あわいを往く者

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黒の黄昏 第四話 這い寄る混沌

  
  
  
    第四話   這い寄る混沌
  
  
  
    一  風聞
  
  
 タヴァーネス家の朝食は、基本的にパンとスープである。今朝はそこに炒り卵が加わった。近所のシェスおばさんが、産み立てを差し入れてくれたからだ。
 シキは、盛りつけの終わった三人分の皿を調理台の上に並べ、満足そうに腰に手を当てた。固過ぎず、柔らか過ぎず、今日の炒り卵はかなり上出来だな、と胸を張る。
「ご機嫌じゃん」
 いきなりすぐ背後から声をかけられて、シキは思わず皿を払い落としそうになった。
「れ、れれれれレイ、いつの間に」
「さっきから。呼んでも気がつかねーんだもんな。鼻歌まで歌ってさ」
「は、鼻歌……?」
 おずおずと訊ねるシキに、レイは涼しい顔で口のを上げた。
「『たっまごー、たっまごー』って歌ってただろ」
「! いや、だって、ほら、シェスさんが卵くれたから……」
 気恥ずかしさから、シキは慌てふためいて身体の前で両手を振る。その様子にますますレイは調子に乗った。
「卵一つで幸せなこったな。いいよなー、シキは」
「…………あっそ。じゃあレイは卵無しでいいよね」
 小ばかにしたようなレイの態度に、あっさりとシキは機嫌を急降下させ、いそいそとレイの皿の中身を残り二つの皿に分け始めた。
「えっ、ちょっと待てよ、なんでそうなるんだよ」
「卵のありがたみが分からない人に食べさせる炒り卵はありません」
 本気で拗ねるシキに、本気で卵を惜しむレイ。どっちもどっちな二人に向かって、突然、これ以上はないというほど楽しそうな声が投げかけられた。
「朝から仲がいいねえ、お二人さん」
 驚く二人のすぐ横、南側の出窓の外にリーナがニヤニヤしながら立っていた。
  
  
「そこのジェン爺さんの調子が悪いってね、夜明け前に呼ばれて行ってたのよ」
 やれやれ、と椅子に座るリーナの前に、シキが熱い珈琲を注ぐ。ありがと、と顔を綻ばせながら、リーナは早速カップを傾けた。
「ジェンさんが? 大丈夫?」
「ん、それがさ、ただの二日酔い。大体、十日前にも爺さんってば、飲み過ぎ食べ過ぎで調子崩してるのよ」
「十日前っていったら……」
「そう、レイの生還を祝って、どんちゃん騒ぎしたらしいじゃない? 爺さん、もういい歳なんだから、勘弁してほしいわぁ」
 どこぞの小母さんのような手振りを披露するリーナに、不機嫌そうなレイの声がかぶさった。
「勘弁してほしいのはこっちだよ、」
 食卓の向こう端、レイは肘をつきながらこれ見よがしにあさっての方向を向く。「どうして女ってのは、集まるとこううるさいかな」
「レイ達だってよく大騒ぎしてるじゃん」
「お前らと一緒にするな」
「もう、違うってば、シキ。嫉妬よ、嫉・妬。レイごめんねー、ちょっとシキ貸してねー」
 おどけた物言いで、リーナがレイをからかう。レイが不貞腐れて鼻を鳴らしたところで、食堂の扉が開いた。
「随分賑やかだね」
「あ、先生、おはようございまーす! お邪魔してまーす」
 物怖じすることなく元気にリーナがロイに挨拶をする。そんな彼女を、レイは呆れたように、そしてシキは羨ましそうに見つめた。
  
