あわいを往く者

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炒り豆をめぐる冒険

  
  
  
『風雪花』と書かれた扉を開け放した途端、甘ったるい香りがサンの身体を包み込んだ。薄暗い店内、釣り灯籠が投げかける華やかな光に、お香の煙が薄っすらと渦を巻く。カイが追いついてきたのを目の端で確認してから、サンは室内へと足を踏み入れた。
「ちょっとお兄さん、一体……」
「悪い、上がらせてもらうよ」
 出迎えの女を軽やかにかわし、サンは早足で真っ直ぐ広間の奥へと向かう。何事か、と視線を向ける女達に、にっこりと微笑みかけることだけは忘れずに、彼は奥の扉を押し開いた。
「何が近道だ」
「近道には違いないさ。ただ、ちょっと、予想外だったかなーって」
「結局回り道だったろ」
「そんなの、僕のせいじゃないぞ!」
 カイが教えてくれた近道はあまりにも効率が良過ぎたために、かえって悪漢達の馬車を見失う羽目になってしまった。慌てて裏路地を戻り、偶然見つけたカイの仲間達の目撃証言を得、そうして彼らは、ようやっとこの妓楼に辿り着くことができたのだ。
 二人は押し問答をしながら狭い廊下をずんずん進んでいく。片っ端から扉を開けて中を覗き込んでは、傍若無人に家捜しを続けた。食堂、厨房、風呂場、洗濯室、……リーナが囚われているのは、どうやら一階ではないらしい。
 鉤の手状に曲がった廊下の突き当たりに、上の階へと向かう階段があった。吹き抜けの天井を見上げてから、サンは大きく息を吸う。
「リーナッ! どこだ! 返事をしろ!」
  
 二人が二階に到達する頃には、あちらこちらの扉から店の女の子達やその客が、何事かと顔を出し始めていた。これ幸いと、サンは開いた扉から強引に中を覗きつつ、廊下を奥へと進みゆく。あちこちから湧き起こる誰何と非難の声をものともせずに、彼らはリーナの姿を求めて次から次へと部屋を渡り歩いた。
「大騒ぎじゃん、兄さん」
 至極楽しそうにカイがそう言うのを聞いて、サンは微かに眉をひそめた。
「誰のせいで、こんなことになったと思ってるんだ」
「そりゃあ、もちろん、あの悪党達のせいさ!」
 大きく溜め息をつき、サンは目の前の扉を開けた。ほとんどの扉が開いている中、唯一固く閉じられた部屋に踏み込めば……簡素なベッドの上、四つん這いになった金髪の女に覆いかぶさる男の姿が……。
 咄嗟に、サンはカイの目を塞いだ。そのまま慌てて扉を閉じる。
「おい、手を離せよ! 前が見えないじゃんか!」
「……お前にゃ、五年は早い」
  
  
 店の主人が不在なのが幸いしたのだろう。サン達の暴挙に対して女達は文句を言いこそすれ、それを止める手立てを持たなかった。彼の腰で揺れる長剣の、並々ならぬ存在感のお蔭とも言えるかもしれない。二人は誰に邪魔されることもなく、とうとう最上階である三階に足を踏み入れた。
 彼らの少し後方には、事態の推移を見守る女達が階段の幅一杯に列をなしていた。そういったてんやわんやの外野には目もくれずに、サンはただひたすら捜索を続行する。これまでと同じように手近な扉から開こうとしたところで、彼はふと、その手を止めた。
 微かな金切り声。……女の、悲鳴?
 声の聞こえてきた方角へと、即座にサンは振り向いた。
 廊下の一番奥か、その手前。そう見当をつけて足を速めるサンの耳に、今度は明瞭に女の叫び声が飛び込んできた。
 リーナ、無事でいてくれ。それだけを祈りながら、サンは勢い良く一番奥の部屋の扉を押し開く!
  
「あんた、こんな危険なものを、よくもアタシらに売りつけようとしたね!」
「いや、これは何かの間違いだ」
「何が間違いなのさ! もう、金輪際あんたには店の敷居は跨いでほしくないね! さっさと目の前から消えとくれ!」
 扉を開けたサンが見たのは、一人の女が、センスの悪い口髭の男に物凄い剣幕でくってかかっている姿だった。
 青い顔でヒステリックに叫ぶ女の形相は、なかなか鬼気迫るものがあった。怒りのあまりに吊り上がった目が、くっきりと血走っている。部屋の隅へと巻き髭氏を追い詰めたところで、女はくるりと振り返り、今度は泣き出さんばかりの表情で部屋の中央へと戻ってきた。
「ああ、可哀想に。まさかこんなことになるなんて思ってなかったから……、許しておくれね」
 そう言って女がひざまずいた先に倒れているのは……、茶色の三つ編みの若い女。
 リーナだ。
 板張りの床に無造作に投げ出された細い腕は、ピクリとも動かない。
 その一瞬、サンは我を忘れそうになった。伝説の狂戦士のごとく、その場の全てを薙ぎ払いたい衝動にかられながらも、彼は辛うじておのれを制す。
「お前ら、彼女に何をした?」
 やっとのことで、サンはその一言を絞り出した。地獄の底から響いてくるかのような怨嗟の籠もった声に、その場の空気が完全に凍りつく。
 怒りに震える手を必死で制御しながら、サンはゆっくりと腰の剣を抜いた。
  
