あわいを往く者

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楽園の手

  
  
  
   楽園の手
  
  
  
 今日も僕は、手、を収穫する。
 青い青い空の下、草の蔓と木切れで作った脚立を木陰に据えると、僕は慎重に段をのぼった。木漏れ日またたく枝葉をかき分ければ、緑の陰に指先が見えた。
 小さくて可愛い子供の手だ。この大きさはまだ熟していない。僕は枝の先のほうへと目をやった。僕が探しているのは、もう少し育った、言うなれば僕と同年代の若者の手なのだ。しなやかで優美な女性の手でもいい、骨ばった逞しい男の手でもいい、ほどよい弾力を持つ瑞々しい肌をした食べごろの手だ。
 少し右に身を乗り出したところに、まさに望みどおりの手があった。まるで天を望むかのように、五本の指を空に向けている。朝露に湿る肌は血色の良い薄桃色で、すらりとした指が今にも蠢き出しそうだ。
 僕は、脚立から落ちないよう気をつけながら、ポケットからナイフを取り出した。
  
    * * *
  
 スモッグの満ちる薄暗い町角に響き渡るサイレンは、近くでクレバスが発生したという警報だ。次元の壁だか世界の境界だかに予告も無く生じる亀裂:クレバスからは、時折モンスターが迷い込んでくる。住民ノ皆サンハ警戒シテクダサイ、と街頭放送は繰り返すが、クレバスはどこに現れるか分からない。どこにだって現れる。だから僕らは、サイレンの音を子守歌にして育ってきた。
 クレバスが何故発生するのか、クレバスの向こうには何があるのか。僕らのような下層民には、詳しいことは何も聞かされていなかった。ただ、どうやらクレバスが発生するのは、この星の地表近くに限られているとのことだった。天に届けとばかりにそびえ立つビル群の根元、ハイ・ウェイはもとよりグランド・ウェイよりも更に低い、煤煙と汚泥にまみれた最下層。きっとモンスターは太陽が苦手に違いない。奴らは夜の世界からやってくるのだろう。
 だから、僕はすぐには信じられなかった。クレバスの先にこんなに明るい世界が広がっているなんて。
 勤め先の工場からの帰り道、荒れた舗装の水たまりをよけようと少し勢いをつけて一歩を踏み出したその時、足の下の地面が音も無く割れ、僕はなすすべもなくその中へ落ちてしまった。落下する僕と入れ替わるようにして大きな羽ばたきがすぐ横を通り過ぎ、遥か頭上から悲鳴が聞こえてきた。次いで「モンスターだ」という叫び声、すっかり聞き慣れたサイレンの音。ああ、僕はクレバスに落ちたのか。そう思った次の瞬間、僕は、陽光輝く楽園に立っていた。
  
  
 そう、まさしくここは楽園だ。まるで昔見た絵本の中の風景のように、空はどこまでも青く、雲は眩いほどに白く、森の木々を揺らす風は爽やかで、泉の水は澄みきっていてほの甘い。
 ここがクレバスの向こう側だというのならモンスターがいるはずなのだが、動くものといえば、鳥、だけだ。鋭い嘴を持ち、翼を広げたら僕の身長の倍以上はある巨大な鳥。襲いかかられたらひとたまりもないだろう。だが、彼らは僕には見向きもしなかった。彼らの主食は他にある。
 それが、手、だった。手は、森の中の広場や外の草原など日当たりの良い場所に立つ、高さ三、四メートルの木に生っている。青々と茂った葉の隙間から幾つもの手が突き出しているのを初めて見た時、僕はもう少しで叫び声を上げるところだった。色といい大きさといい質感といい、その果実は人間の手と瓜二つな外観をしていたからだ。
 あるものは空を仰いでいた。またあるものは風を紡いでいた。遠くを指差すもの、こちらを手招きしているもの、何かを大切そうに捧げ持つもの。攻撃、拒絶、慰撫、愛撫。気高さを感じるものから情欲をかきたてられるものまで、ありとあらゆる表情の手がそこに生っていた。
 親指の根元のぷっくりとしたふくらみは、手のひらの窪みへとなだらかに落ち込み、柔い段丘を越えて、滑らかな曲線を描く指先へと繋がる。爪こそ生えてはいないが、腹面とは対照的に直線的なラインや僅かに盛り上がったこぶは、まるで指の背そのものだ。種のある部分が四つ並んで出っ張っているところなど、どう見てもこぶしの関節そっくりだし、果軸から種へと伸びる網目状の筋は、手の甲に浮き上がる血管のようだ。
 手、よ。この、機械以上に機能的で、そのくせどうしようもなく生物的な器官よ。そうっと注意深く手を掴めば、張りのある肌が微かに僕の指を押し返してくる。この薄い皮の下に、瑞々しい果肉が詰まっているのだ。
 手首にナイフの刃を当て、ほんの少し力を加えると、刃先がつぷりと皮を突き破った。見る見るうちに赤い汁が滲み出てきて、真紅の宝石のような雫が僕の腕をつたう。
 ザクロのような赤い実の詰まった、手。鳥が食べるのはこの手だけだ。あの巨体を維持するエネルギーも栄養も、全てをこの手でまかなっている。かくいう僕も、ここに迷い込んで以来もうずっとこの手だけを食べているが、身体の調子は工場で配られるレーションを食べていた時よりも断然良い。
 ああ、まさしくここは楽園だ。僕は腕に力を込めると、ナイフで一息に手を切り落とした。
  
