おのれの名を呼ぶ声に、マニはうっすらと目をあけた。
視界をほんのりと満たす、青白い光。その中央に、苦笑を浮かべるヒューの顔があった。
「だめだよ、命を粗末にしちゃ」
自分がヒューの腕の中にいることを知り、マニは悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさい、私のせいであなたまで死なせてしまって」
常世でヒューに会えたら、まず言わなければならない、と思っていた言葉だった。
そうして次には、一番言いたかったことを。現し世では決して明かしてはならなかった、この想いを。
「でも、こうやってあなたと一緒になれて、嬉しい……」
みるみるうちに、ヒューの顔が真っ赤に染まった。
「ちょ、ちょっと待って。僕も、あなたも、まだ死んでいないから」
「え?」
ヒューが何事かを呟くと同時に、青白い光が消えうせた。やがて、漆黒に沈む世界がぼんやりと輪郭を取り戻し始める。墨色の空を切り取る雲の影。向こうに見えるのは領主の城か。反対側に目を転じれば、葉影の奥に街の灯りがまばらに灯っている。
身じろぎに合わせて、腰の下でざらりと砂が音を立てた。
「え? え? でも、私……、それに、あなたも……」
「うん。たぶん領主達は、僕が死んだ、と思っているんじゃないかな」
事も無げにヒューが答える。それから、身を起こそうとするマニに手を貸しかけて、「いたた」とわき腹を押さえて背を丸めた。
驚き慌てるマニに、ヒューが「大丈夫」と片目をつむった。切られた服の隙間から、夜目にも白い包帯が見えた。
「僕は、確かにあまり多くの呪文を習得していないけれど、一つ一つの術をじっくり研究したおかげで、他の誰もが想像できないような術の使い方ができる」
自信に満ちた声が、夜気を震わせる。
「彼らを煙に巻くぐらい、どうってことないさ」
マニは、涙が溢れるのをこらえられなかった。
マニが落ち着くのを見計らって、ヒューがわざとらしいほどに厳めしい表情を作った。
「それにしても、僕が間に合ったからいいようなものの、だめだよ、死のうだなんて」
まだ少し鼻をぐすぐすいわせながら、マニは小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「でも、許せなかったのよ。私自身を……そして何より、領主様を」
それからマニは、まっすぐにヒューを見上げた。
雲が切れ、月光が辺りに降りそそぐ。大きな瞳が、月明かりを映して燃えるように輝いた。
「力ずくでは、何も手に入らないんだと、領主様に思い知らせてやりたかった」
たっぷり一呼吸の間、ヒューは微動だにしなかった。驚きの色を目に浮かべ、じっとマニを見つめている。
それから、まいったなあ、と満面の笑みを浮かべ、マニをそっと抱き締めた。
「好きだ、マニ」
「私も。好き。ヒュー」
言葉は、もう必要なかった。代わりに唇が刻むのは、声なき想い。
やがて、どちらからともなく、二つの想いがそっと重ねられた。
傾き始めた月を見上げて、ヒューが腰を上げた。
マニも、手を貸してもらって立ち上がる。
「行こうか。助祭様が街の門で待ってる」
「え?」
「あなたのご両親もいらっしゃるんじゃないかな。大層心配なさっていたから」
目を丸くするマニに、ヒューが真剣な眼差しを向けた。
「僕と一緒に、来てくれるかい?」
その一瞬、これまでの人生を巻き戻すかのように、マニの脳裏に数々の映像が去来した。両親と過ごした日々が、治療院での思い出が、堰を切ったように溢れ出してくる。
一番最後に、にっこりと微笑みかけてくるヒューの瞳が大写しとなり、マニは思わずヒューに飛びついていた。
承諾の返事に、ヒューの「痛たたた」という呻き声がかぶさる。
マニは大慌てで身体を離すと、心配そうにヒューを見上げた。
「ごめんなさい!」
「大丈夫。いざとなれば、あなたに治してもらうから」
はい、と力強く頷く声が、風に乗ってどこまでも吹き渡っていった。
〈 完 〉