あわいを往く者

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黒の黄昏 第九話 求める者、求められる者

  
  
  
    三  淵源
  
  
 大きく息を吐いて、シキは二階の床に降り立った。そうして、あの部屋のある三階を、吹き抜け越しに見上げた。
  
 インシャに腕を掴まれ、魔術の波動を感じたかと思えば、次に気づいた時には、シキは長椅子の上に横たわっていた。
 頭は石のように重く、手足は棒のごとくこわばっている。目覚めたものの身動き一つできずに、シキは視線だけを部屋中に巡らせた。
 テーブルを挟んだ部屋の向こう側、天蓋つきの寝台が見える。そして、その傍らにエセルが佇んでいた。
 エセルが寝台のほうを向いているため、シキからは彼の表情を見ることができない。ただ、その背中は、酷く寂しそうに見えた。
 と、エセルがこちらを振り返った。
 咄磋にシキは目をつむり、寝たふりをする。
 規則正しい靴音が、戸口へと動いていく。
 そっと薄目をあけたシキは、エセルの顔を見て息を呑んだ。
 彼の表情は、苦悶に歪んでいた。とてもではないが、先刻暴君のごとき台詞を吐いた男の顔には見えなかった。憔悴しきったそのおもては、間違いなく深い悲しみに彩られていた。
 扉が重々しい音を立てて閉まったのち、寝台の上で何かが動いた。
 インシャだった。掛布を羽織った背中が、とても頼りなく見えた。
「副隊長……」
「お願い、しばらく独りにして……」
 インシャはシキに背を向けたまま、呟くように声を漏らす。
 返事をするのも憚られるぐらいに、彼女の声は弱弱しかった。シキは口の中で「はい」と応えると、静かに部屋をあとにした。
  
 ふぅ、と大きく溜め息を吐き出して、シキは三階から視線を引き戻した。と、ふと人の気配を感じて、廊下の先へと顔を向ける。
 暗い廊下の真ん中に、ガーランが独り佇んでいるのが見えた。
「……大丈夫か」
「……え?」
 彼は、見たこともないような難しい顔で、静かに問いかけてきた。シキはなんと返答したものか悩んで、思わず押し黙る。
「確かに変わったよな」
 ガーランは神妙な顔のまま、シキを静かに見つめた。
「もう間違いなく女の子だ。……こんなに変わるものか……」そこで少しばつが悪そうな表情を作って、彼は頭を掻き毟った。「いや、悪い。俺は根っから下品なんでな」
 ガーランの言葉を聞いて、シキは思い出した。半年前に聞いた、リーナの台詞を。
『シキ、あんた遂に〈女〉になったね――』
「あ! えええっと! 違います、違います! 何もありませんでしたから!」
 大慌てで両手を身体の前で振るシキに、ガーランは思いっきり目を丸くする。そして、信じられない、といった表情で、まず三階を指差し、次に背後にある隊長の執務室を指差し、最後にシキを指差した。
「……何も、無かった?」
「あ、はい……概ね」
 苦笑しながら、シキは一言つけ加える。確かに、何かあったわけではないが、何も無かったと言える性質のものでもない。
「おおむねぇ? なんだそりゃ。……ま、無事だったんならいいんだ、無事だったんなら」
 ガーランは、溜め息とともに肩を落とした。ややあって、もう一度険しい表情でシキに視線を合わせてくる。
「いいか、シキ。もしも次に何か言われたら、俺でもいい、他の奴でもいい、とにかく助けを求めろ」
 その一瞬、ガーランの目に苦悶の色が浮かんで、……消えた。
「……隊長の本当の目当てはお前じゃない、副隊長だ。当て馬にされてお前が傷を負うことなんかないんだからな」
 ――やはり、そうだったんだ!
 これまで自分が漠然と感じていた違和感に、明確な言葉が与えられたことによって、シキは自分の視界が一気に広がったように感じた。
「人間ってもんは、そんなに強い生き物じゃねえ。しんどいこと、つらいことが続くと、なんとかして逃げ道を作ろうとしちまう。それが、間違った方法だったとしても、だ」
 そこまでを一息に語って、ガーランは肩を落とした。
「これで楽になる、って思ってしまったら、もうだめだ。そこに嵌まり込んで、二度と出られやしない。……隊長も、副隊長も」
 ああ、そうだ。と、シキは思った。かつて自分も、レイに拒絶されるのが怖くて、ただ黙って自分の殻に閉じ籠もっていた。幾重にも予防線を張って、自分に言い訳を繰り返して、正面きって彼と向き合うことを避け続けていた。そればかりではない。現に今も、シキはレイの死を認めたくなくて、逃げている。彼と同じ髪型をし、同じ色の服を着、目に映る全てのものに彼の面影を探している……。
 シキは、大きく息を吸った。
 現実から目を背けて、距離を空け、我が身を鎧う。それは強さではなく、逃避でしか過ぎない。そのことに改めて気づかされたシキは、どこか晴れ晴れとした表情でガーランを見上げた。
「リントさん……」
「ガーランでいいさ。ああ、そうだ、シキ、ちょっと来いよ。面白いものが見られるぞ」
  
