あわいを往く者

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黒の黄昏 第十六話 昼を司り、命をもたらす者

  
  
  
    第十六話   昼を司り、命をもたらす者
  
  
  
「準備はよろしいですか?」
 廊下の、天井近くまでを占める大きな窓から、さんさんと降り注ぐ陽光があまりにも耀かしくて、うっかりと季節を錯覚しそうになってしまう。
 雲に閉ざされていることの多い帝都の冬。こんなにも見事に晴れ渡った空は、一体何日ぶりだろうか。ルーファスはノックの返事を待ちながら、昂る胸をなんとか落ち着かせようと、大きく深呼吸した。
 これは吉兆なのか、凶兆なのか。
 ――いや、悩むまでもない。瑞兆に決まっている。そうでなければならないのだ。
「ルー、もう入ってもいいわよ」
 扉の向こうから響いてきた鈴の音のような声に、ルーファスは改めて居住まいを正すと、扉を静かに押し開けた。
  
「どう? 上手く仕上がったのじゃなくて?」
 年子の姉ユーティアが、ルーファスを振り返って得意そうに微笑んだ。散らかっている衣服や小物を片付けながら、ユーティアつきの使用人達が部屋の隅へと下がっていく。
 部屋の中央、姿見の前で立ち尽くしている人物の、茫然自失な表情を見て、ルーファスは思わず盛大にふき出してしまった。
「悪い子じゃないようだし……、どうせ侍女を連れて行くつもりだったから、お父様達も適当に誤魔化せるでしょうけど……」
 そこで言葉を切ったユーティアは、弟そっくりの美しい眉を微かに曇らせて、声を落とした。
「私、悪事に加担するのは嫌よ」
「大丈夫ですよ、姉さま。全てはマクダレン皇家のため、カナン家のためです」
「ウォラン家のため、でもあってほしいけど?」
 嫁家の名前を口にしてから、ユーティアは片目を閉じた。
「約束どおり、あとでどういうわけなのか話してもらうわよ? じゃ、ええと……リーナさん、そろそろ参りましょうか」
「…………は、はいっ」
 慌ててかぶりを振るリーナの、結い上げられた茶色の髪には、ところどころにガラス玉があしらわれている。決して派手過ぎない、だがすこぶる華やかな薄紅色のドレスは、襞の一つ一つが雲母の光を放っていた。衣装に合わせて用意された手袋も、靴も、おそらくは靴下や下着までもが、きっとリーナが一生かかっても手に入れることのできないような高価な代物であるはずだ。
 まるで良家の子女のごとく大変身を遂げたリーナは、ともすれば中空に漂いだしそうになる意識を必死で掴み直して、再度大きく頷いた。
  
  
  
「急な我侭を聞き入れていただき、感謝しておりますとお伝えいただきたい」
 あてがわれた客間に通されながら、エセルはにっこりと極上の笑みを浮かべた。あの時と同じ宮宰が、少しばつの悪そうな表情でエセルに向かって深く敬礼する。
「我があるじから、サベイジ様には十分に便宜をお図りするように、言いつかっております。本日はご友人かたがた、ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「お心遣い、心から感謝する」
 宮宰が退出すると、エセルの傍らから大きな溜め息が漏れた。着慣れない黒の礼服に身を包んだ溜め息の主は、緊張のあまり深茶色の髪をかきむしろうとした手を必死で止めて、もう一度大きく嘆息した。
 その横では、落ち着いたデザインの萌黄色のドレスを身に纏った女が、覚悟を決めたように背筋を伸ばして立っている。真っ直ぐに下ろされた黄金色の長い髪が、エセルのほうを振り返った拍子に優雅に揺れた。
 エセルはそんな二人を見つめながら、不敵な笑みを口元に浮かべた。
 今日の新年の式典には、サベイジ家自体は招待されていない。政治向きのことに興味がないエセルにはその理由など想像もつかないが、戦後に一家がルドスに移動したことを考えても、サベイジ家と皇室の間には何か確執めいたものが存在するのかもしれなかった。
 ――自分が式典に出席するということを知ったら、父はどう思うだろうか。そして、その式典で何をしようとしているか、何に加担しようとしているかを知ったら。
  
