あわいを往く者

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黒の黄昏 第十五話 夜を司り、死をもたらす者

  
  
  
    五  誘惑
  
  
「いない?」
「はい。インシャ・アラハンと仰られる女性は、この城においでになっておられません」
 皇帝の城の第三城壁、「緑の門」の詰所に通されたエセルは、困惑の表情で宮宰を見返した。
「そんなはずはない。確かに彼女はここに来て、ここに滞在しているはずだ。そう、三日前から」
「いえ、新年の式典にお出ましになられる方々もまだ到着されておらず、現在この城に滞在中のお客様は誰もおられません。入出者の名簿にも記載はございませんし、サベイジ様のお間違えではないかと……」
「間違えてなどおらぬ。彼女はセイジュ陛下に召されて、三日前にここに来たのだ。生憎と私はその場に居合わせなかったが、なんなら証言できる者を連れてこようか?」
「そうは仰られても……現に居られないのは居られないと申し上げることしか……」
 慇懃な宮宰の態度は、苛立ちと不安をエセルの中にかき立てる。遂にエセルは椅子を蹴って立ち上がった。
「もう良い! 他に誰か話の通じる者はおらぬのか!」
「お待ちください! サベイジ様!」
 自分の振る舞いが他人の目にどんなに不遜に映ろうが、嫌な予感を払拭するのが先だ。そうおのれに言い訳しながら、エセルは部屋を出た。
 ――それに、こうやって騒ぎにでもなれば、事の詳細を知る誰かに出くわすことができるかもしれない。
「お待ちください! 誰か、誰か、お客様をお止めして!」
 背後で喚く宮宰の声を撒きに、ばらばらと人が集まってくる。
 剣を構えた三人の近衛兵が前方に立ち塞がり、さしものエセルもそこで一旦歩みを止めた。
 と、そこへ投げかけられる、涼やかな声。
「何事かね」
 とんでもない大物を釣り上げてしまった。内心酷く慌てながらもゆうるりと振り返ったエセルの視線の先、回廊から姿を現したのは……、
「へ、陛下……!」
 人々が一斉に最敬礼をする。エセルは頭の中で次の一手を模索し続けながら、一同に倣ってアスラに対してこうべを垂れた。
  
  
  
