四 儀式
綺麗に片付けられた書斎の床一面に、白墨で魔術陣が描 かれている。
部屋の中には、息苦しいほどの香がたきしめられていた。机の上で揺らめくランプの光が、この世のものならざる雰囲気を更に盛り上げている。ロイは足元の白墨の線を消さぬように注意をしながら、抱きかかえていたシキを陣の中央にそっと横たえた。
板張りの床の上、一糸纏わぬシキの胸元が規則正しく上下している。薄闇に沈む部屋の中で、彼女の白い身体は神々しさすら感じさせるほどだ。
半年前にロイがあれほどまでに切望した「至福の時」が、ようやく今より始まるはずだった。だが、ロイは深く溜め息をつくと、ゆるりと頭を振った。これからおのれが為すべき事を考えれば考えるほど、破戒に対する嫌悪感が胸の中から湧き上がってくるのだ。
形相が変わるほどに奥歯を噛み締め、ロイは机に寄りかかった。ふう、と大きく息を吐き出して、額の汗を拭う。そうして机の上の呪文書を覗き込んだ。
古代ルドス魔術において、陣を使う魔術は一般的ではない。例えば「偽装の指輪」のように、物に呪文を込めていわゆる魔術道具となすためには陣が不可欠だが、その技を持つ者はロイの知る限り帝国に一人だけ。それは他でもない彼自身だ。レイがこの「半身」の術を成功させたという事実を思い返して、ロイは素直に悔恨の情を抱 いた。余計なことさえしなければ、この私が最高の術者に育て上げてやったのに、と。
魔術陣に決まった書式はない。術の理論、組成を読み解いて、起動に必要な力場を構成する作業は、決して簡単なものではなかった。
――奴は、どのような陣を展開したのだろうか。そもそもどこに、どうやって……。
そこまで考えて、ロイは固く目をつむると頭を激しく振った。
どうしても、意識が施術から逸れてしまう。
自分が今為すべき事は、シキを抱くことだ。彼女と交わり、その身体におのれの術を刻み込むのだ。
無理矢理に心を奮い立たせようと、ロイは床に横たわるシキの裸体を注視した。知らず、大きな溜め息が漏れる。
大した術だ、とロイは独りごちた。この状況に至っても、ひとかけらも欲望が湧いてこない。ロイはもう一度溜め息をつくと、「抗魔術」の呪文を詠唱し始めた。少しでもこの忌々しいくびきから逃れることができるように、魔術の効力に抗う力を我が身に纏おうというのだ。
ランプの炎が不意に揺らめいて、床に落ちるロイの影が大きく波打った。
術の効果が現れてきたのだろうか、ロイの胸の奥に詰まっていた何かが、ほんの僅か溶け始めたような気がした。ここぞとばかりに、ロイは意識を床に横たわるシキへと向ける。
ほのかな灯りに照らされ、闇に浮かび上がる白い女体。
――思い出せ、あの、狂おしいほどの渇望感を。
ロイの拳が固く握り締められた。おのれがどんなにシキを欲していたのか、何としてもそれを思い出すのだ、と。
柔らかそうな身体を、この腕でしっかりと抱きしめたかった。温かい頬に、首筋に、そして唇に、接吻の雨を降らせたかった。たっぷりと勿体をつけてその衣を剥ぎ、全身くまなく愛したかった。恥ずかしそうに抗う彼女を貫いて、快感に酔わせてみたかった。
相手は自分を師と慕ってくれている女だ。慎重にさえ事を運べば、望む結果は順当に得られたことだろう。だが、彼女の傍には常にあの忌々しい幼馴染みの姿があった。自分と比べて、より彼女に近い立場で、より多くの時間を共有してきた男の存在に、ロイは密かに嫉妬した。なんとかして、彼を出し抜いてしまいたかった。
そう、ロイは彼女をおのれだけのものにしたかったのだ。自分の声だけを聞き、自分だけを見つめて、自分だけに笑いかけてほしかったのだ。
――これはシキに対する情欲なのか、それともレイへの対抗心なのか……?