  
 一階に下り立ったガーランは、階段ホールのすぐ左側、建物の一番北に位置する応接間の扉を開けた。
 扉をくぐってすぐの所は、かつて画廊として使われていた空間らしく、幾つかの油彩が豪気にも壁に残されたままだ。部屋は向かって右手……通りに面した東側へと伸びており、入ってきた扉と同じく南側の壁にある大広間へと繋がる扉の前に、豪奢なソファが並んでいる。
 その傍で、腕を組んで壁にもたれていたラルフが、ガーランとシキの姿を認めて茶髪を揺らして駆け寄ってきた。眉間に入った皺が、彼の容貌を更に神経質そうに見せている。
「ガーラン、隊長はどうしたんだ」
「知らねえよ」
 年恰好も背格好も似通っている二人だったが、こうやって並んでみると彼らは非常に対照的だ。
「呼びに行ったんじゃないのか? じゃ、副隊長は?」
「知らね」
「知らね……って、こんなに待たせておきながら、それか?」
「知らんもんは知らん。こうやって待ってても時間の無駄だろ? サラナン先生、さっさと始めようぜ」
 その声に、ソファから一人の青年が立ち上がった。はね癖のついた、くすんだ茶色の短髪に、まるで瓶の底を切り取ったかのような丸い眼鏡。そんなに背が高くないにもかかわらず、彼は風に折れそうなぐらいにひょろ長く見えた。
「先生はやめてくださいよー」
 その声はまるで少年のように甲高かった。一度会えば二度と忘れはしないほどの、印象的な人物である。
 話についていけずに目をしばたたかせるシキを見かねたのか、ラルフが簡潔に解説を入れた。
「こちらはユール・サラナン先生。東の初等学校で、歴史を教えておられる」
「初めまして! こんな可愛い隊員さんがいるなんて、知らなかったなあ!」
「……あ、はい、初めまして……」
 握手のはずが、両手で手を掴まれ、更にぶんぶんと振りまわされて、シキは呆然と挨拶を返した。その横を通り過ぎたガーランが、大広間への扉を開けて振り返る。
「先生、待たせた上に急かすようで悪いんだが、こっちへ来てくれないか」
「了解」
 ガーランのあとをついて、ユールの姿が大広間へと消えた。ラルフに促されてシキもそのあとを追う。
「今回、僕は何をすれば良いのかな?」
「一昨日のパレードでの騒動は……」
「知ってるよ。皇帝陛下の兄のほうが襲われたんだって?」
「襲撃に使われた馬の持ち主がな、どうしても馬泥棒の顔を思い出せないらしいんだ」
「なーるほど。そこで僕の出番というわけだね」
 シキは首をひねった。一体、歴史の先生が馬泥棒とどのような関係があるというのだろうか。
「先生にはちょっとした特技があるのさ」
 シキの心を読んだかのように、ガーランが後ろを振り返った。「特技?」とオウム返しに訊くシキに、何やら得意そうな笑顔を作る。
「まあ、見てのお楽しみ、ってな」
  
