The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第六話 虚空を掴む指

  
  
  
    三  虚実
  
  
 賄いつきの下宿を営むジジ夫人は、半年前から店子となった一風変わった下宿人達を、とても気に入っていた。
 彼ら二人はとても礼儀正しかったし、約束や規則を破ることもなかった。しかし、それより何より、彼らは実においしそうに自分の出す料理を平らげてくれるのだ。それだけで、彼女の胸は幸福感で一杯になるのだった。
 だが、今朝のジジは少し幸せな気分から遠ざかっていた。食器を片付けながら、ふと先ほどのシキの様子を思い出して溜め息をつく。
 シキは、普段からあまり感情を表に出さない娘だ。過去に何かつらい目にあったことがあるんだろう。初めて会った時の直感は間違っていないとジジは思っている。
 この半年の間に、彼女の心の傷は多少癒されたようだった。いや、もしかしたら傷の痛みに慣れて来ただけなのかもしれない。それでも、いつかシキが心からの笑顔を見せてくれるであろうことを、ジジは信じて疑わなかった。
 それが、今朝は一体どうしたことか、彼女の様子はまるで再び半年前に逆戻りしたかのようだった。シキは深い皺を眉根に刻み、ただ黙々と朝食を摂り、小さく一言「行ってきます」と呟くと、静かに家を出ていったのだ。
 ――何か新たな悩み事でもできたのかしらねえ。
 再度溜め息をつくジジの耳が、階段を下りてくる足音を捉えた。大きく深呼吸をして気持ちを切り替えると、ジジはオーブンの上の鍋を手に食堂へと向かった。
  
「おはようございます、先生」
「……ふ……あ、失礼、おはようございます」
 朗らかな家主の声に、ロイは大きな欠伸をかみ殺しながら挨拶を返した。香草と、焼きたてパンの良い香りが彼を包む。
「おやおや、昨晩は遅かったんですか?」
「まあ、適当にね」
「いけませんよ。夜更かしが過ぎると、身体を壊してしまいますからね」
 またも込み上げる大欠伸をこらえながら、ロイは席に着いた。
 レイが生きているであろうことを知ってから一昼夜、ロイはひたすら呪文書に向かっていた。レイへの怒りを原動力にして、心に禁忌として刻まれてしまったシキへの想いを、必死で掘り起こしながら。ともすれば挫けそうになる精神を奮い立たせ、ロイはひたすら呪文書を読み続けた。
 そして、つい先ほど、ロイは自分が「半身」の呪文を完璧に会得したことを確信するに至ったのだった。
 術が解除されるのは、次の三つの場合のみ。術者による解除の呪文。そして、術者の死、被術者の死。まさしく、死が二人を別つまでということなのだ。忌々しいにもほどがある。
 だが、他人によって同じ術を上書きすることは可能のようだった。もっとも、既にこの術をかけられた人間に対して、別の人間がそこに至ろうとするのは、理論上は不可能に近い。
 だが、と、ロイは歯を食いしばった。たとえどんなに至難の業だとしても、ここで諦めてしまっては、シキは一生手に入らない。そもそも術者としての力量を考えるならば、レイと自分とでは比べるべくもないのだから。どんなにレイがロイの知らない所で技を磨いておろうが、それでも圧倒的な技能の差は一石一夕には埋めようがないはずだ。
 ……そう考えたロイの脳裏を、ふと暗い影がよぎる。
「天隕」の呪文は完璧だった。瀕死のレイがいくらあの場から逃げようとしたところで、移動できる距離など高が知れている。彼が術の直撃を免れることなどできるわけがなかった。
 なのに、奴は生きているというのだ。
 あの圧倒的な質量が生み出す熱量を、全て「盾」で防ぐことは不可能だ。何よりあの時点でレイの身体には、魔力も生命力もほとんど残っていなかったはずなのに。
 ロイは、軽く頭を振って不安を追い出した。
 ――何を怯えている、ロイ・タヴァーネス。貴様は帝国一の魔術師ではなかったのか。
「レイ、お前にはもうこれ以上何も渡さない」
 決意に燃える瞳で、ロイは静かに呟いた。
  
