あわいを往く者

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黒の黄昏 第十六話 昼を司り、命をもたらす者

  
  
  
    四  破戒
  
  
「……シキ、……シキってば!」
「え?」
 眩いほどの夕日が差し込む部屋で、シキは目を覚ました。ぼやけて霞む視界の中央に、リーナの顔が大写しになる。
 一瞬、シキは自分がどこにいるのか解らなかった。混乱する頭を振りながら、辺りをゆっくりと見まわしてみる。
「随分とお疲れみたいだけど……、今日はもう終わりにしとこっか」
 夕焼けに染まりつつある、教会の治療院の奥まった一室、机の上に広げられた帳面にはリーナの講義が記録されていた。最後の三行ほどの字が大いに乱れているのを見て、リーナがにやりと笑う。
「『居眠りは、校庭三周!』……なーんてね」
「……ごめん、リーナ」
 ――ああ、そうだ。リーナに癒やしの術を習いに来ているんだったっけ。
 まだ覚醒しきっていない頭で、シキはぼんやりと思考をめぐらせた。
「いいよ、いいよ。どうせ悪いのはアイツだから」
「あいつ?」
 ぽかんとした表情で問い返すシキに向かって、リーナが大袈裟に天を仰いでみせた。
「しっかりしてよ、シキ! アイツってったら、レイのことに決まってるじゃん。
 今度会ったら文句言ってやろうって思ってるのに、そういう時に限って、全っ然、出っくわさないのよねー」
「文句?」
「そーよぉ。毎晩毎晩、犬猫じゃあるまいし、ちょっとはシキをゆっくり寝かしてあげなさいよ、って、教育的指導をさー」
 絶句したまま真っ赤に頬を染めるシキに向かって、冗談だってば、とリーナが豪快に笑った。
  
  
「あーあぁ。本当に、なんだか嘘のように平和よねえ」
 治療院の門のところで、シキを見送りながらリーナが大きく伸びをした。その手の甲に薄っすらと残った古代ルドス文字を認め、シキの鼓動が跳ね上がる。
 ――そうか。夢じゃなかったんだ。
 溜め息とともに口の中で呟けば、すかさずリーナの突っ込みが入った。
「何をいつまでも寝ぼけてるのよ、シキ。あんたがの者をやっつけたんじゃない」
 仄かに霞む記憶を辿れば、断片的な映像が次々と現れてくる。
 神像を投げ捨てるウルス、兵と対峙するサン、眼前で散ずる「炎撃」の呪文。そして、髪の色を漆黒に変じたロイの姿。
 ――先生が黒髪の巫子だったなんて、思いもしなかった。
 そう、自らの依り代を造り上げるためだけに、の者はロイに祝福を授けたのだ。それは、ある意味、恐るべき「呪い」と言えるかもしれない。
 ――そうして、サンがの者を斬り、でもそれは幻で。副隊長に憑依していた「それ」が私に向かって飛びかかってきて……。
「そう。それで、シキが気合での者を弾き飛ばして、勢い余っての者が消滅して、めでたしめでたし、万々歳。沢山報奨金を貰って、帰って来たんじゃない。ここ、イの町に」
「そ、そうだったね」
 頭の奥底に何か違和感を覚えながらも、シキは慌てて頷いた。
「うーん、やっぱりシキってば、疲れ過ぎてるんじゃない? やっぱ、これは真剣にレイのヤツに説教する必要が……」
「ちょ、ちょっと、リーナ、やめてよー」
「何の騒ぎ?」
 突然上空から降ってきた声に驚いて振り返ると、そこには、人の良い笑顔を浮かべてサンが立っていた。
「あ、今日は早いじゃん」
「ま、ね。あ、シキ帰るとこ? 送っていこうか?」
 シキが辞退するよりも早く、リーナが満面の笑みを浮かべてサンの脇腹を肘で突っついた。
「邪魔しちゃ悪いよ。ほら」
「あ、そっか」
 二人の視線を辿って振り返ると、川沿いの道をこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
「あれ? レイ? なんでこんなところに……」
「あんたを迎えに来たに決まってるじゃない! さ、早く行ってやりなよ」
 リーナに勢いよく背中を押され、シキは二、三歩前へとよろめいた。
 と、レイが向こうで手を振った。本当に迎えにきてくれたんだ、と、シキの胸の奥が熱くなる。「送るよ」なんて言葉がすっと出てくるサンのことを、ちょっぴり羨ましく思った直後だっただけに、むず痒いような嬉しさが彼女の中にこみ上げてきた。
「じゃ、リーナ、また来週頼むね」
「オッケー、お安いご用よ」
 幸せそうに寄り添って立つ二人に大きく手を振って、シキは町外れの教会をあとにした。
  
