あわいを往く者

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サークル勧誘

  
  
  
   サークル勧誘
  
  
  
 お昼どきの学生会館前は、なかなかの混雑ぶりだ。学生食堂の入り口は当然のこと、建物を出て更に長く伸びる行列を見て、ヒカリは思わず溜め息をついた。必修科目の授業が始まって二日、履修登録が締め切られるのはこの週末だ。選択科目の授業が始まれば、人出はもっと増えるに違いない。混み具合がもう少しマシになるのを今か今かと待っていたが、この様子だと学食でお昼を食べることができる日は永遠に来ないかもしれないな、とヒカリは再度深く嘆息した。
 いかにも新入生っぽい男子学生が、状況がよくわかっていないのかキョロキョロと不安そうに辺りを見まわしながら学生会館の入り口へと向かっていく。ほどなく「まさかこの列が」とばかりに足を止めたところで、列の最後尾辺りから「食堂かー?」「並んでんだぞー」と不満そうな声が上がった。
「あ、す、すみませ……」
 列の後ろに並ぼうと慌てる男子学生が、足元の段差に躓いた。転倒する、とヒカリが息を呑んだ次の瞬間、太い腕が横からサッと伸びてきて、すんでのところで男子学生を支えた。
「あ、ありがとうござい、ま、す?」
 男子学生の声が途中で裏返ったのも、無理はない。彼を支えた太い腕は、人間のものではなかったからだ。肩から手首までが丸太のように均質な太さをしていて、表面は手触りの良さそうな布地で覆われていて、……要するに、遊園地やテーマパークなどで見かけるような着ぐるみの腕だったのだ。
「え、なに、あれ」
「かわいー」
 食堂の列や通行人の間にざわめきが湧き起こる。
 身長は、背の高い男子学生と同じぐらいだろうか。着ぐるみのスタイルは三頭身ちょっとといったところで、ずんぐりむっくりとしたシルエットのお蔭で背丈の割りに可愛らしく見える。テレビの幼児番組に出てきそうな雰囲気にデフォルメされた、ショートカットの女の子――
「〈さくら〉やん」
「あー、あれ、オブジェじゃなかったんや」
「『こいつ……動くぞ!』てか」
「え、クオリティたっかー」
 ――女の子の姿をした、大学祭マスコットキャラの着ぐるみだった。
 この大学では、春と秋の二回、大学祭が行われる。新入生に向けての活動発表や歓迎会を兼ねて、四月下旬に開催されるさくらさいと、学外に向けてより大々的に行われる、十一月初頭のもみじさいだ。大学祭の広報によると、〈さくら〉はその名のとおりさくらさいのマスコットキャラクターで、同じくもみじさいのマスコットである〈もみじ〉とは双子の姉弟ということだ。権利関係があまり厳しくないのだろう、色んなクラブやサークルの、立て看板やチラシでも大活躍している。
 双方ともアースカラーをしたお揃いのハーフパンツ姿で、〈さくら〉はシャツをタックアウトに、〈もみじ〉はタックインしている。ボタンやベルト、ネクタイは、それぞれ桜色と紅葉色。目鼻立ちの造形は癖が無く、広く一般に受け入れられそうなデザインで、〈もみじ〉のほうが若干眉が太くてきりっとしている以外は、双子というだけあってそっくりだ。今しがた男子学生を助けた着ぐるみは、その〈さくら〉を見事に立体化したものだった。
 ざわめく群衆に愛想よく手を振ってから、着ぐるみは男子学生を食堂の列最後尾へと誘導する。大きな動きで、どうぞ、とエスコートを締めくくり、戸惑いながらも礼を言う学生に、いえいえどういたしまして、と言わんばかりの身振りを披露する。ガワの出来栄えもお見事だが、中の人の動きも只事ではない。登場以来一言も声を発しないことといい、プロの仕事だ。
 そういえば昨日もこいつは学生会館の庇の下にいたな、とヒカリは思い出した。随分と凝った置物だな、と思っていたが、中に人が入っていたのか。
 着ぐるみの観察をひととおり終えたヒカリは、あらためて学生食堂を見やった。友人と昼食後に会う予定だったので、待ち合わせに食堂を使えたらいいなと思っていたのだが、この長蛇の列にはとてもではないが付き合いきれない。昨日見つけた木陰に行こう、と彼女はきっぱりときびすを返した。
  
