見せつけられている。
いや、……誘われている、のか。
そう考えてしまうのは、僕の自意識が過剰なせいなのだろうか。それとも………………
接吻×2 ― 歯科医師・朗の場合 ―
それは、とある老舗のデパートのバーゲンとやらを覗きに連れていかれて、そろそろ夕食にでもしようか、という段のことだった。
「わぁ、雪よ、雪だわ」
そりゃ、今は真冬も真っ只中だから、雪だって降るでしょうに。
確かにこの辺りではそんなに雪は頻繁に降らないが、それにしてもはしゃぎ過ぎなんじゃないかな。ま、それがみゆきのカワイイところなんだけど。
目をキラキラと輝かせて窓に吸い寄せられていくみゆきを、何とはなしにほのぼのと見守っていると、彼女は突然物凄い勢いでこちらを振り返って、僕に詰め寄ってくる。
「ね、朗 さん、屋上行ってみようよ」
「え」
「ほら、早く早く!」
そして、僕は不覚にも、タイミングよく開いたエレベーターに押し込まれてしまったのだ。
「寒ーい」
当たり前だろう。僕は無言でみゆきにプレッシャーをかける。
「誰もいないねー」
大体、こんな寒い日の、しかも夕方、加えて言えば既に日が沈んでしまってからという時間に、屋上に出る奴なんて普通いないって。
「上空に強い寒気がなんとか、って天気予報が言ってたもんねえ」
……そのことを知っていたら、絶対に屋上になんて来なかった。僕は聞こえよがしに大きく溜め息をつく。
「積もると、仕事に行くのが大変だからなあ。でも、たまには積もってほしいよねー」
夫婦はツーカーの仲、だなんて誰が言ったんだろう。この僕の念を込めた視線に一向に気がつく様子もなく、みゆきは楽しそうに空を仰いでいる。
だめだ、このまま黙っていたら、きっと僕は凍えてしまう。誰かさんと違って、僕は作りが繊細なんだから。
「夕食にするんじゃなかったっけ?」
「ああっ、そうだったっ」
言うや否や踵 を返して、みゆきがエレベーターホールへの扉に手をかけた。重い扉を開こうとしているのを手伝ってやって、薄暗い屋内に戻る。
季節柄、あまり客が上がってくることなんてないんだろう。そうでなくとも、型遅れな蛍光灯の光は、華やかな他のフロアに比べて随分と寂びれた印象だ。
「来た来た」
みゆきの声と同時にエレベーターの到着音が鳴った。誰も乗っていない、見晴らしの良い展望エレベーター。みゆきが勢い良く乗り込んでいく。
本当に君は、食べ物が絡むと行動が早いんだから。
優しい夫としては妻に少しでも協力しようと思って、僕は扉を閉めるボタンに手を伸ばした。
ところが。
「あ、待って」
みゆきが後ろから身を乗り出して「開」のボタンを押す。
不思議に思ってふと目をやった先、屋上への扉から人影が二つ入ってくるところだった。
「ありがとうございます」
「すみません」
二人は礼を言ってエレベーターに乗り込んできた。眼鏡の男と若い女。彼らは僕らが立つのとは反対側、扉に向かって右側に陣取った。
この寒いのに、みゆきの他にも物好きがいるなんて驚きだ。デートならもっと良い場所だって幾らでもあるだろうに。
いや、彼らも、僕達のことを同じように考えているかもしれない。まさか、雪に浮かれた妻に無理矢理外へ連行された可哀想な夫、とは思ってくれないだろうなあ。
つらつらと余計なことを考えながら、僕はエレベーターの扉が閉まるのを見ていた。軽い浮遊感と共に、エレベーターは動き出す。
どうして、エレベーターに乗った人間は、無言で階数表示を見上げるのだろう。いつも不思議に思うのだが、ついついそうしてしまう自分がいる。みゆきはどうなのだろう、と思って振り返ると……、彼女もやっぱり同じように扉の上部を見上げている。それはもう、無防備に。
