「いやーん、かっわいー!」
「お嬢ちゃん、お目が高いねえ。それ、ウチの自信作だよ」
「そうなんですかー。こんなに綺麗なの、私、今まで見たことないですよー」
「嬉しいこと言ってくれるねえ」
鼠色のショールをまとった年配の女が、ワゴンの中の小箱から一粒の硝子玉を摘み上げて、陽にかざした。綺麗に磨かれた多面体が、秋の太陽を幾つも映し込んで幻想的に輝く。
「どうだい、宝石もかくやのこの煌き」
「ホントだ、すっごーい! キラキラしてる! 宝石なんて見たことないけど、本当にこんな感じなんだろうなあ!」
「んふふふふ。お嬢ちゃんたら、上手だねえ。どうだい、特別にオマケしておくよ?」
女主人が思わせぶりに片目をつむる。リーナはほんの一瞬だけ目を輝かせて、……それから穴の開いた皮袋のように、みるみるうちにその身体を萎ませてしまった。
「……あ、でも、持ち合わせがそんなにないんですよね……」
「うーん、じゃあ、これなんかは? どうだい?」
そう言って女が取り出したのは、普通の丸い硝子玉と、美しくカットされた硝子玉とが、ほど良く混ざり合って作られた首飾りだった。
「これで、お値段は……」
続きを耳打ちされたリーナの目が、再び見開かれる。だが、彼女はすぐに悲しそうな表情になって、再度がっくりと肩を落とした。
「……帰りの馬車代をとっておかなきゃならないし……」
さしもの女主人も、少し不機嫌そうな眉で小さく唇を尖らせる。
「ルドスに着いたばかりって言ってたろ? 買い物に来たんじゃなかったのかい?」
「買い物もしたいけど、一番は、人に会いに来たから……」
そこで、女主人の瞳がきらりん、と光った。
「デートかい」
「ええ、まあ」
「なんだい、なんだい、景気の悪い顔をして」
「いや、ちょっと今、我に返ってしまって……」
右手でこめかみを押さえながら、リーナは、はあっ、と大きな溜め息をついた。
「バカみたいな大金使って往復一ヶ月も馬車乗って、せっかく州都に来たのに好きなもの一つ買う余裕もなくて、そこまでしても一年にほんの数日しか会えなくて、私、一体何やってんだろう、って……」
リーナのぼやきに、女主人の眼差しが同情の色を帯びる。と、ふと何かを思いついたらしく、女は悪戯っぽく口の端 を上げてリーナの肩をポンポンと叩いた。
「馬鹿ねえ。簡単なことじゃない。彼氏に買ってもらえばいいのよ」
「へ?」
「向こうの都合で、遠路はるばる呼びつけられてるんでしょ? 好きなものの一つぐらい、彼氏に買わせなさいよ!」
「買わせる……」
「そうそう」
「好きなものを……?」
「そうよぉ」
にこにこと頷く女主人につられるように、リーナは晴れ晴れとした表情で顔を上げた。
「そっか! 買ってもらえばいいんだ!」
「こんな遠くまで来てあげたんだぞ、って、お礼の品ぐらいねだっても構わないわよ」
「そうですよね! 構わないですよね!」
「そうそう、その意気!」
「よーし、なんだかやる気が湧いてきましたーーー!」
「……って、どう考えても無理よねえ……」
硝子細工の店から離れて、リーナは再び大きく嘆息した。店のおばさんに乗せられてああは言ったものの、数歩も行かないうちに彼女の足取りはすっかり重くなってしまっていた。
「あいつだって、無理してルドスまで来てくれてるんだもん。買わせる、つってもなー」
興奮した時の癖で独り言を連発していることに気がつかないまま、思考だだ漏れ状態でリーナは歩き続ける。
「でもさ、近衛兵のお給金って、なんだか良さそうだよね。……ああ、でも、帝都って物の値段が高いって言ってたしなあ。『葡萄酒が一杯どれだけすると思う?』って、それは単に贅沢してるだけじゃん」
サンの声色を真似てみせてから、自分で反論してみて。独り芝居を繰り広げつつ、リーナは広場を歩き続けた。そうこうしているうちに、暗い気持ちが少しずつ晴れ始めて、再び買い物気分が盛り上がってくる。そもそも、彼女はあまり落ち込みが持続する性格ではないのだ。
「そうだよ、見るだけならタダだもんね。眼福、眼福」
リーナは鞄を肩にかつぎ直し、足取り軽く買い物客の人波の中へと戻っていった。
ぐう、と腹の虫が自己主張を始め、リーナは正午が近いことを知った。今日の朝食が、小さな硬いパンと干し肉一切れだけだったことを思い出してしまい、空腹感が更に増幅される。
『十月の第一週あたりの夕刻に、前回と同じ宿屋で』
