撞着
第一章 転轍
旧制中学時代に「一中」の名を冠していた楢坂高校。校区一番の進学校であるこの高校に無事合格した有馬 志紀 は、一人構内をうろついていて、ミズナラの古木を見つめる男と出会った。
彼の名は、多賀根 朗 。ここ楢坂高校で化学を担当している教諭だった。
合格発表の日、朗は一人、ひとけの無い校舎の外れに立ち、酷く倦んだ目でミズナラの木を見上げていた。親にしろ教師にしろ、志紀の知っている「大人」は、これまでこんな顔を彼女に見せたことがなかった。だから志紀はとても驚いたのだ。そして、興味を持った。ところが実際に授業が始まり、教師と生徒として接した朗は、自信と知性に溢れた、まごうことなき「大人」だった。朗の授業は、単なる受験対策に終始するようなものではなかった。何故そうなるのか、何故そうするのか、何故そうしなければならないのか、学問の礎ともいえる部分に、朗は皆を引っ張っていこうとしていた。礼節には厳しく、さりとて生徒を見くだすことなく、適度な距離を保ち、時には遊び心も忘れずに。そうやって教鞭をふるう朗の姿に、志紀はみるみる「教師・多賀根朗」の信奉者となった。
名もなき教諭と、通りすがりの生徒。
部活の顧問と、担当する部の部員。
朗と志紀、二人の関係は、志紀が三年生となった夏休み直前に、突如として再び変容を遂げる。
『好きだ』途方もなく甘い囁きを思い出し、志紀の鼓動が跳ね上がる。思わず両手で自分の両腕をかき抱くと、志紀は胸の中でおのれに問いかけた。――私は? 先生のことどう思っている?好きか嫌いかと問うならば、間違いなく、好き、だった。そう自分に返答する。――好き「だった」? じゃあ、今は?そこで志紀は思わず考え込んでしまった。あんな強引に、相手の都合も省みず、自分の欲望を優先する人だったなんて。大体、教師が教え子に手を出すなんて、職業倫理に悖 ること甚だしい。許されることじゃない。――なのに、なぜ、怒りが湧いてこないのだろう……。
考えれば考えるほど、志紀の頭は混乱する一方だった。おのれの許容量を越えた事態に、志紀は全てを無かったことにしてしまおうと考えた。彼女は、全力で心にリセットをかけようとしたのだ。
次の日の放課後、部活を休むつもりでいた志紀を廊下で呼び止めたのは、同じ化学部員でもある、幼馴染みの原田嶺 だった。
地学部との合同合宿の活動内容を決めなければいけないだろ、と、部活に誘う彼に、何と応えたものか志紀が悩んでいるところへ、朗が通りがかった。
「合宿の話し合いって、時間かかる?」と、屈託なく質問を投げかける嶺に対し、朗は一言二言簡潔に返答すると、そのまま立ち去っていく。志紀のほうを一瞥もせずに。
驚きの表情を隠すこともできず、志紀はじっと白衣の背中を見送り続ける。「……だとよ。あまり時間かからないらしいし。俺らも行こうぜ」何かもやもやしたものが、じわりと志紀の胸の奥に湧き上がってくる。遠ざかってゆく朗の背中と、靴箱とを何度か見比べて、志紀は唇を噛んだ。
どういうつもりなのか自分でもよく分からないまま、結局、志紀は部活に出席した。
朗の態度は、普段と全く変わらなかった。
もしかしたら、彼も、昨日の出来事を後悔しているのかもしれない。きっとそうだ。志紀は、心の中でリセットの呪文を唱え続ける。
そうして迎えた下校時刻。志紀の後ろに、ひるがえる白衣。
「ああ、君はもう少し残ってくれないか。宿題を増やしてすまないが、書類の作成を頼みたいんだ」びくん、と一瞬志紀の身体が震える。――何も起こらなかった。昨日のあの出来事を無かったことにするのならば、志紀はこの申し出を受けなければならない。部長として、これまで何度も同様の手伝いをしてきたのだから。
怪訝そうな顔を、一旦は志紀に向けた嶺だったが、「帰ろうぜー」との友人の言葉に、彼は志紀に背を向ける。
志紀はそっと目をつむると、朗に誘 われるがままに化学準備室に足を踏み入れた。何も強制されていないにもかかわらず、自分から……。
第二章 踏切
夏休み、化学部の合宿に参加するため、志紀は友人の川村理奈 といつもの駅で待ち合わせた。
