あわいを往く者

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接吻×2  ― 化学教師・朗の場合 ―

  
  
  
 どうした? ご同類。
 まさか、怖気づいたとでも?
  
 どうしてここまで彼が気にかかるのか、私は唐突に理解した。そう、これは………………
  
  
  
   接吻×2  ― 化学教師・朗の場合 ―
  
  
  
 わざわざ変人を気取っているわけじゃないのは知っているが、本当に彼女は規格外だ。
 週末のデートに映画、というところまでは定番どおりだったが、食事までの暇つぶしにどこへ行きたい? と問えば、さる老舗のデパートだと答えが返ってきた。てっきりバーゲンとやらにつき合わされるのだろうと思っていたら、目当ては屋上のガーデニングショップだと言う。
  
「ここの温室、結構マニアックなんですよー」
 ここで可憐な花々を愛でていれば、それなりに絵にもなるだろうに、何故か彼女が立ち止まるのは、やたら塊根が発達した観葉植物やら、大きなサボテンやら、多肉植物やらの前だった。
 気にいったものがあるのなら買ってやろう、と店に入るまでは密かに思っていたのだが、私は早々にそのアイデアを破棄することにした。バオバブの木の鉢植えなぞを抱えて食事に行くのは、私の趣味ではない。
  
  
 ひとしきり店内をひやかして、そろそろ食事に……と温室から出ると、雪がちらついていた。
「積もるかなあ」
「積もってほしいのかい?」
「勿論! だって、後期テストも終わったしー」
「ほぉ、平日勤労の社会人の前で、大胆な意見だな」
 自慢げに胸をはる志紀のこめかみを、両の拳ではさんでぐりぐりと押す。
「痛い痛い、痛いってば、先生っ」
  
 卒業してもうすぐ一年が経つというのに、志紀は未だに私のことを「先生」と呼ぶ。
 正直なところ、彼女にそう呼ばれることが嫌なわけではない。彼女よりも優位に立っている、彼女をリード――いや、支配――している、そういうポジショニングは、むしろ望むところだ。
 だが……、「先生」と彼女に呼ばれるたびに、心のどこかが軋むのだ。
  
 この夏に、それとなく名前で呼んでくれとは言ってみた。
 志紀は「照れるなあ」と、慣れないながらも何度か私の名前を呼んだものの……結局、気がついた時にはいつの間にか、以前どおりの「先生」だ。
  
 私の溜め息に気がつくこともなく、志紀はエレベータホールの扉を開けた。先客が二人、エレベータの扉を開けて待っていてくれている。
 我々が礼を言うと、彼らは互いに微笑むように視線を交わしあって、それから会釈を返してきた。息が詰まりがちなエレベータの同乗者としては、感じの良さそうな二人に、少しほっとする。
 昔から、エレベータは苦手だ。何故人は、この狭い箱に入った途端に会話をやめるのだろうか。不自然過ぎる沈黙と、静かにもかかわらず辺りに充満する人の気配と。あまりにも齟齬が多くて気持ちが悪くなる。
 志紀はどうなのだろう。そう思って背後に目をやると……
  
 彼女は、対辺に立つ男の顔をじっと見つめていた。
  
  
 その男……、良く見ずとも彼は随分な美形だった。私と同じような背格好で、同じように眼鏡をかけているから、余計に顔の造作が気になってしまう。
 私自身、自分の外見に自信がないわけじゃない。しかし、今、目の前に立つこの男に比べて確実に劣っているのは間違いない。
 さぞかし華やかな人生なのだろう。よりどりみどり、などという下品な単語が頭に浮かんできた。なるほど、連れている女性の趣味も悪くない。
 彼は今、扉上部にある階数表示を見つめている。だが、もしも振り返ったら……、志紀と目が合ってしまうかもしれない。
 そして、志紀は……まだ彼を見ている。
  
 もやもやとしたものが自分の中に湧き上がるのを自覚したその時。
 がくん、と大きな衝撃とともに照明が落ちた。
  
  
  