 学生会館前はちょっとした広場になっている。大きな木がほどよい密度で何本も生い茂っていて、芝生の上や木陰には幾つものベンチが設置されていた。お弁当を広げる学生で埋まりつつあるそれらを横目で見ながら、植栽を回り込んだヒカリは、広場の端、三方を灌木に囲まれた秘密基地のようなベンチに腰をおろした。昨晩スーパーマーケットで買っておいたタイムセールのおにぎりと、お茶を入れたマグボトルを鞄から出して、「いただきます」と手を合わせる。
 と、鞄のポケットからスマホがブルブルと震える音が聞こえた。見れば、茉莉からメッセージが届いている。
『ヒカリ、イマドコ?』
 ヒカリは思わず眉を寄せた。約束は昼食後だったはず、と。
『まだ飯食ってる』
『もし一人だったら、一緒に食べない? 用事が思ったよりもすぐ終わっちゃって』
『いいよ』
 ベンチの場所を伝えた数分後、きょろきょろと辺りを見まわしながら茉莉がやってきた。ヒカリの姿を見つけるや否や、ぱあっと目を輝かせて駆け寄ってくる。
「すごい、ここ、こぢんまりとしててなんだか秘密基地みたいだね!」
 自分と同じ感想を聞いて、ヒカリはなんとなく嬉しくなった。それを察したか、茉莉もニカッとお日様のような笑みを浮かべる。
「ヒカリの笑顔は健康に効くわぁ。レアな分だけ効能も抜群よね」
「なんだそれ。それに、別に笑ってなんかいないけど」
 ヒカリが不貞腐れてみせると、ベンチの隣に腰を落ち着けた茉莉が、またしてもイイ笑顔を返してきた。
「そういう表情してても目元が優しいの、ズルいわー」
「どこがだ。怖い、の間違いじゃないのか」
 一昨日、初めての英語の授業が終わったあとに見知らぬ男子学生にいきなり話しかけられ、一方的に自己紹介を受け、名前とSNSアカウントの有無まで訊かれたので、とりあえず「は?」と返したら、「し、失礼しました!」と怯えた顔で脱兎のように逃げていかれたことがあった。脅す気が無かったと言えば嘘になるが、走って逃げることはないだろうに。
 その話を聞いた途端、茉莉は「あー」と息を吐き出してから「ヒカリの魅力はちょっと玄人向けだからな……」と肩を落とした。
「ヒカリってば、素材はイイんだから、もう少しお化粧とかお洒落とかして、もう少し――いや、少しだけじゃあ駄目か――もっと可愛く喋ったら、きっとモテモテだと思うんだけど」
「見た目と上辺の態度で誤魔化されてしまうような馬鹿にモテて、どうするってんだ」
「言うと思った」
 小気味よい笑い声を上げたのち、茉莉は好奇心旺盛な様子で身を乗り出してきた。
「でも、そういえば去年から髪の毛伸ばし始めたよね。なんで? イメチェン?」
「散髪代が勿体ないから」
「それまでは短くしてたじゃない」
「面かぶった時に、首回りがもさもさするのが嫌だったから」
 高校の三年間を通して、ヒカリは剣道部に所属していた。剣道では、面をかぶる前に面下と呼ばれる手ぬぐいを頭に巻くことになっているが、髪の腰が強くて量も多いヒカリにとって、面下からはみ出てしまう髪はひたすら鬱陶しいものだったのだ。後ろでくくれるようになるまで髪を伸ばそうとしたことも何度かあったが、途中で耐えきれなくなるのが常で、結局部活を引退するまでヒカリはショートカットで通したのだった。
「ふうん。何か心境の変化とかあったのかな、って思ってたんだけどなー」
 好きな人ができたとかさー、と茉莉が悪戯っぽく笑いながらサンドイッチを頬張る。
 ヒカリは、フンと鼻を鳴らすと、話題を変えた。
「このあとは、サークルの話を聞きに行く、って?」
「そう。一昨日に学生会館前で声をかけられて、ちょっと面白そうだな、って思って」
「声をかけられて、って、変な連中じゃないのか?」
 大学構内でカルトやネットワークビジネスの勧誘が行われることがあるので注意するように、という話は、生協主催の説明会で聞いていた。サークルを装って人間関係を構築し、被害者を少しずつ取り込んでいくそうで、気がついた時にはもう抜け出せない――いや、その時には抜け出そうなんて考えられなくなっているわけだから、カルトの価値観に染まってしまう――ことになるのだという。
