あわいを往く者

   [?]

鏡にのぞめば

  
 目指す鏡は、二階に至る踊り場の正面の壁にかけられていた。その昔、学生運動が盛んだった時代、運動家が校舎に籠城する際に階下を警戒するためにつけられたとか、文学部の某教授がナルシストで、研究室に向かう途中に鏡が無いとやる気が出ないからだとか、単に寄贈された鏡が大き過ぎてかける場所が他になかったからだとか、鏡の由来には諸説こもごも存在するが、真実を知る者は誰もいない。
 時刻は十一時五十五分。
 高さ二メートルほどの姿見には、眉間に皺寄せたホノカが映っている。
 ――私はこんなところで何をやっているんだろう。
 ふう、とホノカは肩を落とした。
 迷信に縋ったところで、事態は何も変わらない。もしもヒタカの姿が鏡に映ったとしても、得られるのは虚しい自己満足だけだろう。
 ――「俺も会いたかった」とか何とか、嬉しいことを鏡が喋ってくれるっていうのなら、話は別だけど。
 でも、饒舌なヒタカはもはやヒタカではない。ホノカはがっくりと肩を落とした。
 無口だとか愛想がないとか堅苦し過ぎるとか、ホノカの友人達からボロクソに言われていたヒタカであったが、いざ付き合い始めてみれば、多少口数は少ないものの、雑談もするし冗談だって飛ばす、ごく普通の男子だった。とはいえ、当たり障りのない会話はともかく、進路など重要性の高い話題になれば、途端に彼は寡黙になった。
 ホノカが一度、もしや秘密主義者? と皮肉交じりに問いかけた時、彼は少し黙り込んだのち、「会、みたいなものか」と言った。
 ヒタカは小さい頃から弓道をたしなんでいる。高校時代は弓道部に所属し、大学進学に際しても、一人暮らしのアパートに道具一式を持って行ったほどだ。「会」とは弓道用語で、弓を引きしぼった状態のことをいうのだそうだ。
「言葉も矢と同じだ。手を離せば、もう自分にはどうしようもなくなってしまう。放たれる時がくるまで、放つべきではない、そんな感じかな。言葉だって、不用意に当たれば、その人を傷つけてしまうから」
 あの時、そう言ってヒタカは、眩しいぐらいに真っ直ぐな瞳をホノカに向けた。
 ――まったく、どんだけ弓道馬鹿なんだか。
 過去から意識を引き剥がし、ホノカはやれやれと頭を振った。それから、威勢良く鼻を鳴らして胸を張った。
 ――まあ、そういうの全部込みで、好きなんだけど!
 と、そこで当初の目的を思い出したホノカは、大慌てでポケットからケータイを取り出した。画面の隅、デジタル時計が、零時まで一分足らずと告げている。
 ホノカがほっと息をついたその時、ふと、視界の端で、何かが動いた、ような気がした。
 ごくりと唾を飲み込んで、彼女はゆっくりと鏡を振り返った。
  
  
  
 ケータイがいつもの着信音を陽気に奏で始める。
 自室のベッドに腰かけたホノカは、すぅ、と大きく深呼吸をしてから通話ボタンを押した。
「やっほー、内山く……」
『大宮さん、昨晩、鏡見に行った?』
 いつもはここで杓子定規な『内山です』という名乗りが聞こえてくるはずだった。それが一体どうしたことか、彼にしては急いた声が、受話器から勢い良く飛び出してきたのだ。
「あ、うん、行ったけど。どうしたの、内山く……」
『大宮さん、もしかして最近散髪した?』
「ええ? あ、まあ、先週美容院行ったけど」
 なにやら絶句したような気配が、ホノカの耳に伝わってきたかと思えば、間髪を入れず、畳み掛けるようなヒタカの攻勢。
『昨夜はどんな格好をしていた? どんな服を着て……』
「ちょ、ちょっと待って、内山君。ちょっと落ち着いてよ」
 ようやくそこで我を取り戻したのか、電話の向こうでヒタカが深く嘆息した。
『ああ、すまん』
 ぼそり、と詫びの言葉を呟いて、ヒタカが黙り込む。そしてそのまま、沈黙が続く。
 一秒、二秒、三秒……。
 どうやら落ち着いたついでに、一気に普段の彼に戻ってしまったらしい。ホノカはわざとらしい溜め息をついてみせると、有無を言わさぬ気迫を声に込めて、話の続きを促した。
「で。どうしたの?」
 珍しくも、ヒタカはモゴモゴと口ごもり、やがて何か観念したかのように訥々と語り始めた。
『いや、その……、実は昨夜、俺も遅くまで大学に残ってたんで、ついでに件の大鏡を見に行ってみたんだ』
 似たような話があると言っていたやつね、と、ホノカが相槌を打つ。
『時報に合わせてきっかり零時に、……その、……大宮さんの姿が鏡に映ったような、気がした』
 予想外の展開に、ホノカはケータイを構えたまま、二、三度まばたきを繰り返した。
『まさかそんな、見えるはずのないものが見えるなんて、って思ったんだが、一応確認しておこうかと思って』
「確認、って、髪型とか服装とか? そんなまさか、鏡同士が繋がったかも、って?」
『鏡面に思念が投影される、って説に比べたら、まだトリックが介在する余地があるかな、と思って』
「でも、そのあとに鏡を調べたんでしょ?」
『ああ。何も仕掛けは無かった』
 自嘲めいた笑いが、幽かにスピーカーから漏れてくる。
 らしくない反応だなあ、と小首をかしげたホノカの脳裏に、ふと閃くものがあった。
「ちょっと待って。そっちの鏡って、一体何を映すって話だったの?」
 一瞬息を呑むような音がしたかと思えば、あからさまな沈黙が、受話器の向こうに降りる。
「もしもーし、聞こえてる?」
『……言わないと駄目か?』
「そんなこと言われると、もう絶対聞きたくなる」
 ホノカの語気に気圧されたのか、ヒタカがそろりと口を開いた。一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと言葉を吐き出していく。
『今一番会いたいと思っている人間、だそうだ』
  
