三 生還
予兆など何も無かった。
降りしきる雨の中、不吉なものを感じてふと空を仰げば、水を含んでどす黒く変色した崖が、静かにその形を変えようとしているところだった。
まず、岩棚に生える木がゆっくりと倒れてきた。
次に、拳大の礫が、幾つも壁面を転がり落ちてきた。
見上げるばかりの土の壁が、痙攣するように震えた。咄嗟に辺りを見まわせば、前方を行く一台の荷馬車が目に入った。御者席に男、荷台に女と子供。街道には他に人影は無い。
「崩れるぞ!」
自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。低い地響きも、悲鳴も怒号も、全てがぼんやりとくぐもった中、気が狂わんばかりの緊迫感だけが、やたらと生々しく胸に迫ってくる。
――落ち着け、呪文は間に合ったんだ。俺は助かったんだ。
そう自分に言い聞かせても、焦れば焦るほど指は満足に動かず、声は喉に貼りついたきりだ。詠唱半ばで霧散する術を、レイは何度も何度もやり直した。一刻も早く「盾」の術を完成させなければ、このままでは皆、死んでしまう、と。
大がかりな呪文は未熟な自分には荷が重い。ならば迅さで数を稼ぐしかない。それなのに、さっきから一つとして術が成功しないのだ。こんなに頑張っているのに、どうしても「盾」が現れてくれないのだ。
「くそう! なんでできないんだよ!」
思い余って絶叫した次の瞬間、視界が一気に暗転した。
驚きのあまり、レイは茫然とその場に立ち尽くす。雨も風も、道も崖も、全てが一瞬にして消え去り、完全なる暗闇と静寂が彼を包み込んでいた。
とうとう埋もれてしまった、とレイは思った。四方から押し寄せる土砂に追い詰められ、土中に閉じ込められた恐怖が彼の中に甦る。荒れ狂う心臓の音が、全身をも震わせる。
岩と岩の僅かな隙間、為すすべもなく救いの手を待つばかりのレイを支えたのは、はにかむようなシキの笑顔だった。きっと彼女なら自分を見つけ出してくれる。そうして、今度こそ彼女と……一昨日の続きを……。
と、真っ暗な中、微かに空気が動き、土の香りに混ざって鉄錆の匂いがした。
ふと気がつけば、レイは両膝を地について座っていた。
目の前に力無く投げ出された、白い腕。
倒れ伏す小さな身体を慌てて抱き起こせば、生暖かいものがぬるりと手を濡らした。
――だめだ、このままでは、死んでしまう。
シキが、シキが死んでしまう……!
「レイ!」
肩を揺らされて、レイは目を覚ました。荒い息のまま身を起こせば、ぼんやりと霞む視界に、眉根を寄せたシキの顔がゆっくりと像を結ぶ。
「大丈夫? 随分うなされていたみたいだけど」
きらきらと眩い朝の光が、優しく辺りに降り注いでいた。少し日に焼けた生成りのカーテンが、静かに風にそよいでいる。十年前、孤児として数ヶ月を過ごした時と変わらぬ懐かしい景色に、早鐘を打っていたレイの鼓動も次第に落ち着きを取り戻し始めた。
「……大丈夫?」
心配そうなシキの瞳が、昔日のそれと重なる。あの時、訃報がもたらされたのもこの部屋だった。弔詞を聞くなりレイは、沈痛な表情を浮かべる司祭にしがみついて、声の限りに泣き叫んだ。
泣きに泣いて、それでも涙は一向に枯れることなく、あとからあとから溢れ出てきた。いい加減呼吸がつらくなって、しゃくりあげながら傍らの寝台に突っ伏して、それでようやく息が治まり始めた時に、シキがレイの顔を覗き込んできたのだ。真っ赤に腫らした目をそっと緩ませながら、「大丈夫?」と。
「あ、ああ、大丈夫だ。ちょっと夢見が悪くてさ。俺、うなされてたか?」
「うん。苦しそうな顔で、うんうん唸ってるから、心配したよ」