キス、したい。
湧き上がった衝動をどう処理しようか考えあぐねていたその時。
がくん、と大きな衝撃と共に照明が落ちた。
「な、何っ?」
動きの止まったエレベーターの中は恐ろしく静かだった。少し怯えたようなみゆきの声が、最初に沈黙を破る。
「故障か、それとも……地震か」
眼鏡の男が呟いた。
「揺れは感じませんでしたね」
僕がそう答えると、みゆきが青ざめて僕の上着を握り締める。
「まさか、火事、とか……」
「いえ……停電みたいですよ」
外を見下ろして、若い女がそう言った。「凄い……、こんなの初めて見ます」
なるほど、眼下に広がっているはずの眩い繁華街は、ただの薄暗い空間と化していた。道路に列を作る車のスモールライトだけが点在している。
停電ならば、差し迫っての危険はないだろう。そう言ってみゆきを安心させてやろうと肩を抱き寄せたら、物凄く不安そうな表情で僕を見上げてきた。
「どうしよう……」
うわぁ。この表情。
空腹時は性欲が増す、という話を聞いたことがあるが、どうやらそれは今の僕に見事に当てはまっているような気がする。
ああ、この二人を待つことなんてせずに、さっさとエレベーターの扉を閉じてしまうんだった。そうしたら……
いいや、そうしていたら、今頃エレベーターはレストラン街のあるこの下の階で止まっていただろう。そして、もっと沢山の人間と一緒にこの狭い空間に閉じ込められることになったかもしれない。
それはちょっと……、いや、かなり、嫌だ。
「先生、どう?」
自分のことを呼ばれたのかと、びっくりして若い女を見ると、彼女は連れに話しかけていた。
せんせい?
「繋がらないな」
携帯電話を仕舞いながら、眼鏡の男がそう言った。僕の視線に気がついたらしく、エレベーターのパネルを指差して、
「管理会社に連絡してみようかと思ったんですが、回線が混んでいるみたいですね」
それから、彼は連れの女の耳元に口を寄せた。
「志紀 、君のはどうだ?」
「私のも、ダメですね。規模の大きそうな停電だし、皆が一斉にケータイを使おうとしてるのかも」
先生、と相手を呼ぶ間柄にしては、この親密な距離は何だろう。
ここで初めて、僕はこの二人に注意を向けた。
男は、僕と同じぐらいか、少し年上のようだった。これまた僕と同じぐらいの身長で、僕と同じように眼鏡をかけている。たぶん、インテリ然とした雰囲気も、他人が見たら同じようなものなのかもしれない。唯一、向こうの髪がウェーブがかっているところが、明らかな相違点だ。
女は……、いや、女と呼ぶにはちょっと若過ぎるような雰囲気があった。みゆきも結構童顔で年齢不詳なところがあるけれど、この志紀と呼ばれた彼女については、本当に歳が判らない。今時珍しいカラーリングされていない黒髪が、肩口で揺れている。
みゆきも、付き合い始めた直ぐは僕のことを何度も「先生」と呼んでしまっていたから、この二人もそんな感じなのだろうか。
そこまで考えを巡らせて、僕はふと嫌な予感を感じてみゆきを見た。
目を輝かせながら、みゆきが口を開くところだった……。
「先生……、って、もしかして歯医者さんなんですか?」
天然も、度が過ぎれば罪になると思う。
ツッコミを入れるにもあまりに無理のある台詞に、僕はしばらくの間放置を決め込むことにした。
「あ、いや、教師の端くれでね」
「あ、そうなんですか、すみません。えっと、それじゃ……」
流石に、あまり図々しい態度はどうかと思ったんだろうな。みゆきは言葉の続きを飲み込んだ。
でも、躊躇いがちにとはいえ、志紀という女のほうを物言いたげに見ているものだから、折角の慎ましさがぶち壊しだ。