「そのパーカー、この間買ったやつだね」「志紀だって、その帽子、あの時のやつじゃん」イイじゃん、似合うじゃん、とひとしきりお互いを褒め合ったのち、理奈ががっくりと肩を落とした。「って、服装に気合入れたところで、見せる相手があの連中じゃなあ。そう思わん?」話をふられて、志紀はどきりとした。今朝、姿見の前で意識してしまった、あの瞳を思い出したのだ。チタンフレームの向こうで、涼しげに微笑むあの眼差しを。
集合場所の学校でも、バスの中でも、志紀は朗のことが気になって仕方がなかった。先日の、合宿の話し合いが行われたあの日以来、朗と落ち着いて話すことができなかったからだ。
校内に若い教師は数人いれど、「化学の多賀根」はその中では少しだけ異彩を放っていた。朗以外の若手教師陣が、若さを前面に出して先輩のごとく振る舞っているのに対し、朗はどこまでいっても「先生」であった。たとえ生徒達のすぐ近くまで降りて来たとしても、最後の一歩を、朗は決して踏み出そうとはしない。その態度を指して彼のことを「冷たい」と言う者は少なくなかった。
それでも、志紀にとっては、朗の持つ距離感は、とても心地よいものだった。志紀にとって「教師」はあくまでも「教師」であり、「友達」ではない。どんなにタメ口を要求されても、どうしても敬語が口をついて出てしまう。その点、朗が相手だと、志紀はとても話しやすかった。
遠過ぎず近過ぎずの、ほどよい距離感……。――まさか、その距離が一気にゼロにまで縮まってしまうとは。
山深い宿泊所に着いた一行は、夕食にカレーを作り、天体観測を行った。
そのあとは、一日目のメインイベント、肝試し。
例年通りの化学部と地学部の合同合宿に加えて、今年は地学教科を選択した生徒も参加しているため、結構な大所帯だ。肝試しの準備に手間取っている間、前年度化学部部長として朗の手伝いでゴール地点に向かった志紀は、久しぶりに二人きりの時間を過ごすことになった。
楢坂高校OBだという朗の、思い出話に花が咲く。しかし……。
込み上げてくる違和感をわざと無視して、朗は夢中で話し続ける。「学校という外界から切り離された世界で、自分達が世界の中心だと思い込んで、思う存分好き勝手をしたものだ」そうだ、まるで熱に浮かされたかのような三年間だった。あの場所に戻りたくて、もう一度夢を見たくて、朗は教師という道を選んだのだ。だが……。だが?私は一体、どのような言葉を継ごうと思って、この接続詞を想起したのだ?
朗の機嫌はほどなく急降下、身勝手なその態度に腹立たしさを覚えつつも、志紀はなすすべもなく彼に翻弄されてしまう。
明けて合宿二日目、頭を冷やすために朗と距離をおいてはいたが、晩の花火大会になって、志紀は改めて彼と正面から向き合うことを選んだ。
しかし、ねじれた空気は、簡単には修復されなかった。
「『私が』、何だね?」志紀の手を握る朗の指に、力が入った。「『私が、毅然と拒否していれば』?」朗の瞳に、暗い光が宿る。「君の言いそうなことだ。違うか?」急に凄みを増したその声が、志紀をあっという間に絡め取る。「完全に自己をコントロールしている自信があったのだろう? だからそんなに自分を恥じている。違うか?」
「志紀、人は理性にのみ支配されるわけではない。それは私も、君も同じだ」
「学校に帰ったら、準備室へ来たまえ」
そう微笑む朗の瞳に、思いつめた志紀の顔が映っていた。
第三章 軌道
待ちに待った文化祭、通称「楢坂祭」の日がやってきた。
化学部は、化学室を使って、幾つかの研究発表を行っていた。娯楽性に乏しい展示なだけに、どうしても客足は少ないが、そんなことは全く気にせず、部員達は一年に一度のお祭りを楽しんでいる。
おりしも昼食時、志紀は前年の副部長だった柏木陸と二人で展示の受付当番をしていた。