 余計なことを考えていたからだろう、エレベータが停止したことに気がつくまで、たっぷり一呼吸必要だった。
 まだ残照が遠くの空に残っているから、ガラス張りの展望エレベータ内が暗闇に閉ざされることはないが、モーター音の途切れた静かな空間はやけに薄暗く感じられる。
「な、何っ?」
 向こうの女性が、怯えたような声を上げた。
 そのとおり。問題は、何故エレベータが停まったか、だ。
「故障か、それとも……地震か」
「揺れは感じませんでしたね」
 私の呟きを受けて、男が口を開く。
 落ち着きのある、低い声。先ほどからの立ち居振る舞いといい、悔しいことだが、同性の私から見ても、充分魅力的な男だ。
「まさか、火事、とか……」
 連れの服を握り締めて、不安げに女性が言う。火事ならば、一刻の猶予もないが……。
「いえ……停電みたいですよ」
 志紀の言葉に、私も遥か下を覗き込んだ。ビルの窓、ネオンサイン、街灯、信号……全てが薄闇に沈んで、見えるのは列をなす車のヘッドライト――いや、あの頼りなさげな光はスモールライトか。
 往来から微かにクラクションの音が聞こえてくる。ちょっとしたパニックが起こっているのかもしれない。
「凄い……、こんなの初めて見ます」
 志紀は目を輝かせて、灯りの消えた下界を食い入るように見つめている。
 エレベータに閉じ込められるという非常事態だというのに、志紀はそれを楽しんでいるように見えた。
 まったく、君は本当に、いつだって君らしい。
 確かに、こんな光景を普段見ることなど叶わない。私も彼女を倣って、眼下に広がる非現実的な世界を、しばし見つめ続けた。
  
 非常停止の原因が停電ならば、ただ復旧を待てば良いだろう。だが、不安の種は確実に潰しておいたほうが良い。そのことに思い当たった私は、携帯電話を取り出すと、エレベータの操作パネルに書かれている管理会社の番号を押した。
 プ、プ、プ、と小さな電子音のあと、無音状態が続く。私の行動に気がついて、志紀が振り返った。
「先生、どう?」
「繋がらないな」
 停電に驚いた大勢が、同時に携帯電話を使おうとして、回線がパンクしているのに違いない。上着の内ポケットに携帯電話を仕舞おうとした時に、男と目が合った。
「管理会社に連絡してみようかと思ったんですが、回線が混んでいるみたいですね」
  
 ……どうにも、彼の存在が気になって仕方がない。
 相手は、名前も何も知らない、ただエレベータに乗り合わせただけの人間だと言うのに。
  
 彼は、至極落ち着いた表情で、彼に縋りつく連れの肩を抱いている。本当に、何をしても絵になる人間だ。
 私は、彼らの視線を殊更に意識しながら、志紀の耳元至近に口を寄せた。
 対抗意識?
 一瞬そんな単語が頭を掠める。
「志紀、君のはどうだ?」
「私のも、ダメですね。規模の大きそうな停電だし、皆が一斉にケータイを使おうとしてるのかも」
  
  
 ふと、空気の動きを感じて顔を上げると、先ほどまで怯えたように縮込まっていた女性が、何故か目を輝かせてこちらを見つめていた。
「先生……、って、もしかして歯医者さんなんですか?」
  
 何故、歯医者?
  
 無防備に当惑の表情を浮かべてしまった自分に気がついて、慌てて返事をする。
「あ、いや、教師の端くれでね」
「あ、そうなんですか、すみません。えっと、それじゃ……」
 さもありなん。
 いかにも恋人同士な片割れが、相手を「先生」と呼ぶなんてことは、必要以上に他人の好奇心を刺激するだろう。
 さて、問われた志紀は何と答えるのだろうか。
 少し意地の悪い楽しさを感じながらその女性の次の言葉を待っていたが、どうしたことか彼女は言いよどんでしまい、一向にそこから先へ進んでくれない。
 仕方がない、私から水を向けるしかないか。
「ほら、志紀が『先生』なんて呼ぶもんだから、悩ませてしまったようだよ」
「だって、『先生』は『先生』だし」
「名前で呼んでくれと言っているのに、ね」
 この女性には是非とも、志紀の「先生」という呼称について突っ込みを入れていただかねば。そう思って話を振ったのだが……、
「あー、でも、分かりますよー。私も最初はそうでしたもん」
  
