あわいを往く者

  [?]

渡座《わたまし》の祈り

  
 ラーノのたっての頼みで、サヴァは祈術を披露することになった。
 入り組んだ坂道や階段をのぼってはおりて東の水場へと向かう。「水の通りが悪いようだからなんとかしてくれ」と掌に要望が届けられた、と司掌が教えてくれたのだ。
 目指す水場は町のはずれにあった。周囲には蔬菜畑が広がり、〈東の山〉の裾には山羊や羊の畜舎も見える。〈南の山〉を望めば棗椰子の並木の遠く、茶色い斜面を斑に彩るのは剣麻の畑だ。
「井戸ではないんですね」
「このあたりだと、相当深く掘らないと水は出ないし、仮に出ても塩気が混じっているのがほとんどだから、山から地下水を引いているんだ」
「さっきの水場とは別な水道ですか」
「うん。町へは、三方の山からそれぞれ三本の地下水道が掘られている」
 サヴァは石造りの水場の縁に屈むと、そっと指先を水に浸した。目顔でラーノに合図をしたのち、目を閉じ意識を虚空に開く。
 ――我が神よ、どうかこの声に耳を傾けてくださりますよう……
 祝詞を紡ぎ出しながら、サヴァは水に触れる指となった。指に遊ぶ水となった。揺蕩い溶けあい、離れてはぶつかり、撫でるように覆うように暗い隧道を辿っていった。やがて流れを阻害する砂溜まりを見つけた彼女は、更なることばに心を乗せた。
 その瞬間、胸の奥で光が弾けた。湧き起こった熱が瞬く間に嵩を増し、砂溜まりめがけて迸る。
 確かなに満足して立ち上がったサヴァは、目ばかりか口まで丸くあけて立ち尽くすラーノを見た。
「……なにか……胸の奥のなにかが……震えるような気がした……」
 絞り出すような声はそこで一度途切れ、深い呼気とともに再び吐き出される。「これが祈術か……」と。
 サヴァは面映ゆい気分を隠して、膝についた砂を念入りにはらう。
「私の……手……? 花……明るい……感謝……僕の語学力ではほとんど聞き取れなかった……」
「祝詞に使われるのは古い言葉なんだ。祈り手や祠官でもなければ解らなくて普通だ」
 なるほど、と頷いてから、ラーノはやや早口で話し始めた。
「我々が使う呪文も同じなんです。幾度もの盛衰興亡の果てに誰も使わなくなったいにしえの言葉で、術を構築し起動する。日々研究はされていますが、呪文に現れる語彙はそんなに多くないため、古代語の完全な復元は難しいのが現状です」
 そこで彼は真っ直ぐにサヴァを見つめると、こぶしを握り締めた。
「しかし、貴方がたは違う。あの時代の文化を、わざを、継承し続けている。クナーン語や祈術の祝詞には失われた古代語が息づいているんです。我々は、そこから新たな知見が得られるかもしれないと考えています」
 言葉を重ねるほどに熱を帯びるラーノとは対照的に、サヴァの心は水面みなもに吹く風のように冷めていった。何故だろう、と自問するも靄は晴れず、胸の中をさざ波だけが渡っていくのみ。
「先ほどの祝詞を教えてもらえませんか」
 帳面を取り出すラーノから、サヴァは顔をそむけた。
「祝詞は、神との対話で湧きでるものだ。その時々の状況や祈り手の心の持ちようでいくらでも変化する。記録しても意味はない」
 風の音が二人を別ち、砂煙が舞う。
 サヴァは「公館まで送ろう」とだけ告げてきびすを返した。
  
 ぎくしゃくとした空気とともに暮れた二日目だったが、翌日にはラーノはすっかり元どおりになっていた。本日の予定を問うサヴァに、彼はキラキラとした瞳で「僕は横で黙って見学しているから、貴方は普段どおりに祈り手の仕事をしてほしい」と言った。
「祭りの前ならともかく、普段は皆それぞれ生業を行ってて、昨日みたいに依頼が掌に持ち込まれた時に、皆で分担して取りかかることになっている」
「つまり、毎日欠かさず昨日のようなわざを使うわけではない……?」
「でも、ラーノさんがいる間は祈り手の仕事はまず私に任せて、手が足りない場合に他の人にも振り分ける、って司掌様が言っていた」
 途中しょんぼりと萎れかけたラーノが、パアッと顔を輝かせる。
「じゃあ……!」
「とりあえず掌には行ってみるけど、仕事があるかは分からないから」
 サヴァが釘を刺すも、ラーノは浮き立った様子を隠すそぶりも見せない。これではどちらが子供か分からないぞ、とサヴァは苦笑を浮かべた。
  