これが今回、サンとなされた約束である。お互い天候に左右される長い旅程ゆえに、正確な日付を指定しての待ち合わせは不可能だ。無事会えた暁には夕食をともにする予定だったが、果たしてそれが叶う日が来るのかどうか……。
もしも自分が魔術師だったなら、この風に声を乗せて彼に届けるのに。そこまで考えてから、リーナはがくりと大きく肩を落とした。あの複雑怪奇で意味不明な古代語の呪文を習得するなど、自分にできようはずがない。そもそも癒やしの術で手一杯な身が何を言う、と。
「……ま、悩んでも仕方のないことは忘れるに限る、ってね」
あっけらかんと自分に言い聞かせてから、リーナは改めて辺りを見まわした。
「晩ご飯は、出たとこ勝負ということでいいけど、まずは昼ご飯よね。干し芋も炒り豆も、帰りのためにとっておきたいしなー」
ついつい視線が、食材や軽食の屋台に吸い寄せられてしまう。
――無難にパン屋を探そうか、少し奮発してあそこの揚げ菓子を買ってみるか、うーん、でも、向こうにあった果物の露店も魅力的だ……。
眉間に皺寄せ考え込むリーナの背後に、ふっ、と黒い影が立った。
「お嬢さん、何かお探しですかい?」
揉み手すり手猫なで声に精一杯の愛想笑いもつけて、悪党其の一は、標的であるところのリーナに話しかけた。周りの買い物客が、ぎょっとした表情で二人を見比べては、そうっとこの場から離れていく。
「何を、って、それが、今悩んでいるところなのよ」
だが、当のリーナは何かぶつぶつと呟くばかりで、一向に背後を振り返ろうともしない。其の一は負けじと、ぎこちない丁寧口調で食い下がった。
「お洒落なお召し物なら、お向こうにお安くて良いお店があるぜ……ますよ」
客を呼び込むどころか、全力で逃げられかねない上ずった声が、痛々しい。
「別に、服は間に合ってるからいいや」
心ここにあらずといったふうな返事ののち、リーナがぴん、と姿勢を正した。そうして何やら鼻をひくひくさせながら、きょろきょろと辺りを見まわしている。
ややあって、彼女はすたすたと歩き始めた。依然として悪党達に背を向けたまま、広場の片隅へと向かっていく。
「……ちょ、ちょっと待ってくれよー、向こうに安い店が……」
置いてけぼりを食らった其の一を肘で小突いてから、今度は其の二が小走りに標的を追った。
「お嬢さん、いい靴屋を教えてやるよ?」
「これ、まだまだ履けるしなあ。いらないや、ありがと」
リーナの歩調が更に少し速くなった。其の二は雑踏に揉まれながらも、必死で声をかけ続ける。
「鞄とか、帽子とかは?」
「いらない。お金に余裕ないし……」
すげない声が、瞬く間に周囲の喧騒にかき消される。
呼び込みの声、値切る声、笑い声、歓声。それらを彩る、行きかう人々の多種多様な服装。山の民、海の民、白い頭巾は砂漠の民か。色とりどりの人波に、香辛料と炙り肉の匂いがかぶる。……そう、おいしそうな串焼きの香りが。
香ばしい煙が上がる一角へと邁進するリーナの後ろで、二人の悪党はひそひそと額を突き合わせた。
「兄貴、なんか話が違うぞ? 作戦間違いなんじゃ……」
「おかしいな。田舎から買い物に出てくる娘っこのお目当てといったら、このあたりのはずなんだが……」
流石の其の二も、まさかこのリーナが人に会うためだけにわざわざ州都にやって来たとは、思ってもいないのだろう。
「意外なところで、装飾品や化粧品のほうが釣れるかもしれんな」
「でも、本当に金を持ってなさそうだぜ?」
二人とも、かなり失礼なことを言っている。
「嘘に決まってるだろ! 買い物に来るのに、金を持って来ない奴がどこにいる?」
「なるほど」
お互いに大きく頷き合ってから、二人は改めて追跡を再開した。広場の外れ、串焼き屋台のすぐ近くまで歩みを進めた茶色の三つ編みに、なおも勧誘の言葉をかける。
「土産物にぴったりな、首飾りなんかはどうだい?」
「あー、もう!」と、そこでようやく、リーナが二人を振り返った。「そのことは、今は考えないことにしてるの! お腹空いてるんだから、ちょっとあとにしてよ!」
そうして両頬を見事にふくらませたまま、再び串焼きへと向き直る。二歩ほど進んだのち、ふと彼女の足が止まった。
「……って、おじさん達、誰?」
あまりの言い草に、悪党二人の面 に朱が入る。たまりにたまった鬱憤の堰が、遂に切れてしまった瞬間だった。
「全部話したんだから、もう帰ってもいいだろ?」
「だーめ」