「それは私もちょっと思った。だから個人情報は一切何も口に出さなかったんだけど、その人も『色々と怪しい団体が跋扈してるって聞くから、警戒して当然だよ』って笑ってたんよ。『そもそも初対面でいきなりID交換なんて、なかなかやらないよねえ』って」
 説明会で紹介された他大学制作の啓蒙動画では、勧誘者がなんだかんだ理由をつけてメッセージアプリのアカウント交換を持ちかけていた。声をかけたその場で即勧誘、では獲物に逃げられてしまう可能性が高いから、連絡先を交換して日を改める、というふうにワンクッション置いて勧誘の成功率を上げようという作戦らしいが、それでもやはり強引さは否めない。
「で、明後日――今日ね――の三コマ(三時限)が空いているなら、学生会館前のクスノキの所に来てくれたらサークルの説明をするよ、って言われて。『友達と一緒でもいいですか?』って訊いたら『勿論よ!』って言ってたから、怪しくないんじゃないかなあ」
 そしてその啓蒙動画によれば、カルトの勧誘はターゲットが一人の時を狙ってくるということだった。なるほどそれなら大丈夫か、と、ヒカリは警戒を一段階だけ下げることにする。
「けど、クスノキって。部室とかそういうのはないのか?」
「なんかね、部室がある建物は何年も前からもう満杯で、仕方なく学生会館の二階ホールを活動拠点として登録してるんだって。そういう大学公認のサークルは結構あるらしいよ」
「んじゃ、そこで説明すればいいんじゃね? 二階ホールって、食堂の前の階段を上がった所だろ? ベンチとテーブルがたくさん並んでたぞ」
 大学に入学して間もなく、お昼どきに学生会館の二階へと向かう人の流れが気になって、ヒカリは階段をあがってみたことがあった。そこは学生食堂ほどではないが広い空間になっていて、ベンチと一体型の六人掛けテーブルが幾つも整然と並んでいた。お弁当やテイクアウトの食事を広げる学生のほか、ノートや書籍を前に数人で話し込んでいる者達もいたから、サークル活動も内容によっては問題なく行えそうである。
「それがね、四月はどこのサークルも勧誘に必死で、ホールも結構混むんだって。それに、外のほうが明るくて気持ちいいから、って」
「ふうん」
 まあ、くだんのクスノキは学生会館から丸見えだから、他人の視線を避けているわけではなさそうだ。ここでようやく肩の力を抜いたヒカリは、一番重要なことを茉莉に訊いた。
「で、そのサークルって、なんのサークルなんだ?」
「国際交流のサークルだって。関西の他の大学や、なんなら国外の大学とも繋がってて、海外からの留学生とかと交流して、文化の違いや英語を学ぶらしいよ」
「国際交流? そういうのに興味があるんだ?」
「英語力や知識を身につけたら、就職に有利ってのもあるけど、なにより世界が身近になるのがいいと思うの。そうなれば、アメリカだろうがどこだろうか、ちょっと海を隔てただけのお隣さんよ。四国と一緒よ」
 鼻息荒く言いきって、そうして茉莉は得意げにヒカリを見た。一際強い眼差しで、ヒカリの目を覗き込む。
「選択肢は、多いほうがいいに決まってるでしょ?」
「……選択肢」
「そう。でもそれはあくまでも選択肢なわけよ。何を選ぶかは自分次第ってこと」
 茉莉はそうにっこりと笑うと、「気楽に行こ!」と片目をつむった。
 いつもそうだ。いつだって茉莉は、こうやってヒカリに手を差し伸べてくれる。高校の時から、もうずっと。ヒカリは胸の奥底がじんわりと温かくなるのを感じて、そっと目を伏せた。
「……茉莉は相変わらずウインク下手だな」
「今のは練習しているほうの目だから! 慣れてるこっちだったらきれいにキめられるから!」
 ほら! ほら! と右目を閉じまくる茉莉を見つめながら、ヒカリはゆっくりとおにぎりを口に運んだ。
  
