第十五話 夜を司り、死をもたらす者
一 召喚
「だ……、だめ……」
インシャがゆるりと頭を横に振る。蜂蜜色の髪がさらりと揺れる。
そして次の瞬間、彼女の髪は空中に大きく舞った。背後からの突き上げに、彼女は大きく背中を仰け反らせる。
「や……だ……」
「何が、嫌、か」
シャツ一枚だけを羽織った彼女の腰、白磁の素肌に男の指が食い込んでいる。
「……こういう時の君の言葉は、いつだって意味が逆 しまだからな」
エセルはそう言って、再びインシャの腰を強く引き寄せた。彼ご自慢の一物が、深く深く彼女の内部を抉 る。
「随分な大声だな。近所迷惑なのではなかったのか?」
忘我の色を浮かべつつあったインシャの瞳に、少しだけ正気の光が戻った。必死で口を真一文字に引き結び、快感に耐えようとする。だが、その努力を嘲笑うかのように、エセルの動きは激しさを増す一方だった。
どこか遠くで一番鳥が時を告げている。
窓の下は表通りに面していた。日頃あんなにも喧騒に溢れているというのに、早朝の街はどこもかしこも静まりかえっている。
壁の厚さは安普請の集合住宅故に期待できない。このところ、廊下ですれ違う隣近所の目が意味ありげに嗤っているように見えるのは、自分が意識し過ぎているせいなのだろうか。身体以上に崩れ落ちそうな精神 を必死で支えながら、インシャは背後のエセルを受け入れ続けた。
「嫌だと言っているわりに、ぐいぐい締めつけてくるな」
エセルが耳元で囁く。昨夜も遅くまでインシャを貪っていたというのに、彼はまだ足りないと言わんばかりに朝食の用意に起きた彼女を後ろから抱きすくめ、そのまま強引に情事にもつれ込ませたのだ。
インシャの身体を知り尽くした動きで、エセルは彼女をどんどん追い詰めていく。再び彼女の喉から大きな嬌声が漏れた。
「こんなに溢れさせて、いやらしい身体だな」
エセルは、インシャの腰を押さえていた右手を彼女の身体の前にまわした。腹部を撫でながら、ゆっくりと秘部へと指先を滑らせ、茂みの奥の芽を探り当てる。
「尤 も、そんな身体にしたのは……この私だがな……っ」
くつくつと笑いながら、エセルは思いきり腰を押しつけてきた。そのまま今度は小刻みに最奥を震わせる。その動きに、エセルの指に抓まれた花芽もまた、甘美な刺激に晒されることになった。
身体の奥底から湧き上がる、熱い塊。インシャは声を抑えることも忘れて、必死で首を振って悶え続ける。痺れにも似たその熱はあっという間にその嵩 を増すと、彼女の内部で爆発した。
朝日を映して黄金色に輝く髪が、一際大きく宙に揺れる。
「さて、私も満足させてもらうぞ」
ぐったりと流し台に寄りかかるインシャの腰を、エセルは再び両手で押さえる。そして、今度は大きく、激しく、彼女の身体を揺さぶり始めた。
「まだ、何かこだわってらっしゃるのですか」
髪をいつもどおりに結い上げ、身支度を整えたインシャが、エセルのカップに珈琲を注いだ。香ばしい香りが、一気に部屋中に充満する。
「何のことだ」
怪訝そうな声を投げつつ、エセルはインシャがプレスしてくれた木綿のシャツに袖を通した。少々不器用ながらも、その仕上がりは回数を重ねるごとに確実に良くなってきている。その事実は、エセルの心を密かに舞い上がらせていた。
このひと月の間に、エセルは週の大半をインシャの部屋で過ごすようになっていた。
インシャは、激務で知られる警備隊の副隊長だ。そしてエセルは隊長である。
かつて、エセルが他の女達の相手をしていた時は、仕事を抜け出した彼の穴埋めを彼女が完璧にこなしてくれていたものだが、お相手がそのインシャ当人となれば話は断然違ってくる。かといって深夜の逢瀬は翌日に障るし、交代勤務の関係から、休日が重なることは殆 どありえない。以前のような「つまみ食い」ならば、勤務中に無理矢理本部の三階ですませてしまうことも可能だったが、想いが通じたと解った今は、そんな勿体ないことなどできるはずがなかった。