「エセル・サベイジ、君には直接礼を言わねばと思っていたところなのだ。君の活躍のお陰で、国家転覆を図る賊の野望もついえた。これで枕を高くして眠ることができるというものだ」
「鷲の塔」の一室に、兄帝手ずから案内されたエセルは、たった二人きりで兄帝と相見あいまみえるという栄誉に浴することとなった。
 なんと畏れ多いことか。そう身体を震わせる一方で、エセルは心の中で小首をかしげていた。一体何故陛下は人払いをなさったのだろうか。何故、謁見の間でなく、控えの間をお使いになるのだろうか、と。
 ほどなく、ここが兄帝の「家」とも言うべき城であることに思い至り、エセルは無理矢理納得することにした。天下の皇帝陛下といえども、おのが庭では存外身軽にあらせられるのだろう、と。
「お褒めに預かり、ありがたき幸せ」
 床に膝をつき、かしこまるエセルの面前、優雅な物腰でアスラが長椅子に座した。
「随分と賑やかしていたようだが……、彼女に、会いに来たのかね」
 そう言って、アスラは両手を軽く打ち鳴らした。部屋の奥の扉が開き、小柄な影が静かに現れる。
 無礼を忘れて、エセルは声を上げた。
「インシャ!」
「どうしても手が空かない弟の代わりに、客人の相手をしていたところだったのだよ。いや、彼女は実に魅力的な女性だね」
 緊張しているのか、やや反応の鈍い瞳を伏せ、インシャは深々とお辞儀をした。
 なんだ。やはり役人達の間違いだったのだ。インシャは城にいたではないか。安堵の溜め息を漏らしたところで、エセルはアスラの口元に苦笑いが浮かんでいることに気がついた。
 もしや、先ほどの騒ぎが陛下の逆鱗に触れてしまったのでは。人払いは、自分を叱責せんがためのものであったのか、そう思い当たって、エセルの血の気が一気に引いていく。
 だが、そんなエセルの心配をよそに、アスラは改めてにっこりと破顔すると、驚くべき台詞を吐き出した。
「それにしても、このタイミングで君が現れるとは、まさしく僥倖であった。エセル・サベイジ、五日後の新年の式典に是非出席してもらいたい。どうだね、それまで我が城に逗留してはもらえないだろうか」
 思いも寄らない申し出に、エセルの思考は一瞬真っ白になった。見失いかけたおのれを慌ててかき集め、なんとか言葉を搾り出す。
「……身に余る光栄でございます。ですが、私は陛下のお招きに応じることのできるような立場ではございません」
 アスラが怪訝そうに問いかけた。
「というと?」
「父が……、いえ、兄が黙ってはいないでしょう。私は嫡男ではございませぬ故に。それに、友人を外に待たせておりますので」
 流石に「勘当された」と言うのは憚られて、エセルは伏せたおもてに密かに苦笑を刻んだ。
「そうかね。君が一緒なら、彼女も心強かろうと思ったのだが」
 驚きの表情で顔を上げたエセルに、アスラが至極当然とばかりに言葉を投げた。
「まだ弟との謁見が叶っておらぬのだ。彼女が城にとどまるのは至当だろう?」
「え、いや、しかし」
 自分が礼を忘れて身を起こしていることにも気づかずに、エセルはひたすらインシャを見つめ続けた。
「彼女が気になるかね?」
「あ、いえ、その……」
「だから、君も城に、と申しておるのだ」
「ですが……」
 ――何かがおかしい。
 インシャの処遇、アスラの言動、そう、この人目を避けんばかりの謁見にしても、言葉に言い表すことができないが、何か、どこかに、齟齬がある。
 彫像のように微動だにしないインシャの姿に、エセルの胸の奥がざわめき始める……。
「そんなに、父君の顔色を伺わなくともよかろうものを……。まあ、良い。頑固なところが君の長所たるのだろう。」
 大きな溜め息とともに、アスラが長椅子に背もたれた。そうして鷹揚に背後のインシャを振り返る。
「たとえひと目だけでも、これで随分彼女も心安らいだようだからな。慣れない場所ゆえに無理もなかろうが……、こうも頑なに自身を鎧われてはな……。げに、ヒトというものは……」
 最後のほうは、独白に近い呟きだった。意味を判じかねて、エセルは黙って次の言葉を待つ。
「さて、弟と行き違ってはいけない。そろそろ部屋に戻るとしようか」
 再びアスラの手が優雅にひらめいた。インシャは、深く礼をして入ってきた時と同じ扉へ消えていく。無言のままに。
 ――やはり、変だ。いくら御前で萎縮しているのだとしても、彼女の様子はあまりにも虚ろ過ぎる。
 エセルの心臓が、早鐘のように鳴り響き始めた。
 ――何かがおかしい。何がおかしいのか、考えろ。考えなければ。そして、一刻も早くこの手に彼女を……。
 思索に割り込んできた突然の呼び鈴の音に、弾かれたようにエセルの背筋が伸びた。
 一呼吸おいて、エセルの背後の扉が重々しく開かれ、先刻の宮宰が姿を現した。お呼びでしょうか、とかしこまった声で最敬礼をする。
 手にしたハンドベルを脇机に置いて、アスラが立ち上がった。
「ソリス、サベイジ家のご三男を新年祝賀会の出席者に追加だ」
「分かりました」
 呆然とするエセルに、アスラは悪戯っぽい笑みを投げかけた。
「我が城に滞在はできなくとも、それぐらいは構わないだろう?」
 更に、有無を言わせぬ声で、言葉を継ぐ。「預かり物はその時にお返しするとしよう。それまでは、ゆっくりと羽を休めたまえ」
 その言葉が真に意味するところを理解して、エセルの喉が大きく上下した。
 アスラの瞳が、満足そうに細められる。
「それでは五日後にまた会おう。楽しみにしているぞ」
 緋色のマントをひるがえして、アスラは奥の扉へと立ち去っていった。
  
  
  