「ほら、志紀が『先生』なんて呼ぶもんだから、悩ませてしまったようだよ」
「だって、『先生』は『先生』だし」
ああ、いつかどこかで聞いたような台詞。
「名前で呼んでくれと言っているのに、ね」
最後の「ね」はどうやらみゆきに向かって発せられたみたいだった。
「あー、でも、わかりますよー。私も最初はそうでしたもん」
仲間を見つけた、と言わんばかりに、みゆきは嬉しそうに答える。
「なるほど。歯科医とはあなたのことですか」
「ええっ? どうして解るんですか?」
それは君が最初に口を滑らせたからだって。
それに、話しかけられたのは僕だぞ。
「歯医者さんなんですかー。凄いなあ。あ、でも、最初はそう、って、もしかして……」
「そうなの。先生と患者」
「じゃ、やっぱり『先生』って言ってしまいますよねー?」
「そうそう。そうなのよー」
この非常事態に緊張しているせいなのか、それとも単にうまが合うのか、随分とみゆきはこの女と会話を弾ませている。
「最初はどうしても呼び慣れている呼び方になっちゃうんですよねー。なのに、朗さんったら……」
「おい、みゆき、」
うわ、余計なことを、と思った時には、みゆきはぺらぺらと聞かれてもいないことを話し出していた。
「……私が『先生』って言うたびに、ペナルティだって……」
ようやくこの話題の危うさに気がついたのか、みゆきはそこで言葉を止めた。
エレベーターの中は、見事なまでに静まりかえってしまっていた。
「……って、やぁねえ。もう。朗さんったら、根が意地悪だから……」
明らかに変質した場の雰囲気は、もう、それぐらいの軽口ではほぐれない。
外部から閉ざされたエレベーターの中、辺りが急に暗さを増したような気がした。
「良いことを聞いた」
男の低い囁き声が響く。
「次に、君が私を『先生』と呼んだら、ペナルティだ」
「ちょ、ちょっと、先生」
「ほら、もう、一回目」
男が女を抱き寄せた。
「何考えてるんですかっ、せ……朗 さんっ」
「今、言いかけたね?」
「違……」
みゆきが両手で自分の口元を押さえたのが、目の端に映る。僕も、彼ら二人から視線を逸らせることができなかった。
目前で、ナマで、他人のキスを見るなんて機会、そうそうあることじゃない。
折角落ち着いてきていたはずの、昂っている気持ちが、またムクムクと湧き上がってくる。
くそ。これじゃ普段と立ち位置が全く逆じゃないか。僕は「見せる」事はあっても「見せられる」事には慣れていないんだ。
それに、ちょっと長過ぎやしないか?
いや、確かに、まだ相手が抵抗している以上は、大人しくなってもらうまでは、唇を離すわけにもいかないけれど。って言うか、僕なら間違いなくそうするわけだけれど。
動揺のあまりふらついたのか、みゆきの肩が僕の胸元に触れる。
まだ、キスは終わらない。
男は、もがく女の後頭部を鷲掴みにして、首の角度を何度も変えながら、深いキスを貪っている。
その一瞬。ちら、と彼が僕を見たような気がした。
見せつけられている。
いや、……誘われている、のか。
そう考えてしまうのは、僕の自意識が過剰なせいなのだろうか。それとも………………
「え? あき……」
みゆきに最後まで言わせずに、僕はみゆきの肩を掴むと、衝動のままに口づけた。
くぐもった抗議の声は、無視。
あとずさっても無駄だ。狭いエレベーター内、すぐに壁が行く手を阻む。
しかし、食いしばった歯が……邪魔だな。
「ちょっと、朗さ……」
一度軽く唇を解放すると、案の定みゆきは文句を言おうとした。そこをすかさず再び唇を合わせ、今度は舌まで貪ることにする。
