし始めた。純度はともかくとして足元には硝酸カリウムの鉱脈。木炭は奥にあった焚き火の跡から掻き集めることができるだろう。あとは硫黄さえ手に入れば、火薬を作ることができる。
 地震のあとに湧き起こった、あの臭い。あそこまで戻れば、もしかしたら硫黄の結晶が手に入るかもしれない。命がけの仕事だが、幸い硫化水素は比重が重い。洞窟の深部が未だガスで満たされていなければ、なんとかなるだろう。
 そこまで考えて、朗ははたと気がついた。
 仮に火薬を作り出せたとして、どうやってそれに点火すれば良いのだろうか。
 ありあわせの材料ででっち上げる即席火薬だ。純度も密度も低いとなれば、それ相応の熱なり衝撃なりを与える必要がある。
 だが、どうやって?
 岩の崩落に巻き込まれないためには、遠隔式か時限式で着火する必要がある。だが、道具も何もないこの状況で、一体全体どうやって火薬に火をつければ良いのだ?
 絶望の眼差しで、朗はその場に立ち尽くした。