「どちらでもいい」
ふと生じた問いかけに自ら即答してから、ロイは机の上の水差しに手を伸ばした。グラスに少しだけ水を注ぐと、最後の仕上げとして懐からガラスの小瓶を取り出す。そうして数滴をグラスに垂らした。
まさか、自分でこれを飲む羽目になろうとは。苦笑しながら、ロイはカレンの媚薬を一気に嚥下した。
突然耳に飛び込んできた歓声に、シキはハッと我に返った。
煤けた板壁の広い部屋に、幾つもの長机と椅子が並んでいる。端材で作られたそれらは、帝国領となって義務化された初等学校用にと、町の大人達が急ごしらえで用意したものだ。
懐かしいイの町の、懐かしい学び舎。その廊下寄り最後列の席に、シキは座っていた。机の上には、数学の帳面が広げられている。
どうやら授業の復習をしていて、うっかりうたた寝してしまっていたようだった。まだ目覚めきっていないのか、頭の中にぼんやりと靄がかかってしまっている。シキは漠たる心地で、ゆっくりと頭を振った。
――何だか随分長い間夢を見ていたみたいだ。
しかも、とんでもない悪夢を。気持ちを切り替えるべく、シキは大きく伸びをした。ぐるりと周囲を見渡せば、級友達が窓際に集まって、外を見て騒いでいる。もうすぐ午後の授業が始まるというのに、一体何が起こっているのだろうか、そう眉間に皺を寄せたところで、朗らかな声が降ってきた。
「剣術の手合わせだってさ」
リーナが、にやにや笑いを浮かべながら、机の前に立っていた。「ライン先生が昼休みに男子の相手をしてたらしいんだけど、その流れで、レイがサンと練習試合するんだってさ」
そうだよ、やっぱり夢だったんじゃないか。レイはちゃんと生きている。シキはそっと安堵の溜め息を吐き出した。
「……ふーん。それで、この騒ぎ?」
努めて冷静に言葉を返せば、リーナがこれ見よがしに目を剥く。
「ウチの学校で一、二を争う腕前の奴らの一騎打ちだよ? 盛り上がらないほうがおかしいって! ほら、シキ、レイを応援しに行ってあげなきゃ!」
なんで私が、との抗議の声も虚しく、シキはリーナに校庭へと引きずられていった。
真っ直ぐに削り出した木の枝を三本束ねて作られた、練習用の剣を手に、二人は微動だにせず対峙していた。
長身を生かした余裕のある構えを見せるサンに対して、レイは幾分腰を落とし、身体のすぐ前で小さく剣を構えている。サンの攻撃を警戒しているのだろう。だがあの構えでは、突くにしろ薙ぐにしろ、いざ攻めかかる際に動きに無駄が生じてしまう。サンの懐に飛び込む前に返り討ちにあうのが落ちだ。そうシキが眉をひそめたその瞬間、一切の予備動作も見せず、レイの身体が前方に飛んだ。
驚くべき跳躍を見せて、レイがサンの至近に迫る。剣を振り上げる間すら惜しみ、そのまま逆手で剣を一閃させるレイに、サンの目が見開かれた。
だが、流石は校内一の剣の使い手。サンは即座に右足を引き、レイの刃を跳ね上げた。そのまま返す刀でレイの胸を突く。
レイが、身をひるがえす。サンの突きを剣で叩き落す。
シキは、息を詰めながら、試合の行方を見守り続けた。
切り結んでは離れ、打ち込んでは引き、二人の剣士は、息をつかせぬ勢いで打ち合いを続ける。
やがて観衆から一際大きなどよめきが沸き起こり、一本の木の剣が宙に舞った。
それがサンの剣と分かった瞬間、シキは思わず歓声を上げていた。あのサンに、レイが勝ったのだ。日頃、どうやってもサンには敵わない、と悔しそうに漏らしていたレイの顔を思い出し、シキの胸の奥が熱くなる。
「シキ!」
と、人波をかき分け、レイがシキのもとに駆け寄ってきた。満面の笑みで、正面からシキを抱きしめる。
突然の、しかも大勢の面前での抱擁に、シキの思考は一瞬にして真っ白になった。
「れ、れれれれレイ?」
「好きだ、シキ」
甘い囁きが、シキの耳元を震わせる。思わずうっとりとしかけたものの、周囲の状況を思い出し、シキは慌ててレイの身体を押しのけようとした。
が、レイの腕は僅かとも緩まない。
「は、放してよ、レイ」
「好きなんだ、シキ」
レイは表情を変えることなく、ゆっくりと顔を近づけてくる。
その瞳に湛えられた欲情を読み取って、シキは大きく息を呑んだ。皆が見ている前で、彼は一体何をするつもりなのか。いや、それよりも、どうして誰も何も言わないのか。
シキはぎょっとして、辺りを見回した。
レイの肩越し、リーナが、サンが、級友達が、穏やかな笑みを顔に貼りつけたまま、じっと佇んでいる。
何が起こっているのか全く理解できないまま、シキは必死で身体をよじり続けた。
だがその甲斐もなく、レイの顔は着々とシキへと迫ってくる。諦めきれずに頭を振りたくるシキだったが、ほどなくレイによって頬を押さえられ、問答無用に唇を奪われてしまった。抗議の声を上げようにも、口を塞がれてしまってはシキの声はくぐもった唸り声にしかならない。ならば力づくで、と思いきや、何故か身体の自由が全く効かなかった。
シキの口の中に強引に差し入れられる柔らかい感触。それは、時折わざと水音を立てるようにして震えては、唇の裏を、歯肉を、ねっとりと蹂躙する。深く、深く入り込んでは、生き物のように絡みついてきてシキを煽る。
シキは思わず固く目をつむった。白昼の校庭、大勢の見ている前で、こんな深い口づけを披露させられているなんて、羞恥でシキは気が変になってしまいそうだった。いっそ全てが夢であってほしい、と、祈るような心地で目をつむる。
しかし、視覚を遮断したことによって、他の感覚が前にも増して鋭敏になってしまったようだった。唇の中で蠢くその動きに合わせて、シキの背筋を何度も震えが走った。同時に身体の奥底がじんじんと熱くなってきて、思考に霞がかかってくる。
――いや、やめて、レイ!