 無礼を承知で願い出た同伴者の追加はあっさりと許された。計画は順調に進んでいる。
 金糸銀糸で刺繍が施された長椅子に身を沈ませて、エセルは鷹揚に、「ガーラン」「インシャ」と、未だ部屋の隅に立ち尽くしている二人の呼び名を芝居がかった口調で口にした。
「さて、宴の始まりまでもうしばらくだ。二人とも、用意は良いか?」
 エセルの声に、二人は黙って頷いた。
「吉と出るか、凶と出るか。せいぜい楽しむこととしようか」
 その一瞬、中庭に面した窓を木枯らしが震わせる。冷たく冴え渡った冬の青空を背景に、葉を落とした木々が一斉に梢を揺らし始めた。
  
  
    一  謁見
  
  
 楽隊の奏でる軽やかな音色が、辺りにゆったりと漂っている。
 華やかな天井画を頂いた「鷲の塔」の謁見の間。煌びやかに着飾った沢山の人々が、笑いさざめきながら、穏やかに談笑を交わし合っている。
 時候の挨拶に始まり、お互いの近況、縁談の話、出世の話。最新の話題を問う声に、噂話のひそひそ声。
 時折会話を休止しては、楽の音に耳を傾け、ご婦人方のドレスを誉めそやす。
 うららかな陽光は広間を春の陽気で満たしていた。
  
 ――外は、寒風が吹きすさんでいるというのに。
 慣れないドレスに足元を取られながら、リーナはユーティアとルーファスの陰に隠れるようにして、読本よみほんや噂話の中でしか知らなかった宴の様子に、ただ目を丸くしていた。
 ユーティアの予言通りに、カナン公爵とその夫人は、娘が連れて来た侍女にあまり注意を払わなかった。今現在の彼らの関心は、未だ決まったお相手が見つからぬ次女に集中しているからだ、と姉弟は苦笑していた。
「私みたいに、下級貴族に引っかかったら大変だ、なんですって」
 ルーファスと同じように気さくな人柄のその姉は、リーナのことを本当の友人のように扱ってくれていた。流石に、今日初めて会った人間、しかもお貴族のお嬢様相手に砕けた物言いもできず、リーナは随分と無口であったが、場を持たせようとして自分に話しかけてくれるユーティアに対して、大きな瞳に精一杯の感情を込めてひたすら相槌を打ち続けていた。
「気分は大丈夫ですか?」
「あ、うん。いえ、はい。平気です」
 明るく返答するリーナに、ルーファスが僅かに眉間に皺を寄せる。
「……その。本当に大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫です」
 リーナは目元に力を込めると、きっぱりと頷いてみせた。
 昨夜一晩かかって、彼女は可能な限りの下準備を成して来た。あと、リーナに必要なのは、ほんの瞬きほどの時間のみ。それだけあれば、くだんの呪文は詠唱できる。リーナが「の者」を封じさえすれば、憑依されていた人間は自我を取り戻すだろう。そうすれば、彼女達の行為も正しく評価されることとなるはずだ。たとえ一時いっときは狼藉者として捕らえられようとも。
 リーナは決意新たに、視線を二人の協力者に巡らせた。
 ――とにかく、呪文を成功させることだ。私はどうなろうとも、彼らの名誉を傷つけるわけにはいかない。
 震える身体を必死で奮い立たせて、リーナはもう一度ルーファスに笑いかけた。
  
  
  
 大いなる時がやって来た。
  
 軽快に音を重ねていた楽の調べが静かに止むと、やがて管楽器の独奏が始まった。人々のざわめきが潮のように引いていき、一同が下手しもてへと移動を始める。
 玉座にやや近い扉が開き、近衛兵が十二名、整然と列を成して入室してきた。腰には剣を、その手には槍を、儀式部の装飾が施された式帽と式服を着用した彼らは、隊列を崩さぬまま二つの玉座の周りの壁際三辺に等間隔に展開する。
  