「朝食はまだなのかい?」というロイの一言で、今朝は四人で食卓を囲むことになった。レイだけが一人つまらなさそうに、黙ってフォークで皿をつついている。
「そうだ、最近ヘンな噂があるの知ってます?」
 近況報告や他愛もない話題が一段落したところで、リーナがやにわに話を切り出した。
「ウチで世話をした旅人から聞いたんですけど、なんでも反乱を企てている連中がいるんですって」
「……反乱?」
 想像もしていなかった言葉に、シキが面食らったような表情をみせた。対して、ロイが少しだけ眉根を寄せる。
「それは、打倒帝国、ということなのかね?」
「はっきりと解らないけれど、たぶんそういうことみたいですね。その人は、サランの町外れで怪しげな連中の会話を聞いてしまって、その連中に追いかけられて、逃げきれずに、こう、背後からバッサリと」
「うわあ、」今度はシキが眉根を寄せる番だ。「で、その人、大丈夫だったの?」
「イの町のほうが近いって、ウチに担ぎ込まれたんだけど、勿論無事だよ。任せてよ」
 自信たっぷりに胸を張るリーナに、ロイが話の先を促した。
「それで、一体どういうことを聞いてしまったというのかね」
「大したことは言ってなかったらしいです。仲間を増やそう、とか、まだ時期尚早だ、とか」
 こめかみを指で押さえつつ、訥々とリーナが記憶を掘り返す。黙って聞き手に回っていたシキが、つい驚きの声を上げた。
「そんなことだけで、追いかけられてバッサリ?」
「そんなこと、どころではないよ、シキ。皇帝陛下に楯突く意思があるというだけで、立派な反逆罪だ」
 やや世事に疎いきらいのあるシキには、どうも実感が湧かないようだった。そういうものなのか、と呟いてから、彼女は更に思いついた疑問を口にした。
「でも、何故、今更反乱を起こそうなんて思うんでしょうか」
「そう、それよ! それ、私も不思議に思った。だって、大人は皆『帝国領になって良かった』って言っているもん。昔のほうが税は重かったし、移動は大変だったし、商売もやりにくかったって」
 十年前に帝国がやってくるまでは、東部一帯は三人の領主がそれぞれ統べる小さな領地に分割されていた。領主ごとに施策から度量衡まで違っていたため、広範囲に亘っての商活動は非常に難しく、また領地の境界をめぐっての争いも絶えなかったらしい。
 帝国の侵攻に対して、初めは色んな流言蜚語が飛び交ったものだったが、やがて町の大人たちは口を揃えてこう言うようになった。「帝国が豊かな生活を与えてくれた」と。「マクダレン帝国万歳」と。
 リーナの同意を得たことで勇気づけられたのか、シキが頷きながら言葉を続ける。
「だよね。前より良くなったんだったら、今更反乱なんて起こさなくても……」
「そうそう。……ま、強いて言うなら、問題はあの神像かなー」
 突然曇ったリーナの口調に、不思議そうにシキが問うた。
「神像?」
「礼拝堂にあるじゃない、アシアスの神像だよ。どうにも馴染めないなあって思ってたら、あれ、戦後に帝国軍が置いてったやつなんだってね。なんというか、もうちょっと違うイメージだったんだけどなあ……。って、ごめん。やっぱ、今の無し。聞かなかったことにして。昔はともかく、今はあれが我らが主の象徴なわけだから」
 言われてみれば、あの像は、どこか周囲から不自然に浮いているような気がする。いつぞやレイが言った、『同じアシアス信仰なのに、昔と今じゃ随分教会のあり方も変わってしまった』との言葉を思い出し、シキはそっと眉を寄せた。
「とにかく、ね、概ね皆、帝国に不満はないわけだから……」
「皆、というわけじゃないだろ?」
 それまで一人黙りこくっていたレイが、リーナの声を遮って口を開いた。
「帝国に恨みを持つ者が皆無だってことはないはずだ」
 彼らしからぬ、感情を抑えた穏やかな声が辺りに響き、その場は水を打ったように静まりかえった。
「帝国に何かを奪われたというヤツだっているはずだ。それまで権力を持っていた人間とか、……戦争で家族を失った人間とか」
 返す言葉を見つけられずに、シキもリーナも黙り込む。その様子を見かねたロイが、場を取り繕うように軽く咳払いして、レイに語りかけた。
「そうだ、不満を持つ者がいないわけではない。だが、多くの民が帝国を、皇帝を支持しているというのは間違いない事実だ」
 そして、少し軽い調子で続ける。「まあ、何事も二元論で片付けるのは現実的ではない。それに、陛下達も少しでも世の中を良くしようと頑張っているわけだから……」
「そうだ、先生、帝都で皇帝陛下のお傍にいたんですよね! 陛下達って凄くイイ男だって本当ですか?」
 沈んでしまった雰囲気をなんとかしようと考えたのだろう、リーナが必要以上に明るい声で話題を変えた。意図を汲み取ったロイもまた、彼女に調子を合わせる。
「あ、まあ、そうだな、お二人とも確かに見栄えのする方々だな」
「双子なんですよね? 若いんでしょ?」
「若いって言ったって……私と同じ歳だったはずだよ、確か」
「じゃあ、充分若いじゃないですかー。見てみたいなー。ね、シキ」
 話題を振られたものの、勢いに乗り遅れたシキは軽く溜め息をついた。
「……リーナ、良く知ってるねえ」
「シキが知らなさ過ぎなのよー」
 得意げなリーナの声を聞くなり、レイが行儀悪く鼻を鳴らした。スープを口に運びながら、顔も上げずに横槍を入れる。
「余計なことばっかり知っていてもなあ?」
「なぁんですってー?」
「リーナ、落ち着いて!」
「止めないで、シキ。今日という今日は……」
「言っとくけどな、女だからって、俺は手加減しねーぞ」
「もうっ、レイもいい加減にしてよ!」
  