  
「どういう風の吹き回し?」
 夕焼けに染まる帰り道。照れくさいやら、嬉しいやら、恥ずかしいやらで、ついシキの口調がつっけんどんになる。
「んだよ、迎えに来ちゃ駄目だったのかよ」
「ううん。……ありがとう」
 どうしようもなく頬が緩んでしまうのを自覚して、思わず俯いたシキの右手に、そっと温かいものが触れた。
 レイの大きな手のひらが、シキの手をすっぽりと包み込む。その温もりに、シキの胸は幸福感で一杯になった。
 何も思い悩むことなく、レイと手を繋いでともに歩く。長い間、夢にまでみた情景が、今ようやく現実となったのだ……。
「長かったな」
「うん、長かったね」
 そう、もう思い悩む必要はない。全ては終わったのだ。
 シキはレイと、リーナはサンと故郷に帰ってきた。
 偉大なる大魔術師は、帝都に残ってセイジュ帝の手助けをするのだという。
 ルドス警備隊の面々はルドスに戻り、ウルスはカラントの王となって北方へと旅立っていった。
 申し分のない、平穏な日々が訪れたのだ。まさしく……夢のような、穏やかな毎日が。
  
 夕暮れ時にもかかわらず、往来に人影は見当たらなかった。シキはほんの少しだけ勇気を出して、レイの腕にそっともたれかかった。
 小さく息を呑む気配ののち、繋いでいた手がほどかれ、気がつけばシキはレイに肩を抱かれていた。
 熱の籠もった瞳が、シキを射抜く。
 ゆっくりと近づいてくるレイの顔を、唇を、シキはすんでのところで押しとどめた。
「ちょ、ちょっとレイ」
「んだよ、誰も見てねーだろ」
「そういう問題じゃないって!」
 流されかけた自分が少し恥ずかしくて、シキは少し大げさに首を横に振った。
「……家までおあずけかよ」
 レイが、すっかり気落ちした様子で肩を落とす。
「あたりまえでしょ? こんな往来で何考えてるのよ。それに、家に帰っても、先にご飯の準備しなきゃ。あと……」
「もう夕飯はできてるぜ」
「えっ」
 驚きのあまり、シキの歩みが止まった。レイは、夕食の準備を終わらせてから、シキのことを迎えにきてくれたのだ。そんな負担をかけるつもりなんてなかったのに、と、申し訳なく思っていると、レイが思わせぶりな瞳で、シキの顔を覗き込んできた。
「だからさ、帰ったらすぐに……」
「レーイー」
「……わーったよ」
 しばし真顔で睨み合って、それから二人は、同時に声を上げて笑い出した。
  
