あわいを往く者

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黒の黄昏 第十六話 昼を司り、命をもたらす者

  
  
  
    二  黒髪
  
  
 全てが、時間さえもが静止してしまったようだった。
  
 チリン、と小さな音がして、銀色の輪が大理石の床の上に転がる。
「偽装」の指輪を捨て去ったレイが、漆黒の髪に戻って立っていた。先ほど放った蹴りのためか、少し息を荒くして、黒の礼服の喉元を緩める。
 ロイをはさんだ反対側では、シキが黄金色のかつらを脱ぎ去るところだった。白い肌に漆黒の髪が鮮やかに映える。身体をゆったりと包み込む萌黄色のドレスが、短めの髪と相まって、どこか幼さを感じさせていた。
  
 硬直する人々の陰で、エセルは満足そうに口角を上げた。
 二人を随行させるに際して、ガーランはともかくインシャの名を使うことについては、思いきりが必要だった。だが、余計な工作に費やせる時間も、自由になる手駒も無い以上は仕方がない。そういうわけで、エセルは賭けに出ることにしたのだ。本物のインシャの存在が役人達に秘匿されていることを逆に利用して。
 案の定、同伴者追加の手続きは滞りなく行われた。インシャが宿の荷物に通行手形を残しておいてくれていたのは、幸いだった。そうでなければ、さしものエセルも、もっと強引な手段を使わなければならなくなったに違いない。
 宴の始まる直前に、エセルのもとへとインシャを連れてきた使用人も、彼女の名前を知らされていないようだった。もっとも、その時既に偽者達は人波の中へと紛れてしまっていて、たとえ話がこじれたとしても、エセルは知らぬ存ぜぬで白を切るつもり満々だったのだが。
  
  
  
 五日前の謁見のあと、エセルとガーランは、シキとレイの二人と安宿の一室で小さなテーブルを囲んでいた。
 隊長が城へ向かったすぐあとに、シキが声をかけてきたんだ、とガーランは語った。死んだと思っていた人間が目の前に現れたことで、彼は心底驚いたらしい。
「……どうやってあの崩落から逃れたのだ?」
 エセルもまた、幽霊でも見るかのような目つきで、シキに問うた。
「奥の神殿の中に逃げ込んだんです。造りがかなり頑丈そうだったし、あの巨大な空間を『盾』が作り出したのなら、術の発動の中心部分が一番天井が高い――つまりは天井が薄い――と思ったので」
 神殿の特殊な石組みが、魔術による探知を妨げていたのだろう、シキはそう言って何か専門的な言葉を幾らか口にしたが、魔術に関心のないエセルはそれを軽く聞き流して、質問を続ける。
「カラントの王子と従者も、無事なんだな?」
「従者?」と、これ見よがしにふき出す連れを小声でたしなめ、シキが大きく頷いた。
「はい、無事です」
「……さきの宮廷魔術師長は……?」
「老師は……」
 シキが目を伏せた。その仕草の示す意味を読み取って、エセルは知らずテーブルの上に置いた両手を硬く握り締めた。
 しばしののちに拳を開き、エセルは一番訊きたかった問いを口にした。
「それよりも、インシャのことだ。『無事』というのは、一体どういう意味だ」
 エセルの視線を受けたガーランが、少し困ったような表情を作った。
「あ、いや、俺もまだ充分に理解したわけじゃ……。悪い、シキ、もう一度、今度は隊長に教えてやってくれないか」
 その言葉を受けて、シキが淡々とこれまでの出来事を説明し始めた。
  