 若者達の喧騒にやれやれと溜め息をついて、ロイは窓の外を見やった。
 垣根の向こう、だらだらと続く小道沿いに、菜の花が鮮やかな黄色を落としている。
『先生、帝都で皇帝陛下のお傍にいたんですよね!』
 先刻の会話がロイの脳蓋にこだまする。今は遠いあの城でも、春が来れば見事な黄色が中庭を飾っていた。薄暗い回廊の窓から眺めたその景色はまるで一枚の絵画のようで、感嘆のあまり、ロイはしばし足を止め……
「あのロイ・タヴァーネスでも、花を愛でるのか」
 冴え冴えとした声が、どこか愉快そうに背後から投げかけられた。慌てて振り返った視線の先、暗がりから現るるのは、金の髪の美しき君主。
 一瞬にして、ロイの意識は十五年前へと時を遡った。初めて皇帝の面前で跪いた、あの時へと。
  
  
 当時、ロイはまだ二十二歳だった。だが、魔術の腕前では既に都に並ぶものは無く、彼の噂を聞かない者はほとんどいなかった。曰く、天才魔術師、伝説の伝承者、そして傲慢不遜な若造、と。
 その朝、ロイは一等式服に身を包んで宮城に上がった。
 廊下をすれ違う同僚達の反応に、ロイは冷笑を口元に刻んだ。正装した自分に対して、ほぼ全員が、躊躇うことなく即座に姿勢を正して深々と頭を垂れるのだ。宮宰が「内々に、他言無用で」と耳打ちしてくれた人事は、実のところ公然の秘密という類のものだったのだろう。
 その日の朝議が始まってすぐ、宮宰が朗々とロイの名前を読み上げた。
 名を呼ばれたロイは、目を伏せたままゆっくりと前へ進み出た。居並ぶ高官達の刃のような視線の中、玉座の正面に跪く。
「ロイ・タヴァーネス、汝を宮廷魔術師長に任命する」
 怜悧な声が、簡潔に勅命をくだした。事前に宮宰に教わったとおり、ロイは「拝命いたします」と返答をした。微かに震えるその声が、まるで自分の声ではないように思えた。
 床にぬかずき、「下がれ」の言葉を待つロイの耳に衣擦れが聞こえた。次いで、微かな足音が悠然と段を降りてくる。恐慌をきたしそうになる自分を自分で必死に励ましながら、ロイはただひたすら荒い息を繰り返した。
おもてを上げよ」
 意を決して顔を上げたロイの目の前に、美しき丈夫が立っていた。金糸の髪に、絹の頬、煙水晶の瞳。彼こそが兄帝アスラ、魔術師団を率いる高位の魔術師である。燃ゆるような双眸に絡め取られ、ロイは身動きはおろか呼吸すら忘れて石のように御前に硬直した。
 やがて、アスラが静かに右手を差し出した。その手には、宮廷魔術師長の印章を刻んだ一本の官杖が握られていた。なんと兄帝手ずからそれを下賜なさるというのだろうか。ロイは強張る身体を無理矢理動かし、ぎくしゃくと両手を前に差し上げた。
 ひんやりとした感触が手のひらに触れたかと思えば、次の瞬間、ロイの手の中に、ずしり、と重さが落とされた。
「そう硬くなっていては、この先身が持たぬぞ」
 揶揄するように笑うアスラを、柔らかい声が「兄さん」とたしなめる。玉座におわすもう一人の美丈夫が、兄帝に向かって軽く首を振ってから、今度はロイに笑いかけてきた。
「兄を助けて、これからも帝国のために尽力してくださいね」
 騎士団の長でもある弟帝セイジュは、その武勇伝にそぐわぬ優しげな瞳の青年だった。まだ即位して二月ふたつきにもかかわらず、兄と同様に彼についても、その素晴らしい資質を讃える声が巷に溢れていた。
 曰く、その目は臣民を見つめ、その耳は市井の声を聞く。その名前は、名君と呼ばれるに恥じない、と。
 ロイは、胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じて、そんな自分に少し驚いた。
「これから頼んだぞ、ロイ・タヴァーネス」
 アスラの声に、ロイは慌てて官杖を両手で握り締めた。そうして自分が仕えるべきあるじに視線を戻す。
 双子の皇帝。同じ顔、同じ体、同じ声、……それなのに二人は全てにおいて対照的であった。
「謹んで拝命いたします」
 深々と頭を下げながら、ロイは背中に注がれるアスラの視線を意識せずにはおられなかった。鋭い……いや、むしろ禍々しさすら感じさせるような強い視線を……。
  