 それから毎日、ラーノはサヴァについて回った。
 サヴァは、掌の仕事を一手に引き受けた。蔬菜畑に水を撒きに行ったり、停泊する船の帆を洗ったり。怪我人の手当てをする魄の祈り手を手伝った時は、ラーノの目の輝きが二倍になっていた。
 しかし、掌の皆で仕事を分担している時はたいして気にする者はいなかったが、実は祈術は精力を消耗する。三日が過ぎてサヴァに疲労の色を見とめたラーノは、今日は午後からお休みにしようと言い出し、サヴァも素直に頷いた。
 昼食は港の広場にて。片隅に放置された木箱に並んで座って、屋台で調達した炙り肉を頬張りながら、ラーノがふと「何が違うんだろうなあ」と呟いた。
「何がとは?」
「魔術にも水を使う『水撃』という術があるんですよ」
 撃つ、という言葉に不穏なものを感じつつも、サヴァは「それはどんな術だ?」と訊いていた。
「水を矢のように撃ち出す術です」
 サヴァは思わず目を剥いた。矢に匹敵する勢いで水を操るなど、祈術では到底不可能だったからだ。
「それで敵を攻撃するのか」
 祈りで人を傷つけてはいけない、というのは祈術を習う者が最初に誓わされることだった。そもそも仮に祈ったところで神がそれを許さないだろう。
 ラーノはしばし躊躇ったものの、観念した様子で「そうです」と頷いた。
「でも、それを応用することで、落石を砕いたり、地ならしをしたり、日常生活を助けることができます」
「そんな強力なわざがあるんだったら、祈術を学ぶ必要なんてないだろう」
 ラーノのに乗って、得意になって祈術を披露していた自分がひどく滑稽に思え、サヴァは唇を噛む。
 しかしラーノは勢いよく首を横に振った。
「強力だからこそ、この世界に無理を強いているのではないか、との懸念が出てきたんです。このまま魔術を使用し続けると世界のことわりを歪めてしまうのではないか、との懸念が」
 握り締めたこぶしに視線を落とし、ラーノは話し続ける。
「皇帝陛下の命でそれらが杞憂であると証明するために、僕達は古い文献を掘り返しました。そうして二年前、貴方がた神術派――祈術派――の存在を発見したのです」
 北の帝国から客人が訪れるようになった時期だ、とサヴァは息を呑んだ。
「僕は、貴方がたのご先祖が故郷を追われたのは、魔術が孕む危険性に気づいたせいではないかと考えています。ならば祈術を学ぶことで、何か打開策が見つかるかもしれません」
 ラーノは皿を脇に置くと、サヴァの前に膝をついた。
「祝詞を教えてくれとはもう言いません。ですが、祝詞に使われている古い言葉を教えてもらえませんか」
 真剣な眼差しに貫かれ、サヴァの喉がゴクリと鳴った。
  
 古語をサヴァから教わる一方で、ラーノは人々の暮らしについても知りたがった。祈術とは関係ないぞ、と呆れるサヴァに、ラーノは「信仰は、日常に深く根差すものだから」と返答した。
 サヴァは素直に自分の浅慮を認めた。そして何故かその流れで、サヴァの勤める紡ぎ工房にも彼を案内することになってしまった。
 サヴァの不安をよそに、工房の女達は興味津々でラーノの周りに詰めかけ、それ以上に興味津々なラーノに逆に質問攻めにされて、目を白黒させていた。
 賑やかなひとときが終わり、ラーノがぱたりと帳面を閉じる。それを合図にサヴァが「行くぞ」と声をかけた。
「皆さん、ありがとうございました」
 姿勢を正し帝国式の礼をするラーノに、一番の年長者が笑いかける。
「正直、鬼術師なんておっかないと思ってるけど、でもあんたはいい人そうだからね」
「なにしろ、この気の強いサヴァが文句も言わずに毎日ついてまわってるんだもんねえ」
からは小さいのに当たりはきついから、胡椒娘なんて呼ばれててさ」
「でも歌は上手いんだよ」
 今度はサヴァを肴に皆が盛り上がる。気恥ずかしさに耐え切れず、サヴァは「先に行ってるからな!」とラーノを置いてさっさと工房を出た。
  