街道の崩落から明けて翌朝。彼らは教会の敷地にある治療院にいた。
あの救出劇ののち、大魔術師とその弟子達は馬車に乗せられてここに運ばれてきた。三人とも限界以上の力を使い果たして、立つことすらできないほどに疲労していたからだ。特にロイは再び高熱がぶり返してしまっていたため、治療院に着くなり一番奥の部屋へと運ばれていった。「どうして、こんなになる前にさっさと診せに来ないんですか!」と言うリーナの一喝とともに。
散々な一日だった、とレイは深く息を吐いた。嵐の中のお使いの果て、生き埋め。そしてとどめの悪夢。――あれはやっぱり、「空白の一日」の記憶の断片なのだろうか。自分達が黒髪となったその時に起きた出来事なのだろうか。
「どんな夢だったの?」
遠慮のない声にレイは一瞬ぎくりとすると、それからついと視線を逸らせた。
「……忘れた」
そうきっぱり言いきってから、レイはやにわにシキのほうに身を乗り出した。「それよりも、シキ、お前さ、昔のことって全然憶えてないのか?」
「どうしたの、突然」
きょとんとした顔をするシキを前に、レイは胸の中で慎重に情報を仕分けし始めた。不吉な部分に触れずに、どこまであの日の記憶を掘り返すことができるか、考え考え訥々と口を開く。
「いやさ、崖崩れで埋まってる時に、少しだけ思い出したみたいなんだ。……あの、俺達が黒髪になった日のことを」
「そっか、レイも憶えてないんだったっけ」
黒髪となってから一か月近くの間、シキは心神喪失状態にあった。ロイとの邂逅で奇跡的に意識を取り戻したものの、それ以前の記憶の大部分は、未だ彼女の奥底でぼんやりと靄がかかったままだという。
「俺の場合は、肝心のその日だけなんだけどな」
そう言って、レイは先日見た夢の内容から話し始めた。教会で掃除をしている最中に、シキに連れられて東の森へ行ったということを。
「何か見せたいものがある、みたいな感じだった。とっても素敵なもの、だと言っていた。それが何かは分からないが、俺はそれを見て驚いていたような気がする」
「それで?」
そこで、レイは大きく息を吸った。
「それで、終わり。思い出せたのはそれだけ」
「じゃあ、その何かを見て、びっくりし過ぎて、それで記憶を失っちゃったってこと?」
「そんなわけねーだろ。……って言うか、そうとは限らないだろ」
レイの瞼の裏に、血まみれの光景が浮かび上がる。彼は軽く頭を振って脳裏からそれを追い出し、溜め息をついた。
「きっと、何かもっと激しい衝撃を受けたんだ。そうでなきゃ、黒髪になんてならなかっただろうし、記憶だって失わなかっただろうし」
お前だって、何日も寝込んだり、何週間も心を見失ったりしなかっただろう、と、レイは心の中でつけ足した。
一方、シキはといえば、難しい顔で息を詰めるレイに気づきもせずに、ひたすら首をひねっている。
「……呪いではないって言ってたよね、司祭様」
「ああ。……だが、それはアシアス神の教義のもとで、だ」
シキが驚きの表情でレイを見た。
レイも、自分の台詞に内心でびっくりしていた。これまで思いつきもしなかったある事に、彼は今この瞬間気がついたのだ。
「そうだ。考えてもみろ、同じアシアス信仰なのに、昔と今じゃ随分教会のあり方も変わってしまった」
「だから、昔のことを憶えてないんだって」
頬をふくらませるシキに一瞥もくれずに、レイは興奮して言葉を紡ぎ続ける。
「前はアシアスの神以外もあちこちに祀られていたんだよ。帝国からこっち、今じゃ軒並み邪教扱いだがな。同じ神様でもこれだけ違ってくるんだ。他の教えのもとでは、『呪い』の概念だって変わってくるだろ? 『呪い』だけじゃない。『祝福』だってそうだ。大体、髪の色を根っこから替えるなんて、そもそも人間業じゃねーんだからさ」