「隊長!」
 魂の抜けたような面持ちで城の門を抜けたエセルに、先刻の鞘当てなどなかったかのように、ガーランが真っ直ぐ駆け寄ってきた。そうして、肩で息をしながら、いた様子で口を開く。
「インシャは!?」
「新年の式典に来い、だそうだ」
「だから、インシャは!?」
「まだ城に留まるそうだ」
「は? そりゃ一体、どういうことですか?」
「それは私が訊きたい」
「とにかく、インシャには会えたんですね? 無事だったんですね?」
 心安い顔を目の当たりにしたせいか、ようやくエセルの思考が巡り始めた。頭の周りにかかっていた霞が、ゆっくりと晴れていく。
 何故、入城者の記録に残っていないのか。
 ――それは、滞在客として公にされていないということだ。
 何故、三日間も城にとどめられているのか。
 ――城の外で待機させられない理由があるということか。
 エセルの前に単身で現れた、国の最高権力者。二人っきりの謁見。インシャの姿を他の誰にも見せることなく、エセルを黙らせる。あれは、そのための人払いだったのだ。
 そして、あの最後の台詞は、間違いなく事実上の通告だった。新年の式典まではインシャは返さない、と。それまで余計な騒ぎを起こすな、と……。ともに取り込めないのならば、行動を封じるまで。そういうことだったのだろう。
 ――一体、陛下達は何を考えている? 何を隠している?
 そこまで思量し始めたところで、ふと、エセルの脳裏に先ほどのガーランの言葉が浮かび上がってきた。
「まて、ガーラン。何だ、その『無事』とは?」
 エセルの表情が、いつもの、屈強な兵隊を擁する指揮者のものに切り替わる。
 それを受けて、ガーランが意味ありげな視線を傍らの路地の奥へと投げた。
  
  
  
 インシャはぼんやりと大きな姿見の前に立っていた。
 彼女の背丈よりも高い鏡には白いワンピースを着た女の姿が映っている。洗濯をいたします、と使用人が彼女の衣類を全て持って行ってしまったため、彼女は代わりに渡されたこの服に袖を通したところなのだ。
 襟ぐりの大きくあいた胸元に、風の通る脚周り、薄衣がふんわりと優しく身体を包む感触が酷く頼りなく思え、インシャは落ち着くことができなかった。
 ――こんな格好をあの人が見たら、一体何て言うだろう。
 エセルのことを考えた途端に、彼女の胸の奥が燃えるように熱くなった。
 ――あの人が、いた。
 もしかして、追いかけてきてくれたんだろうか。いや、まさか。でも、ひょっとしたら。エセルとの面会を終えて以来、期待と恐れが交互にインシャを翻弄していた。もっとも、湯浴みだの着替えだのと次から次へと降りかかる出来事に、つい先ほどまでインシャは落ち着いて思い悩むどころではなかったのだが。
 ――でも……。
 本当に彼が自分のことを追いかけてきてくれたのだとしても、それで一体どうしようというのだろうか。インシャはそっと眉間に皺を寄せた。まさか、何らかの手段で勅命を取り消し、インシャをルドスへ連れ帰ろうというのだろうか。
 ――私の力を必要としている人がいる、というのに。
 癒やし手の居ない村がどんなに不自由か、インシャは知っている。医者や薬師にも病や傷を癒すことができるとはいえ、より積極的に神の加護を必要とする場合、彼らだけではあまりにも心もとない。そもそも、癒やし手の居ないような小さな集落には、医者も薬師も存在しないだろう。
 今でも、インシャは、十年前のあの時のことを手に取るように思い出すことができる。必死で神に祈り続ける彼女の目の前で、温かだった大きな手が、力を失って敷布の上にぱたりと落ちたあの瞬間のことを。癒やし手さえ村に居れば、ならば父も母も……。
 インシャは大きく溜め息をついた。
 自分は、ルドスには帰れない。まさか公爵家の人間が、しがない癒やし手とともに異郷の寒村へ赴くはずもないだろうから、たとえエセルが自分のことを追いかけてきたのだとしても、それは全く意味のない行為なのだ……。
  
 ふと、もしかしたら夢だったんじゃないだろうか、とインシャは思った。あの人のことを想うあまり、自分は勝手に都合の良い幻を見ていたのではないだろうか、と。いや、もしかしたら今も夢を見ているのではないだろうか。ぼんやりと靄に包まれたような思考も、ふんわりと地に足のつかない感覚も、ならば全て説明がつく。
 そっと軽く頭を振ってから、インシャは今日あった出来事について記憶を辿り始めた。
  
 この城にとめ置かれて何事も無く三日が過ぎた今日の昼前、弟帝が部屋をノックされ……
  
 ――弟帝は来なかった。現れたのは兄帝だ。
  
 そう、部屋に兄帝がやってこられた……
 あれ? 兄帝が……? 一体何のためにやってこられたのだったろうか……?
  
