夜風は囁く
えんじの上衣 は正義のしるし。
茶色の髪の青年が、調子っ外れな歌を口ずさみながら、えんじ色の上着を袖で腰に結わえた。慣れた手つきで剣帯を留め直し、「これでよし」と胸を張る。
ここは、峰東 州の都ルドスの、馬車の行きかう中央通り。町の治安を守る警備隊、その証しである制式上着は、夏には薄手のものが支給されるのだが、この炎天下に襟つき長袖は暑苦し過ぎる、と言って、彼――ガーランはまともに着用したためしがない。
「なんだ、その変な歌は」
少し先を歩いていた警邏の相方が、怪訝そうにガーランを振り返った。こちらは前のボタンこそ留めてはいないものの、上着をちゃんと身に着けている。尤 もこれが普通であって、「警備隊の誇り高き象徴」を結んだり団子にしたりするのは、隊内ではガーランぐらいのものだ。
「一昨日しょっ引いた羊泥棒が、『えんじの上衣はムカつく奴ら』とか何とか歌ってやがったんでな。正しい内容を広めようと思ってな」
「よくやるよ」
呆れ顔になる同僚を見て、ガーランの頬がますます緩んだ。悪戯っぽい光を目に宿し、より素っ頓狂な歌を披露し始める。
いいかげんにしろ、と同僚が眉を吊り上げるのと時を同じくして、道の向こうの路地からガーランの名を呼ぶ声がした。
「うわ、やべ。さっさと行こうぜ」
大慌てで歩調を速めるガーランを、同僚が小走りで追いかける。
「行こうぜ、って、あれ、東の助祭長だろ」
「だから逃げるんだよ。あのクソ坊主、俺のことをていのいい使いっ走りとしか思ってないんだからな。どうせまた、『教会の前のドブ掃除を頼むわ』とか何とか言いやがるに決まってる」
と文句を言いながら人波をかき分けたガーランの前に、ひらりと人影が立ち塞がった。
「名を呼ばれて無視をする奴があるか」
「お、おやっさん……!」
いつの間に先回りをしたのか、噂の人物が、腕組みをしてガーランを睨みつけていた。
こんがりと日焼けした小麦色の肌に、白い僧衣が輝いて見える。袖口から覗く腕は、老境に身を置く者とは思えないほど鍛え上げられており、その活力に溢れたさまは若いガーランと比べてもなんら遜色がない。現に今も、小柄な助祭長に対して頭二つ分は背が高いはずのガーランが圧倒される一方である。流石は、若い頃、南方で船乗りをしていたという、元・荒くれ者だ。
先ほどまでの余裕はどこへやら、すっかり意気消沈してしまった様子のガーランに対し、助祭長が得意げに口角を上げる。
「他でもない、おぬしに頼みがあってな」
ほらきた、と呟いてから、ガーランは両手を腰にあてた。
「なんだよ。ドブ掃除か?」
「そんなつまらぬ用事に、わざわざ警備隊員殿のお力など借りぬわ」
しれっと言い切る助祭長に、ガーランの眼差しが冷ややかなものとなる。それを気にしたふうもなく助祭長は言葉を継いだ。
「礼拝堂の尖塔に、カラスの死骸が引っかかっておってな。それを取っ払ってもらえんかな」
ガーランの背後で、同僚がふき出した。
「やっぱり掃除じゃねえか」
「尖塔に登ろうにも、わしはもう歳だし」抗議の声を華麗に受け流して、助祭長は語り続ける。「司祭様のお手を煩わせるわけにはいかぬし、助祭も侍祭も高い所は駄目だと言いよるし、癒やし手達の伴侶をあてにしようにも、独り身の者か年寄りしかおらぬし、いかんせん男手が足りんのだ」
「俺だって忙しいんだぞ」
吐き捨てるように反論を口にするガーランだったが……。
「酒場でくだをまく暇はあるのに、可哀相な老いぼれの頼みを聞く時間はないというのか。なんと無慈悲な」
見事に返り討ちにあい、彼はがくりと肩を落とした。
助祭長は、そんなガーランの様子を満足そうに見つめて、それからそっと声を潜めた。
「それに、あまり『あのこと』を広めたくない。既に知っているお前は適任だ」
「また、それかよ」
何やら口の中でぶつぶつと悪態をついたのち、ガーランは両手を上げて降参した。
「分かった、やりゃいいんでしょ、やりゃあ」