「つまり、この髪は、異教に関わるものかもしれない……ってこと?」
「可能性としてな」
渋い表情でレイがそう言った時、扉にノックの音がした。
「おはよーございまーす、入りますよー?」
返答を待たずに扉が開き、リーナがひょっこりと顔を出した。シキを見つけて、仕事の顔が普段の表情に戻る。
「お、やっぱり、シキもこっちだったか。どう? 体調は」
「ん、お蔭さまで、もう大丈夫だよ」
良かった良かったと大きく頷きながら、リーナは今度はレイの顔を覗き込んできた。
「レイも、あれだけの目にあって、かすり傷で済んで良かったねえ」
「まあな。それより何の用だよ」
「おお、そうそう。タヴァーネス先生がね、何か二人と話をしたいんだって。だから呼びに来たのよ」
そう言ってからリーナは、一丁前な癒やし手の顔つきで、「先生、まだ熱下がってないから、手短に頼むね」と二人に釘を刺すのだった。
「すみませんでした」
深々とレイが頭を下げれば、寝台に横たわるロイの目元からほんの僅か険しさがとれた。
「……いや、まあ、冷静に考えれば、お前が悪いわけではない、な」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、ロイは額に乗せた氷嚢を掴んで目元を拭った。
「そうだな。あの状況では仕方がないな」
「本当に、すみませんでした」
「もういい。運がよければ見つかることもあるさ」
リーナに連れられて二人がロイの病室を訪れるや否や、師は開口一番、預かり物についてレイを問い質してきた。叱責を恐れたのかレイは少し躊躇ったものの、すぐに姿勢を正して、崩落で荷物を失ったことを正直にロイに報告したのだった。
いつになく神妙な表情で謝罪を重ねるレイに、ロイは深い溜め息とともに許しの言葉を吐き出した。あのような事故に巻き込まれて無事に生還できた、というだけでも充分奇跡的なのだ。それ以上のことを求めるのは贅沢というものかもな、と。
しばしの沈黙ののち、ロイは話題を切り替えるように大きく息を吸った。それから今度は好奇の色をその瞳に浮かべ、寝台の上に身を起こそうとした。その途端、部屋の隅からリーナの小言が飛んでくる。
「先生、安静にしてください」
「身体の向きを変えるだけだよ」
これだから治療院は嫌なんだ、と大魔術師はリーナに聞こえないように小声でこぼして、それでも大人しく再び枕に頭を沈めた。
「レイ、それよりも、教えてくれないか。どうやってあの崩落から身を守ることができたのか」
「……運が良かっただけだよ」
大したことではない、とばかりに、そっけなく言葉を返すレイに向かって、ロイは有無を言わさぬ口調で再度問いかける。
「詳しい状況が知りたいのだ。話してくれたまえ」
レイは諦観の表情を浮かべてから、しばし両目を閉じた。険を眉間に刻みつつも、心を落ち着かせるように二度三度ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「……あの時、崖は町に近いほうから順に崩れていったんだ。だからキース達に『盾』を出すこともできた。そのあとは確かにもう余裕がなかったけど、すぐ近くに転がり落ちてきた大きい岩を避けることができたから、なんとかなったんだと思う」
レイはそこでシャツの襟元を数度軽く引っ張って、胸元に風を送った。
「とにかくあの岩に背をつけて、なだれてくる土砂の盾にして、それから頭上に『盾』を張って……」