  
 大広間から玄関ホールに抜ける途中にある控えの間は、現在、取り調べ室という名称を冠している。
 部屋に入ってきた面々を確認して、エンダが怪訝そうな表情を浮かべた。相棒であるラルフの傍まで近寄って、耳打ちする。
「隊長は?」
「手が離せないそうだ」
「なんだそりゃ」
 鼻を鳴らすエンダに、ラルフはちらりと横目でガーランを見やった。
「あいつがそう言うんだから、そうなんだろ」
 そうか、と頷いたエンダの口元が、にやにやと笑っているのを見咎め、今度はラルフが鼻を鳴らした。
「なんだ」
「お前、ガーランにしょっちゅう突っかかってる割に、こういうとこ素直だなあ、と思ってな」
 エンダの言葉に、ラルフの眼差しが一気に険しくなる。
「好き嫌いで他人を評価するほど、俺は馬鹿じゃない」
「それ、本人に言ってやれよ。喜ぶぞー」
「死んでもお断りだ」
 ひそひそ話をきっぱりと打ち切り、ラルフは戸口を振り返った。所在なげに佇むシキに部屋の中へ入るよう促し、油断のない眼で扉を閉める。
 尋問が、始まるのだ。
  
  
 部屋の中央には四人がけの簡素な木のテーブルと椅子が置かれていた。これは明らかに本部の調度だろう。扉に遠いほうの椅子に、少しくたびれたふうの中年の男がこちらを向いて座っていた。
「さて、先生、頼む」
 ガーランが一番手前の椅子にユールをいざない、自身は男の右手に立つ。
 自分の正面に座った、明らかに場違いなユールの姿を見て、馬借は眉根に深い皺を刻んでガーランを見上げた。何か言いたそうな馬借の肩をポンポンと叩いて、ガーランは気安い笑顔で応える。
「随分待たせてしまって、悪かったな、大将。もう少しだけ付き合ってくれないか?」
 その声を合図に、ラルフが少し離れた所にある文机についてペンを握った。エンダはさりげなく出入り口を固める。これから何が行われるのか解らないシキは、自分の仕事を見つけられずに戸惑って辺りを見まわした。
「シキ、こっちだ」
 ガーランに手招きされるがままに、シキはテーブルに近づく。ガーランは男の右辺の椅子を引き出すと、シキを座らせた。「特等席、な」
「……あのー、わし、仕事があるんで、もうそろそろ……」
「いいからいいから、もう少しだけ」
 調子良く男に笑いかけてから、ガーランは一転して厳しい目線でユールに頷きかける。瓶底眼鏡の青年はにんまりと頷き返して、両手を目の前にゆっくりと差し出した。
 馬借が、シキが、驚いてその手を見つめる。
 次の瞬間、ガーランの手がシキの視線を遮った。
  
 パチン!
  
 手を打つ音とともに一瞬だけ閃いた魔術の気配に、シキは思わず息を呑んだ。自分の知る古代ルドス魔術とは違う、もっと原始的、淵源的な術。そう、まるで精霊使いの技のような……。
「さあ、気を楽にして」
 一呼吸おいてから、ユールの柔らかい声音が静かに響いた。シキの目を覆っていたガーランの手が、そっと外される。
 シキは思わずガーランを振り仰いだ。彼女の驚きを知ってか知らずか、彼はどこか得意げに片目を閉じると、人差し指を口元に当てる。
「馬達は可愛い?」
「……はい……」
 馬借は、焦点の定まらない目でぼんやりと宙を向いたまま、訥々と返答を始めた。
「毎日お仕事大変だよね。ああ、でも今日は収穫祭だから、仕事になりそうにないか」
「……そうですな……」
「でも、お客が来る予定があるんだよね?」
「……はい……」
 刹那、室内の空気が変わったのをシキは感じた。ガーランが、エンダが、身を乗り出して男の話に耳をそばだてている。
「ああ、どうやらそのお客さんが来たようだよ」
「……ダラスのダンナ、いらっしゃいませ」
 ラルフがペンを紙に走らせる音が響く。
「どんな用事なんだっけ?」
「……馬を……ありったけ……貸してくれと……」
「盗られたってことにして?」
「……はい……」
「何に使うんだろうね?」
「……それは……聞くなと……」
「気にならない?」
「……気にはなるけども……余分に……」
「ああ、ちょっと余分にお代を貰っちゃったんだ」
「……はい……」
「で、誰にも言うなって? 他には何か頼まれた?」
「……いんや……」
 ガーランがユールに向かって大きく頷いた。
「さて、では、もう一度楽にして。そう、そう。次に僕が手を叩いたら、夢から覚めるよ」
  