 一つ、二つ、音色が重ねられていく。
 かそけき音色が、荘厳なる合奏へと編み上げられていく。
 誰もが背筋を震わせずにはおられない張りつめた空気の中、遂に扉は開かれた。
「アスラ様、セイジュ様のお成りにございます!」
 先触れの声とともに、二人の美しき支配者が臣下の前にその姿を現した。
  
  
 麗しき兄弟は、それぞれ彼らの補佐官である宮廷魔術師長と騎士団長を伴っていた。
 アスラ帝の玉座の傍らに官杖を手にしたロイが立つのを見て、リーナは一瞬絶望的な気持ちになった。最大にして最強の障壁の存在を失念していた、と。果たして、この自分に、先生よりも早く術を起動することができるだろうか……。
「アスラ様、セイジュ様、謹んで新年のお喜びを申し上げます!」
 水を打ったように静まりかえった大広間に、長々しい祝辞を読み上げる初老の貴族の声だけが響き渡った。
  
 人々が無言で見守る中、祝いの言葉を受け取った二人の皇帝は互いに軽く頷き合い、アスラが二人を代表するかのように立ち上がった。
 その言葉は、絶対なる神アシアスに奉げる祝詞に始まった。平穏に過ぎ去った旧年を感謝して、そして来るべき新年の更なる幸福を祈る。朗々と広間中を震わせる澄んだ声音はまるで歌のようで、その場に居合わせた全員が、ただうっとりとアスラの演説に聞き惚れていた。
「……そして、何よりもの我らが素晴らしき宝は、ここに集う有能にて忠実なる諸君である。新しい年の始まりを諸君らとともに祝うことができることを、我らは心より嬉しく思っている。今日という喜ばしい日を、ともに心から楽しもうではないか!」
 そう高らかに吟じて、アスラが優雅に玉座に着く。それを受けて、先ほどとは違う老貴族が、声を震わせながら絶叫した。
「皇帝陛下、万歳! マクダレン帝国、万歳!」
 割れんばかりの拍手と、飛び交う祝福の言葉が、高い天井に何度もこだました。
  
  
 再び楽隊が軽妙に旋律を奏で始める。下座に固まっていた臣民達が、ゆっくりと元いた場所へと散っていく。
 静まりかえっていた室内は、再びその陽気さを取り戻した。
 玉座におわすお二方の前には、個別の挨拶を求める者達が列を成していた。とりわけ、年頃の娘を連れた貴族達が、必死で兄帝におのが娘を売り込もうとするそのさまは、見る者によっては道化としか言いようがない。
 その滑稽な人々の列に、自分の父親の姿を見て、ルーファスは心の中で頭を抱えた。妹はまだ十三になったばかりだというのに、あんな子供を二十も歳の違う陛下に差し出そうと、父は本気で考えているのだろうか、と溜め息をつく。
 家名のための結婚。
 ルーファスには、身分違いを押しきって想い人と結ばれたユーティアのことが、心の底から羨ましく思えた。もっとも、身分違いとは言っても、ウォラン家は末席ながらも貴族の一員である。さもなければ、姉が想いを遂げることなど絶対に不可能だっただろう。
 兄が生きておれば。ならば、自分も自由な世界で生き続けられたはずだった。ルーファスは拳を握り締めた。
 そうでなくとも、リーナの心は自分のほうを向いていない。彼女の視線は、いつだって、あの、長身の剣士に時空を超えて注がれているのだ。
 恋人に捨てられた、と彼女がまだ誤解していた時ですら、彼女の瞳はルーファスをすり抜けてどこか遠いところを見つめていた。帝都へ上がることを快諾したのも、彼に会えることを期待してのことだったのかもしれない。
 そして、彼は再び姿を消した。彼女の心を掴み取ったまま。死んでしまったのか、生きているのか、そんなことは既に問題ではなかった。彼女が「生きている」と信じている限り、彼は生き続けるのだ。彼女の心の中で……。
 ――責任感、連帯感、勘違い。
 ルーファスの眼差しが切なそうに揺れる。発端は確かにそうかもしれないが、今なお胸のうちで燻り続けるこの想いを、一体どうすれば良いというのだろうか、と。
 温かく、朗らかなリーナ。素直で真っ直ぐで、揺るぎないその姿は、傍らにいる者に安心を与えてくれる。そして彼女の豪快さは、そのまま彼女の寛容さでもあった。どこか懐かしさを感じさせるその印象が、かつての乳母に重なるということにルーファスが気がついたのは、帝都の我が家に帰ってきてからだった。その事実はあまりに気恥ずかしくて、流石の彼も誰にも言っていない。
 気持ちを落ち着かせようと、ルーファスは静かに息を吐いた。
 たとえ世のためとはいえ、陛下に得体の知れぬ術をかけたとなれば、リーナも自分もただではすまないだろう、そう彼は覚悟していた。咎人の烙印は、カナン公爵をしてルーファスを廃嫡するに充分な代物に違いない。
 陛下が「の者」のくびきから解き放たれ、その結果罪を赦免されることになろうとしても、こんな破天荒な跡取りは公爵の望むところではないはずだ。今でさえ、ルーファスの本草学「趣味」に眉をひそめている彼ならば、きっと大喜びで三男を新たな嫡男に据えるだろう。
 まだ十にも満たない弟のことを思えばルーファスの胸は少しばかり痛んだが、それを振りきるように彼はゆるりとかぶりを振った。「みそっかす」と呼ばれ続けた自分なんかよりも、きっと弟のほうがこの世界に向いている、と。そうして……今度こそ、もう一度彼女に……
  