 ……そういうこと、か。
  
「なるほど。歯科医とはあなたのことですか」
「ええっ? どうして解るんですか?」
 男に向かって発した言葉に、女性が物凄い勢いで食いついてくる。
 志紀とはまた違ったベクトルの、天然キャラのようだ。……非常に面白い。
 そして、志紀はといえば、お仲間の出現にすっかり気を良くしたようで、満面の笑顔でこの初対面の女性に語りかけた。
「歯医者さんなんですかー。すごいなあ。あ、でも、最初はそう、って、もしかして……」
「そうなの。先生と患者」
「じゃ、やっぱり『先生』って言ってしまいますよねー?」
「そうそう。そうなのよー」
 もう、勝手にしてくれ。
 これで、当分は志紀が私を名前で呼んでくれることはなくなった。私は密かに天を仰いで溜め息をつく。
「最初はどうしても呼び慣れている呼び方になっちゃうんですよねー。なのに、あきらさんったら……」
 その瞬間、そのあきらという男が慌てたように口を開く。
「おい、みゆき、」
「……私が『先生』って言うたびに、ペナルティだって……」
  
  
 ペナルティ。
 本来は含みのある単語ではない。
 だが、言葉半ばで絶句して、明らかに恥じらいを込めて狼狽する、みゆきと呼ばれた女性の様子を見る限り……、これは……、この言葉が意味するのは……。
  
 この色男が、この女性を追い詰めるさまが、何故かありありと脳裏に浮かび上がった。
 肉体的なものか、精神的なものか、それとも両方か。
 ただ、その仕置きがセクシャルなモノであるのは間違いないだろう。
  
  
  
「……って、やぁねえ。もう。あきらさんったら、根が意地悪だから……」
 いや、もうフォローは不可能だ。
 私の中で、「何か」のスイッチが入ってしまった……。
  
「良いことを聞いた」
 耳朶に擦り込むように囁けば、志紀が微かに身じろいだ。
 そう、それで良い。
「次に、君が私を『先生』と呼んだら、ペナルティだ」
「ちょ、ちょっと、先生」
 志紀を力任せに抱き寄せれば、彼女の動揺が伝わってくる。
 それで良いんだ。
「ほら、もう、一回目」
「何考えてるんですかっ、せ……朗さんっ」
  
 どす黒い塊が、身体の中をせり上がってくる。
 こんな公共の場所で、他人の目の前で、私は一体何をしようというのだろうか。
  
「今、言いかけたね?」
「違……」
 何かに突き動かされるようにして、私は問答無用に志紀の唇を奪った。
 志紀の目が見開かれ、そして条件反射のように閉じられる。
 そうだ、それで良いんだ。
 何も見なくて良いんだ。
 そう、他の男のことなぞ、見なくて良い…………!!
  
  
 …………そうか。嫉妬していたのか、私は。
  
 君は私だけを見ていれば良い。
 私の声だけに乱されて、私の愛撫だけを感じれば良いのだ。
 暴れる志紀の身体を壁と右手で拘束し、左手で彼女の後頭部を押さえ込む。食いしばる歯列を舌でなぞりながら、辛抱強く門が開くのを待ち構える。
 昂ってくる欲望を志紀の下腹部に押しつければ、彼女の喉から怯えたような声が漏れた。その隙を見逃さずに、私は舌を彼女の口腔内に滑り込ませた。
  
 びくん。
 志紀の身体が震える。
 必死で逃げる彼女の舌に無理矢理舌を絡ませる。溢れ出す唾液を、柔らかい肉塊でかき混ぜる。
 びくん、びくん。
 身体を波打たせながらも、志紀はまだ抵抗を諦めない。
  
 その一瞬。目の端に、立ち尽くす同乗者の姿が映った。
  
  
 どうした? ご同類。
 まさか、怖気づいたとでも?
  
 どうしてここまで彼が気にかかるのか、私は唐突に理解した。そう、これは………………
  
  
 挑戦的な瞳が、薄闇に光ったように見えた。
 みゆきという女性が何かを言いかけたが、それが途中でくぐもる。少しだけ顔を横に向ければ、彼女に覆いかぶさる男の姿が目に飛び込んでくる。
  
 ガラス張りの狭いはこの中で、二組の男女が、深いキスを交わしている。
 いや……、違う。二人の男が、無理矢理におのれのパートナーの唇を蹂躙しているのだ。
 夕闇に沈む街の中、灯りの消えた展望エレベータの中を外部から窺うことは不可能だろう。それでもこの開けた視界は、充二分に女達の羞恥心を刺激しているに違いない。
 そして、腕の中で抗い震えるその感触に、ますます我々は奮い立ってしまうのだ。
  