  
  
「ガーラン」
 夕闇が深くなる廊下、談話室の扉の前で、彼は今一番会いたくない人間に呼び止められた。
 今日は準夜勤のため、ガーランは今登庁してきたばかりだ。おのれの不運さを呪いながら、聞こえなかったフリでそのまま部屋に入って扉を閉めようとする。が、隊長はそれよりも早く足を隙間に差し入れ、両手で扉を力任せに引き開けようとした。負けじとガーランもドアノブを捕まえて抵抗する。
「聞いたぞ。お前、昨日『嬢ちゃん』を泣かしたらしいな」
 扉の隙間から、底意地の悪い笑みを浮かべた上司の顔が覗く。ガーランは必死でドアを引っ張った。
「た、隊長、扉、壊れますって……」
「お前が手を放せば済むことだ」
「隊長こそお先にどうぞ」
 木の軋む嫌な音を伴奏に、二人は扉を挟んで押し問答を繰り広げる。
「ふん、お前が稚児趣味だとは知らなかったな」
「だーかーらー、そんなんと違いますって」
「どうだか。人の好みは色々というからな」
「いや、マジで勘弁してくださいよ」
 普段とは違う悲痛なガーランの声に、隊長は表情を一瞬曇らせた。そしてやにわに手を扉から離す。
 勢い余って、扉が大きな音を立てて閉まった。
「どわっ」
「扉は静かに閉めるものだぞ」
「それはこっちの台詞っスよ!」
 愉快そうな笑い声とともに、隊長の気配が扉の前から遠ざかる。最後に一つ、捨て台詞を放り投げて。
「『嬢ちゃん』は資料室にいるぞ。過ちなら素直に謝っとけ」
「だから、何もしてませんって! こンの、色ボケ隊長!」
 ガランとした談話室に、ガーランの悪態がこだました。
  
  
 もう何時間もの間、シキは資料室で何冊もの分厚い書類綴りと格闘していた。
 探しているのは帝都から下される通告書だ。だが、そのような書類の目録等があるわけもなく、目的の情報に到達するためには、綴られた書類の束に片っ端から目を通していくしかない。そもそも、目指す書類が存在するかどうかすら定かではないのだ。シキは朝一番から待機の間中ずっと、この部屋に籠もって通告書の綴りをひたすらめくり続けていた。
 シキは確証が欲しかったのだ。師匠と対峙するにあたって、理論武装できるだけの材料が。勿論そんなものがなくとも、もうレイに対する信頼は揺るがない。だが、感情論のみをぶちまけても師は耳を傾けてはくれないだろう。何でもいい、客観的な情報がシキには必要なのだ。
 六冊目の綴りをぱたんと閉じて、シキは大きく溜め息をついた。両の目頭をつまみながら、しばしじっと目をつむる。じんわりと染み出してきた涙を、まばたきで乾いた瞳に行き渡らせれば、少しだけ目元が軽くなったような気がした。そうして、ゆっくりと深呼吸をしてから、七冊目に手を伸ばす。
 静かな室内に再び、紙をめくる微かな音が漂い始めた。
  