 は、とルーファスは我に返った。
 傍らにいた姉達の姿が無い。
 慌てて周りを見まわすと、数丈先で知人と談笑するユーティアの姿が確認できた。だが、その後ろにつき従っているはずのリーナはいない。
 胃の辺りが、冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。
 ――どこだ。
 ――どこに。
 焦るルーファスの視線が、ようやっと人垣の向こうに薄紅色を見つけた。
 リーナは、真っ直ぐ玉座へと向かっていた。
  
  
  
 早くこの重圧から解放されたい。役目を果たしたい。
 ただそれだけの思いを胸に、リーナは前へと進み続ける。
  
 リーナの脳裏に、彼女が知らないはずの太古の映像が結ばれる。
 どこかの山道。黒い服の裾をひるがえしながら、足早に歩く「自分」。
 木々の向こうに垣間見える、石造りの建物が目的地だ。
 与えられた啓示に従い、王に憑りついたの者を封印するのだ。
  
 時代も場所も、「自分」も異なれど、為すべき事は変わらない。
 勝負は一瞬。
 まだ誰もリーナに注意を払う者はいない。
 覚悟を胸に刻んで、リーナは玉座に向かって歩み続けた。
 と、その時。
「お嬢さん」
 突然、若い貴族がリーナの目の前に立ち塞がった。
 びっくりして足を止めたリーナに、男は褐色の髪を揺らしながら、爽やかな笑みを投げかけてくる。
「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」
「あ、あなたは……確か……ルドスの……」
「エセル・サベイジです。エセルとお呼びください」
 女たらしの本領発揮とばかりに、エセルはリーナの右手を取ると、優雅な物腰でその甲に口づけた。
「こんなにお美しい方が、連れも無しにこのような場所におられるのは、感心いたしませんね」
「あ、や、えと、いや……」
「隊長……」
 突然、怒りを押し殺したような凄みのある声がして、萌黄色のドレスに身を包んだインシャがエセルの背後から姿を現した。見事なまでに強調された彼女の身体のラインに、リーナは思わず見惚れてしまったが、それも一瞬のこと。
「同伴者にご不満がおありでしたら、私は退出させていただきますが……」
「そ、そんな馬鹿なことがあるはずがなかろう」
 一体、何事が起こっているのか、何事に巻き込まれてしまっているのか。リーナは、ただ唖然と口を開けて固まるしかなかった。
「リーナさん!」
 そこへ、人ごみをかき分けながら、ルーファスが駆け寄ってきた。「ちょっと待ってください、リーナさん。もう少し機会を待ったほうが……」
 そう一気にリーナに語ったところで、ルーファスもエセル達に気がついた。
「……! あ、え、エセル・サベイジ殿……!?」
「久しぶりだな」
 アシアスの神殿崩壊事件に関して、彼らがルドスで簡単な取り調べを受けたのがひと月半前のこと。反乱団の首脳が全滅したということで、特にお咎めもなかったわけだが、それでもあまり良い思い出ではない。
 そんなルーファスの胸中を知ってか知らずか、エセルが、ふ、と笑顔を見せた。
「この新年の宴に招かれたのは初めてでね。流石は皇帝陛下、素晴らしいおもてなしの数々に、驚くばかりだよ」
 あんぐりと口を開けたまま彫像と化してしまっている二人に、エセルはとどめとばかりに更に微笑みかける。
「どうやら、このあとにも興味深い出し物が控えているようではないか。君達も謁見は後回しにして、演者を待ってみてはいかがかな」
 その言葉に、ルーファスの眉がひそめられた。
「……どういう意味ですか」
「言葉どおりの意味だよ」
 柔和な口元とは対照的に、エセルの瞳が鋭さを増した。そうしてそのまま、ルーファスの至近に顔を寄せてくる。
「悪いことは言わぬ。あのじゃじゃ馬の手綱をしっかりと握っておくことだ。
 エセルの言葉が終わりきらないうちに、広間の扉が大きな音を立てて開かれた。
  