 シキが、サンが宮城から逃亡するに至った原因について言及したところで、エセルは真っ青な顔で椅子を蹴って立ち上がった。そのまま血相を変えて部屋を飛び出そうとするのを、ガーランが羽交い締めにして引き止める。
「放せ、ガーラン! 早く行かねば、彼女が……インシャが……!」
「落ち着け、隊長! 早まるな!」
「これが落ち着いていられるか!」
「何か手立てがあるのか!?」
「そんなもの、あるわけなかろう!」
 いい加減にしろ、とガーランが叫びかけたところで、凛とした声が背後から二人に投げかけられた。
「副隊長は、きっと大丈夫です」
 その声に、エセルが辛うじて我を取り戻す。
「……何故だ。何故そう言いきれる」
「隊長が、城で副隊長と会ったから、です」
 エセルが大人しくなったのを確認して、ガーランが腕をほどく。二人は神妙な面持ちで再びテーブルについた。
「どうやら、皇帝は、癒やし手狩りについてあまり公にしたくないと考えておられるようなのです。現に、先月に帝都に召喚されたイの町の司祭は、未だここ帝都で健在です。謁見の際にタヴァーネス先生に偶然出会ったことで命拾いしたのでしょう。
 ですから、隊長が乗り込まれたことによって、副隊長の安全も当分は確保されたと思います」
 大きな溜め息が、男二人の口から漏れた。
 それに、現状では確かに手出しのしようがないのだ。先刻、自分の前に立ち塞がった近衛兵達の身のこなしを思い出し、エセルは奥歯を噛み締めた。とりあえずインシャの無事が確認できた以上は、様子を窺うしかないのだろう。
 落ち着きを取り戻したかつての上司と同僚に向かって、シキは、アシアスの神殿で見聞きした事を全て、順を追って説明し始めた。
 ガーツェの噴火が不自然なものであるということ、名も無い術者によって神殿が守られたということ、肉体が滅んでもなお存在しつづけていた黒の導師、その彼が語った古代ルドス王国最後の王の物語、古代ルドス魔術の真実。……そして、の者について。
「あの崩落のあとに、私達は神殿の奥の祭壇で沢山の木簡を見つけました」
 シキは、語り続ける。
「それらの木簡は、どれも命を司るアシアスの加護を求めて、奉納されたものでした。家族の健康を祈念するふだの中、自分が仕えているあるじについて記されたものも幾つかあり、そのうちの一つにはこう書いてありました」
 息を継ぐシキに代わって、レイがその続きを引き取った。
「マクダレン家の繁栄を祈って。一粒種のセイジュ皇子の健やかな成長を願って」
  
  
  
 宙を舞った眼鏡が、少し離れた床に落ち、跳ねる。
 砕け散ったレンズに、キラキラと無数の光が宿る。
  
 突如、ロイの身体を雷にも似た衝撃が打った。
 激しい痛みが、四肢を駆け巡る。
 込み上げる吐き気。
 脂汗を流しながら、ロイは床に膝をついた。激しい動悸に襲われて喘ぐような呼吸を繰り返していると、ふと、視界が暗くなった。
 ――なんだ?
 突然辺りが翳ったことに驚いて、ロイは荒い息のまま顔を上げた。
 室内には冬の陽光が眩いばかりにさんさんと差し込んでいる。それにもかかわらず、眼前が昏く霞んでいた。
 霞んで……、いや、違う。
 影が……揺れている。目の前で。
  
「お前のその髪、その容姿なら、上客がつくぞ。どうだ、客をとってみないか?」
 遠い昔の記憶の中、下品そうな男の顔がロイの眼前に迫ってくる。彼はスラムの元締めで……。
「冗談! オレはそんなの真っ平ごめんだからな!」
「ま、そうだろうが……、しかしお前のその……は、ちょっとしたもんだぞ」
「勝手に言ってろ!」
  
 違う、影ではない。視界の一番手前で揺れているのは…………
  
 元締めが手を伸ばしてくる。ねっとりと自分の髪を撫でまわす指。湧き起こる嫌悪感を押し殺しながら、少年のロイは必死で平静を装う。
 その手が、ふ、と消え失せる。
 ロイが驚いて目を開ければ、母親と山賊たちの血を吸った石舞台から、黒い霧が染み出してくるところだった。それはゆっくりとひと所に集まって、アシアスの神像と瓜二つの人型をなした。
「すごいじゃないか、この歳でこんな術を起動させることができるとは」
 それが誰であろうかなど、考える余裕は微塵もなかった。母の身体を抱き起こしながら、ロイは必死で救いを求める。
「お願いです……、かあさんを……、母さんを助けて!」
「ああ、そうか、気の毒に。でも、お陰で我は晴れて自由の身だ。感謝するよ」
 あまりにも冷酷な笑みに、ロイは一瞬にして奈落に突き落とされた。
 そうして、気がつく。その禍々しい気配に。
「……く、来るな!」
 ロイの絶叫に、再び風切り音が湧き起こる。少年の手に握られた古めかしい杖から、見えない刃が、人型に向かって放たれた。
「風刃」によって切り刻まれたにもかかわらず、人型はそのままロイのほうへ近づいてくる。
「無駄だよ。それより……」
 影に彩られた指が、ロイの眼前に伸びてくる。「二発も撃てる『力』があるのか。気に入ったぞ」
 顎をすくい上げられて、ロイは上を向かされた。
「力が欲しい、と言っていたな。……お前、我がものになれ」
 氷のように冷たい唇が、ロイの唇に重ねられる。
「さすれば、力を授けよう。その代わり――」
  