  
 ようやく家に辿りついたところで、シキはふと耳をそばだてた。玄関の鍵をレイに任せて、小走りで厩へと向かう。
 厩に近づくにつれ、馬の足音や鳴き声が、はっきりと聞こえてきた。シキは信じられない気持ちで、厩の戸を開け放つ。
 馬房には、艶やかな二頭の若馬が繋がれていた。
 呆然と立ち尽くすシキの背後、レイが呆れ返ったような声を出した。
「何驚いてんだよ。陛下がくださった『疾走』と『疾風』だろ」
 そうだ、この二頭の馬に荷物を積んで、はるばる帝都から帰ってきたんだった。シキは大きく深呼吸をして、じゃれあう二頭の馬を改めて見やる。頭にかかる靄を振り払おうと勢いよく首を振れば、若干気持ちがすっきりしたような気がした。
 その一方で、水底の泥が舞い上がるように、もやもやとしたものが新たにシキの胸の奥に湧き上がってきた。
 シキにとって「疾風」とは、レイとともに他人の命を守り、崖崩れの犠牲になったあの馬のことだった。「疾走」とは、もう使うことはないからと、ルドスで後ろ髪を引かれる思いで手放したあの馬のことだった。
 得体の知れぬ不安感をむりやり呑みくだして、シキは厩を見回した。
 綺麗に掃除された床には、新しい寝藁が敷かれている。水桶の中には、充分な水。
「もしかして、飼いつけもやってくれたんだ」
「おうよ」
「大変だったでしょ? ごめんね」
 レイ一人に家事を押しつけてしまったことを、シキは激しく後悔していた。せめて、もう少し早くリーナの講義を切り上げて帰っておれば。ならば、馬の世話ぐらいは手伝えただろうに、と。
「気にすんな。俺が好きでやってんだから」屈託のない調子で、レイが胸を張った。「今まで、散々シキに迷惑ばかりかけてたからな。これぐらい、どうってことないさ」
 その翳りのない表情に、シキは救われる思いがした。でも、だからといって、レイの厚意に甘えるばかりではいけないだろう。
「迷惑だなんて、そんなことないよ。だから、明日は私が当番をするね」
 本当は当番制ではなく、二人で役割分担したほうが効率がいいと思うんだけど。そう言いかけたシキを、レイが大きな動作で押しとどめた。
「いいって、いいって。俺は、シキに好きなことをしてもらいたいんだ。魔術の研究でも、癒やしの術の修行でも、なんでも好きなことを、な」
「え、でも、レイだってやりたいことがあるわけだし……」
 シキは、シンガツェでの光景を思い出していた。老師と熱心に「真の魔術」について語らうレイの姿を。普段は「勉強なんてかったるい」などと文句を言っているくせに、なんだかんだ言って結局レイも筋金入りの研究者なのだ。
「だから、俺はやりたいことをやってる、って言ってるだろ」
「え?」
 言葉の意味を問いただす間もなく、シキはレイに抱きすくめられた。
「俺は、お前が幸せだったら、それでいいんだ」
 レイの腕に力が込められ、シキの顔が彼の喉元に押しつけられる。頬から伝わるレイの体温に、シキの心臓が跳ね上がった。
「まあ、どうしてもお礼がしたい、って言うんなら……さ……」
「ちょ、ちょっと待って……!」
 シキは無我夢中でレイの手を振りほどいた。
 ――何だろう、この、違和感は。
 高鳴る胸の鼓動とは別に、胸の奥底には依然として薄暗い靄が立ち込めている。いや、そればかりか、それはすっかり肥大し、今やシキの息を詰まらせんばかりだ。
 眉根を寄せ、身を固くするシキの目の前、レイが大きな溜め息をついた。
「そこまで言うのなら、いっそ使用人を雇おうか」
「え?」
「報奨金もたっぷり貰ったことだしな。それだったら、問題ないだろ?」
 ――何かが違う。
 シキの背筋を、冷たいものがつたっていった。
「どうした?」
 怪訝そうな顔で、レイが一歩近づく。
 ――確かめなければ。
 シキは唇を強く引き結ぶと、踵を返し、厩を飛び出した。
  
 母屋に駆け込んだシキは、その勢いのまま真っ直ぐ図書室へ向かった。
 扉をあけるのももどかしく、部屋の中へ飛び込む。
 次の瞬間、シキは息を呑んだ。
  
 見える範囲の本棚全てに、隙間なく書物が詰まっていた。
 ――やっぱり、違う。
 口の中に溢れてきた唾を嚥下して、シキは部屋の奥へと歩みを進めた。何列も並ぶ本棚を、端から順に見てまわる。
 蔵書の殆どは、ルドスへ、そして更に帝都へ、運び出されたはずだった。なのに、今、この図書室は、在りし日の姿のまま、一冊の欠けもなく、智慧の結晶を誇っている。馬と同じく、一度失われたのち、再びここに戻されたのだとしても、まさかこれだけの書物を、師が手放すはずがない。
  
 ウルスとともに北方へ赴くはずだったサン。
 老師の遺志を継ごう、と言っていたレイ。
 新たに馬を手に入れたとしても、レイも、シキも、きっと前の馬と同じ名前をつけることはないだろう。
 そして何より、夕刻にもかかわらずひとけのない町。
  