「彼、人気者だよね」唐突に、陸が口を開いた。「昔から、ああなの?」「彼?」「原田」幼馴染みの名を上げられて、志紀は「ああ」と合点した。「そうだね、小さい頃から、あまり一人で静かにしているタイプじゃなかったかも」小学校でも、中学校でも、嶺は常にクラスの中心にいた。時に勢い余って騒動を引き起こすこともあったが、元来の調子の良さで、皆をぐいぐいと引っ張ってくれていた。「……うん、私が知っている限り、ずっとあの調子だなあ。でも、ああいうふうに誰彼構わず屈託なくコミュニケーションをとれるのって、凄いよね。羨ましい」ひるがえって我が身の不器用さが身につまされて、志紀は大きく嘆息した。「そうだな。本当に、羨ましいよ」暗幕がまた風にはためき、陸の姿が逆光となる。幾分低い声が、影とともに志紀の傍まで伸びてくる。志紀は二度三度とまばたきを繰り返した。「羨ましい」などという言葉が、陸の口から出てきたことに驚いたのだ。成績優秀、運動もそこそこ、見た目だって悪くない、常に自信に満ち溢れている彼が、こんな台詞を漏らすなんて、思ってもみなかったからだ。
兼部先の物理部に呼ばれて陸が退出、入れ替わりに朗が化学室に現れる。
夏休みの合宿以来、二人は大体週に一度の割合で、秘密の逢瀬を重ねていた。
どこか危うさを感じつつも、表面的には平和なひととき。満足そうに微笑む朗の脳裏に、過去の情景が浮かび上がる。
それは、二か月少し前、朗と志紀の関係が世間の枠組みから大きく逸脱する直前の出来事だった。放課後の化学室で性の話題が持ち上がった時、志紀は紅一点であることに頓着することなく、至極冷静に、学術的な内容の受け答えを披露したのだった。
溜め息一つ、本を置きに準備室へ向かおうとした朗の耳に、陸の声が飛び込んできた。「原田、お前凄いな。尊敬するよ」「は? 何が?」「なんでもない」それは、半ば独白ともいえる呟きだった。すぐにでも背後を振り返りたい衝動を必死で抑えて、朗は更に三歩を進んだ。そうして、さりげなさを装って彼らのほうへ身体を向ける。丁度、陸を正面から捉える位置だ。陸は、志紀を見ていた。見つめていた。朗は、陸の瞳に込められた光に気がついた。
以前、朗は深夜の街で陸に出くわしたことがあった。その時にちらりと垣間見た、優等生の仮面の隙間から覗く陸の素顔。そして、今、彼が見せたこの表情……。
朗は悟った。こいつは、私と同じ側の人間だ、と。
――柏木に感謝すべきなのかもな。彼の存在が無ければ、自分があのような暴挙に出ることはなかっただろう。ならば、今こうして彼女とともにいることも叶わなかったはずだ。静かに、そして至極満足そうに、朗は微笑んだ。
第四章 暗渠
年に一度の体育祭もいよいよ最終競技。一番人気のクラブ対抗リレーが始まった。
真打は後半の「運動系クラブ対抗リレー」だが、「文化系クラブ対抗リレー」も決して負けてはいない。化学部と物理部の一位争いに、場内は興奮のるつぼと化した。
とうとう、バトンがアンカーに渡った。朗が、白衣をひるがえしてスタートを切る。「先生ー! 頑張れー!」志紀は、ここぞとばかりに朗に声援を送った。普段は人目が気になって、どうしてもよそよそしい態度になってしまうから。せめてこんな時だけは、心から……。「多賀根、速ぇ」「でも野田も速ぇな」顧問同士の真剣勝負に、両部員達の間からざわめきが消えてゆく。志紀もいつしか息を詰めて、朗の走りを見つめていた。「運動不足なんだから期待するなよ」と嘯 く顔を思い出しながら、どうか転倒などして怪我をしませんように、と祈るような心地で見守り続ける。
大盛況のうちに、体育祭は閉幕した。
文化祭と違い、体育祭はあまり規模の大きな行事ではない。準備期間が短いこともあって、ダンスなどの団体演技は行われず、実質は「陸上競技会」とでも言うべきものなのだ。そんなわけで、遅めの昼食を摂ったあとは、普通に午後の授業が行われるという、ある意味進学校らしいスケジュールとなっていた。
放課後、クラス委員として体育祭の後片付けを終え、部活に向かおうとした志紀を、柏木陸が呼び止める。
話があるんだ、と、彼が誘 ったのは、天体観測室だった。
志紀の眼前に、前屈みとなった陸の顔が迫ってくる。おそらくは、冷静であろうとする「自分」が、余計な枷となってしまっているのだろう。心の奥底がどんなに「逃げろ」と叫ぼうとも、硬直してしまった志紀の身体は一向にその声に耳を貸そうとしない。「有馬さん、好きだ。付き合ってほしい」あわや、というところで進路を逸れた唇が、志紀の耳元に寄せられた。聞いたこともないような甘い声が、熱い吐息とともに耳腔を震わせる。