 ――兄帝が現れ、エセル・サベイジが面会に来たことを告げた。
  
 ああ、そうだった。兄帝陛下が、私を呼びに来てくださったんだ。
『エセル・サベイジが君に会いたいそうです』
 そう陛下が仰った時、私は嬉しくて泣きそうになったんだ……。
  
 ……ということは、やはり夢ではなかったということなのだろうか。インシャはそっと眉をひそめた。ならば、あの人は、これからどうするつもりなのだろうか、と。私は一体どうしたらいいのだろうか、と。
 インシャの思考が再び堂々巡りを始めたその時、鏡の中、彼女の背後で影が動いた。
  
  
 振り返ろうにも、何故か身体が思うように反応しない。為すすべもなくインシャは目の前の姿見を凝視し続けた。
 その影は、見たこともないような優しい光を目に浮かべて、そっとインシャの首筋に顔を寄せてきた。
「やっぱり、陛下にお世話になることにしたよ」
 エセルはそう言って、彼女のうなじに口づけた。甘い痺れが一気にインシャの全身を駆け巡る。
「隊長……? でも……その、お立場が……」
「いいんだ」
「でも……、隊長……」
「会いたかった」
 ――私も、です。
 その一言を、インシャは心の中で呟いた。
「陛下が、君のことを『魅力的な女性』と言った時、嫉妬で気が変になるかと思ったぞ」
 耳たぶにかかる息の熱さに、インシャの体温がみるみる上がっていく。
「城に上がったのは、三日前だと聞いた。その間に何かあったのか、とな」
「そんなこと……」
 インシャの身体を満たした熱は、やがて彼女の脳髄をも侵し始めた。視界が狭まり、どんどん頭に霞がかかってくる。少しでも気を抜けば、そのままその場に崩れ落ちてしまいそうで、インシャは膝に力を入れた。
「ああ、解ってるさ。あの麗しき弟帝陛下よりも、この私のほうが良いのだろう?」
 くつくつと心底愉快そうに、エセルが笑う。「ヒトというものは、げに不思議なものだ」
「隊長……?」
 曖昧さを増す思考の片隅に、針で刺したような小さな痛みが生じた。インシャは必死に気力を奮い立たせると、言葉の意味をエセルに問い質そうとした。
 だが、インシャが口を開くよりも早く、頬にエセルの指が触れた。
 優しく、だが有無を言わさず、インシャは後ろを向かされた。
 そうして落とされる、甘い……甘い口づけ。
「インシャ、……結婚しよう」
 その一瞬、インシャの脳裏を影がよぎった。
  
 何か……
 何か、違う。
  
 頭のどこかに棘が刺さっているような不快感。
 インシャはそっと眉をひそめた。
 そんな彼女の様子に気づいたふうもなく、エセルは上機嫌で微笑みかけてくる。
「新年祝賀の宴で皆にお披露目といこう」
  
 違う……。
 でも、何が、違うの?
  
「君のこの髪に似合う、素敵なドレスを用意させよう」
「たい、ちょう……」
 手足が自由にならないばかりか、もう、発声すらままならない。すがりつくようにエセルを見上げれば、彼の腕がインシャを優しく包み込んだ。
 エセルの体温が、更にインシャの思考を侵食する。
 棘が、溶かされていく。
 いや……、麻痺させられていく。
  
 そうだ、何も違わない。
 この声、この瞳、この髪……。この身体も、全て、あの人の……。
  
 インシャは、陶然と目を閉じた。
 それを見つめるエセルの瞳が銀色に光る。
「インシャ、お前はもう、私のものだ…………」
 そして、今度こそインシャの意識は、昏い海の底にゆっくりと沈んでいった。
 深く……、深く。