となると、この溢れんばかりの情熱を吐き出すために彼が取れる手段は限られてくる。流石のエセルといえども、屋敷にインシャを連れ込むわけにはいかず、かといって彼の「部屋」は生活するにはあまりにも物が足りていない。
狭いから、汚いから、みすぼらしいから、と必死で固辞するインシャを強引にねじ伏せ、エセルが彼女の部屋で夜を明かしたのが、あの執務室での情事の二日後だった。一度、二度、と彼がインシャの部屋から出勤するようになると、インシャももう半ば諦めたようで、遂にはエセルのために最低限の日用品を買い揃えるに至ったのだった。
勿論、そういった品物の代金は、あとからエセルが支払った。彼は、洗濯や炊事の手間賃をもインシャに渡そうとしたのだが、彼女は静かに首を横に振って、頑としてそれを受け取らなかった。
申し分のない毎日だった。
仕事も充実している。心地よい疲労感とともに彼女の待つ部屋に帰れば、温かい食事と甘い夜が約束されているのだ。インシャが夜勤や準夜勤の日ばかりは、以前どおり屋敷で味気のない夜を過ごさなければならねばならなかったが、それとて、また次にインシャと過ごす夜を更に引き立てるものでしかなかった。
最後に袖のカフスをとめ、エセルは食卓につく。珈琲の香りに包まれながらパンの籠に手を伸ばしたところで、インシャが溜め息とともに先刻の言葉を繰り返した。
「何をこだわってらっしゃるのですか」
「だから、何のことだ」
少し苛ついた声のエセルの問いに、インシャは真っ直ぐ視線を合わせてきた。
「このところ、ずっと隊長は苛々しておられるではありませんか。一体何を気にしてらっしゃるのですか」
胸の奥底までも鷲掴みにされたような不快感を覚えて、エセルは露骨に顔をしかめた。
「苛々などしていない」
「いいえ、しておられます」
「どうしてそんなことが解る」
「そ、それは……」
顔を真っ赤にさせて、インシャが一瞬だけ言いよどんだ。「と、とにかく、最近の隊長は様子が変です」
その言わんとするところを察したエセルは、好色そうな目つきで口角を上げた。
「君がどうしようもなく魅力的だからな。つい激しくもなる」
ねっとりとしたその台詞に、インシャが微かに身体を震わせた。だが、すぐに背筋をピンと伸ばし、眉間に皺を寄せてエセルに対抗してくる。
「ガーツェでの一件を、気にしてらっしゃるのですね」
カチャリ、と音を立ててエセルはフォークを皿の上に置いた。
「やはり、一度きっちり捜索すべきだと思います」
「何故、そんな無意味なことをする必要がある。反乱団はその中枢を失い、事実上壊滅した。それで充分ではないか。……それに、あれからもう十日も経っている」
「いいえ、ま だ 十日です。五人のうち三人が優秀な魔術師ということならば、まだ望みはあります」
「望み?」
うっかり口を滑らせたインシャの言葉尻を、エセルは逃さなかった。インシャは小さく息を呑んでから、観念したかのように視線を伏せた。
「私には、シキが死んでしまったとは思えません。いえ、思いたくありません。隊長、私に捜索隊を指揮させてください。こうしている間にも、現場は雪に閉ざされていくでしょう。どうか……」
「その必要はない!」
朝食に殆 ど手をつけぬままに、エセルは床を蹴って立ち上がった。椅子の背からえんじのジャケットを掴み、大きな動作で羽織る。
「あの落石、そして現場は冬山だ。登山口に配置した見張りからも何も報告は無い。奴らは死んだ。間違いない」
――そうだ、いくらシキともう一人のお尋ね者が魔術師だといっても、彼らはまだ若い。カラントの王子は手負いだ。あの脱走近衛兵にしても、剣術では落盤に対抗のしようがないだろう。そして、前 の宮廷魔術師長は……
エセルはぞくりと身体を震わせた。
彼が魔術道具を使用したのは、あれが初めてではない。強制的に「力」を道具に吸い取られる感覚にも、それなりに慣れていたはずだった。なのに……
おぞましい、と思った。