  
  
* * *
  
  
  
 漆黒の闇に、薄っすらと光がさしてくる。
 完全なる静寂に、微かなざわめきが押し寄せてくる。
  
 失われていた手足の感覚が戻り始め、心地良い浮遊感が身体を包む……。
  
「気がついたか?」
 懐かしいその声に、リーナは反射的に微笑み返した。少し遅れてようやく焦点が定まってきた彼女の視界に、心配そうなサンの顔が大写しになる。
「あれ? ここは? サン? 私、どうしてこんなところで寝てるの?」
 陽光の差し込む明るい部屋は、狭いながらもとても開放的であった。大きく開かれた窓の向こうには、少しだけ色づき始めた広葉樹が、気持ち良さそうに風に梢を揺らしている。
 眩い陽の光に照らされながら、リーナはベッドの上に起き上がった。洗いざらしの寝具からほのかに立ちのぼるお日様の香りが、鼻腔をくすぐる。首を巡らせば、白を基調とした壁紙と、掃除の行き届いた室内が目に入ってきた。清潔感に溢れたその部屋は、リーナにとって、とても馴染みの深い気配がした。
「憶えてないのか?」
「え? いや、ちょっと待って。えっと……」
 酷く混乱しながら、リーナは額に手をやった。記憶の中を探りつつ、もう一度ゆっくりと室内を見渡す。ベッドに起き上がる自分は、普段着のまま。窓際の小さな台には自分の鞄が載せられていた。知り合いから貰ったはぎれで作った、遠出用の丈夫で大きな鞄。
 ――そうだ、ルドスに来てたんだ。サンに会うために。
 ベッドの足元には、白のエプロンをつけた妙齢の女性が静かに立っている。彼女の佇まいと部屋の調度から、リーナはここが治療院であることをはっきりと確信した。
「今日の未明に、ここルドスのとある名家の屋敷に賊が押し入って、宝石を幾つも奪っていったらしい」
 ベッド脇の椅子に腰かけたサンが、リーナの目を覗き込みながら静かに語り始めた。何の話だろうか、と、思いつつも、リーナは黙ってサンの語りに耳を傾ける。
「で、こいつが……」サンが自分の肩越しに背後を振り返った。「……たまたま財布をスリ取った相手がその賊で、その財布には盗品の宝石が入っていた、と」
 サンの後ろから、ひょこっと小柄な影が飛び出てくる。ばつの悪そうな笑顔を浮かべて、少年はリーナに向かってペコリと頭を下げた。
「追いかけられ、捕まりそうになったところで、こいつは、たまたま道でぶつかった相手の鞄に、盗った財布を紛れ込ませてしまった」
  
『ごめんよ、急いでるんだ!』
『危ないでしょ、まったく。気をつけなさいよ』
  
 おお、と両手を打ってから、リーナはカイを指差した。
「あの時の少年!」
「ごめんよー、姉さん」
 口では謝っているものの、カイは一向に悪びれる様子もない。
 サンが苦笑を浮かべながら立ち上がった。リーナの鞄の傍に行くと、一言「悪りぃ」と断りを入れてから、やにわに鞄の中に手を突っ込む。突然の出来事に文句を言うことも忘れて、ただ口をぱくぱくと開閉するリーナの目の前に、小さな麻袋が差し出された。
「ほら、これだ」
「私の豆!」
 やたら力の入ったリーナの台詞に失笑しつつも、サンは黙って小袋の紐をほどく。摘み上げた彼の指先では、目も眩むばかりの貴石が一粒、日光を受けてキラキラと輝いていた。
 顎が外れそうなほどに、あんぐりと口を開けて、リーナは固まってしまった。
 その様子を見るなりサンが盛大にふき出した。肩を小刻みに震わせながら宝石を袋に戻す。それから彼は、空いたほうの手を再び鞄の中へと差し入れ、第二の袋を取り出した。
「豆はこっち。石は重いからね、すぐに鞄の底のほうに潜っていってしまったのさ」
 袋はお互い瓜二つで、ぱっと見ただけではどちらがどちらか判別できない。もう一度双方の中身を確認したのち、宝石のほうの袋を手に、サンが再び椅子に戻ってきた。
「それより、リーナ。どうしてこんな無茶をしたんだよ。たまたま俺が間に合ったから良かったものの……」
 サンの言葉を継いで、部屋の隅に控えていた癒やし手が静かに言葉を発した。
「あなた、自分で自分に『昏睡』をかけたでしょう? どうやって『解呪』するつもりだったの? 彼がここに運んでくれなかったら、大変なことになっていたわよ」
「あー……」
 そこで、やっとリーナは全てを思い出した。
 変な巻き髭の男、悪党面した二人組、妓楼の女将。
 宝石を返せ、ってこういうことだったのか、と、得心のあまり繰り返し頷く。
「……助けに来てくれたんだ」
「ああ。偶然にこいつと出会って、もしや、と思ってさ。あの店で倒れているお前を見た時は、本当にどうしようかと思ったぞ……」
 何度目か知らぬ溜め息を漏らして、サンが大きく肩を落とす。その横でカイが、心持ち及び腰でサンを一瞥した。
  