幸い陸は、志紀と嶺の仲を誤解したようで、志紀はひとまず難を逃れることができた。
しかし、ほっとしたのもつかの間、朗に呼ばれて訪れた化学準備室で、どうやら陸の告白を耳にしたらしい朗に「モテるんだな」となじられる。
男子から告白されたのなんて初めてだ、と主張しかけて、志紀は朗のことを思い出した。「二回目です」と言い直したところで、朗の気配が凄みを増す。
「そいつも断ったのか。原田のために」
すれ違う、言葉。そして、心。
かりそめの平穏が終わりを告げる。
第五章 隧道
十月も終わろうかというある日の放課後。ここ南校舎一階にある物理計算室では、連休明けに迫った講演会の打ち合わせが、理科系教科の教師達によって行われていた。サイエンスダイアログと呼ばれるこの講演会は、楢坂高校がスーパーサイエンスハイスクールに指定されて以来毎年開催されている、関連授業の一つである。外国人の特別研究員を招いて行われる対話式講演会 は、研究現場の生の声を直接聞けるとあって、毎年好評を博していた。
担当教官として、資料の準備を進める朗の、胸に去来する苦い思い。
それは、三週間前、あの体育祭の日までさかのぼる。
志紀が陸の告白を断るところを偶然耳にした朗は、意気揚々と化学準備室に戻ってきた。そう、彼女は私のものなのだ、と。
ところが、その満足感は、時をおかず、敗北感へと変貌することになる。
隣の化学室から、嶺と、その友人高嶋珊慈 の会話が聞こえてきたのだ。
「そういや、さ。嶺、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」少し改まった声が、一呼吸ついた。「お前さ、有馬さんと付き合ってンの?」
容赦なく逃げ道を塞いでいく珊慈に、嶺は遂に本音を語りだす。
「とにかく、さ。まだまだあいつはコドモなんだよ。男と女の違いなんて、生物学的なシステムでしか認識してないと思う。そんな奴を無理矢理こちらのペースに引きずり込むなんてこと、できるわけないだろう?」
訥々と語られる嶺の、愛情あふれる言葉に、朗は、ただ、打ちのめされた。
――お前は、自分のことしか考えていない。朗の中で、誰かがそう糾弾する。彼女のことなど微塵も思い遣っていないくせに、と。彼女の気持ちなどお構いなしに、ただおのれの快楽を追求しているだけではないか、と。朗は下唇を噛んだ。自分は、原田には勝てないのだろうか、と……。
仮にそうだとしても、おめおめと負けを認めるわけにはいかない。
そうして、朗は自ら修羅界に身を投じるのだった……。
第六章 折返
朗の独善的な振る舞いに深く傷ついた志紀は、仮病を使って学校を休んだ。
自己嫌悪と自己憐憫に苛まれ、すっかり泣きつかれた夕刻、理奈が見舞いにやってくる。彼女と話をするうちに、志紀の心の中は、少しずつ整理されていった。
そう、ただひたすら、眼鏡の奥で光るあの眼差しに縋って、流されるままに漂流していた。視野狭窄の比ではない。思考を停止させることで、危ういままに安定しようとしていたのだ。目隠しさえ取らなければ、たとえそこが奈落に臨む絶壁の縁だったとしても、恐れることは何一つ無い。断崖に目が眩むこともなければ、恐怖に足がすくむことだってないだろう。かりそめの平穏のもと、ただ無邪気に歩き続けることができるというものだ。足を踏み外す、その瞬間までは。
朗の言動には何か齟齬がある。それが何か知りたい。
休みを挟んでの次の登校日、意を決して登校したものの、サイエンスダイアログ当日ということで、志紀は化学部員として準備に忙殺され、朗と話をするどころではなかった。更に、嶺と言い争いをしてしまい、ますます心に余裕が無くなってしまう。
そんな志紀を呼び止める、声。