  
 資料室の扉の前で、ガーランは少しだけ躊躇った。肩の力を抜くべく無理矢理息を吐いてから、小さく咳払いもつけ足してみる。それから、畏まった表情で軽く扉をノックした。
 しばらく待ってみたが、中からは何の反応も返ってこない。仕方がない、とガーランはドアノブをそっと回した。扉の隙間からおずおずと顔だけを覗かせて、室内をぐるりと見渡してみる。
 整然と立ち並ぶ本棚の手前、広い机の上には幾つもの書類の束が山を成していた。そしてその山にうずもれそうになりながら、シキが一心不乱に何かを読んでいるのが見えた。
「……よお」
「こんにちは」
 ガーランの挨拶に声だけで返事をして、シキは目を書類に走らせ続ける。
 挨拶する時ぐらい顔を上げろよな、とガーランは思ったものの、あまりのシキの真剣な眼差しに悪態もつけず、彼は黙って部屋の中に足を踏み入れた。
「調べ物?」
「はい」
 何か相当切羽詰まっているらしいな。そう他人事のように胸の中で呟きながら、ガーランは机の上に積まれた紙の束を手に取り、パラパラとめくった。
 ――いや、切羽詰まっているのはいつものことか。
 手にした書類綴りをそっと机に戻して、ガーランはシキを見やった。そうだ、この「嬢ちゃん」には余裕というものがないのだ。いつだって彼女は、崖っぷちギリギリに立っているかのような危うさを身に纏っていた。
 危険な任務に躊躇いなく身を投じる隊員は、シキの他にも大勢いる。かく言うガーランだってそのつもりだったし、副隊長などはその最たる例と言えるだろう。だが、シキの場合は、他の者とは少し様相が違うような気がした。おそらく、裏庭の草抜きを命じられたとしても、彼女はそれに没頭するに違いない。それは真面目さとか忠実さとは違う、もっと異質な……、まるで自ら思考することを放棄したような……。
「……を辞めます、と言って簡単に辞めることができるものなのでしょうか……」
「え?」
 我に返ったガーランが慌てて顔を上げると、シキと真正面から目が合った。
 シキのほうから自分に話しかけてきたという事実に、彼は激しく動揺した。そして、やや遅れてその内容に度肝を抜かれた。
「え……? 辞める? いや、ちょっと待て、そりゃ簡単には辞められないぞ。なにしろ俺らは、書類上とはいえ皇帝陛下の任命を受けたわけだから、手続きだって簡単じゃないだろう? それに、突然どうしたんだよ? まさか昨日の……いや、その、確かに俺が悪かったんだが……それにしても」
 必死にまくし立てるガーランに、今度はシキが面食らったような表情を見せた。
「リントさん?」
「……って、え? 何? 君が警備隊を辞めるって話じゃなく?」
「自分の都合で近衛兵を辞めるなんてこと、簡単にできると思いますか?」
 シキが、何事も無かったかのように淡々と問いを繰り返した。
 決まりの悪さを無理矢理呑み込んで、ガーランは大きく息を吐いた。それから、がしがしと右手で大仰に頭を掻き毟った。
 その間も、シキは黙ってガーランの返答を待っているようだった。こういう時は、彼女の鉄面皮に救われるような気がする。気遣いに甘えることにして、ガーランも何事も無かったかのように話題を仕切り直した。
「近衛兵を辞める? クビになるのと違って?」
「はい。クビを切られるような事態が起こった時には、きっと本当に文字どおりのことになると思うので」
 恐ろしいことをさらりと言ってのける同僚に、ガーランは思わず苦笑を返した。
「あー、まぁ、そうだな。なんといっても皇帝陛下のお傍をお守りする立場だからな。不祥事を起こせばタダじゃあ済まないわな、そりゃ」
 ガーランはそう言って我が身を振り返ったのち、心の底から見知らぬ彼らに同情した。
「しかし、辞めるって言って辞められるものなのか? 宮城の警備体制やら何やら、内部事情を知り尽くしているわけだからな。それに、そもそもが物凄い名誉職だろ? 自分から辞めたがる奴がいるもんかな?」
 そこまで言ったところで、ガーランの脳裏に、ふと、幾つかの文字の並びが浮かび上がってきた。彼は記憶を辿りながら、先刻めくっていた書類の束をもう一度手に取る。
「そういえば、さっき、何か……、あった、あった。へぇ、いるんだな、辞めたがる奴が」
 その言葉に、シキの目が見開かれる。ガーランはそのまま書面を声に出して読み始めた。
「……帝都より脱走せし近衛兵、見つけ次第身柄を拘束せよ。生死問わず……」
  
  
  