「ん、んんんん……っ」
薄闇に沈みつつあるこの閉鎖空間。だが、視覚的にはとても開放されている。
ガラス張りの展望部分からは、深い灰色の空が、灯りを失って黒く立ち並ぶビルが、視線を落とせば、車のヘッドライトが並ぶ大通りが見えている。
これは、ちょっと……刺激的だ。みゆきが嫌がるのも無理はない。
だけど……君が嫌がる姿は、生憎と僕の大好物だ。
「もう、先生っ! いいかげんにしてください!」
「……また、言う。懲りないね、君も」
いけない、いけない。ここにもう一組いることを、忘れるところだった。
それに、停電だっていつ復旧するか判らない。
僕は、いつの間にかみゆきの腰を弄 り始めていた自分の手をなんとか止めて、彼女の腰を強く引き寄せるだけにとどめた。
そうして、もう一度深いキスを味わう。
まだ抵抗を諦めていないわりに、みゆきの舌は反応良く絡みついてくるような。
舌で口の中をかきまわすたびに、彼女の腰がもじもじとうねる。
なんだ、みゆきもソノ気なんじゃないか。
とはいえ、ここではこれ以上は無理だろう。続きは、あとで。
非現実的な場所でのキスにちょっと倒錯的な快感を感じながら、未練がましくみゆきの耳元に唇を寄せた、その刹那……
「やだ……やめて……」
ちょっと待て。
そちらは一体、どこまでイク気なんデスカ?
すっかり暗くなったガラスの匣 の中、彼らが何をしているのか、もう明瞭には判別できない。
ただ、二つの人影が一塊 になっていることと……、そして、女の荒い息。
「お願い……」
「誰も見てやしない」
「って、そんな。そこに……」
何故だろうか。彼の笑みが目に浮かぶようだ。
「……彼らも、お楽しみ中だよ?」
足元がやけに頼りなく感じた。
ダメだ。
引き擦り込まれる。
思わず、みゆきの身体に回した腕に力が入る。
「あ……あきら、さん……?」
か細く震える、みゆきの声。
ダメだ。このままでは…………
灯りは唐突に戻ってきた。
暗闇に慣れた目に、眩し過ぎる照明の光が突き刺さる。
最初に視界に入ってきたのは、上気したみゆきの顔。
思わず顔を巡らせば、真っ赤な顔で不機嫌そうに上着を直している志紀という女。そして、満足そうな表情で彼女から離れる朗 と呼ばれた教師。
「誰かおられますか? 大丈夫ですか!?」
僕の背後にあったスピーカーから、男の声が飛び込んでくる。
僕は咄嗟にその声に返事した。
「あ、はい。大丈夫です」
「お怪我はありませんか!?」
「はい」
「今から動かしますので、気をつけてください」
どこからか低いモーター音が響き、がくん、とエレベーターは再び動き出す。
窓の外、煌びやかな夜景を背景に、雪がまだちらちらと降っていた。
結局、食事の前にホテルに行くことになってしまって。
でも、その道すがら、みゆきは物凄く不機嫌そうで。
「もうっ、信じられないっっ!」
そんなに怒らなくっても。
大体、みゆきだって、シッカリ感じてしまっていたじゃないか。
「別に、私は何もペナルティを受けるようなことしてなかったじゃない」
「僕はペナルティなんて与えてないよ? あれは単なる愛情表現で……」
「それに、朗さんみたいな人が他にもいるなんて、もう、信じられない!」
すたすたと前を歩くみゆきに、思わず問いかける。
「僕みたいな?」
「そうよ。普通の人は、人前でキスなんてしないわよ」
そうか。いつぞやの僕のかわいいキスと、さっきのあの男の「あの」キスと、君は同じだと言うんだね。
ううん、まだまだ君には教えてあげなきゃいけないことがあるみたいだ。
僕は足取り軽く、みゆきの後ろ姿を追いかけていった。
〈 了 〉