「有馬さん。こっち、こっち」頼むよ、と懇願する声を聞き、志紀は大きく溜め息をついた。まだ少し潤んでいる目尻を袖口で擦って、陸のもとへ向かう。「これを放送室に戻さなきゃならないんだけど、結構重くてさ。一つ持ってくれない?」机の上に置かれた二つの箱には、種々のケーブルが山盛りになっていた。「講演会まで、もうすぐだろ。二往復するのはキツいな、って思っていたところだったんだ。助かるよ」
講演会の中継を見るために、皆職員室へ行っているのだろう、放送室と同じフロアに並ぶ教官室は軒並み空っぽだった。
「えっと、その、どうして、鍵を……?」おずおずと志紀が発した問いに、陸は微かに眉を上げた。それから、ゆっくりと志紀のほうへと近づいてくる。「負け戦に固執するつもりはなかったんだけど、あんな喧嘩を見せつけられちゃ、やる気が出てくるな」
迫る陸を、志紀は必死で拒絶する。
愛の言葉を囁き、強引な理屈を展開し、志紀を籠絡せんとする陸の口から最後にほとばしった、痛切な言葉。
「なのに、なんで、みんな、アイツばっかり……!」血を吐くような声色に、志紀は思わず暴れるのをやめた。首をそっと後ろにめぐらせば、陸と正面から目が合った。陸の瞳に、狼狽の色がさす。
陸の、志紀への想いの陰に潜むもの。それを志紀に悟られたと知り、動揺する陸。
なんとか無事朗に助けられた志紀を、今度は朗の言葉が打ちのめす。
「もう、解ったろう。お前は自分の世界に帰れ。ここはお前のいるべきところではない」僅かに視線を逸らして、朗はそう吐き捨てた。「さっきので、もう、懲りただろう? 柏木も、私も、大して変わりはない。いや、まさしく同類だ」
容赦なく突きはなす朗に、志紀は静かに口を開く。
一度、学校の外で会えませんか? と。
第七章 終点
二週間後、志紀の家の近くで、二人は待ち合わせた。
朗の車に乗り込んだ志紀に、朗は心持ち居住まいを正して問いかける。
「さて、どこに行こう?」途端に志紀が目を丸く見開いて、それからばつの悪そうな表情を作った。「……どこでもいいです。先生の都合の良いところで」「君の意図が解らないことには、決めようがないのだが」平静を装ったものの、朗の手のひらはじっとりと汗をかいていた。「あの、私、先生とゆっくり話がしたかっただけなので……、本当に、どこでもよくって……」
化学準備室だと、部屋の主たる朗のペースに乗せられて、話どころではなくなってしまうだろう。そう志紀は考えたのだ。
ほんの少しの時間でもいい、落ち着いて話がしたかった。
今までうやむやのままで来てしまっていたけれど、自分の気持ちを、きちんと言葉にして朗に伝えたかった。たとえ自己満足に過ぎなくとも。エゴでしかなくとも。
ふむ、と朗は顎をさすった。二人きりでいるところを他人に見られることだけは、なんとしても避けなければならない。となれば、市外、いや県外へ遠出するのが一番だろう。県境を越えて、ひとけの無い場所を探して……。朗がつらつらと考えをめぐらせていた、その時、耳元を一陣の風が吹き抜けていった……ような気がした。『うわー、見事に誰もいないなあ』『こんな季節に、こんな所に来る奴なんかいないだろ』風の音に次いで、懐かしい声が脳裏に再生される。木枯らしに、木々がざわめく。草が踊る。晩秋の抜けるような空の下、佇む人影、おのれの影。――そういえば、確かあれも、丁度今ぐらいの季節のことだった……。しばしの逡巡ののち、朗は口をきつく結んだ。今日一日ぐらいは感傷に浸るのも悪くないだろう。朗は姿勢を正すと、車のエンジンをかけた。後方を確認しながら、注意深く車を出す。「車酔いは心配ないか?」「あ、はい。大丈夫です」「少し、遠出をする」
それは、志紀にとっては、明日へ向かうための道行きだった。
そして、朗にとっては、来 し方 をふりさけみる行為でもあった。
――どうして、私はここに来ようと思ったのだろうか。びりびりと身体の芯が痺れるような重低音の中、朗は独りごちた。答えは、すぐそこにある。行きの車の中で考え続けていた疑問に対する答えと、おそらくは同じ場所に。古い根張りを隔てたすぐ向こう側に、それは厳重に封印されたまま埋もれているのだ。
見晴らしの良い山の上、吹きすさぶ風の中、遂に朗の中で、十二年前の記憶と目の前の風景とが重なる。
この手を伸ばせば、境界を越えられる。