自分の中の「何か」が、ずるりと引き抜かれたような感触。「それ」は、あの指輪を通して忌まわしいモノに変換され……あの初老の魔術師の命を、文字どおり「喰らった」のだ。
――彼らにとっての唯一の頼みの綱は、あの時永遠に失われた。だから彼らが生きているはずがない。
「隊長、貴方は一体何を恐れてらっしゃるのですか?」
エセルは無言で玄関扉を押し開ける。彼はそのまま振り返ることなく、外套の裾をひるがえしてインシャの部屋をあとにした。
――言い過ぎたかもしれない。
何度目か知らぬ溜め息をつきながら、インシャは警備隊本部に登庁した。
隊の規律を乱すかもしれない、との懸念から、日頃インシャはエセルの少しあとから本部の門をくぐるようにしていた。ぶつぶつと文句を言うエセルをいつも無理矢理先に行かせているくせに、実際に彼に置いて行かれた今、酷く不安な心地になっている自分が途方もなく身勝手に思える。インシャは自嘲の笑みを浮かべながら玄関の扉に手をかけた。
「副隊長殿」
聞き慣れない声に振り返ると、五段下の路傍に一人の男が立っていた。高価そうな揃いの上下を着込み、金髪を綺麗に撫でつけた面長の男。紙のように白い頬と大きな鷲鼻が印象的だ。微かに記憶に残る顔と名前をなんとか掘り起こしながら、インシャは静かに返答する。
「ジャン・バンガ……様、なんでしょうか」
人材不足の警備隊を補うための、ルドス領主に仕える騎士団との兼任者達。彼はその中でも一番の発言力を持っていたはずだ。確か男爵の位を継いだ男だったと記憶している。
立場上、普段インシャが隊員を敬称づけで呼ぶことはあまりない。だが、身分の差を意識しているであろう相手の、感情をわざわざ逆撫ですることはないだろう。
多忙を理由に殆 ど本部に顔を出さない騎士団組が、一体何の用事で自分を呼び止めたのか。疑問に思いながらも、インシャはゆっくりと身体ごと騎士に向き直る。
「領主様がお呼びです。一緒に来ていただけますか」
ジャンが指し示した先には、ルドス領主の紋章の入った二輪馬車が停められていた。
「どうやって彼を誘惑したのですか?」
石畳を踏む車輪の音を伴奏に、馬の蹄が軽快なリズムを刻む。インシャの左に座ったジャンは、極上に上品な口調で、下品な内容を口にした。
「……答えたくない、と。……こんな真面目そうな顔をしていて、裏で何をしているのやら、解らないものですね」
馬車は間違いなく領主の物だった。少なくとも、この騎士が領主の命を受けている事実は間違いないだろう。とにかく、インシャは表情を殺すことに腐心した。この手の手合いは、こちらが感情的になればなるほど調子に乗ってくるはずだ、と。
「領主様は、何と仰られているのですか?」
だが、ジャンはその問いを無視して、少し身体を寄せてきた。
「彼には、私の妹も何度か世話になっておりましてね。最近お呼びがかからない、と嘆いておりましたよ」
その言葉に、インシャは思わずジャンのほうを振り向いた。だが、口元をいやらしく歪めた彼の表情に不吉なものを感じて、即座に顔を背ける。
「彼は、相当な体力の持ち主だそうじゃないですか。毎晩一体どんなことをされているのです? 彼のモノで、一晩中ひいひい言わされているのではないのですか?」
慇懃無礼とはまさしくこのことだろう。丁寧が過ぎる喋り方のせいで、その内容の下劣さが必要以上に強調されてしまう。あまりのことに眩暈すら感じながら、インシャは軽く眉間に皺を寄せると静かに深呼吸をした。
「領主様は、何と仰られているのですか?」
繰り返された問いに、ようやくジャンが反応した。ゆっくりとインシャから身体を離し、神妙な顔でぼそりと呟く。
「なるほど。『鉄の女』ですか」
それから、座席に立てかけていたステッキを手にすると、天井を軽くノックした。
「少し寄り道を頼む。馬酔木 通りへやってくれ」
仕事柄、インシャが荒くれ者に絡まれることは決して珍しくはなかった。中には、警備隊員に対しての恨みつらみだけではなく、女に対する劣情をインシャにぶつけてくる者もいた。