 大きく息を吐いて、馬借は我に返った。何が起こったのか解らずに辺りをきょろきょろと見まわしている。
「どうしても、馬泥棒の顔は思い出せないのか?」
 とぼけた表情でガーランが馬借に尋ねる。
「……は、はぁ。歳をとると目も頭も悪くなるもんで……」
「仕方ない。もう帰っていいぞ」
  
  
 頼りなさそうな足取りで馬借が玄関を出ていくのを見送ってから、ガーランは同僚を振り返った。
「ラルフ、隊長に報告頼む」
「……え?」
「もうそろそろ執務室で暇を持て余している頃だ。俺はシキと一緒に先生を送っていく」
 突然の話の展開についていけずに、ラルフは目を白黒させながら、辛うじて一言を言い返す。
「送っていく、って、お前一人で充分じゃないのか?」
「野暮なこと言うなよ」
 言うが早いか、ガーランはシキとユールの背中をドンと押した。「じゃ、任せたぜ」
  
  
  
「元々は、古い伝承の聞き取りに使ってた技なんだけどね」
 道すがら、ユールは相変わらずの調子でシキに語り続けていた。
「お年寄りって、ほら、物忘れが激しくなるでしょ。折角の貴重な話が途中でぶつ切りだったり、違う話と合体したり……」
 さっきの型破りな尋問以来、シキは無口だった。今も、思いつめたような表情でユールが話すのをじっと見つめている。
「で、僕は考えたわけ。もしかしたら、記憶は頭の中にあるのに、それを引っ張り出せていないだけなんじゃないかな、って。それだったらまだ望みはあるわけでしょ。なんとか失われた話を聞けないかなあって思って、色々試行錯誤しているうちにね、結構上手くいくようになってきたんだよ」
 ユールの話が一段落ついたところで、同じく黙って歩いていたガーランが、ズボンのポケットに手を突っ込んだ格好のまま、肘でシキを軽く小突いた。
「……何か聞きたいことがあるんじゃないのか? 先生に」
 シキは小さく息を呑んでからガーランを見た。訳知り顔で頷くガーランに促され、意を決したようにユールの前に回り込む。
「あの、サラナン先生」
「何?」
「十年も前の記憶でも、掘り起こせるんですか?」
「できるかもしれないし、できないかもしれない」
「できるかも、しれないんですね」
「うん」
 シキは決意の光を瞳に宿して、ユールの丸眼鏡をじっと見つめた。
「先生にお願いしたいことがあります」
  
