あわいを往く者

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林檎一つ、他は何も

Risky Twenty2参加作品改稿版
[R15] 中学生以下の方は閲覧をご遠慮ください。
  
  
  
   林檎一つ、他は何も
  
  
  
 タカウの家に白羽の矢が立ったのは、小粟の実がこうべを垂れ始めたころだった。
 タカウには三人の娘がいたが、に刻まれていたのは、真ん中の娘、ソオのしるしであった。草の葉よりも軽く、青銅よりも硬い、神が造りたもうた矢を手に、タカウはソオを手招きすると、厳かな声で語りかけた。
「お前も中つ国に住まう女なれば、これがどんなに誉れ高きことか解っているだろう?」
「はい、父さま」
 ソオは、神妙な顔で頷いた。
 嫁取りによって神の縁者となった家は、永きに亘って栄えると謂われている。そして神の恩恵がもたらされるのは、当の一家ばかりではなかった。例えば花嫁の父が日照りの夏に天に救いを求めたとして、恵みの雨は広く里全体に潤いを与えてくれることになるのだから。
 ここ、コオリの里からは、もう随分と長い間、嫁取りが行われていなかった。もしや神はコオリを見放したのだろうか、そんな嘆きがあちこちで囁かれるほどだった。それゆえ、このたびソオが神に見初められたことで、里じゅうが喜びに沸いていた。
 そんな中、二つ上の姉を差し置いて自分が神に選ばれたことが、ソオは不思議でならなかった。何しろ、機を織るのも、藁を編むのも、魚を捌くのも、姉のほうがずっと上手だったからだ。そればかりか、一つ下のカヤと比べても、ソオが秀でているものは、殆ど、無い。
 困惑の表情を浮かべるソオを見て、タカウはついと眉を寄せると、少しばかり声を落とした。
「お前は、クヤノと仲が良かったから、もしかしたら心残りがあるかもしれないが……」
 誤解を解くべく、ソオはゆるりと首を横に振った。
「いいえ。神の矢がくだされたのです。何を躊躇うことがあるでしょう」
「ならば、何故浮かない顔をしているのだ」
 ソオの口から、深い溜め息が漏れた。
「神は、本当にこの私で構わないと仰っているのでしょうか。私などよりも、トヨ姉さまやカヤのほうが……」
「何を馬鹿なことを言うのだ」
 タカウが大きく眉を跳ね上げて、声を荒らげた。
「神は、全てをご覧になって、そうしてお前を妻にと望んでおられるのだ。その御心を疑ってはならぬ」
 遠慮がちに頷くソオに向かって、タカウはにっこりと笑みを浮かべた。
「確かに、トヨはお前達の中では一番のしっかり者だ。カヤは女にしておくのが勿体ないぐらいに賢い。だが、私はお前がとても優しくて素直な心を持っていることを知っている。私にとっては、お前もトヨもカヤも、皆等しく愛しい娘なのだよ。それは、おそらく神にとっても同じことだろうね」
  
  
「箆のしるしは、本当にお前のものだったのか?」
 御使みつかいを迎える準備で里が大わらわな中、川べりにソオを呼び出したクヤノは、歯ぎしりとともに言葉を吐き出した。
「数字を見間違えたってことはないのか?」
「いいえ」
 祝いの言葉が聞けるものとばかり思っていたソオは、怪訝そうに眉をひそめると、そっと首を横に振った。「間違いなく、私のしるしでした」
 なんてこった、と、クヤノが地面を蹴った。固く握りしめられた両のこぶしが、小刻みに震えている。
「お前の家に白羽の矢が立ったって聞いて、俺はてっきり、トヨさんだとばかり……」
 クヤノの言葉に、ソオは静かに息を吐いた。はっきり口にしないだけで、里の皆もクヤノのように考えているのだろうということは、ソオには痛いほど分かっていた。もしも召されるのがトヨだったらば、皆も心の底から納得したに違いない。
 しかし、それでも、神はソオを選んでくださったのだ。ソオは地面を見つめたまま静かに口を開いた。
「私も、姉さまのほうがずっと相応しい、と思います。でも……」
「そういう意味で言ったんじゃない!」
 悲鳴にも似た叫びとともに、クヤノがソオの両肩を掴んだ。
「俺は、お前が……」
「そこで何をしている」
 冷徹な声が、道のほうから投げかけられた。
 クヤノが弾かれたようにソオから手を離す。
おささま」
「ソオ、お母上がお探しだったぞ。嫁入りの衣装を縫っていたのだろう?」
「あ、はい」
 二人のそばへとやってきた里長さとおさは、ソオに柔らかく微笑んでから、一転して厳しい眼差しをクヤノに向けた。
「クヤノ。これまでの君の振る舞いを、神は高く評価してくださっていることだろう。だからこそ、最後の最後で道を踏み外すな」
 クヤノの唇が痙攣するように震えて、それから彼は顔を伏せた。血の気が失われるほどこぶしを握りしめ、無言のまま走り去っていく。
「気にすることはない、ソオ。全ては神の御心のままに」
 里長の言葉に、ソオは頷くことしかできなかった。
  
  
  