「仕事がひけたら帰りに寄ってくれ。死骸を放置しておいて、良からぬ虫が病気を運んできたら大変だからな」
と、そこで助祭長は片目をつむってみせた。「町の平穏を守るのがおぬし達の仕事だろう?」
ガーランは心底悔しそうに石畳を蹴りつけた。
* * *
折角の貴重な日勤日だったってのに。盛大な溜め息とともにガーランは礼拝堂の丸屋根の梯子に手をかけた。もう一度深く溜め息をついて、いざ、茜色に染まる空へと段を上る。
「非番に酒飲んで何が悪いってんだ。つうか、酒でも飲まなきゃ、あんな苦労の多い仕事、やってらんねーよ、くそったれ」
ここなら助祭長の地獄耳も及ぶまい、と、ガーランは心置きなく毒づいた。途中から仕事の愚痴になってしまっているのも構わず、風を相手に鬱憤を晴らす。ひとしきり文句を吐き出したところで、また大きく息をつき、それから少しだけ眉間を緩めた。
「まあ、あのクソ坊主のためじゃなくて、教会のため、ってんなら、屋根でも何でも登りますけどね」
ここ、東の教会は、生命の神アシアスを祀っている教会だ。
アシアス信仰はこの国における実質的な国教であり、他の八百万の神々とは一線を画する存在であった。それは、祈りによって神の加護を得る「癒やしの術」の影響力によるところが大きい。アシアスの教会には大抵、「癒やし手」と呼ばれる術者を集めた治療院が併設されており、そこは、アシアスへの感謝の「気持ち」を持つ者なら誰でも――たとえ異教徒でも――救いを求めて訪れることができるのだ。
ガーラン自身、子供の頃から治療院には何度も世話になっている。つい先月も捕り物の際の刀傷でここに駆け込んだことを思い出し、ガーランは心の中で頭 を垂れた。それから、よし、と気合を入れ直して、最後の段を登りきる。
夕暮れの鐘に背中を押されながら、ガーランは尖塔に辿り着いた。
そこは、丸屋根の頂上にしつらえられた東屋とでもいうべきものだった。大人が四人ほど手を繋いで輪を作れば、丁度これぐらいの広さになるだろう。六本の柱に囲まれた円蓋の中央に、そこらにある井戸と同じぐらいの大きさの丸い穴がぽっかりとあいていた。
その穴は、礼拝堂丸天井の天辺にあけられた、明かり取りの眼窓 だった。尖塔は、この円形の窓から雨が礼拝堂内部に入り込まないよう、傘のような役割を担っているのだ。
穴の縁は周囲よりも少し高くなっており、気をつけてさえおれば、そうそうこの眼窓から落ちることもない。が、流石にこの高さである。ガーランは、黒々とあいた穴から充分な距離をとって、柱の傍に背負い袋を下ろした。荒縄の束と麻袋を取り出して、やれやれと一息をつく。
そこへ、ガーランの名を呼ぶ声が足元から響いてきた。
――聞こえる、聞こえる。
そうっと眼窓から下を覗けば、会衆席の間に、ちんまりと佇む助祭長の姿が見える。ガーランは、にんまりと口の端 を引き上げた。
これこそが、昼間、助祭長がガーランに耳打ちした「あのこと」であった。一体どういうからくりなのだろうか、礼拝堂内の音が、驚くべき明瞭さでこの塔の上まで響いてくるのだ。
今からおよそ二十年前、父親の大工道具を勝手に使って壊してしまったガーランは、叱られるの嫌さに教会の尖塔に隠れて、偶然この秘密に気がついた。そうして、自分を探しに来た助祭長――当時はまだ助祭であったが――に興奮した面持ちでこの大発見を報告した。
ところがガーランの思いをよそに、助祭長はこの知らせを聞くなり難しい顔で、「悪戯する人間が現れてはいけないから」とガーランに口止めをした。今から思えば、悪戯は勿論のことだが、「司祭様達が祈りの声に耳をそばだててるらしいわよ」といった不名誉な噂が立つことを彼らは心配したのだろう。
「おおーい、ガーラン、首尾はどうだ」
過去から現在へと意識を戻すと、ガーランは穴の上へと心持ち身を乗り出した。そして「問題ねえよ」と返答する。
「……なんだって? 声が小さくてよく聞こえんわ」
そういえば聞き耳のからくりは礼拝堂から尖塔への片道のみだったな、と、ガーランは改めて腹の底から声を張り上げた。