「まだ更に『盾』を使えたのか」
驚いて眉を上げるロイに、レイはそっとかぶりを振った。
「それで終わりさ。力を全部使いきっちまったから、『狼煙』も『灯明』すらも使えなくて……。
『盾』のお蔭で上からの直撃は避けられたけど、横から土砂が押し寄せてきて……、岩と岩の隙間に空間を確保できたはいいが、身動きとれなくて……」
そこまで語ってレイは大きく息を吐き、ゆるりと顔を上げた。「もういいだろ? あとは先生も知ってのとおりだ」
小鳥の声が、開け放たれた窓の外から風に乗って室内に届けられる。暖かな日差しに溢れているにもかかわらず、皆には部屋の温度が数度下がったように感じられた。
「……でも、本当に凄いね、レイ。あんな短時間に七つも『盾』を出せるなんて、隠れて特訓でもしてたんじゃない?」
シキが、わざとらしいほどに明るい声で、冗談めかしてレイに笑いかける。が、彼は小さく息を呑んだのち、ぷいと視線を逸らせてしまった。
「そんなわけねーだろ」
冷たく言い放つレイの傍ら、シキの眉が曇る。
だがシキが何か言いかけるより早く、リーナが高らかに両手を打った。
「はいはい、話も終わったみたいだし、これぐらいにしておきましょうか」
容赦なく面会を切り上げるリーナに連れられるがままに、二人はロイの深い溜め息をあとにした。
まだまだ絶対安静! とリーナに言い渡されたロイを残して、シキとレイは帰途についた。泥だらけの「疾走」の手綱を牽いて、蹄鉄の音も高らかに石畳を進む。
昨日までとは打って変わった快晴の下、町はすっかり活気を取り戻していた。窓という窓には洗濯物がかかり、路地で遊ぶ子供達の声が賑やかに家々の壁にこだましている。
町並みを抜ければ、今度はむっとするほどの草いきれが二人を包み込んだ。おずおずと顔を出し始めた新芽が、さんさんと照りつける陽光に無数の水滴を煌かせながら、気持ち良さそうに風にそよいでいる。
「『疾風』には可哀そうなことをしたな……もう少し、早く帰れていたら……」
治療院を出て以来ずっと黙りこくっていたレイが、ふとポツリとそうこぼした。初等学校の卒業祝いに先生が買ってくれた二頭の馬を、二人はそれぞれ「疾風」と「疾走」と名づけて、とても可愛がってきたのだ。
「……仕方ないよ」
「そうだな……。仕方ない……か……」
あまりにも苦渋に満ちたレイの声に、シキはかける言葉をすぐには見つけられなかった。視線を落として、レイのすぐ後ろを黙って歩く。
街道を逸れ、砂利道をくだり、家の前まで帰ってきたところで、シキがおずおずと口を開いた。
「……あのさ、レイ」
「疾走」を牽いたレイは、振り返ることなく無言で厩へと向かっていく。
「あそこにレイが居合わせたから、キースさん達は助かったんだよ」
口元を引き結び、シキも歩調を速めた。レイのあとを追って厩の扉をくぐる。
「キースさん達もレイも助かって、私は本当に嬉しいよ……」
三つ並んだ馬房の真ん中が、「疾風」の寝床だった。ロイの馬が出ている今、厩はガランとしていて、やけにもの寂しく見えた。仲良く額を付き合わせてじゃれる二頭の若馬を思い出し、シキの目が微かに潤む。
「……『疾風』のことは残念だったけど、あまり自分を責めないでよ」
まるでシキの言葉に頷くようにして、「疾走」が小さくいなないた。
次の瞬間、シキは強い力ですぐ傍の柱に押しつけられた。打ちつけた背中の痛みに悲鳴を上げる間もなく、柔らかいものが唇にかぶさってくる。レイの唸り声がシキの唇を震わせた。猛獣が獲物を貪るような荒々しい口づけが、何度も何度もシキに襲いかかった。
「…………だ」