  
 突然の闖入者の登場に、人々は勿論、楽隊までもが一瞬にして黙り込んだ。
「何事ですか」
 柳眉を曇らせて、セイジュが腰を浮かせる。息せき切って飛び込んできた宮宰は、ふかぶかと一礼すると、玉座の背後へと小走りで近寄った。再度一礼し、そっと二人の耳元に何事かを囁く。
 我に返った楽隊の指揮者が、小さく指揮棒を振って場を仕切り直す。客達も、宮宰のらしからぬ不躾な振る舞いに眉をひそめつつ、再び歓談の渦に身を投じていく。
「門前に? どういうことだ」
 アスラの声が、幽かにざわめきをぬった。
 数人の客が怪訝そうに皇帝達を見やる中、宮宰はまたボソボソと主君の耳元に口を寄せた。
「何人いる」
「…………」
「警備隊はどうした」
「それが、…………」
 何やら興奮した宮宰の様子に、玉座に近いほうの人々の輪からざわめきが消えていった。演奏を再開しようとしていた楽隊達ですら、何事かと固唾を呑んで自分達の主の様子を見守っている。
 セイジュが困惑したような表情を浮かべ、何事か兄に語りかけた。アスラがそれを片手で制し……、それから高らかに笑い声を上げた。
「良かろう。丁度良い余興だ。亡国カラントの王を名乗る痴れ者をお通ししろ」
 その言葉に、静まりかえった室内は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
 今は無きカラント国の王子が反乱団を組織していたという話は、公にはされていない。だが、十年前の戦争に先立って帝国によって北方の王国が解体されたという話は、まだ人々の記憶の中に残っていた。そればかりか、旧カラント領を統べていたセルヴァント男爵が、跡目のないままに昨年の秋に亡くなったことによって、彼ら上流階級に属する者にとっては、カラントとは今一番耳目を集めている地名であったのだ。
「しかし、兄さん……」
 不安そうな表情で兄を見つめるセイジュに、アスラが凄みのある笑みを返す。それから鷹揚に、背後の宮宰に向かってもう一度繰り返した。
「構わぬ。早う通せ」
「しかし! 兄帝陛下!」
 すかさず数人が抗議の声を上げた。だが、アスラは不敵に笑うと、異議を切り捨てる。
「心配は無用だ。通せ。それとも、この私が奴ごときに後れをとるとでも申すのか」
 こう言われてしまうと、もはや反論できる者は誰一人として存在しなかった。ただひたすら沈黙する一同を見渡してから、アスラは再度繰り返す。
「捕らえる手間が省けようというものだ。通すが良い。この手で引導を引き渡してやろう。残る雑魚どもはランデからの増援を待って広場に封じ込めよ。
 それで、全てが、終わる」
  