心の中でそう懇願するも、自分の言葉によって余計にこのあとの展開を意識してしまい、シキの体温はますます上昇する。
――レイ、お願い、こんな……。
喘ぐように息を継いだシキは、ふと、ぎくりとしてその動きを止めた。言葉にできない不安感が網となって、シキの身体に絡まりつく。
――違う、レイじゃない。
驚いて目を開くと、眼前には間違いなくレイの顔があった。シキが目を開けた気配を察知したのか、彼もまたそっと瞼を開き、それから静かにシキの口を解放した。
「シキ……、愛している」
レイらしからぬ低い声が、シキの頬にすり込まれる。そうして彼は、そのまま彼女の首筋に顔を埋めていった。途端に甘い痺れがシキの全身を走り抜けた。
だが、依然としてシキの身体には、不安という名の網が貼りついたままだ。
――違う、レイじゃない。
言葉で言い表せない違和感が、シキの内部でそう囁いている。これはレイではない、と。だって、レイは、もう――
シキは茫然と息を呑んだ。
「レイ」は、シキの首筋から胸元へと唇を這わせていく。彼が触れた部分から、シキの衣服が溶けるように消え失せていった。
長い夢を見ていた……? 違う。今まさに、これが、夢なんだ。
レイはもうどこにもいなくて。
サンは皆の前から姿を消して。
リーナの居る故郷を離れて。
いつしか、シキは何処 とも知れぬ闇の中を漂っていた。懐かしい学舎も、親友も、仇も、全てが消え失せ、身体を包み込む「レイ」の温もりだけが、彼女の輪郭を支えている。
――ほらね。やっぱり夢だったんだ。
冷笑を浮かべるシキの頬を、「レイ」の指がそっと撫でた。熱の籠もった指は頬からおとがいへ、おとがいから肩を滑り、そのまま愛おしそうにわき腹をなぞる。
――でも、夢でもいいや。
夢だとしても、こうやってレイに会えるのなら。こんなに優しく抱きしめてくれるのなら。そうシキは陶然と瞼を閉じた。すぐ傍らに感じる「レイ」の身体に、そっと身をもたせかける。
途端に「レイ」の動きが大胆になった。シキの胸元をきつく吸い上げては、白い肌に花びらを散らす。痛みとも快感ともつかない不思議な感触に、シキは何度も悩ましげな声を漏らした。
――夢でもいい。私のことをこんなにも求めてくれるのならば。
とうとう「レイ」の唇が胸の先端を捉えた。久しぶりに感じる直接的な官能に、シキの身体は激しく反応する。強く吸われ、舌先で転がされ、そのたびにシキは喘ぎ声を上げた。曖昧さを増す意識の中、彼女はひたすら快感に身体を波打たせた。
そして遂に、その時はやって来た。
熱い塊が内部へと侵入してくる痛みに、シキは顔をしかめた。歯を食いしばり、大きく息を吐き、それから精一杯の笑顔を作った。
「レイ、……あいしてる」
微かなうわ言にその名を聞いた刹那、ロイは自分の視界が真っ赤に染まったような気がした。
ロイの中に辛うじて残った理性のかけらが、呪文の詠唱を続ける。残る大部分を押さえきれない衝動に支配され、ロイは無我夢中でシキに腰を打ちつけた。激情のままにシキの身体を大きく揺り動かし、奥の奥まで彼女を貪った。
忘れろ、奴のことなんか忘れてしまえ。
忘れさせてやる……!