  
 僕が元いた世界と、今いる世界。クレバスが繋ぐのは、この二つだけではないのだろう。何故なら、どうやらこの世界には鳥以外の動物が存在しないようだからだ。サイレンが鳴った次の日には、警備隊やハンターによって仕留められたモンスターの情報が街頭テレビを賑わしたものだったが、そのほとんどが大型肉食獣に似た形をしていた。きっと、こことは別な世界からあちらへと迷い込んできていたに違いない。
 あの世界の最下層、どんよりと空気の澱んだ掃き溜めにおいて、誰かが行方不明になるなんてことは日常茶飯事だった。その中には、僕のようにクレバスの向こうに入り込んでしまった人間も含まれているのかもしれない。問答無用で世界の裂け目に飲み込まれた先が巨大な獣の棲みかだったなど、考えるのもおぞましい。僕は本当に運が良かったのだ。
 凶暴な生き物はおらず、気候は穏やか、住むところにも食べるものにも困らない。こんなにも恵まれた環境なのに、僕の他に人間がいる、もしくは、いた痕跡は一切見当たらなかった。もしかしたら、この世界にやってきた人間は僕が初めてなのではないだろうか。
 寂しいなんて思わない。むしろ、願ったり叶ったりだ。そもそも僕は普段から一人でいることが多かった。物事や人々を観察するのが好きだった。本を読むことも、考えることも好きだった。逆に言えば、一人の時間を邪魔されることが何よりも嫌いだった。皆は僕のことを、人付き合いが下手だと詰ったり頭でっかちな変わり者だと嘲ったりした。だが、どうだ。頭でっかちな僕だからこそ、あんな危険な工場に勤めていながら、使い捨てられることなく今まで生きてこられたのだ。
 もっとも、もはやこれらは全て過去のことだ。だって僕は、今、楽園にいるのだから。
  