 食事を終えた二人は、一旦学生会館に戻った。そろそろ三コマ目が始まる時刻で、ガラス越しの食堂には空席が増えつつある。それを横目で見ながら階段脇に並ぶゴミ箱に昼食の包み紙を捨てた、その時。二人の足元に、ぬっ、と大きな影が差した。
「あ、さくらちゃん!」
 屈託のない茉莉の声を受け、着ぐるみが器用に可愛くぴょんと跳ねる。右手を上げた着ぐるみに合わせて茉莉もまた右手を上げ、二人――二人?――は見事なハイタッチを決めた。
 ポカンと口をあけてあっけにとられていたヒカリは、なんとか我に返るや茉莉に「友達?」と尋ねた。
「ううん、違うよ。でも、キャストさんからハイタッチを求められたら、応えるのが作法だし」
 大学に出没する着ぐるみも、夢の国のと同じ扱いでいいのか。ていうかさっきの動きはハイタッチを求めていたのか。瞬時に幾つものツッコミが頭に浮かぶが、ヒカリはかろうじて声に出すのを我慢する。
「昨日も見かけたけど、完成度高いなあ! もみじくんはいないの?」
 茉莉に問われた着ぐるみは、両の手のひらを合わせると頬の横に添え、僅かに首をかしげてみせた。
「……『おやすみ』ってこと?」
 大きく頷く三頭身の着ぐるみ。重そうな頭部の割りに、その動きは危なげない。
「さっき見た皆の反応を考えると、この着ぐるみ」「さくらちゃん」
 即行で茉莉から訂正が入り、ヒカリは仕方なく言い直すことにした。
「さっき見た皆の反応を思い返すと、この〈さくら〉は、作られたばかり」「デビューしたばかり」「あ、うん、デビューしたばかりみたいだから、〈もみじ〉はまだ完成……デビューしてない、ってことだったりしてな」
 ちょっと思いついただけのことを喋るというだけで、こんなに苦労したのは初めてかもしれない、とヒカリは溜め息をついた。黙っておけばよかったな、と思いながら着ぐる……〈さくら〉を見れば、なんと彼女はビシッとヒカリを指さしてから親指を立てた。どうやら、正解、だと言いたいようだ。
「あ、そうだ、さくらちゃん、写真撮っていい? 叔父さんに送ろーっと」
「おじさん?」
「うん。父方の叔父さんもここの卒業生でね、合格を報告した時に、『〈さくら〉と〈もみじ〉って大学祭のマスコットキャラがあってな、あれは学生時代に僕の友人がデザインしたやつなんだぞー』って自慢してたから、三次元になってるよ、って教えてあげようと思って」
「へぇー、思ったよりも歴史ある存在だったんだな」
「大先輩だよね。さくらパイセン!」
 得意げに胸を張る〈さくら〉を何枚か写真に収めたところで、茉莉が「あ、そろそろ時間だ」とヒカリを振り返った。
「行こう、ヒカリ。さくらちゃん、ありがとうね!」
 投げキッスめいた動きをする〈さくら〉に見送られながら、二人は学生会館を出た。
  
 学生会館を出て、ちょうど真正面、広場のど真ん中にはシンボルツリーといわんばかりに一際大きなクスノキが植わっている。学生会館の二階ホールに並んでいたのと似たような、ベンチつきのテーブルが、木を取り囲むようにして幾つも置かれていて、ちょっとしたオープンカフェみたいだ。さっきはお昼ご飯を食べる学生で座席が埋まっていたが、三コマ目が始まった今は、ほぼ誰もいない。
 その僅かに残っていた人影のうち、学生会館から見てクスノキの向こう側に座っていた二人組が、ヒカリと茉莉が木に近づくのを見て腰を上げた。茉莉よりも小柄な、ロングスカートの女子学生と、ヒカリよりも背の高い、だぼっとしたシルエットのズボンを穿いた女子学生だ。
「あの人達?」
「うん。背が高いほうの人が、一昨日私に声をかけてきた人だよ」