 ――違う、のだ。
 一体何が起こっているのか。シキは唇を噛んだ。早鐘を打つ胸を手で押さえ、とにかく落ち着こうと深呼吸を繰り返す、その背後に何者かが立った。
 気配を感じたシキが振り返るよりも早く、レイの手が彼女の肩を鷲掴みにした。そのまま、力任せにシキを本棚に押しつける。
「お前、本っ当に、素直じゃねーよな」
 レイを押しのけようとするも、逆に両手首を掴まれて、シキは自由を奪われてしまった。
「雑事に煩わされずに、研究に打ち込みたいんだろ? なのに、なんで躊躇うかな」
 信じられないほどの強い力で、レイはシキの両手首を一つに束ねる。そうして、そのまま、いともたやすく左手一つでシキの頭上に押さえ込む。
「帰り道でも、本当はキスしたかったくせに。誰も見てないってのに、何を気にしてるんだ?」
 手が駄目なら、とシキが考えると同時に、腿の間にレイが割り込んできた。身体をぴったりと密着させられてしまっては、もはや足も使えない。
「素直になれよ」
 熱く燃え盛る瞳が、シキの目を覗き込んできた。熱を持った眼差しは、シキの眼底を、更にその奥を、容赦なく焼き尽くす。そのまま身体の芯まで炙られて、シキの体温が一気に上昇した。
「……あなたは、だれ?」
 あまりの熱気にのぼせそうになりながらも、シキは必死で言葉を絞り出す。
「俺? 俺は、レイさ」
「ちがう。レイじゃない」
 喘ぐように息を継げば、レイが、ぞっとするほど優しい笑顔を作った。
「レイじゃない? じゃ、?」
 レイの囁きが、ゆっくりとシキの首筋を下りていく。
「ロイが良いなら、代わってやるよ?」
 熱い吐息が、胸元にかかる。
「一人じゃ物足りないのなら、サンでも呼んでこようか?」
 シキは愕然と目を見開いた。
 ――そうだ、まだ、何も終わってなんかいなかったんだ。
 あの時、自分に襲いかかってきた、あの忌まわしき力の気配。恐ろしいまでの圧迫感に押しつぶされ、目の前が一瞬にして真っ暗になった。きっと、そのまま意識を失ってしまったのだろう。
 ――すると、これは……、夢?
 自分は、今、夢を見ているのだろうか?
  
 いや、違う。夢を見させられている…………?
  
 茫然自失となったシキに、レイの唇が重ねられた。
 先刻とは段違いに莫大な熱量が、シキの身体に注ぎ込まれる。衝撃に打ちのめされ、混乱に陥っていた思考が、問答無用に鎮められていく。
 口づけが深まるほどに、シキの意識は曖昧さを増した。鈍く痺れるような感覚が全身を侵食し、視界が狭まる。
「俺と一緒にここで暮らそう」
 優しい声が、シキの輪郭を溶かしていく。シキを、生温い澱みの中へ引きずり込んでいく。
  
 そう。
 れいと、いっしょに。
  
「いつまでも、永遠に、二人っきりで……」
  
 うん。いっしょに、いよう。
  
「シキ、好きだ……」
  
 わたしも……、れいのことが……。
  
 うっとりと目をつむったシキの瞼の裏に、一筋の閃光が走り抜けた。
 シキはそっと目をあけた。
 そうして、レイの瞳を真っ向から見つめ返した。
 レイ、が、たじろぐ。
 シキは大きく息を吸い込んだ。
「私、レイのことが好き。……大好き!」
  