  
 その日、僕は日課である手の収穫を終えてから、森の奥へと足を向けた。住居にしている岩屋や泉の周辺はもうすっかり探索し尽くしてしまったから、今度は小川の向こう側を見てまわろうと思ったのだ。
 清流を横切り下草を踏み分け、奥地へと進む。道に迷わないようにナイフで木の幹に印をつけながら。弁当と水筒を持ってきたから、それなりに遠くまで行くことができるだろう。弁当とは勿論、朝に摘み取ったばかりの手のことだ。むき出しのままだと持ち運びしにくい上に、食い意地の張った鳥が横取りしようとやってくるから、草の蔓を編んで作った鞄に入れてある。水筒は、節が中空になっている木を加工した。護身用に持ち歩いていたナイフがこんなにも役に立つ日がやってくるとは、思ってもいなかった。
 そうやって歩き続けること三時間。正面に、緑の壁が立ち塞がった。
 それは高さ三メートルほどの崖だった。表面を覆う蔓植物の隙間から、ごつごつとした岩が見てとれる。どちらに迂回しようかきょろきょろと辺りを見回していると、視界の隅に違和感を覚えた。
 左斜め前方。僕は深呼吸をしてから、そちらのほうへと近づいた。
 見間違いではなかった。そこに穴があいていた。入り口は、僕が屈まなくてもぎりぎり通ることができる程度の大きさだった。立木に隠れるようにして僕は穴の様子を窺った。息を潜め、可能な限り気配を殺して。何故ならその穴の入り口は、内側から木切れや枝で塞がれていたからだ。
 そよそよと風が木々の葉を揺らす音がする。どこか遠くから微かに鳥の声が響いてくる。自分の鼓動の音は聞こえても、他に生き物の気配はまったく感じられない。僕は意を決して、穴のそばまで近づいた。落ちていた枝を取る。穴の縁に身を隠す。握り締めた枝で、一息に、木切れを穴の中へ勢いよく押し込んだ!
 ガランガランと防壁が崩れる音が反響した。そして静寂。しばらく待ってみても状況に変化は無い。僕は入り口の残りの枝を取り払った。それから、おそるおそる中を覗き込んでみた。
 洞穴は、僕の岩屋よりも少しだけ広かった。何も、誰も、いなかった。ただ、もうもうと舞う土煙だけが、日の光を受けてきらきらとまたたいていた。
 バリケードのように見えたのは偶然の産物だったのだろう。風や地形の具合で、たまたまああいうふうに入り口が塞がってしまったのだろう。そう自分に言い聞かせながら踵を返した僕は、しかしまたすぐに洞穴の中を振り返った。
 入り口を入ってすぐ右手、穴の縁の陰に何かがあった。石ころでもなく、枝や木でもなく、そう、あれは骨だ。鳥にしては太い。空を飛ぶ生き物ではなく、大地を踏みしめて生きるものの骨……。
 僕は洞穴の中へと踏み出した。散乱する木切れをよけて二歩進んだところで、それが人間の骨だと分かった。更に一歩。性別までは判別できないが、おそらく成人だ。一枚の木切れに取りすがるようにして倒れている。次の一歩で、その木切れが、僕が壊した入り口のものとは落ちている位置から風化の様子まで異なっているということに気がついた。
 まるで彼ないし彼女が、このバリケードを完成させる直前に力尽きてしまったかのようだった。一体この人物は、何のためにこの洞穴に立て籠もろうとしていたのか。気になる点はもう一つある。この人骨の両手首から先がどこにも見当たらないということだ。もしかしたら、小規模な落盤でも起きて埋もれてしまったのかもしれない。咄嗟にそんな仮説を立てた、まさにその時。悲鳴が、鳥の声ではない間違いなく人間の、男の悲鳴が外から聞こえてきた。
 考えるより早く僕は走り出していた。悲鳴は、向かって左手の方角から響いてくる。恐怖と苦痛をひたすら撒き散らしながら、途切れ途切れに。
 やがて突如として視界がひらけた。森の中にぽっかりとあいた広場の中央、二羽の鳥が空へと飛び立つところだった。それぞれ嘴に咥えているのは、手、だろうか。鮮やかな赤に視線が吸い寄せられる。鳥たちが咥えた二つの手と、もう一つ。草むらをまだらに染めている、人間の血。
 悲鳴は既に呻き声に変わってしまっていた。僕よりも少しだけ年上と思われる男が、血だらけになって蹲っていた。僕が近づいてくるのを見て、彼は掠れた声で何か喋った。どこの国の言葉か分からなかったけれど、おそらく「助けてくれ」と言っているようだった。同じ言葉をもう一度繰り返し、彼は僕に向かって両腕を伸ばしてきた。血まみれの両手――いや、両手首、を。
  
  
 鳥に手を食いちぎられた男は、三日三晩苦しんで死んでしまった。
 僕は男の遺体を、白骨のあった洞穴に埋葬した。洞穴の入り口は外から厳重に塞いでおいた。鳥が、手、以外の味を憶えることのないように。
  
 作業を終わらせて、帰途につく。木の幹に刻んだ目印を辿り、小川を渡る。いつもの泉のそばまで戻ってきたところで、僕は堪らずに足を止めた。
 笑いが込み上げてくる。酷く暴力的な笑いの衝動が、腹の底から僕を揺さぶる。笑い崩れて地面に膝をついた拍子に、右手が小石に当たってカチリと音を立てた。
 そうだ、僕の両手は肘から先が義手だ。人工皮膚のコーティングなど無い、無粋で無骨な機械の手だ。
 僕は、二年前に両手を工作機械に巻き込まれて失った。あの界隈においては大して珍しくもない事故だった。僕ら下層民は、そうやって使い捨てられるのが常なのだ。だが僕は、「お前は賢くて使える奴だから」と工場長に義手を与えられた。仕事を、糧を失わずに済んだのだ。
 あの時の、日頃僕を馬鹿にしていた連中の顔といったら、今思い出してもせいせいする。人の不幸を喜ぶ奴らの餌になることほど、我慢ならないものは無いからだ。「手無しのくせに」と蔑まれはしたが、野垂れ死ぬよりはずっといい。同じような事故に遭った人間には妬まれたけれども、でも、それも今となっては全て過去のことだ。
 衝動に突き動かされるがままに、僕は笑い続けた。
 ここは楽園だ。まさしく、僕のための。
  
  
 肩には鞄を、ポケットにはナイフを。手製の脚立を手に岩屋を出る。
 足元に差した影を振り仰げば、鳥が大きな翼を広げて森の外へと飛び立っていくのが見えた。
 青い青い空の下、今日も僕は、手、を収穫する。
  
  
  
〈 完 〉