 その日、サヴァはラーノを連れて〈南の山〉に向かった。〈一のかしら〉の峠を越えた先にある小麦畑と放牧地を見せるためだ。
 峠の細い切り通しを抜けた途端、正面にそびえ立つ主峰の白茶けた岩肌が視界に飛び込んできた。眼下には黒味を帯びた茶色の大地が、緩やかにうねって山裾全体に広がっている。見渡す限り人の気配の無い原始の世界、しかし目を凝らせば、そこかしこで山羊や羊がんでいるのは、刈り取られたあとの小麦の株だ。
「同じ作物を植えていても、こんなに風景が違うんですね……」
 太陽の国だ、と呟くラーノに、サヴァは片眉を上げて応じた。
「父も同じことを言っているな。ここはお日様の国だ、と」
 サヴァは今更ながら帝国がどのような所なのか気になってきた。森の国と聞くから木が沢山生えているのだろう、そう考えを巡らせたその時、突然彼女の足元の岩が崩れ落ちた。
  
「なんでラーノまで一緒に落ちるんだ!」
「あ、いや、助けようと思って、咄嗟に」
 幸いにも足場が崩れた以上の斜面の崩落は起こらず、すぐ下にあった岩棚のお蔭で滑落も止まり、二人は両手のひらを擦りむく程度の怪我で済んだ。とはいえ、頭上の道まではラーノの身長二つ分はある上に、斜面、いや崖の表面は今にも崩れそうで、よじ登るのは不可能と思われる。
「誰かが通りかかるのを待つしかないですね」
 崖の下をおそるおそる覗き込みながら、ラーノが溜め息をつく。
「何日かかるか分からないが、それしかないな」
「何日も!?」
 ラーノが叫んだ拍子に、上から小石が二つ三つ転がり落ちてきた。どうやらあまり楽観視できる状況ではないようだ。
 サヴァが唇を噛む横で、ラーノが思いつめた表情で視線を落とした。
「魔術は、悪鬼の術ではないんです」
 唐突な物言いを怪訝に思って、サヴァは目をしばたたかせた。
 ラーノは足元を見つめたまま、淡々と言葉を継ぐ。
「長年の研究の結果、魔術も神のちからを使用しているということが分かってきました。ですが、我々の呪文には祈りの言葉は存在しません。そればかりか、そこにあるのはどこまでも一方的な要求です。信仰もなく、敬意もなく、神々と一切の対話をせぬまま、強引にそのちからだけを奪い取るのです」
 恐るべき告白に、サヴァの背筋せすじを震えが走った。
「世界のことわりを歪めてしまう……」
「そうです。魔術師は、おのれの欲で神々をただ使役している。そのちからを搾取している。信仰篤い貴方に、そんな酷い言葉を聞かせたくはなかったのですが」
 しばし目を閉じ歯を食いしばり、それからラーノは眉間から力を抜いた。次に瞼を開いた時、彼の瞳は凪いだ夜の海のようだった。
 ラーノが身体の前に両手を差し伸べた。両の指を絡ませては解き、まるで空中に何かの文様をえがくかのごとく複雑に動かしていく。それと同時に彼は朗々たる声で詠唱を始めた。
 サヴァは胸元をきつく握り締めた。ラーノの声に合わせて足元が揺れるようだった。彼が言葉を吐き出すたびに世界に楔が打ち込まれ、罅割れから熱が溢れだした。
 目の前の崖があらぬ光で覆われる。サヴァが我に返った時、そこには土を固めて作られた階段が姿を現していた。
 ラーノが静かに両手をおろした。
 これが魔術か、とサヴァは深く息を吐いた。
  
 無事に峠道へ戻れたところで、ラーノがサヴァに背を向けた。
 その萎れた背中に、サヴァはおずおずと声をかける。
「えーと、その、実はだな」
 咳払いを一つ、サヴァは頭を掻いた。
「呪文、ほとんど意味が解らなかった」
「ええっ!?」
 素っ頓狂な声とともに、ラーノがサヴァを振り返る。
渡座わたましからもう千年以上経っているからな。呪文は当時のままだとしても、私達の言葉はかなり変化してしまっているんじゃないかな」
「変化」
「別の町に移住した人だと、訛りが聞き取れないこともよくあるし」
「訛り」
「だから、気にするな」
 と、そこで大きく息を吸って、サヴァは正面からラーノの目を見た。そして、『今度は私に貴方の国のことを教えてください』と一息に告げる。
 ラーノがまばたきを繰り返した。
『え? 今の、帝国語、だよね?』
 悪戯が成功した子供のように、サヴァは口角を引き上げた。
「私の父、帝国は帝国でも西の辺境出身なんだ。訛りを出すと聞き取れないだろ?」
「で、なんと言ったのですか?」
 食い下がるラーノに笑みだけを返し、サヴァはくるりと後ろを向いた。
「さて、明日から祭りの準備だ。勿論手伝ってくれるよな?」
「え、あ、はい!」
 弾む声がサヴァを追いかける。煌めく海へ続く道を、二人はゆっくりとくだっていった。
  
  
  
〈 完 〉