 その声が養父の声と重なった。
「――その代わり、強くなれ。どんなに大きなものでも呑み込めるほどに。そして――」
  
 その顔がアスラの顔を形作る。
「――そして、我が依り代となれ…………!」
  
「なるほど。『偽装』の指輪か。気がつかなかったな、お前が我と同じ方術を使っていたとは……」
 沈黙を破るのは、アスラの澄んだ声。その視線はシキに注がれている。まったき黒髪に戻った、シキの姿に。
 同じ方術。
 床に転がる「偽装」の指輪。
 顔を巡らせば、レンズが砕け智が外れた眼鏡がロイの視界に飛び込んでくる。養父が彼にくれた、二人の絆だという眼鏡は、レイの蹴りと落下の衝撃を受けて見るも無残に破壊されてしまっていた。
  
 ロイの脳裏に再び浮かび上がる記憶。
 元締めが手を伸ばしてくる。ねっとりと自分の髪を撫でまわす指。
 そうしながら、彼は、うっとりとこう呟いたのだ。
『ああ。こんなに綺麗な黒髪、見たことない』と。
  
  
 アスラは、悠然と一歩を踏み出した。
「私を裏切ってまで、彼女を守りたかったのか」
 そして、また一歩。
 その圧倒的な力の気配に、シキもレイも思わず数歩あとずさる。
 更にもう一歩を進んで、アスラは歩みを止めた。
 ウルスとサン、シキ、レイ、そしてアスラ。床にくずおれるロイを中心に、四つの頂点が菱形を成した。
「ロイ、君ほどの頭脳の持ち主が、このような判断をくだすとはな。ヒトというものは、げに面白い」
 衝撃の波が去り、ようやく静まり始めた呼吸とともに、ロイが顔を上げる。緩やかに波打つ漆黒の髪を揺らして。
 禍々しき存在は、息を呑むほどに美しい笑みを浮かべて、おのが補佐官を見下ろしていた。
「元々才能が有ったんだろうがな、その強大な魔力は私が与えた。アスラの名の下に、大いなる祝福を。我が愛しい黒髪の巫子、ロイ・タヴァーネス!」
  
「よもや、このような事態になろうとはな。こういう結末は想定外であったが……悪くない」
 凍てつくほどの静けさの中、時折風が揺らす窓ガラスの立てる音だけが、彼の言葉に微かに相槌を打つ。
「そうだな。一番の計算違いは……ザラシュ・ライアン、あ奴が十五年前に我から逃れ、生き延びたことにあるのかもしれぬ」
 ふと、窓の外を見やってから、アスラは、どこか楽しそうに言葉を継いだ。「しかし、あ奴でなければ、ロイ、お前をこれほどまでの術者には育て上げられなかったであろう。諸刃の剣とはこのことか」
 次にアスラは、ロイの向こう側に立つウルスに視線を投げた。
「亡国の王子よ。貴様の言葉には一つ誤りがある」
 凄みを増したその声を聞いて、ウルスは思わず半足を引いた。
「神と巫子はお互いに影響しあう、と言ったな」
 さしものウルスも、この凄まじいまでのアスラの気配には圧倒されるばかりなのだろう。言葉もなく、ただ顔を背けまいとするだけで精一杯の様子だ。
「愚かな。この私が、ヒトごときに何を及ぼされると言うのか。この私が、彼奴きゃつを動かしたのだ。間違うな」
「そうでしょうか」
 凛とした声が、空を切る。シキは、精一杯胸を張って、朗々と言葉を紡ぎ出た。
「『我々は、ただ在るべき存在だ。それ以上でもそれ以下でもない。自らに仕えし者の言葉を聞き、ただその者を守るのみ』……貴方を封じた者が聞いたというアシアスの言葉です。
 貴方が支配者であることを望んだ時点で、既に貴方は神ではなくなっているのではないですか。何故なら、それは……間違いなく、我々の側の発想だからです」
 その一瞬、アスラの気配が緩んだ。
「……彼奴きゃつは貪欲な人間だった。この大陸のみならず、世界を手中に収めようと望んでいた。私はその願いに答えたに過ぎない」
「なら、別に呪文書なんて広める必要なかったんじゃねえか」
 シキのあとを継ぎ、今度はレイが口を開く。大きく息を吸い、ゆっくりと、噛み締めるようにして言葉を紡ぐ。
「いや、そもそも、ルドス王国はもう存在しないんだぜ?」
  
 永遠とも思える刹那が過ぎる。
 アスラが、ふ、と笑った。それから大仰な動作で振り上げた右手をおのれの胸に当てる。
「いいだろう。認めよう、これは私の意志だ。私自身が、世界の支配者を望んだのだ!」
  