  
  
 静寂の中、一番下手しもての扉が開く。
 謁見の間の中央を貫く、玉座までの通路を避けるようにして、参列客全員が壁際に後退していた。そうやってひらけた細長い空間の端、扉を抜けた人影が二つ。
 堂々たる体躯を北方の正装に包んだ長髪の男が、まず一歩を踏み出した。長身の従者がそのあとを追う。
 王者の風格を身に纏い、大股で御前へと進み行くのは、誰あろうウルスだった。その髪は黒の染料を落とし、元の燃えるような赤色を取り戻している。
 その背後を、同じく北方の衣装に身を包んだサンが追従する。他の招待客同様門で預けさせられたのだろう、腰のベルトには剣は無く、だが、それを補って余りある気迫を瞳に込めて、周囲を警戒している。
 針の落ちる音すら響き渡りそうな静けさを破るのは、ウルスの立てる高らかな靴音のみ。
 だが、その場に居合わせた誰もが、その時、ファンファーレを聞いたような気がした。
  
 五名の近衛兵が立ち塞がり、ウルス達は玉座から五丈ほどのところで立ち止まった。
「マグダレン帝国皇帝陛下には、ご機嫌麗しゅう。謹んで新年のお慶びを申し上げよう」
 ウルスの声が、その見目に相応しい力強さで朗々と辺りに響き渡る。
 アスラは気だるそうな瞳で、亡国の王をねめつけた。
「ラグナ・ウルス・カラント、と言ったか。……して、何の用だ。わざわざ挨拶をしに来ただけではあるまい」
「アスラ殿に、お尋ねしたいことがあって、参上いたした」
 アスラ「殿」、と言い放ったウルスに、一同がどよめく。
 おのれの言葉の効果を充分に確認して、ウルスは得意そうな笑みを浮かべた。それから、彼はやにわに懐から黒い物体を取り出して、前方の床に放り投げる。
 何事か、と色めき立つ近衛兵達の足元には、黒曜石を刻んで作られたアシアスの神像が転がっていた。
「このような紛い物を偶像に仕立て上げて、贋の信仰を押しつけて、アスラ殿は一体何を企んでおられるのか、是非とも答えていただきたい」
 その不遜な態度を目の当たりにした人々が恐れおののき、大広間中は瞬く間に騒然となった。
 ――なんと罰当たりな。
 ――おお、怖ろしい。
 そんな声が周囲から口々に漏れる。ウルスは軽く鼻を鳴らした。
「上手く教育したものだが、ほんの十五年前にはこんなものはこの世界に無かったはずだ。だが、アシアスは我々に充分な恩恵をくださっていた。いいや、むしろ、今よりももっと庇護の力は大きかった。あの戦争が招いた混乱で誤魔化されてしまっているが、私は憶えている。今は無きカラントの癒やし手は、実に優秀だった。……彼らもまた、彷徨える果てに、今はその力を弱めてしまっているだろうが」
 ウルスのよく通る低い声が、人々の胸中に染み渡っていく。広間のあちこちで息を呑む気配がして、ざわめきは急激に静まり始めた。
 アスラが、大きく足を組み直した。至極不機嫌そうな声で、赤毛の王に問い返す。
「聖峰が放ったあの歓喜の炎を、幻だったと言うのか」
「ガーツェを噴火させるなぞ、真の魔術の使い手にとっては不可能な仕事ではないだろう?」
 ウルスは尊大に胸を張ると、アスラを下目に見た。
「黒の導師などと出鱈目な啓示を振りかざして神々の巫子を排除し、優秀な術者を帝都へ招へいしては鷲の餌にし、それほどまでに、おのれ以外の力有る者が疎ましいか」
 ウルスの背後、サンが唇を噛み、眼前に立ち塞がるかつての同僚達を睨みつけた。
 目を覚ませ、と。
 おのれを取り戻せ、と。
「兄さん! このような妄言をいつまで許しているのですか!」
「構わぬ。祝いの宴の前座ぐらいにはなるだろう」
 激昂して立ち上がるセイジュを片手で制して、アスラは暗い瞳をウルスに向けた。
「続けてみよ」
 冷静さをかけらも損なわない兄帝の様子に、ウルスの瞳に更なる炎が点った。
  