意識のないシキの身体が、薄闇にも分かるほどに上気し始めた。桜色に色づいた肌に、みるみるうちに汗の玉が生まれてくる。時折漏れる喘ぎ声が、より一層艶めき始めた。
呪文の詠唱が終わり、術が起動し始める。
のぼりつめ、痙攣するように身を震わせたシキを強く抱いて、ロイはおのれの全てをぶちまけた。そしてそのまま彼女の隣に、肩で息をしながら倒れ込む。
――これで、シキは私のものだ。
ざまあみろ、と呟いてから、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
どれくらいまどろんだのだろうか。ロイは背中に当たる固い床の感触に目を覚ました。
ランプの炎がすっかり小さくなって、部屋中を闇の中に沈ませている。ロイは心地よい疲労感を覚えながら立ち上がると、ランプの芯を迫り出した。
室内にゆっくりと明るさが戻ってくる。
椅子の背にかけてあった服を着てから、ロイは床に横たわるシキの傍に膝をついた。
規則正しく上下する胸。乱れ髪から覗く艶のある唇。まだほんのりと朱に染まった身体……この自分に貫かれ悶えていた身体……。
どんどんロイの気持ちが昂ってくる。そうだ、これが本来の状態だ。遂にシキはレイの支配から脱したのだ。
盛り上がる気持ちとは裏腹に、ロイはすっかり疲弊していた。「半身」の呪文を習得するために、彼は昨日から一睡もしていなかったのだ。術で力を使い果たした今、彼の体力はもはや限界に達していた。
「続きは明日……かな」
シキの髪を優しく手で梳 りながら、ロイは幸せを噛み締めていた。遂に、遂にこの日がやって来たのだ、と。
だが、次の瞬間、ロイの手が止まった。
――無い。
シキの額の印が、無い。
「半身」の術は術者以外には解除は不可能、上書きすることでしかその効力を奪えない。その記述どおり、ロイはレイの術を破ったのだ。その結果、シキの額のフォール神の印は消え去った。
――ならば、私の術は……?
上書きしたはずのロイの術は、一体どこへいったというのか。ロイは身動きすることもできずに、愕然とシキを見つめ続けた。
早朝、いつもどおりの時間に、シキは目を覚ました。
屋根裏部屋の窓の向こう、見事な青空に雲が幾筋も走っている。清々しい気持ちで寝台に起き上がったシキは、自分が裸であることに気がついて慌てて掛布を首まで引っ張り上げた。
混乱する頭を必死に落ち着かせながら、シキは昨夜何があったのか記憶を辿るべく目を閉じた。
レイのことを先生に問いただそうと決意して、帰ってきた。遅い夕食を摂って、珈琲を飲んで、意を決して話を切り出した。
そこから先の記憶が……無い。
脳裏におぼろげに浮かぶのは、先生の優しい笑顔と、柔らかな声。
『術を解いてあげよう――』
シキはふらふらと立ち上がると、鏡の前に立った。そうして指から「偽装」の指輪を抜き取った。
深い茶色だった髪が、黒に染まる。
そして、額には……何も浮かび上がらない。
――レイの術が、解けたんだ。
あれから半年も経った今になって、何故先生は今更術を解除しようとしたのだろうか。どうせ髪の色を変えるためにこの指輪は使わなければならないのだから、わざわざ額の印を消す必要はなかったのではないだろうか。そう疑問を抱 きつつも、シキにはなんとなくその答えが解るような気がした。おそらく先生は、件 の呪文をその手中に修められたのだろう、と。習得したからには、実践してみたくなるのは当然の流れであろうことも。
レイが自分にかけた術は、一体どのようなものだったのだろうか。どのように施術して、どのように解除を……。そこまで考えを巡らせたシキの頬が真っ赤に染まった。今の自分の姿に思い至ったからだ。
そういえば、レイが自分に施術したのも、あの森での逢瀬の最中だったはず。ということは……。
――だめだ! だめだめ、だめだって!
シキは、具体的なことを考えないように必死で思考を押さえ込んだ。深呼吸を繰り返し、何度も自分に言い聞かせる。仕方ない、仕方ない。異教の神とはいえ、魔術は魔術、先生にとってはこれも研究のうちなのだ。……変に意識してしまっては、失礼じゃないか!
大きく息を吸って、吐いて。何度それを繰り返しただろうか、まだ少し赤い顔でシキは再び鏡に向き直った。未だ動悸は治まりきっていないが、動揺は幾分薄らいできた。もう一度深く嘆息して、勤めに出るための準備にかかる。
服を着ながら、ふと、シキはあの最後の朝のことを思い出した。東の森で意識を失った自分が、朝、きちんと服を着せられて寝台に寝かされていたことを。
――家まで帰らなきゃならなかったわけだから、当たり前か。
いくら夜中だといっても、素っ裸の人間を担いで馬を繰 るのは流石にはばかられたのだろう。尤 も、素肌に外套一枚羽織らせれば済むとも言えるが、あの時レイはそうしなかった。意識のない人間の身づくろいをするのは、かなり骨が折れる作業のはずなのに。
おそらくは悪態をつきながら、悪戦苦闘して自分にズボンを穿かせるレイを想像して、シキは思わずくすくす笑った。
――わざわざ服従の術なんてかけなくても、一言言ってくれたなら、どこへだってついていったのに。
くすくすと笑うシキの頬を、一筋の涙がつたった。