あわいを往く者

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黒の黄昏 番外編 キス

  
  
  
   キス
  
  
  
 捌けども捌けども一向に減らぬ書類の山を前に、警備隊隊長エセル・サベイジはとうとうへそを曲げた。ペンを放り出した手で、褐色の髪を苛々とかき乱す。
「署名なぞ、誰にだってできるだろう」
「中身の検分も全て隊長にお任せしてしまっても良いのですが」
 事も無げな声とともに、副隊長インシャ・アラハンが更なる書類を手に執務机の前に立った。
 ぐうの音も出ず、エセルは椅子に深々と身を沈めた。けみすべき事項を彼女が仕分けてくれているからこそ、自分の仕事が簡単な確認と署名だけですんでいるということを、理解しているからだ。
 だが、それでもエセルはぼやかずにはいられなかった。
「少し休憩を、だな」
「先ほど訓練場から戻ってこられたばかりではありませんか」
 剣術の手合わせでは、気分転換はできても、心身を休めることはできない。私は憩いが欲しいのだ、と息を吐き出してから、エセルは上目遣いでインシャを見上げた。
「そうだな、君がキスの一つでもしてくれたら、やる気が出るかもしれないな」
 有能な副官は碧眼を丸く見開き、それからこれ見よがしに肩を落とした。
 もとより、生真面目な彼女が就業中にこんなことを承諾するとは思っていない。エセルは口元に苦笑を刻むと、姿勢を正して再びペンを手にした。
 と、次の瞬間、インシャが机の向こうからすっと手を伸ばしてきた。華奢な指が、まるで壊れ物を扱うかのように優しくエセルの手をとったかと思えば、蜂蜜色の髪が視界に飛び込んでくる。
 そうして、手の甲に柔らかいものが触れた。
「……これで、やる気を出していただけますか」
 しばし言葉もなく硬直していたエセルだったが、ふう、と大きく息をついたのち、思いっきり不貞腐れてみせる。
「これだけでは、足りぬ」
「足りないと言われましても、やる気を出していただくのは、右手だけで充分ですから」
「いやしかし、疲れているのは右手だけではないぞ。頭も目も、そう、口だって……」
「それでは、書類の検分から全て隊長にお任せいたしましょうか」
「……」
 しぶしぶ抵抗を諦めて、それでもまだ未練がましく、エセルはインシャをねめつけた。
「あとで、右手だけでは物足りない、と言わせてやるからな」
「今は、仕事に集中なさってください」
 にべもない言いざまに、溜め息一つ、エセルは再び仕事の山に分け入っていった。
  
  
  
〈 了 〉