  
 ユールの家は大通りから少し坂を上がった所にあった。
 隊長には上手いこと言っとくから、と先に帰ったガーランを見送ってから、シキはユールのあとについて玄関をくぐる。
 間口の狭い石造りの家は、思いのほか奥行きがあった。母親と二人暮らしだと言っていたが、シキ達が住まうジジ夫人の家よりも広いようだ。大通りの西側という立地を考えても、結構裕福な家なのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、シキはユールのあとをついて階段をのぼっていった。
 二階の廊下の一番奥の扉の前で、ユールは振り返った。
「ちょっと散らかっているけど、気にしないでね」
 そうして踏み入ったその部屋は、それはそれは見事な乱れようだった。床面を埋め尽くさんばかりの本の山に、それをうずめんばかりの紙の束。部屋の四方は天井までの書架で覆われ、当然のごとくその棚は、並べられた書物の背表紙が読めないぐらいに手前にも本が横積みにされている。
 足の踏み場を見つけられず戸口で立ち尽くすシキを尻目に、部屋の主は流石の技で、器用に本を避けながら部屋の中央へと進んでいく。
「こっち、こっち。この椅子に腰かけてよ」
 シキは必死に足元に全神経を集中させて、ようやくその椅子のもとへと辿り着くことができた。ほっと安堵の溜め息を吐き出し、椅子の上にへたり込む。
 とにかく、出会ってからの数刻、シキはこの歴史教師に度肝を抜かれっぱなしであった。彼は一体どんな授業をしているのだろうか、生徒達は一体この変わり者の教師をどう思っているのだろうか。シキは興味深そうな眼差しで、ユールの姿を追う。
 彼は、肩からさげていた鞄を、本の山に同化しつつある机の上に置くと、そそくさとシキの傍へと戻ってきた。悪戯っ子のような笑みを頬に刻んで、シキの前に立つ。
「さーて、十年前だね。戦争が終わってすぐ、君の町に帝国軍がやって来た頃……」
 ユールの両手が前に差し出される。シキはその手をじっと注視した。
「何が君の記憶に蓋しているのか……思い出してみようか」
 手が軽く打ち鳴らされる。視界が真っ白に染まり、シキの意識はぐるりと裏返った。
  
  
  
 いそがしい、いそがしい。
 え? だって、おそうじしなきゃ。
 ううん、わたしの部屋じゃないよ。ひみつの部屋。東の森で見つけたんだ。
 ちがうちがう。どうくつなの。森の奥にあるんだよ。
 そうだよ、誰も知らない。
 そうなんだけど、だって、教会じゃ泣けないんだもん。レイがいるから。レイだって泣きたいのをガマンしているんだから、私が泣いたらこまるよ、きっと。
 うん。それで見つけたの。木や石なんかで歩きにくいし、よごれているから、そうじしに行ってるんだよ。
 そう、ないしょ。片付いたら、レイにも教えてあげるんだ。
 けっこう大きなどうくつだよ。
 うーんと、通路の奥に、部屋みたいなのがあって、そこにおいてある物もふいたりしてる。食器みたいなのとか、何かよく分からない道具みたいなのとか。あと、お母さんの像。
 黒い石でできててね、小さいけど、お母さんそっくりなんだよ! キレイにみがいてあげたら、よろこんでいるみたいだった。とこよの国から会いに来てくれたのかも、って、おもうんだ。
 うん……そう。お父さんも。レイも同じだよ。うん。でも、教会のみんなはとてもやさしいし、平気。もうだいじょうぶだよ。
  
  
 えっとね、レイはすっごくよろこんでる。きょうみないんだーって顔をしようとしてるけど、目がかがやいているもん。
 うん、見せたよ。びっくりしてる。やっぱり似てるって。ねえ、本当にお母さんが会いに来てくれたんじゃないかなあ。
  
 あれ? 何の音だろ。だれか来るみたいだ。
 ……よろいを、きた大人……。五人いる。
 こわい。
 ううん……あぶないから……そとへ……わるいかみさまを……やっつけに……?
 だめ。
 こわさないで。
 ころさないで。
 お母さんをかえして……!
 ああああああああ!
 いたい! いたい! いたい!
 うごけない!
 いたい!
 たすけて!
 たすけて、レイ!
 いたいよ、いたいよ……
 たすけて――――
  
  
  
「いやあ、凄いな。なにか読本よみほんでも読んでいるみたいな気分になったよ」
 青い顔で喘ぐように肩で息をするシキの前で、ユールはただひたすら感嘆の声を上げていた。凄い、凄い、と何度も連発したところで、ふと我に返ったのかシキの顔を見る。
「……思い出せた? 書き取ったメモ、見せようか?」
「…………いえ……、いいです。思い出しましたから……」
 それだけを必死に絞り出して、シキはもう一度大きく息をついた。
  