 …………どうしても、彼のことを意識せずにはいられないのは、彼の中に自分と似た気配を感じてしまうからに違いない……。
  
  
 志紀の抵抗が弱まった。そっと唇を離すと、彼女から甘い吐息が漏れる。
 とろけそうな表情をしているくせに、彼女は語気を荒めてまだ噛みついてきた。
「もう、先生っ! いい加減にしてください!」
「……また、言う。懲りないね、君も」
 折角、わざわざつけ入るネタを提供してくれたのだから、今度は遠慮なく唇を首筋に落とすことにした。
 そして、手は彼女の胸のふくらみに。服の上からそっと撫でると、志紀が歯を食いしばる気配。
 そこまで抵抗されると……こちらも本気でかかりたくなる。
 私は彼女のセーターの裾から手を潜り込ませた。邪魔な薄手のインナーをジーンズの中から引っ張り出す。隙間から手に入れた柔らかい素肌の感触に、ちょっとした達成感が湧き上がってきた。
「やだ……やめて……」
 切なそうな声に、私の指は余計に奮い立つ。
「お願い……」
「誰も見てやしない」
 この台詞に、志紀は余計に傍らの二人を意識してしまったようだった。彼女の薄い肩が、痙攣するように震える。
「って、そんな。そこに……」
「……彼らも、お楽しみ中だよ?」
 まさしくボジティブ・フィードバックだ。
 双方、互いに増幅しあって、一体どこまでのぼりつめていくのか…………
  
  
  
 灯りは唐突に戻ってきた。
  
 暗闇に慣れた目に、眩し過ぎる照明の光が突き刺さる。
 まだ熱の抜けきらない表情で、あきら医師が、名残惜しそうに身を起こす。みゆき女史は、すっかり上気した頬で恥かしそうに顔を伏せている。
 傍らでは、自由を取り戻した志紀が、必死で上着の襟元をかき合わせていた。不機嫌そうな表情の原因の半分は、身体の火照りを持て余してのことだと私は確信しているのだが。
  
「誰かおられますか? 大丈夫ですか!?」
 突然、誰かの声がエレベータ内に響き渡った。彼が背後を振り返って、パネルのスピーカーに応答する。
「あ、はい。大丈夫です」
「お怪我はありませんか!?」
「はい」
「今から動かしますので、気をつけてください」
  
 どこからか低いモーター音が響き、がくん、とエレベータは再び動き出す。
 窓の外、煌びやかな夜景を背景に、雪がまだちらちらと降っていた。
  
  
  
 さて。混乱から解放されてまず志紀に尋ねたのは、食事にするか、「休憩」にするか、という二者択一。
 真っ赤な顔で彼女がそっぽを向いたということは、行き先はホテルということになるのだろう。
「前からそうじゃないかと思ってましたけど……、先生って、ヘンタイだったんですね……」
 勇ましく攻撃してくるよりも、ぼそり、と呟かれるほうがダメージは大きい。私は少し慌てて、どうやってご機嫌を取ったものかと思案しながら、とりあえず口先だけで時間を稼ぐ。
「変態って、君ねえ」
「だって、あんな……人前で……」
「元はといえば、君が悪いんだ」
 しまった、と思った時には、既に遅し。志紀は目を丸くして、掴みかからんばかりに詰め寄ってきた。返答次第では容赦しない、とその瞳が語っている。
「先生! それってどういう意味ですかっ!」
「あ……、いや……」
 こうなってしまっては、観念するしかないだろう。これ以上彼女の機嫌を損ねてしまって、「おあずけ」となってはたまったものではない。
 私は、大きく息を吐いて、少し視線を彼女からずらした。
  
「君が……、あの男に見とれているからだ」
  
 志紀はまずきょとんとして、それから、ぽん、と手を打った。
「ああ! ……あれは、その……、先生、新しい眼鏡が欲しいって言ってたでしょ? あの人のかけてたフレーム無しの眼鏡、先生にも似合いそうだなーって……、それで……」
 そこまで語って、彼女はにんまりと微笑んだ。何も言わないだけに、嫉妬心を見透かされた悔しさが余計に募る。
  
 分かった。この借りはのちほど倍にして返して差し上げよう。
 私は、これ以上はないというぐらいに優しい笑みを作って、志紀の手を引いて歩き出した。
  
  
  
〈 了 〉
【M2L -Meet to Love-】様(2011/5/31閉鎖されました)の「Dr.高辻シリーズ」とのコラボレーション。