 シキの帰宅は深夜になった。既に一階の明かりは消え、ジジは床についているようだった。玄関の鍵を確認してから、シキは静かに二階への階段をのぼる。
「随分遅かったね」
 二階の居間からロイが姿を現した。「食事は未だなんだろう?」
「はい」
 居間のテーブルには、覆いのかけられた皿が幾つか並んでいた。下宿人の帰りが予定外に遅くなった時の常で、ジジは食事を部屋まで運んでおいてくれていたのだ。
 寝室への扉のほうへ向かうロイを、シキは意を決して呼び止めた。
「先生、お話ししたいことが、あります」
「私も君に話があるんだ」
 そう言ってロイは、扉の手前にある棚の前で足を止める。棚から珈琲豆の袋を取り出すと、二人分の豆をミルに入れた。
「あ、私が……」
「君の仕事は別にあるだろう。家のことに関しては、もう私も君も対等だ」
「でも……」
「君は食事をしたまえ。話はそのあとだ」
 そう言われて、シキは素直に席に着いた。
  
 アルコールランプに火が入れられる。
 皿に残ったソースをパンで拭いながら、シキはぼんやりと、ロートの中へと湧き上がっていく透明の液体を眺めていた。
 やがて、それは褐色の粉とゆっくり混ざり合い、そして静かにサーバーへと戻ってゆく、色を変えて。室内を照らすランプの光が琥珀色の液体に乱反射して、えもいわれぬ美しさを辺りに揺らめかせた。
 シキは空になった皿をトレイの上に重ね置き、テーブルの端に寄せた。そうやって空いた場所に、ロイがカップを並べる。サーバーから注がれる珈琲の香ばしい香りが部屋中に広がった。
「話とは何だね」
 シキの向かい側に座ったロイが、鷹揚な様子でテーブルの上で両手を組む。シキは深呼吸してから、ゆっくりと口を開いた。
「……レイのことです」
 ロイの表情は変わらない。
「疑問点があるんです」
 そこまで言ってから、シキは少しだけ躊躇した。それから大きく息を継ぎ、固い表情で言葉を繋げる。
「先生はご存じないかと思いますが、レイは、サンがイの町に姿を現した日以前に、私に対して、その……、好意を明確に口にしてくれていました」
 やはり、ロイの表情は変わらない。
「……それ以前にサンがレイと接触していないと何故分かる」
 だが、変化のない表情とは裏腹に、彼の声は氷のように冷えきっていた。
 それに負けじと、シキは腹の底に力を込める。
「サンの足取りを調べました」
  
『峰東州イの町出身、アランの息子、サン。
 その者、帝都より脱走せし近衛兵、見つけ次第身柄を拘束せよ。生死問わず。
 身長六フィート二インチ、栗色の髪、同色の瞳。
 無断で職務を離脱の上、制止に当たった同職の者に手傷を負わせた咎により、処罰すべし。』
 都からの通達書が指し示しているのは、間違いなくあのサンのことだった。
 一体彼の身に何が起こったというのだろか。剣術に長け、朗らかで、男前だと評判だった人気者。彼のパートナーの座を手に入れようと、沢山の女生徒が凌ぎを削っていたことは、まだ記憶に新しい。そんな彼が近衛兵に大抜擢されたということで、女達の争いもなお一層盛り上がったほどだというのに。
 脱走、逃亡。同僚に手傷を負わせてまで。何が彼をして、そんな行動に走らせたのか……。
 ふと我に返ったシキは、慌ててその通告書の隅々に目を走らせる。書類の上部に小さく記された日付を見て、シキは喜びのあまり泣きそうになった。
  