  
 その刹那、眩い光が炸裂した。
 シキが、レイが、光に呑み込まれていく。
 床も、柱も、本棚も、全てが溶けるようにして消え失せた。驚きのあまりに声を出すこともできずに、シキはただ硬直する。上も下もない、輝くばかりの広大な空間に、小さくぽつん、と浮かんで。
「これはお前が望んだ夢だ。なのに、何故自らそれを拒む!」
 どこかで聞いたことのある低い男の声が、わんわんと辺りに響き渡る。
 驚くシキの目の前に、すうっと人型が現れた。
「先生も」
 シキの姿を成した「それ」は、シキの声でそう言った。それから、崩れるようにして形を変える。
「インシャも」
 今度はエセルの姿で、エセルの声で。そして再び、変貌を遂げる。
「お前も」
 最後にレイを形作り、「それ」は苦渋の表情を見せた。
「どうして、抗う? どうして、抗うことができるのだ!」
 シキは、大きく息を吸うと、迷いのない瞳を「レイ」に向けた。
「だって、あなたはレイじゃないもの」
 両手を強く握り締め、シキは言葉を継いだ。
「私の望んだ夢、っていっても、それは結局、夢でしかない。夢に出てくるレイは、本物のレイじゃないもの。そんなレイと一緒にいても、楽かもしれないけれど、楽しくない!」
 シキの叫びに、「レイ」の眉が大きく跳ね上がる。
「異なことを! 我を受け入れさえすれば、全てがお前の思うままだというのに……。何故だ! 何故、夢を見ない? 何故、おのれの思い通りにならぬ他人に執着するのだ!」
「他人なんだから、思い通りにならなくって当たり前じゃない!」
 彼女の脳裏に、レイの顔が思い浮かんだ。怒った顔、不貞腐れた顔、でもそんな表情の下で、ずっとシキのことを心配して気にかけてくれていた、恋人の顔が。
 それを皮切りに、次々と皆の顔がシキの頭をよぎっていった。想い人を、そして自らを傷つけ続けていたエセルの顔、諦めで身を縛りつけたインシャの顔、寂しそうに笑うロイ、涙を拭うリーナ、……走馬灯のように現れては消える映像の最後、どこか切なそうに吐き出されたガーランの台詞がシキの口をついて出る。
「人間っていうのは、そんなに強い生き物じゃない。つらいことだって一杯あるよ。逃げてしまいたくなることだって、……いや、逃げてたことだって沢山あった。でも、それじゃあ、いつまでたっても私は、『私』になれない」
 凄惨な笑顔を浮かべて、「レイ」が吼える。
「おのれを偽って何が『私』か!」
「そうじゃない。人前で強がることも含めて、全部揃ってが『私』だということなんだよ。他の誰かがいてこそ、私は『私』になれるんだ。自分の中の、自分が作った、自分に都合の良い、そんな虚しい世界の支配者になんか、私はなりたくない!」
「何故、そこまでしておのれを鎧う必要がある? 取り繕うな! ありのままを曝け出せ! 溺れてしまえ!」
  
 力を込めて、シキは「レイ」を見据えた。自分の全てを、全ての想いを言葉に乗せて、彼にぶつけるべく。
「嫌だ」
「何故!」
「それは、私達が――――」
  
  
  
 インシャを解放したの者が、シキの中へと入り込んだ次の瞬間、レイは彼女の身体を力いっぱい背後から抱きすくめた。呪文の詠唱を警戒して、そのままシキの両手をも押さえ込む。詮ないことだろうと思いながらも。
「シキ! しっかりしろ! 大丈夫か!」
 数度身体を震わしたあと、シキは彫像のように動かなくなった。
 再び訪れる静寂の中、レイはひたすらシキを抱きしめ続ける。シキを乗っ取ろうとする邪なる存在を、自分の体温で溶かそうとでもいうかのごとく。
 完全なる、手詰まりだった。
 ユエトの大剣では、シキの身体は傷つけられても、憑依したの者には何の効果も及ぼせないだろう。
 そして、前回の封印に使われた「封神」の術は用をなさない。
 どうすれば良い?
 何ができる?
 答えを見出すことができずに、レイはひたすらシキを胸に抱く。
 サンは、腰の剣の柄を固く握り締めて立ち尽くすのみ。
 リーナは力無く床にくずおれ、ロイはその場に棒立ちになっている。
 ウルスも、セイジュも、残る人々はただひたすら、祈りを込めてシキを、レイを見つめ続けた。
  
  
 どれぐらいの時が経ったのだろうか。
 ほんの瞬きの間の出来事だったかもしれない。はたまた、数刻が経過していたかもしれない。時間の感覚は勿論、身体の感覚すら定かではないこの凍りついた空間に、聞き憶えのある声が突如として響き渡った。
  
「何故だ! 何故、夢を見ない? 何故、おのれの思い通りにならぬ他人に執着するのだ!」
  
 水を打ったように静まり返る謁見の間に、アスラの叫び声が何度も反響する。それと同時に、シキの身体が激しく暴れ始めた。
 何が起こっているのか解らないままに、レイはシキをかきいだく腕に力を込める。その腕の中で、華奢な身体が何度も弾けた。およそ信じられないほどの凄まじい力で、レイの身体を大きく跳ね上げる。
 もはや、レイには、両手をふりほどかれないようにするだけが精一杯だった。必死で歯を食いしばり、シキの身体にしがみつく。
 再び、アスラの声がシキの喉から迸った。地の底から響くかのような、昏い声が。
  