 静まり返る一同を前に、ウルスは語り始めた。
「遥か古代に栄えたルドス王国は、黒髪の巫子の統べる国だった。その最後の王が世に広めた古代ルドス魔術は、神々を介さない、禁じ手と謂われる技だった。神々からその恩恵のみを切り離して人々の手に委ねることで、我々は神々から遠ざけられてしまった。そして、忘れ去られた神々は、その力を失った」
 何の迷いもないその声は、まるで詩歌のように空気を震わせる。
 人々は、事態を忘れて、奏でられる叙事詩に耳を傾けていた。
「何故ルドス最後の王はそのような愚行を行ったのか」
 少し間を空け、皆の頭に言葉が染み渡るのを待ってから、ウルスは再び口を開く。
 絶妙なる間合いは、支配者としての天賦の才なのだろうか。ここにいる誰もが、ウルスの言葉に引き込まれてしまっていた。
「神と巫子はお互いに影響しあうという。王がそうであったのか、それともあるじの神がそうであったのか、彼、もしくは彼らは肥大する征服欲のままに、他者を退けようとした。そのための『禁じ手の術』だったのだ。彼らはそうやって神々への言葉をねじ曲げ、我々の目に他の神が映らないようにした」
 密やかなざわめきが、あちらこちらから湧き上がってきた。
「古代ルドス王国が滅んだのは、契約の神を裏切ったからではない。契約の神とともに、世界のことわりを破壊しようとしたからだ。それをやめさせるために、アシアスがおのが巫子に命じて、その元凶を封じ込めたからだ」
 ウルスの口角が吊り上がり、犬歯が表情に凄みを添える。
「其の者は白にして、夜明けとともに東からやってくる。
 其の者の名はアシアス。昼を司り、命をもたらす者。
 の者は黒にして、日暮れとともに西からやってくる。
 夜を司り、死をもたらす者。の者の名は……アスラ!」
 高らかに放たれたその名前は、謁見の間の広大な空間に何度も反響した。
  
  
「ははははは! なるほど。その邪神が私に憑りついている、と。かつての古代ルドス王国最後の王のように。面白い話だ!」
 座したままのアスラが、上体を仰け反らせてからからと笑う。
 ひとしきり笑ってから、彼は肘掛に右ひじをつき、憂いを込めた瞳でウルスを見上げた。
「面白い話だが……少しひねりが足らぬ。名前がたまさか同じだからといって、それが一体どうしたというのだ。お主は創作家には向いておらぬようだな」
 そう言って、アスラは、右隣に座るセイジュに軽く頷いてみせた。それを受けて、セイジュがそっと片手を挙げる。
 二人の皇帝達の周りを固めていた近衛兵が、一斉にウルス達を取り囲んだ。
 対してサンが、ウルスを守るようにして、徒手空拳のまま前面に出る。
 緊張が高まる兵隊達をよそに、ウルスは事も無げに口を開いた。
「早とちりしていただいては困るな。私の話はまだ終わってはおらぬ」
 整然とした包囲網が、僅かに乱れる。サンは油断なく視線を配りながらも、少しだけ身を引いた。
「ガーツェの東、もはや忘れ去られて久しいアシアスの神殿はご存知であろう。十五年前、他でもないアスラ殿が噴火を起こして、破壊しようとした神殿だからな」
 その所在に憶えがあったのか、広間の隅のほうで数名の老貴族が息を呑んだ。
「その神殿に奉納されていた三十五年前の木簡には、こうあった。『一粒種のセイジュ皇子の健やかな成長を願って』と」
 そこでウルスは言葉を切った。
 そして、そのまましばし待つ。言葉の意味が確実に人々の心に届くまで。
  