  
「彼がイの町に到着したであろう日付のほうが、レイの告白よりも遅かったのです。つまり、レイが私を反乱団に引き入れるために篭絡した、という話とは矛盾が生じます」
 硬い表情でそう言いきったシキを、ロイはちらりと一瞥した。そうして、何事も無かったかのように優雅にカップを口に運んだ。
「レイだって最初は君を騙そうとしていたわけではなかったかもしれない。それが、サンに会って……」
「先生、事実のみを語ってください。レイは先生に何と言ったのですか? 先生は何を見たのですか?」
 シキに刺さっていた過去の棘は、今やすっかり消えてしまっているようだった。そう、今まさに彼女は、あらわになった傷口と正面から向き合おうとしているのだ。
 もう少しだけ、この痛みから顔を背けていてほしかった。そうすれば、何も解らないままに、夢を見させてあげることができただろうに。ロイは小さく溜め息を吐き出してから、深く椅子に座り直した。
「解った。どうやら私も色々と混乱していたようだ。改めて整理するとしよう」
 そう言ってロイは苦笑とともに、指を一本だけ立てた。
「事実。そうだね、確固たる事実は、まず、サンが反乱団『赤い風』の一員だということだ」
「何故そう断言できるのですか」
「あの二日ほど前から、数人が家の周りで我々を監視していた。その気配の中に、サンの気配と、反乱団に関わっていると思われるある人間の気配があった」
「ある人間?」
「かつて帝都で要職にあった魔術師だ。彼の気配は間違えようがない」
 何かを懐かしむような眼差しを静かに伏せて、それからロイは言葉を継いだ。「反乱団の思想や、幾つかの目撃証言から、私は彼こそが反乱団を組織したに違いないと考えている。その彼と、サンが一緒にいたのだ。導き出される結論は言うまでもない」
 そもそも、お尋ね者となったサンが彼一人の力でもって、こんなにも長期間に亘って追跡の手を逃れることができるとは考えられない。それも、人里に姿を何度も現せて。そこに何らかの組織的な支援が存在するのは間違いないだろう。
 ロイは、神妙な顔で頷くシキに満足そうに笑いかけ、二本目の指を立てた。
「次に、レイが君に服従の術をかけた、ということ。君の額に邪教の印が刻みつけられているのは知ってのとおりだ。それにこれはレイ自身も私に白状している」
 シキの表情が曇るのを見て、ロイは心の内でほくそえんだ。これは、レイが自分で掘った大きな墓穴だ。奴を蹴落とし、埋葬してやらねばなるまい。徹底的に。
「……どうしてレイは、想いが通じたはずの君のことを、邪教の魔術で服従させなければならなかったのか? 不思議に思わないかね?」
 シキが目を伏せる。
 ――もう一息だ。
 そしてロイは一つだけ嘘を紛れ込ませた。
「最後に、彼がこの私を殺そうとしたということ。人目のない東の森に連れ込んで、ね」
 ここまで情報を与えれば、あとは彼女が自分で物語の細部を作り上げるだろう。ロイは勝利を確信して、これ以上はないというぐらいに優しい笑みをシキに投げかけた。
 それに……そろそろ効き目が表れてくる頃だ。
「それでも、君は、私が間違いだったと言うのかね?」
「間違いだなんて、そんな……」
「いや、そういうことだろう? レイを信じるか、私を信じるか、結局行きつく所はそこだ。そして、シキ、君は私を信じたからこそ、ここ州都へついて来たのではなかったのか?」
  
  
 ぐらり。
 周りの情景が激しく揺れ、シキは思わず額を押さえた。頭の芯で何かがゆっくりと渦を巻いている。
 ――先生を信じたから、ついて来た……、そう、私は先生について来たのだ。故郷を、思い出の地を離れて。
 だって、レイはもうどこにもいないのだから。
 シキの指からカップが離れた。テーブルの上に転がったカップから、少しだけ残っていた珈琲が飛び散る。
 ――眩暈が、する……。
  
 東の森に連れ込んで……先生を殺そうと……。
 違う。
 レイならあの森でそんなことはしない。だって、あそこは――
  
 朦朧とした視線を彷徨わすシキに、穏やかな声が纏わりついた。
「術を解いてあげよう、シキ。いなくなってしまった人間にいつまでも支配されることはない」
 ロイがゆっくりと立ち上がる。
  
 ――だって、あそこは、ふたりだけの、ひみつの……
  
 シキの視界は、どんどん狭くなっていった。まるで望遠鏡を逆さに覗いているような。
 周りの音が、急速に消えていく。
 珈琲の香りも、消えていく。
 泥沼に引きずり込まれるように、全身の感覚が無くなっていった。ただ残っているのは、ぼんやりとした浮遊感……。
  
 意識を失ってテーブルに突っ伏したシキの耳元に口を寄せて、ロイは囁いた。
「その苦しみから解放してあげるよ、シキ」