  
「それがどうした、って……、レイ、本気で言ってるの?」
 シキらしからぬ素っ頓狂な声に、ロイの心は再び現在へと引き戻された。視線を食卓へと向ければ、相変わらずの三人が、まだ何か言い合いをしている。
「何をバッカみたいに突っ張ってんのよー。気にならない?」
 呆れかえったようなリーナの様子に怯むことなく、レイが鷹揚に椅子に背もたれた。
「たかが噂だろ、ぜーんぜん気にならないね。この目で見たわけじゃないからな。それに何だよ、ふざけた名前だな。黒の導師ぃ?」
 その言葉を聞くや否や、ロイは勢い良く食卓の上に身を乗り出した。
「なんだって?」
 突然のロイの剣幕に、リーナはどぎまぎと目をしばたたかせた。
「え? あ、反乱団について他にも噂があるって話です。その一団の首領が、なんでも『黒の導師』って名乗っているらしいんです」
  
『帝国をゆるがせる忌まわしき存在がいる!』
 大広間に集う人々の間から、うねるようにざわめきが湧き上がった。それを切り裂くように、アスラの声が再度高い天井に反響する。『真の信仰を取り戻せ!』
  
「先生? どうかしましたか?」
 再び黙り込んでしまったロイに、シキが心配そうに声をかけた。
「……リーナ君、本当にそやつは『黒の導師』と言ったのかね?」
「は、はい……。そう……らしいです……」
 先ほどまでとは打って変わって厳しいロイの声に、流石のリーナも動揺を禁じえない。「って、先生、心当たりがあるんですか?」
  