  
 数刻前、妓楼『風雪花』。
 サンのあとを追ってその部屋に飛び込んだカイは、即座に激しい後悔の念に苛まれることとなった。
 鎧戸を締めきった薄暗い部屋の中で、鬼火のように光るのは、ランプの灯りを映し込んだ長剣の刃。その向こう、床に横たわっているのが他でもない自分達の尋ね人と知り、冷や汗がカイの背筋をつたう。
 調子に乗ってこんなところまでついてきた自分が馬鹿だった。隙を見てさっさと逃げるべきだったんだ。おのれの浅慮を呪いつつ、カイはじりじりと廊下のほうへと下がり始めた。サンを刺激しないよう細心の注意を払いながら。
「……彼女に何をした?」
 サンが、低い声で同じ言葉を繰り返す。凍てついた氷のようなその気配に、カイは自分の直感が正しかったことを知った。
 ――この兄ちゃん、怒らせたら絶対怖そうだと思ったんだよな。
 情けない悲鳴を上げて、巻き髭の男が床にしりもちをついた。がくがくと震える顎からは、意味不明な音の羅列が漏れ出てくるのみ。
 部屋の反対側では、悪党其の一が、壁に貼りつくようにしてサンとの距離をとりつつ絶叫した。
「し、知らねえよ! 俺、何もしてねえぞ!」
「お、俺もだ! あいつが、」と、今度は其の二が巻き髭男を指差して、「変な薬をこの娘に飲ませて、そしたら急にぶっ倒れてしまって!」
 ガツン、と突然響いた大きな音に、カイは心の底から震え上がった。床に剣の切っ先を突き立てたサンは、柄から手を離すことなく、倒れ伏すリーナの傍らに膝をつく。そうして、指先をそっと彼女の首筋に当てた。
「……生きてる」
 その瞬間、その場にいる全員から大きな溜め息が漏れた。これで、あの剣が血の舞を舞うことはなくなった、と。
 静寂が降りる室内に、金属同士が擦れる音が響く。一同が顔を上げれば、剣を鞘に収めたサンが、リーナを抱きかかえて立ち上がるところだった。行く手を塞ぐ巻き髭に、刃のごとき瞳で一言。
「どけ」
「ひぃぃぃいいいっ、どきます、どきます、どきますからぁっ、命だけはご勘弁をぉおおっ!」
「カイ」
「は、はい!」
 話しかけられただけなのに、どうしてこんなに心臓がばくばくいうのだろうか。カイは必死で平静を装って、サンの前に立った。
「治療院はどこだ」
「あ、う、うん、案内するよ!」
 急いで部屋から出ようとしたカイは、ふと大事なことを思い出し、立ち尽くす凸凹コンビの傍に転がるリーナの鞄をかつぎあげる。
「急ぐぞ」
「了解!」
  
  
 ――本当に、この姉ちゃんが無事で良かった。でなきゃ、今頃自分はあの世行きの船の上でべそをかいているに違いない。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ。知らず背筋を震わせて、カイはもう一度サンを――穏やかに微笑むサンの顔を――盗み見た。
「聞けば、あなた、結構な使い手だっていうじゃない。もしもルドスの治療院に、自分よりも腕前の良い癒やし手がいなかったらどうするつもりだったのよ?」
「すみません……」
 リーナが申し訳なさそうに下を向いて身を小さくした。癒やし手は、ふう、と大げさに息を吐くと、眉間を緩めて優しい笑みをリーナに向ける。
「ま、大事に至らなくて、本当に良かったわ。もうこんな馬鹿なことをしては駄目よ。解っていると思うけれど、しばらくはふらふらするはずだから、もう少しここでゆっくりしていけばいいわ。今はベッドも部屋も沢山空いているから」
 そう言ってから、癒やし手はサンから例の小袋を受け取った。「じゃ、これは警備隊のほうに届けておくわね。それと、君」
 天使の微笑みを向けられて、カイは思わず頬を染めて姿勢を正した。癒やし手の右手が優雅にカイに差し伸べられ……
「君には、助祭様からお説教のプレゼントがあるからねー」
「痛たたたたたたっ!」