「おのれを偽って何が『私』か!」
  
 戦っているんだ。
 レイは唐突に理解した。
  
「何故、そこまでしておのれを鎧う必要がある? 取り繕うな! ありのままを曝け出せ! 溺れてしまえ!」
  
 シキが、戦っている。
 たった独りで。この細い身体の中で。
  
「何故!」
  
 シキが戦っているのなら、絶望してはいけない。
 レイは大きく息を吸った。足掻くシキの身体をしっかりと抱きとめて、腹に力を込める。
「それは、俺達が――――『人間』だからだ」
 その一瞬、シキの身体は硬直したように動きを止めた。小さく息をついてから、レイは言葉を継ぐ。
「解ったか? 解ったらさっさとシキを放しやがれ!」
  
  
 雷にも似た閃光が、シキの身体を発端として周囲に走った。
 沈黙を守っていた人々が、口々に悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
 鼻の奥に突き刺さるような刺激臭と、肉の焦げる臭いが、一瞬にして辺りに充満した。
 鈍い音が響いて、レイの身体が床に倒れ伏す。幽かな白煙を、身体中からのぼしながら。
  
 ゆらり、とシキが一歩を進んだ。
  
 その後ろ姿を霞む目で見送りながら、レイは遠ざかろうとする意識を必死で掴み直した。
 もう、誰にも止められないのだろうか。
 自分なら、と、思っていた。自分になら、もしかしたらシキは危害を加えることができないかもしれない、と。だが、レイの一瞬の隙をついて、彼女は「雷撃」を詠唱した。微塵も躊躇うことなく。
 シキは、最後の最後での者に呑み込まれてしまったのか。
 身体のあちこちを蝕む痛みに顔をしかめながら、レイは歯軋りをした。どだい、空気のように掴みどころのない存在を、生身の人間が相手にしようというところに無理があるのだ、と。
『化け物には、化け物で対抗すればいい』
 ウルスの声がレイの脳裏に響く。
 ――うるさい、俺は化け物なんかじゃねえ。人間様だ。勝てっこない。化け物って言うのなら、あの、黒の導師とかいう死霊だか何だかの首に縄でもかけて連れて来いってんだ。
 さっさと一人で満足して、勝手に常世へ行ってしまいやがって! 心の中でそう毒づいたレイの瞼の裏、薄紅色のドレス姿が浮かんでくる。豪奢なスカートの裾をひるがえしながら、手の甲に刻んだ紅い文字を振りかざし、呪文を詠唱するリーナの姿が。
 ――いや、常世じゃなかった。黒の導師はあの口煩い奴の中に残っているんだったか。
 今回の作戦において、彼女の存在は全くの想定外だった。サンの一撃が無効だったと解り、次いでリーナが姿を現したあの一瞬、レイは心の底から天啓を思ったものだった。
 ――ぬか喜びさせやがって。
 思わず苦笑を浮かべたレイの頭に、あの神殿での風景が唐突に蘇る。
  
『なんかね、色々頭ン中に残ってんのよ。「封神」の術ってのかな? あと、――』
  
 その刹那、レイは小さく息を呑んだ。心の奥深くに大切に仕舞い込まれていた、あの女神の囁き声を思い出して。
 強い光が、再びその瞳に戻ってくる。残る力を振り絞って、レイは僅かに身を起こした。
「ロイ……!」
 レイが投げつけたその声にロイが反応するよりも早く、シキが険しい表情でレイを振り返る。
 ――だ。
 レイは口角を吊り上げた。
  
『人の子よ。我が祝福を受け取るが良い。
 我が巫子として、我に仕えよ。我のために祈りを捧げよ。しからば、我はそなたに加護を与えよう。
 神と巫子は、彼にして此。魂にして魄。この瞬間より、そなたは我のものであり、我はそなたのものでもある。
 そう、そなたの全ては我のものとなる。そのかわりに、そなたは――』
  
「ロイ! 俺達じゃ、駄目なんだ。あんたが……、あんたが奴を滅ぼしてくれ!」
 シキの指がひらめき、再びレイを雷が襲う。
 辛うじて直撃は免れたものの、今度こそレイは意識を失って崩れ落ちた。女神の言葉を胸にいだきながら。
  