  
 ロイが宮廷魔術師長の任を受けて六月むつきが経過したある朝、城中の人間が大広間に集められた。
「皆の者、良く聞け。私はまた神の声を聞いた!」
 半年前にも、兄帝は同じように末端の官吏に至るまでの全員を集め、同じようにアシアス神より受けたという啓示を発表していた。『我を唯一の神とせよ』との神の言葉を、まだ一介の宮廷魔術師に過ぎなかったロイは、同僚達とともに大広間の片隅で拝聴したのだ。
 そして今、ロイは兄帝のすぐお傍で、その神がかった演説を目の当たりにしている。
「我々は、忌まわしき存在によって、今まで真の神の姿を隠されていたのだ」
 澱みなく紡ぎ出されるその声は、時に優しく、時に激しく、聞く者の心を根底から揺さぶる。居並ぶ人々は皆、瞬く間にアスラの語りに魂を奪われていった。
「私は神の嘆きたもうを聞いた! 聖峰ガーツェに神像を祀るのだ!」
 それまでのアシアス信仰は、偶像崇拝を禁じていた。人々が祈る対象は、神の言葉そのものであり、教会は装飾的に綴られた神への賛歌で飾られていた。だがそれは、忌まわしき者――黒の導師――によって作り上げられた偽の信仰であったという。兄帝の夢枕に立ったというアシアス神は、苦渋に満ちた様子で善良なる帝国の民に助けを求めてきたとのことだった。
 突然のアスラ帝の告発は、帝国全土を震撼させた。折しも東部平定の決議がくだり、二人の皇帝は「真の信仰」を合言葉に出兵することになる。そしてこの帝国軍の侵攻は、のちに信仰復古、もしくは神像復古と記録されたのだった。
「真の信仰を取り戻すのだ!」
 寝耳に水な御触れに対する人々の戸惑いや迷いも、神像を頂いた聖峰が炎を噴き出すまでであった。東の空を赤く染める火柱に、誰もが熱狂した。
 ――取り戻せ! 真の信仰を! 唯一の絶対神、アシアスのご加護を!
  
  
「……で、黒の導師ってのは何者なんですか?」
 レイの問いに、ロイは軽くかぶりを振った。
「正確には解らない。皇帝陛下が明らかにされた啓示は、特定の人物を明確に指し示してはいなかったのでね。おそらくは暗黒魔術を使う者のことだろう、ということになったのだよ」
 皇帝の御触れが出されてからすぐ、魔術師ギルドは自ら「魔力吸収」「生命力吸収」「死者使役」などのいわゆる「暗黒魔術」を封印した。それらは、もともと好まれざる術ゆえに、忌まわしき「暗黒」の名前を冠していた。だが、術を使用する者こそほとんど存在しなかったものの、知識として習得している者は少数ながら存在した。ギルドは、暗黒魔術に関して焚書を行い、既に習得している術者に対しては、暗黒魔術を使用しないように「誓約」の術をかけた。
 邪教狩り、神像復古、暗黒魔術の封印。これらによって、アシアス神の加護はより確固なものとなったのだ。
「そういえばさっき、何かまだ気になる話があるようなことを言っていたね?」
「あ、そうなんですよ! 私が聞いた話では、その黒の導師とかいう人は黒髪なんですって」
「黒髪……?」
「ほら、先生だって気になるでしょう? なのに、コイツってば、『気にならないねー』とか何とか、拗ねちゃって……」
「なんだよ、じゃあ、俺達がそのナントカっていうアシアスの敵だというのか?」
「誰も、そんなこと、言ってないでしょ」
「二人とも、落ち着きたまえ」
 また言い争いを始めそうな二人を遮るべく、ロイは少し語気を強めた。それから、弟子をやや気遣うようにして言葉を継いだ。
「とにかく、その当時、黒髪だから黒の導師、という話はなかったよ」
 そもそも黒い髪という発想自体が誰の頭にも存在しなかったのだから。そこまで考えて、ロイははっと息を呑んだ。そうだ、黒髪に言及した人物が一人だけ存在した、と。
  
 ロイは思い出した。ギルドによる暗黒魔術封印の報告をした時の、アスラ帝のあの表情を。彼は眉間に皺を寄せて、握り締めた拳をじっと見つめていた。
「……まあ、よい。ギルド長の好きなようにやらせるがいい」
「何か問題でも?」
「別に何もない」
 明らかに何か不都合があるかのような主君の態度に、ロイの眉が曇る。だが、兄帝は視線を逸らしたまま、小さく一言を吐き出した。
「もう下がれ」
「は」
 兄帝の執務室を辞したロイが部屋の扉を閉める直前、彼の耳が微かな声を捉えた。
「……黒髪の巫子が…………」
 そう、ロイは思い出したのだ。
 棘々しく、まるで嘲り笑うがごとく兄帝が吐き捨てた、あの声を。