 とうとうソオの輿入れの日がやってきた。
 夕刻を迎え、里のぐるりにしつらえられたかがりに火が入れられる。
 掟に従い、里人さとびとは日が暮れるとともに全員が家に閉じ籠もり、戸という戸を固く閉ざして、息を潜めて御使いのお出ましを待っていた。
 タカウの家でも、ソオを含めた家族全員が、真っ暗な家の中に籠もり、静かに別れを惜しんでいた。
「ソオ、本当に綺麗。まるで夜明けを待つ白鷺のよう」
 窓の隙間からか細く射し込む月の光を受け、婚礼衣装が輝いて見える。トヨがうっとりと囁く横で、カヤが好奇の眼差しで布地を撫でた。
「柔らかくて、軽くて、雪のように白い。このような布を、長さまはどうやってお作りになられたのだろう……」
「神から託されたに決まっておろう」
「カヤ、そうみだりに触っては折角の衣装が乱れてしまうわ」
 父母にたしなめられたカヤが唇を尖らせるのを見て、ソオは頬を緩ませた。と同時に、もうこの生意気な妹に言い負かされることもないのだと思い当たり、寂しげな笑みを浮かべる。
 ふと、板葺の屋根の向こう、空の遠くから大きな獣の咆えるような声が近づいてきた。
 腹の底をびりびりと震わせる咆哮は、ほどなく、ごうごうと逆巻く風の音に呑み込まれていく。
 やがて、再び静寂が訪れると同時に、表の戸が軽く叩かれた。
「ソオ。御使いがお着きになられたよ」
 里長の声を聞くや、タカウが息を詰まらせた。思わず漏れた声にならない声を一息に呑みくだして、そうして右手で目元を押さえる。母も涙を流しながら、ソオの手を優しくとった。
「ああ、私の愛しい娘。どうか天が原で幸せに暮らすのですよ」
「母さま……」
 そっと顔をそむけ手を離す母と入れ替わるようにして、姉と妹が別れの言葉を手向ける。
「幸せに、ね」
「ソオ姉さま、お元気で」
 後ろ髪を引かれながら、ソオは戸を開いた。
 月明かり降り注ぐ里道に、純白の儀式装束に身を包んだ里長が、一人佇んでいた。
「別れの挨拶はすんだかね」
「はい」
「しからば、嫁取りの儀とまいろう」
 背後の戸がゆっくりと閉じられる。ソオは小さく頷いた。
  
  
 月が雲に隠れ、漆黒の闇が辺りに押し寄せてくる。風にそよぐ葉擦れの音を聞きながら、点々と揺らめく篝火を頼りに里の外れまで来れば、茅場の中央に、黒々とした大きな影が身を横たえているのが、微かに見て取れた。
「あれが、神の御使いである大鳥だ」
 里長に従い茅場まで降りたソオは、知らず息を呑んだ。里で一番大きな長のお屋敷よりも、御使いのほうが大きかったからだ。茅場を取り囲むように灯されている篝火の光も、翼を広げた大鳥の巨体の前にはあまりにも頼りなく、その全身像を浮かび上がらせるには至っていない。
 言葉もなく立ち尽くすソオの傍らで、里長が杖を天に掲げた。そうして、朗々とした声で祝詞を詠み始める。
 ソオの名前としるしが詠み上げられた次の瞬間、目も眩むばかりの光が、御使いの胸元に現れた。
 それは、まるでお日さまの御子が産み落とされたかのようだった。大きさこそ大鳥の頭ほどしかないが、満月の光をも凌ぐまばゆい輝きが、辺りの闇をより一層深くさせる。
 その光の中に、人影……のようなものが浮かび上がった。
「おお! 神よ! まさか、御自ら……!」
 里長がひざまずこうとするのを、影はゆったりとした動作で押しとどめた。
『そのままでよい』
 柔らかな声は、里長の手元から聞こえた。
 里長が杖を両手で握りしめたまま、慌てて身を起こす。なんと恐れ多い、と何度も呟きながら。
『地上に降りる機会など、そうそうあるものではないからな。驚かせてすまない』
「滅相もございません!」
『ソオ』
 息を詰めてそのやりとりを見守っていたソオは、急に名を呼ばれて、思わず背筋を伸ばした。
 みるみるうちに、光から地上へと階段が伸びてくる。カツン、カツン、と硬い音をたてながら、影がゆっくりと段を降り始めた。
 それは、熊のようなずんぐりとした形をしていた。だが、その輪郭は滑らかで、背後の光を受けて神々しく輝いている。思ってもいなかった異形に、ソオは驚くあまり身動き一つできなかった。
『美しき花嫁よ。どうか我が許へ』
 逆光を背負った影が、ソオの目の前に立った。丸い頭部、逞しい身体。顔のあるべきところには、ぽっかりと闇夜が口をあけている。だが、不思議と嫌悪感は感じなかった。
 ごつごつとした手が、ソオに向かって伸びてくる。
 吸い寄せられるように、ソオは右手を差し出した。
 指と指とが触れ合った瞬間、暗闇に火花が散った。と、同時に、ソオの指先から全身へと鋭い痛みが走り抜ける。
 夜空がソオの視界一杯に広がったかと思えば、そのまま彼女は意識を失って崩れ落ちた。