にっこりとサンに笑いかけられて、スリの少年は思わず背筋を震わせた。視線を合わすことができずに、鳥打ち帽を目深にかぶり直す。
身体を掴まれているわけでも、紐で繋がれているわけでもないのだから、逃げようと思えばいつだって少年はサンのもとから離れることができる。なのにそれを実行する気になれないのは、サンの屈託のない笑顔の奥底に、言葉には言い表せない不穏な何かが蠢いているような気がしてならなかったからだ。少年は今、助けを求める相手を間違えたんじゃないかという思いに、心の底から苛まれている最中であった。
「カイがあいつらの財布をスリ取ったのが原因なんだから、きっちり最後まで付き合うこと」
「警備隊には突き出さないでくれるんだよな?」
二人は、前を行く荷馬車にならって大通りから細い路地へと角を曲がる。薄暗い建物の影がしばらく続く向こうに、明るく開けた広場が見えた。
「それは俺の仕事じゃないからね。ま、あまり人様に迷惑をかけないようにして生きることだね」
余計なお世話だ、と鼻を鳴らしてから、カイと呼ばれた少年は、不貞腐れて腕組みをした。
「んじゃ、今している事は、あんたの仕事なのか?」
「そうかもね」
そう軽く答えたのち、サンが少し真面目な表情でカイを見やった。
「身長が五フィートとちょい、年の頃は十七、八。茶色の三つ編み、東部訛りで連れは無し。色んな布をはぎ合わせた大きな肩下げ鞄、おせっかいっぽいおばさん口調……。流石、スリをしているだけのことはあるなぁ。大した観察眼じゃん」
「それほどでも」
露店の並ぶ大広場に足を踏み入れた途端、二人の顔面を喧騒が打った。群衆のざわめきが、広場を取り囲む建物の壁々に反響して、うねるように四方から押し寄せてくる。
「その人物像が確かなら、その女とやらが俺の知っている人間と同一人物である可能性は、かなり高いんだよな」
長身を活かして辺りをきょろきょろと見まわしていたサンが、小さく頷きながら、広場の奥のほうへと足を向けた。カイも慌ててそのあとを追う。
「で、もしも彼女なら、市の立つ今日、ここに来ないわけがない」
「って、もしかして兄さんの恋人?」
「まぁ、ね」と、少しだけ照れたような笑みを浮かべて、サンが再び前方へ向き直った。「折しも、昼飯時。彼女ならきっと、何を食べようか悩んで食べ物関係の屋台をさすらっているに違いない。手ごろで美味そうな店から聞き込んで回れば、たぶんすぐに……」
ふんふん、と適当に相槌を打っていたカイだったが、次の瞬間、あるものを認めて大きく目を見開いた。
「あーー! 兄さん、あれ!」
カイの叫び声に、サンが弾かれたように振り返った。
買い物客でごったがえす広場とは対照的に、建物の壁沿いには、幾つかの屋台がまばらに出ているだけで、通路とも言える空隙 が細長く開けている。その遥か遠くの向こう隅、見覚えのある凸凹コンビが一塊となって建物の陰へと姿を消した。それはほんの一瞬の出来事であったが、二人組の悪党が三つ編みの女を無理矢理連れ去る様子が、はっきりと見てとれた。
「冗談じゃない!」
毒づくと同時に、サンが駆け出した。
何度も人にぶつかりそうになりながらも、彼はまるで風のように、俊敏に人波を避けては、女が連れていかれた路地を目指す。
「……すげー」
カイはしばし呆然とサンを見送って、それから慌ててそのあとを追いかけ始めた。これは面白いことになったぞ、と上唇を湿しながら。スリの本領発揮とばかりに、これまた見事な身のこなしで人々の隙間をぬい進む。
広場を抜けたサンに続いて、カイも角を曲がった。
明るさに慣れた目が、路地の薄暗さに視力を奪われる。思わず足を止めたカイの眼前で、サンの背中が影の中へと飛び込んでいった。微塵も躊躇わぬその豪胆さに、カイの口から感嘆の息が漏れる。
石畳や塗り壁が次第に輪郭を取り戻し始める視界の中央、一角 向こうで馬車の扉が閉まった。同時に辺りに響き渡る、鞭の音。
ゆっくりと車輪が回り始め、馬車は建物の陰へと消えていく。
「待ちやがれ! そこの馬車!」
「兄さん! こっちが近道だよ!」
すぐ左手の建物の裏、溝とも通路ともつかない家々の隙間が、大通りに繋がっているのを、カイは思い出したのだ。
「馬車が通れる道なんて、限られているもんね」
「なるほど。スリには土地勘も必要ってわけか!」
「そのとおり! 僕にまかせてよ!」
言うが早いか、石壁の間へとカイは身をおどらせた。