「な、何……?」
「俺のものだ」
会話もままならないまま再再度口を塞がれ、シキは喘ぐように息を継ぐのみだ。
「なに、が……?」
「誰にも渡すものか」
レイの指が肩に食い込み、痛みのあまりシキは思わず抗議の声を上げた。だが、それすらレイの唇に阻まれて、くぐもった呻き声にしかならない。
「俺の……」
「ん、や、だから」
「俺だけの……」
「ちょっと、あの」
「シキ、お前は……」
「落ち着いてってば!」
膝蹴りを食らわしそうになるのをすんでのところで踏みとどまって、その代わりにシキは思いっきりレイの頬を張り倒した。パシン、と容赦のない破裂音が、厩の空気を震わせた。
「痛ってー!」
「レイの馬鹿!」
肩で息するシキの目には、涙が滲んでいた。上気した頬で荒い呼吸を繰り返し、レイを睨みつける。
「お願いだから、ちょっと、落ち着いてよ!」
一瞬だけ言葉に詰まったものの、レイも負けじとシキに向かって怒鳴り返した。赤くなった左頬を押さえながら。
「って、お前、思いっきり叩いただろ!」
「叩くよ! だって、レイってば全然人の話聞いていないんだもん!」
「だからって、ここまで力一杯引っぱたくことないだろ!」
「だって、そうでもしなきゃ、レイ、落ち着いてくれないじゃない!」
それだけを言いきって、シキが目を伏せる。
レイが大きな動作で腕組みをし、そっぽを向く。
重苦しい沈黙が続く中、開け放たれた扉が風にゆらりと揺れた。薄暗い厩の中に差し込む光に、無数の埃がきらきらと舞った。
ぶひん、と遠慮がちな馬の声に促されるようにして、おずおずとシキは顔を上げた。
「……ごめん、レイ。……痛かった?」
ふう、と息を吐き出して、レイもまたシキのほうに向き直った。
「…………ああ。お蔭でちょっと頭が冷えた」
そう決まり悪そうに苦笑するレイからは、先刻の獰猛な気配はすっかり消え去っていた。優しい瞳に絡め取られ、シキの鼓動が一気に跳ね上がる。先日のあの甘いひとときが脳裏に甦り、シキの口の中につばきが溢れてきた。
レイが、そっと一歩前に出た。彼の手が、ゆっくりとシキに向かって差し出される。
気がついた時には、シキはレイの腕の中にいた。温かい胸にもたれ、うっとりと目を閉じかけたところで、ふとシキは我に返った。
「って、待って、ちょっと」
「落ち着いたところで、さっきの続きといくか」
言葉どおりに冷静な声が、シキの髪にすり込まれる。状況が理解できずに、シキは数度目をしばたたかせた。
「……え?」
「少なくとも明日までは、先生は留守なんだ。何の遠慮もいらないだろ?」
彼の熱い指がそっとシキのうなじに触れた。シキの髪をなぞっていた口づけが、ゆっくりと額に落とされる。身体を満たし始める熱に流されまいとあがきながら、シキは言葉を絞り出した。
「続き、って、ここで一体何を」
「決まってるだろ。お前を抱くんだよ」
実に嬉しそうに、レイがシキに微笑みかけてきた。眩いばかりのその笑顔にシキは一瞬見とれかけたものの、すぐに彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「え……? ええええっ? ちょっと待って、ここでって、そんな」
「これ以上我慢なんてできない。もう止まらねーよ」
清清しいまでにそう言いきって、レイはシキに覆いかぶさってきた。
「ちょ……、ま……」
「シキ、好きだ……」
レイの唇が、シキの頬から首筋へと滑っていった。そしてそのまま襟の中へと潜り込もうと……。
「待ってって言ってるでしょう!」
「……信じられない。部屋ならともかく、厩ってどういうことよ」