 ホノカの頭の中で、今聞いたばかりのヒタカの声が何度もリフレインする。呆然とするあまり、ホノカは身動き一つできない。
 ややあって我に返ったホノカは、物凄い勢いでケータイのマイクにかぶりついた。
「わ……私も同じだよ! 見えたの! 内山君の姿が!」と、そこまで言って、ヒタカに鏡のことをきちんと話していなかったことを思い出し、慌ててつけ加える。「って、あのね、実はうちの七不思議、大鏡の話が二つあって、私、実はもう一つの、一番会いたい人に会えるって鏡を見に行ったの!」
 ここで言わずして、一体いつ言うのか。恥ずかしさで倒れそうになりながらも、ホノカは最後まで言いきった。肩で大きく息をして、汗ばむ手のひらでケータイを握り締める。
 ――あの低い優しい声で「嬉しいよ」とか言われたらどうしよう。いやいやまさか、「今から会いに行くよ」なんて映画みたいな展開はないだろうけど、でもでも丁度今度連休があるし、もしかして、もしかしたら……。
 この上ない嬉しさに、ホノカはすっかり舞い上がっていた。ただでさえ、昨夜、念願の七不思議を体験できて上機嫌だったのだ。ホノカの浮かれっぷりたるや、どれほどだろうか。
『……そうか』
 だがしかし、そこでヒタカから返ってきたのは、落胆の声に他ならなかった。
 まるで冷水を浴びせかけられたかのように、ホノカの身体から一切の熱が奪い取られた。胸の高鳴りもすっかり息を潜め、重苦しく脈動するこめかみだけが、どくどくと時を刻んでいる。
 ホノカは、カラカラに乾いた唇を必死で動かして、おそるおそるヒタカに問いかけた。
「あの、もしかして、何か、えらくガッカリしてません?」
 嘘でもいいから「そんなことない」と言ってほしかった。だが、ホノカが聞いたのは、「あぁ」とか「まぁ」といった曖昧な、そして恐らく肯定の意を含めた呟きのみ。
 ホノカの中を満たしていた喜びが、急速に那辺へと引いていく。
「私が内山君に会いたがってるとか、当たり前のこと過ぎて嬉しくもない、って?」
 すっかり投げやりな気分になったホノカは、ベッドの上に力無くぱたりと倒れ込んだ。
『いや、それは勿論嬉しい』
 ――だったら、ガッカリすることないじゃない!
 勝手に期待して、勝手に浮かれた自分が馬鹿だったんだ。そう唇を噛むホノカの耳に、思いもかけない言葉が飛び込んできた。
『嬉しいんだが、その前に虫のいい早とちりをしてしまっていたから……、その反動でがっかりしているように聞こえたんだと思う。悪かった』
「早とちり?」
 刺々しさを含んだ弱々しい声に、申し訳なさそうな声が応える。
『あ、いや、その、なんだ、……俺が映った鏡というのが、昨日聞いたやつのほうだと思って』
 昨日聞いたやつのほう。
 ――未来を映す、不思議な大鏡。
  
 一呼吸のち、ホノカはようやっと、彼の言葉が意味するところに気がついた。一瞬にして、ホノカの顔は耳まで真っ赤に染まる。
 さて、何と言って返したものか。ホノカは上気した頬にケータイを当てたまま、しばしゴロゴロとベッドの上を転がり続けた。
  
  
  
〈 了 〉