「何も問題ねえっての。今から仕事にかかる」
「そうか。山神様のお使いだからな、くれぐれも丁重に頼むぞ」
ついでに俺のことも丁重に扱ってもらえませんかね。そう胸の内でぼやきつつ、ガーランは大きく息を吸った。
「助祭長のアンタが、んなこと言ったら、アシアス様が嫉妬すんじゃねえの?」
「我らが主は、そんな狭量なお方ではないわ」
「そうだな、アンタが神職につけるぐらいだもんな」
助祭長の豪快な笑い声を聞きながら、ガーランは辺りを見回した。
目窓を挟んだ向こう側、尖塔の屋根の縁に、物悲しい黒い影が風に揺らめいてぶら下がっていた。
ガーランは慎重にカラスの死骸を屋根から下ろした。夏の日差しに冒されつつあるそれを麻袋に入れ、閉じた袋の口を荒縄の端に結わえつける。それから眼窓の傍に膝を突き、階下へと袋をゆっくり下ろしていった。
助祭長が袋を受け取ったのを確認して、ガーランはやれやれと立ち上がった。両手を軽くはたき、大きく伸びをする。そうしてガーランは周りをぐるりと見回した。
西にそびえる連山の縁が、燠火 のように鈍く光っている。血の色にも似たその明かりも、やがては薄汚れた灰に静かに埋もれていくのだろう。東の地平線から迫り来る藍色の下、家々の灯りが点々とまたたき始めているのを見下ろしながら、ガーランはそっと目を細めた。
大陸を東西に分断する山脈に沿って、その麓に細長く伸びている坂の町、それがここルドスだ。町の中心を南北に貫く大通りを境目に、西の高台に為政者など上流階級に属する者の住居が、東に下々の者どもの住み処がある。この東の教会は、その中央通りから細い路地を一角 くだった所にあった。
ガーランの生家は、ここから少し北の、いわゆる職人街にあり、物心ついた頃からこの辺りは彼の庭だった。助祭長こと「おやっさん」は、そんな彼が何か悪さをするたびに、遠慮のないゲンコツを喰らわせてくれていたものだった。
まさか、おやっさんを返り討ちにしたくて励んだ体術や剣術が、自分の身を立ててくれることになろうとは。つい口元を緩ませたところで、当の助祭長の呼び声を足元に聞き、ガーランは慌てて咳払いをした。
「どうしたガーラン、何か問題でもあったか」
「人使いの荒い誰かさんのせいで、疲れてんだよ。ちょっと一服してから降りるわ」
「そうか。ならば、わしはこいつを裏の畑に埋めに行ってこよう。真っ暗になる前に、気をつけて降りてくるんだぞ」
「へいへい」
薄暗さを増した町並みの上を、心地よい風が吹き抜けていく。比較的標高のあるルドスの夏は、日さえ暮れてしまえば、とても過ごし易い。しばし夕涼みをば、と、ガーランは柱の前に腰を下ろした。
柱に身を預けると、手足の先から疲れが一気に這い上がってくる。警備隊という職務の特性上、日勤日といえども仕事が長引くことは珍しくない。ガーランは助祭長の依頼に応えるために、昼から一度も休憩を取っていなかったのだ。
「感謝しろよクソ坊主」
言葉に見合わぬ穏やかな笑みを口元に浮かべ、ガーランはそっと目を閉じた。
――なんてこったー!
ガーランが次に目をあけた時、周囲は深い闇に包まれていた。
満天の星の下、山肌に這いつくばる灯りの数から判断するに、時刻はどうやら真夜中のようだ。毒虫にどこも噛まれていないことと屋根から転げ落ちなかった幸運にほっとしつつ、ガーランは立ち上がった。自分のあまりの間抜けっぷりに、助祭長に八つ当たりする気力すら湧いてこない。心の中でべそをかきながら凝り固まった肩をほぐしていると、地の底、もとい階下の礼拝堂から、人の声が聞こえてきた。
「……どうか報いを」
それは、触れれば切れそうなほどに張り詰めた、女の声だった。
眼窓から下を覗けば、闇に沈む会衆席を月明かりがおぼろかに浮かび上がらせている。だが、床に差し込む月の光も声の主のところまでは届いていないようで、姿かたちは勿論、その影すら定かではない。
「苦しみを与えたまえ」
切々と放たれる呪詛の声に、ガーランは身動き一つすることができなかった。