 ややあって、ざわめきがうしおのように部屋に満ち始めた。
 ウルスはここぞとばかりに、腹の底から声を張り上げる。
「はて、御歳おんとし二歳のアスラ皇子は一体どこにいらっしゃるのか、いつ、どこから現れたのか! さあ、お答えいただこう、アスラ殿!」
  
  
  
 ――地面が、揺れている。
 ウルスの言葉を聞いた瞬間、激しい眩暈がロイを襲った。アスラの玉座の左後方に控えながら、彼は頭を押さえて不可思議な浮遊感と戦う。
 何かが、彼の頭の中で、蠢いていた。
  
 いや、ロイだけではなかった。
 その場にいた誰もが、言葉にできない違和感を覚え始めていた。
  
「戯言も、荒唐無稽が度を過ぎれば……不快極まりないな」
 遂にアスラが立ち上がった。眉間に深い皺を刻んで、ウルスを静かに見下ろす。
「セイジュ、兵達を少し下がらせたまえ。喧嘩を売られたのは、私だからな」
  
 恐怖すら感じさせるほどの静寂が、広間を支配していた。
 だが、明らかに先ほどまでとは雰囲気が違う。
 何かが、…………綻び始めていた。
  
「ロイ」
 名前を呼ばれたロイは、静かに前へと進み出た。そうして、近衛兵達と入れ替わるようにしてウルスと対峙する。
 眩暈はまだおさまらない。今、自分の身体を動かしているのは、果たして本当に自分自身なのだろうか。鈍く麻痺したような心が、ロイの中で微かな疑問を抱いている。
 赤毛のあるじを庇うように、サンが前へ出た。それを見つめるロイの眼差しが、ふと遠くなる。
 ――かつての教え子の一人。懐かしいイの町の。
「ロイ、君がやりたまえ。私の代わりに」
 アスラの声にいざなわれるようにして、ロイは両手を前へと差し出した。
 ――そうだ、彼が自分のあるじを守るように、私もまた我があるじを守らなければならない。恐るべき姦計で国家転覆を謀ろうとする彼らの魔の手から、陛下を、この国を守らなければならない。
 ロイは両手をひらめかせた。紡ぎ出すのは、「雷撃」の呪文。
 歯を食いしばるサンの表情が、その一瞬恐怖に歪んだ。
  
  
 呪文が完成する直前、ロイの耳が聞き憶えのある旋律を微かに捉えた。
 その調べの正体に思い当たった時には、ロイの声は失われてしまっていた。詠唱が強制的に中断させられ、間際で力場が霧散する。古代ルドス魔術「沈黙」の術が、大魔術師の声を奪ったのだ。
 ――不発だと?
 瞬く間に、憤怒がロイの胸の内に湧き起こった。
  
 この私が、他人に術をかけられてしまったというのか?
 この私が、「沈黙」などという初歩的な術に後れをとったというのか!?
 一騎当千の大魔術師と謳われた、帝国最高位の術者である、この私が!
  
 ロイは怒りのままに印を結び、なんと、言の葉の力を使うことなく自分にかけられた術を破った。それから、術が投げかけられた方向を見定めると、すかさず「炎撃」を唱え始めた。
 不穏な気配を察した人々が、我先にとその場から逃げ出し始める。崩れゆく人垣の向こう、萌黄色のドレスを身に纏った女が、長い金髪をたなびかせながら印を結んでいた。
 次の瞬間、ロイが放った炎の矢が、大きな「盾」に阻まれる。
  
「お前は……、まさか……」
 驚きのあまり茫然自失に陥るロイとは別に、ロイの中の何かが再び呪文を唱えようとする。目の前の敵を排除せよ。心の内に響く声に衝き動かされるようにして。
 その刹那、ロイの背後の人垣から黒い影が一つ飛び出した。
 黒の礼服に身を包んだ男が、深茶色の長髪をひるがえしながら、迷いなくロイの延髄を狙って蹴りを繰り出す。反射的に身をひねって攻撃を避けたロイの頬を、靴のつま先が掠めた。
 弾き飛ばされたロイの眼鏡が、虚空に大きく銀色の弧を描いた。