玄関の扉が閉まる音を背景に、シキがぶつぶつと愚痴をこぼす。
「だから、きちんと反省して、こうやって母屋に帰ってきただろ?」
レイが、更に赤みを増した頬をさすりながら扉に鍵をかけた。大きな溜め息をついてからシキの傍へ寄ると、ゴホン、とわざとらしい咳払い一つ、そうしてそっと彼女の腰を抱いた。
「で、部屋だったら問題ないんだよな?」
シキが返答する間もなく、レイの唇が彼女の言葉を奪った。今度ばかりは少し慎重に、啄ばむような軽い口づけが数度。
「どんなに、お前と、こうしたかったか」
絞り出される声から、彼の想いが痛いほど伝わってくる。少しだけ申し訳なくなって、シキはおずおずとレイの左頬に触れた。赤くなった部分をいたわるように、手のひらで優しく彼の頬を撫でる。
その手に、レイの手が静かに重ねられた。強い光を宿した瞳が、シキを真っ向から貫いた。
「……レイ……」
「お前が、欲しいんだ、シ……」
とろけるような囁きに続けて、レイが口にしたはずのシキの名は、頭上で鳴り響く呼び鈴の音にかき消されてしまった。
あまりの間の悪さに、レイばかりかシキまでもが眉間に深い皺を刻んだ。二人して顔を見合わせることばし、呼び鈴がもう一度鳴らされた。
溜め息をついて身を離すシキの腕を、レイはぐいと引っ張った。
「気のせいだ。部屋に行こうぜ」
「でも……」
「風が紐を引っ張ってるんだ。そうに決まってる」
彼がそう言い張る間も、呼び鈴は辛抱強くかつ控えめに鳴り続けた。おそらく来客は、玄関を入る二人をどこかから見るなどして、家人の在宅を確信しているのだろう。
「あー、もう! くそっ、どこのどいつだ一体!」
とうとう観念したのか、レイは毒づきながらも大股で扉に向かった。あからさまに不機嫌そうな表情で、「どちらさま」と扉を開ける。
そこにはキース一家が神妙な顔で立っていた。
「お忙しいところをすみません。お帰りになるのが街道から見えたものですから、どうしても一言お礼を言いたくて……」
額に包帯を巻いたキースが、そう言ってふかぶかと頭を下げた。それに続いて、夫人もまた拝むような仕草でお辞儀をする。
「本当にありがとうございました。あなたが助けてくださらなかったら、私達一家は今頃は冷たい地面の下でしょう」
「でしょう」と、母の言葉を復唱する少年の真剣な表情に、予想外の訪問者に驚いていたレイの頬が、少しだけ緩んだ。
「私達を助けたために、あなたまで土砂崩れに巻き込まれることになってしまって、本当に申し訳なかった」
「何かお礼を、と思ったのですが……、荷物を全て失ってしまったものですから……、せめてお礼の言葉だけでもと……」
「あ、いや、いいよ、気にすんなって」
跪きかねない勢いで頭を垂れる三人に、レイは慌てて両手を振った。
「皆助かったんだから、これで良かったんだよ。気にすんなって!」
レイのその言葉を聞き、少し後ろで控えていたシキの顔が、ぱあっと明るくなる。
「ありがとうございました」
「ご恩は一生忘れません」
「おにいちゃん、ありがとう!」
何度も何度もお辞儀を繰り返しながら去っていく一家を、レイは見えなくなるまで見送り続けた。愛馬の名前を小さく呟いて、これで良かったんだよな、と、自らにも言い聞かせながら。
再び玄関の扉を閉めたレイは、今度はしっかり閂もかけて、「さて」とシキを振り返った。大きく息をついてから、仕切り直しとばかりにシキに挑みかかる。不意を突かれたシキは為すすべもなく、レイによって廊下の壁に押しつけられてしまった。
「……レイ、ちょっと、ここ、玄関……」
「うるさい。お前も少しは譲歩しろ」