『――そなたは、我を滅することができる』
  
  
  
 目の前で展開する事態を、ロイは為すすべもなく、ただ立ち尽くして見つめていた。
  
 何度も夢にみた、あの山道。母と山賊達の血を吸って蘇った黒い影。
 奴は、おのれの身体を手に入れるためだけに、ロイを絡め取った。
 孤児として泥水を啜りながら生き延びた日々も、級友達の蔑みと妬みの視線の中で過ごした日々も、血も涙も無い虐殺者として戦いに身を投じたあの日々も、全てが奴のために強いられたものだったのだ……!
 ロイは、視界の端で揺れる黒い影に目をとめた。
 この、黒髪。
 黒髪の巫子などという言葉に翻弄されたおのれの、なんと滑稽だったことか。他でもない、この自分こそが、黒髪で、巫子であったのだから。あの、皇帝をかたどっていた、夢のように美しくも残酷な神の。
 ならば、あの日の奴の嘲笑は、あの言葉は、全てこの自分に向けられたものだったのだ。何も知らずに同属を狩ろうとした挙げ句、見当違いの施策を報告した、おのが巫子に向かって。無知蒙昧なる愚か者よ、と、まるで嘲り笑うがごとく……。
  
  
 二度目の雷撃を放ったシキが、ゆっくりとロイのほうへ振り向いた。
 そして、輝かんばかりに眩しい笑顔をこぼれさせる。
「先生、私と一緒に、暮らしましょう」
  
 まだ幼い指が紡ぎ出す、魔術の光。
 それは、彷徨える果てに見つけた光だった。
  
「先生のことが、好きなんです」
  
 そうだ、最初は投影であり、再生だった。
 彼らに、いや、レイに自分を重ね合わせて、自分をもう一度遣り直そうとしたのだ。
  
「ずっと、ずっと、先生だけを愛してます」
  
 良き父親であり、良き教師であるように。
 自分が望んで止まなかったものを彼らに与えられるように。
  
「だから……私を抱きしめて……」
  
 それは、決して彼らのためを思ってのことではなかった。
 レイを通しておのれを擬似的に構築し直そうという、それは間違いなく自分のための行為だった。
 そして、ただ花を眺めているだけでは我慢ができなくなり……、
 そして……。
  
 結局、どこまでも似ているのだ。
 ロイは拳を握り締め、シキの目を真っ向から見つめ返した。
 そう、この、忌々しい我があるじと自分は、どこまでも同根なのだ。他人を省みることもなく、おのれの欲に忠実に生きる。自分にその能力さえあれば、躊躇うこともなくレイを乗っ取って、全てをおのれのほしいままにしたはずだ。
 自嘲の笑みを浮かべたロイに、シキが妖艶な微笑を返してきた。艶めかしく潤む彼女の瞳に、共犯者の顔が映る。
 シキが、ロイの胸元にしなだれかかってきた。そして、上目遣いで囁く。
「私を、愛していただけますか?」
 ロイの喉が、大きく上下した。シキをじっと見つめたまま、ゆっくりと彼女を抱きしめる。
 シキの両手がロイの頬に伸ばされた。そのまま、細い指が首筋へと滑り、彼女はロイの首にその腕をゆっくりと絡ませた。
「先生、キスして……」
 シキの腕が、ぐい、とロイを引き寄せる。爪先立つ彼女の震える唇が、ロイの唇に重なろうとした。
  
「断る」
  
 愕然と目を見開くシキの身体を捕らえたまま、ロイは口元を歪ませた。
「ふざけるな。もう沢山だ」
「貴様、おのあるじを退けようと言うのか!」
あるじだと? お前がいつ私のあるじとなった!?」
「貴様に多大な加護を与える守護神を、必要ないと言うのか!」
「加護だと? 笑わせるな」
 髪を振り乱して暴れ始めたシキを、ロイは今一度力強く抱え直す。
 レイの最後の言葉が頭の中で渦を巻いていた。
 ――そうだ。神を滅ぼせるのは、その巫子だけなのだ。
 おのれを守るべき存在を、おのれ自身で否定する。そうすることのみが、「神」と呼ばれる存在を滅することができるのだ。
  
 なるほど、最後の最後で矜持だけは守らせてくれるのか。
 ロイは大きく息を吸うと、ただ一言を呟いた。
  
 滅びよ、と。