 ああ、そうだ。全て、私のせい、だったんだ。
 私が、洞窟を見つけなければ。
 私が、レイをあそこに連れて行かなければ。
 私が、剣の前に飛び出さなければ。
  
「悪い神様、って言っていたってことは、邪教狩りだね。斬られたようだったけど、良く無事で」
 ……薄れゆく意識の中、レイの声を聞いたような気がした。そして、身体を包む仄かに暖かい感触。そこから先は闇に閉ざされている。あの、優しい声が自分を引き戻すまでは。
  
『人の子よ、我が祝福を受け取るが良い。
 我が巫子として、我に仕えよ。我のために祈りを捧げよ。しからば、我はそなたに加護を与えよう……』
  
 異教の神の、祝福。黒髪はその証なのだろう。それは、アシアス一神教の帝国の支配のもとでは許されるはずのない存在であった。
 ――レイまで、巻き込んでしまった。私に関わったばかりに、彼は……。
 シキは、溢れる涙を袖で拭った。
 そんな彼女の様子に頓着するふうもなく、ユールは本棚に向かうと、積まれた本の隙間から、奥の棚にある一冊の本を迷いなく取り出した。
「僕は、古代の伝承を調べるのが趣味でね。まあ、神話とか伝説とかそんなものばかり読んでいるというわけなんだけど……」
 そう言いながら、器用に本の山脈を跨いで戻ってくる。
「これは、古代の神々について記された本の写しなんだ。どう? この中に、その『お母さん』っているかな?」
 椅子に座ったまま、シキは手渡された本のページをめくった。そこには、びっしりと細かい文字が書き連ねられ、その合間に、繊細な筆致でえがかれた絵が挿まれていた。
もっとも、実際に神々がそんな姿をしていたかどうかは、定かではないんだけどね。まあ、神様が世の中の人々にどう認識されていたのか、ってことだよ」
 動物の形でえがかれたものもあれば、人の形をしたものもあった。人型のものの中にも、老人から若者まで色々な姿があった。醜女もいれば、色男もいる。それら沢山の神々は、それこそ草木の一本から岩石砂粒に至るまで、あらゆるものを司っているようだった。
 ページを繰るシキの指が止まる。長い髪の美しい女神。どこか哀しそうな瞳で清廉と微笑むその姿……。
 ユールがシキの手元を覗き込んで、読み上げた。
「フォール神、豊穣の女神、かぁ」
 この神が、自分を救ってくれたのだ。あの、柔らかくて温かな声をかけてくれたのだ。シキは食い入るようにその絵に見入った。
「その本、貸したげるから、あとでじっくり読めばいいよ」
 そう言ってから、ユールは少し考え込むような素振りを見せた。「……それはいいとして、君のお母さんはこの絵にそっくりだったんだ?」
「はい」
 ユールの眉根が寄せられる。眼鏡の向こうの目が、いつになく厳しい色を浮かべていた。
「ふうん……。まさか……ね。いや、ううんと……君、何歳?」
「十九です」
「お母さんの名前、まさか、マニだなんて言わないよね」
 驚きのあまりパタンと勢い良く本を閉じて、シキはユールを見上げた。
「……マニです……。でも、どうして……」
「……この絵にそっくりなんだよ、ね?」
「はい」
「年齢は?」
「二十一歳で私を産んだそうです」
「ってことは、二十年前には二十歳だった」
「はい」
「どこで生まれ育ったか、聞いてる?」
 次々と畳みかけるように発せられる問いに、シキは夢中で応え続ける。
「いえ……父が旅先から連れ帰って来たと……魔術の修行に行って、技能は得ずに伴侶を得て来た、とからかわれていました」
 ユールは感極まった様子で両手を擦り合わせ始めた。頬を紅潮させて、半ば独り言のように呟く。
「いや、もしかしたら、でも、あれは今から二十年前のことだから、年齢も合うし……。魔術の修行ってんなら、この街に来た可能性もあるし……。それに……うん、確かに君には面影があるよ」
 そう言って、ユールはシキの眼前に身を乗り出した。対するシキは、仰け反るようにして辛うじて一言を返す。
「なんですか?」
「もしかしたら、だけどね、君ね、古代ルドス王家の末裔かもしれないよ?」