怒るよりも呆れるようにシキが口を開きかけた時、またしても、またしても呼び鈴の音が鳴った。
声にならない唸り声を漏らしながら、レイは拳を握り締める。そうして、応対に出ようと身を起こしたシキの両手を無理矢理押さえつけ、問答無用に唇を重ねた。
再度呼び鈴が鳴り響く。
シキが何か言いかけるたびに、レイは接吻で彼女の口を封じた。何度も鳴らされる呼び鈴を徹底的に無視し、今度こそ本懐を遂げるべく、シキの身体をまさぐり始める。
遂に呼び鈴が鳴りっ放しになった。誰だか知らないが、そいつは呼び鈴の紐を玩具か何かと勘違いしているに違いない。
「いい加減にしろよな!」
堪忍袋の緒をぶち切ったレイが怒気もあらわに扉を開ければ、今度は鍛冶屋のエイモスが満面の笑みをたたえて立っていた。
「やー、よく頑張ったな、ボウズ!」
そう言うなり、巨漢は大きな手のひらで豪快にレイの頭を撫でた。きれいにまとめられていた黒髪が、あっという間にぐしゃぐしゃに乱される。慌てて手櫛で髪を直そうとするレイに、エイモスは麻の袋を差し出した。
「それでこそ、我が友カシアの息子だ。よくやったぞ。馬は残念だったが、ご主人が無事で喜んでるさ」
袋の中には、「疾風」の鞍とあぶみが入っていた。
「町外れの楠の根元に埋葬しておいた。また花でも供えてやれ」
「……ありがとう」
じっと鞍を見つめるレイに小さく頷いてから、エイモスは今度はシキに向かって両手を合わせた。
「それと、シキちゃん、すまんかった! 頑張ったんだが、先生を止めきれんかったんだ」
そう言われて、エイモスに先生の足止めを頼んだことをシキは思い出した。
「いえ、そんな、気にしないでください。こちらこそ、無茶を頼んでしまってすみませんでした」
「でもよ、そのせいで、先生また熱出して、ぶっ倒れちまっただろ?」
本当に申し訳なさそうに眉を寄せてから、彼ははたと膝を打った。「そうだ、先生がいないんだから、ウチにご飯食いにくるかい? 飼いつけなら俺があとでしておいてやるから、今日ぐらいは二人ともゆっくりしたらいいんだ」
「おっさん!」
腹の底から絞り出したような怨嗟の籠もった声で、レイがエイモスに噛みついた。
「何だ?」
「頼むから、空気読んでくれよ……」
「は?」
「せっかくシキと二人き……」
そこまで言いかけたレイの口を、真っ赤な顔をしたシキが両手で塞ぐ。
「どうしたね?」
「なんでもないですっ」
もごもごと唸りながら暴れるレイをシキが必死で押さえ込んでいると、家の横手の方角から、何やら賑やかな声々が近づいてきた。
緩んだシキの手を振りほどいて、レイが自由を取り戻す。が、彼もまたシキと同じく、目をしばたたかせながらその場に立ち尽くす羽目になった。
近くに住む面々が、手という手に籠やら鍋やらを持ってやって来たのだ。そうして、レイが無事帰ってきたお祝いをしよう、と声を上げる。
「お昼、まだだろう? ご飯作ってきたよ!」
「うちは、パンを焼いてきたよ」
「いい葡萄酒が手に入ったんだ」
「ちょっと、あんた、それ、いつ買ったの?」
「俺の小遣いだ、ごちゃごちゃ文句言うな」
主役をそっちのけに、すっかり盛り上がっている一同を前に、遂にエイモスまでが気勢を上げた。
「よーし、俺もちょっと家に戻って、秘蔵の酒を二三本持ってきてやろう!」
こんなにも沢山の人がレイのことを心配してくれていたと知って、シキはすっかり嬉しくなった。自然とこぼれる笑みに少しだけ同情の色を交え、レイに小声で問う。
「どうする?」
「くそー! どいつもこいつも、もう、勝手にしやがれー!」
レイはそう叫んで両開きの玄関扉を全開にするのだった。