「あの時、ヴァネーン郊外の我が神殿の跡地にて流された血と、ロイ、お前の力が、私を封印から解き放った」
 悄然と床に座り込むロイを見下ろしながら、アスラは語り始めた。
「驚いたよ。年端も行かぬ子供が、道具を介してとはいえ高位の術を発動させ、そればかりか、この私を現世うつしよに引き戻したのだからな」
 そこで言葉を切ると、アスラはゆっくりと右手を掲げた。天窓からさんさんと降り注ぐ日の光に手を翳す。
もっとも、まだ完全ではない……私の大部分はまだあの石の下だ……」
 何かを懐かしむような眼差しで、アスラは視線をロイに戻した。
「私が封を完全に解くためには……私自身の力を自由に使うためには、器が必要だ。ヒトの姿を形作るのは楽な仕事ではない。私を容れる大きな器が必要なのだ……」
「だから、あなたは、私を……」
 絶望の眼差しを上げるロイを、アスラの首肯が打ちのめす。
「器が出来上がるまで、私はこの国の最高権力者に身をやつすことにした。『異教』を排除し、『神像』を使って、私は祈りの力を全てこの身に集め、復活の時を待ち続けたのだ。微かにこの世に残るあ奴の気配を消すことは叶わなかったが、忌々しいあの神殿は岩の中へと封じることができたしな」
 そこでアスラの口元が歪んだ。
「だが、どうやら私は、器を頑丈に作り過ぎたらしい。大きさも深さも申し分ないのだが、お前は私の手を振り払って去っていってしまった。やっと手元に戻ってきたかと思えば……余計なものに心を奪われている始末だ」
 そう言って、アスラは忌々しそうな視線をシキに投げた。「もっと早くに彼女が巫子だと気づいておれば、賊の手になど渡さなかったものを」
「まさか、あなたが黒の導師の正体を明らかになさらなかったのは……」
「予備の器になり得るかもしれぬ者どもを、わざわざ殺させることはないだろう? もっとも、真の信仰を失いつつある現代において、どれだけの巫子がこの世に残っているのか知れたものではなかったがな。あ奴の気配が強くなることでもあれば話は別だが、幸いそのようなこともなかったしな」
 二月ふたつき前のルドスで聞いた、慈悲深い言葉が全てまやかしであったと知り、ロイは思わず膝に爪を立てた。あの時、アスラはロイにこう言ったのだ。無意味な「人狩り」を避けるため、無辜の民のいのちを守るため、黒の導師について具体的な言及を避けたのだ、と。
「お前が我が元を去った十年間、代わりは無いものかと色々試してみたのだが、ルドス王の末裔どもは話にならなかった。高位の術師ならば、とも思ったが、それもことごとく無駄に終わった」
「やはり、俺が鷲の櫓塔で見た死体は、陛下――いや、貴様の仕業か!」
 怒りに身を打ち震わせて、サンが咆哮する。その剣幕を歯牙にもかけずに、アスラは優雅に微笑みで返した。
「癒やし手どもを集めるのは、簡単に大義名分が見つかったものだが……、魔術師の場合はそうはいかぬのが残念だったよ」
 眩い明かりに満たされる謁見の大広間。だが、そこには闇よりも昏い気色けしきが広がっていた。おのが存在すら不確かに思えるこの空間で、誰もが恐ろしい予感に打ち震えていた。
 そうだ。……終末は、近い、と。
「さて、ザラシュ・ライアンはもうこの世にはおらぬ。そこな二人の未熟な巫子には、とうてい我を封じることなど叶わぬだろう? 諦めて…………もう一度皆で夢を見るが良い」
 アスラの足元に、脱ぎ捨てられた手袋が落ちる。
 細くしなやかな指が、楽器を奏でるかのごとく空中にひらめいた。
  
  
  
 安宿の一室。テーブルに身を乗り出したエセルが、神妙な顔でシキ達に問いかける。
「勝算はあるのか?」
「憑依などではなく、神そのものがヒトとして具現化しているのならば、それ相応の武器ならば傷つけることが可能のはずです」
  
  
  
 悠然と両目を閉じ、何事かを呟きかけたアスラの動きが止まる。
 怪訝そうに瞼を開いたの者は、眼前を横切る黒い影を追って、視線だけを微かに走らせた。
  
 レイが、シキの傍らに駆け寄っていく。
 シキが、両手を自分の首の後ろにまわす。
 萌黄色のドレスの足元。ゴトリ、と鈍い金属音が大理石の床を響かせた。
 すかさず身を屈めたレイが、それを拾い上げる。
  
  
  
「相応の武器?」
 エセルの問いに、シキは静かに頷いた。
「そう、例えば……、今は失われた先人の遺物、古の魔道の武器ならば」
  
  
  
 レイが、拾い上げたユエトの大剣を握り、大きく振りかぶる。
 サンが、地を蹴る。
「行けえ! サン!」
 レイが放り投げた剣を、サンの左手がしっかりと掴み取った。