だが、彼女がそれに対して遅れをとったことは一度としてない。インシャ自身、体格や体力では男に敵わないことを充分に認識していたから、日頃の訓練を疎かにすることはなかったし、そして何より、彼女にはアシアス神聖魔術がある。
「……どういうおつもりですか」
だが、今、インシャの隣に座るこの男は、同僚であり、騎士であり、貴族である。無頼漢に絡まれるのとはわけが違う。警戒の色を濃くするインシャの視線に気がついたのだろう、彼はにやにやと笑いながら軽く肩をすくめた。
「これまで副隊長殿とはあまり話をする機会がありませんでしたからね。この機会に是非お互い親交を深めたく思っているのですよ」
「そういうことでしたらば、また次の機会にお願いします」
これは一刻の猶予もならない。そう直感したインシャは、躊躇うことなく馬車の扉に手をかけた。だが、彼女が扉を押し開けるよりも早く、ジャンの大きな手が細い手首を鷲掴みにした。
「お怪我なさいますよ」
「お構いなく」
ジャンの気配が凄みを増していく。振りほどこうにも彼の手は、まるで万力のようにインシャの手を掴んで放さない。内心激しく動揺しながらも、インシャは残った冷静な部分を総動員して、脱出の機会を伺うことにした。そう、一瞬の隙も見逃さないつもりで。
「私としては、副隊長殿の自由意志を尊重したく思っているのですよ」
「でしたら、この手を放してください」
「それはできませんね」
「ならば、大声を出します」
ジャンが、どこか愉快そうに眉を上げた。
「いいですよ。ですが、私も、彼――上にいる御者――も、貴女が私を誘惑したと証言いたします。男と見れば見境のない女……そんな噂が広まっては、とても隊には居られますまい?」
その言葉に、今度はインシャが不敵な笑みを漏らした。
「別に、私は現在の立場に何も未練はありません。ご自由に」
「……それに、彼の立場だって」
「淫乱な女隊員に手玉に取られた間抜けな上司……というのは多少不名誉な称号でしょうけど、それが何か?」
挑戦的なインシャの視線に射すくめられて、ジャンが一瞬怯む。その隙を見逃すことなく手首を反そうとしたインシャだったが、彼の口から出た次の言葉を聞いて動きを止めた。
「なるほど。逆のほうが良いかもしれませんね。権力をかさに、無理矢理部下を襲う上司……」
インシャの目が、見開かれる。
「どんなに貴女が合意の上だと主張なさったところで、上司命令ですからね。そう言わされていると思われても仕方がない」
インシャは、怒りもあらわにジャンを睨みつけた。だがジャンは怯むどころか、至極満足そうに微笑みを浮かべさえする。
「天下の公爵家のご子息が強姦魔ですか。これは素晴らしい。退屈な社交界が沸騰すること、間違いなしですね」
「…………私にどうしろと」
「なに、たったの半時 だけです。我々と楽しい時間を過ごしましょう」
「我々……?」
険しい瞳でインシャがそう問い返した時、車体を大きく軋ませて馬車が停車した。
「白銀の頂 」はその店構えから察するところ、上流階級の紳士が集う社交クラブのようだった。開店前の店の扉を押し開けたジャンが、インシャを振り返る。
「さあ」
インシャは下唇を噛んだ。
今なら逃げられる。この扉の先で自分を待っているであろう出来事が、不快極まりないことであろうなど、彼女にも簡単に想像がつく。
――私はどうすれば良いのだろうか。
私には、失うものなど何一つ無い。だが……、あの人は違う。一瞬だけ目を伏せ、インシャはジャンを真っ向から睨んだ。
彼女の瞳には、悲愴なほどに強い光が込められていた。
二階のサロンには五人の騎士が集っていた。
彼ら全員をインシャは見知っていた。日頃殆 ど顔を合わさないとはいえ、彼らは警備隊に籍を置いている、いわゆる「騎士団組」だ。
「我らが副隊長殿が仲間に入れてほしいそうですよ」
「へえ……、それはそれは」
下卑た笑いを口元に浮かべて、彼らは椅子から立ち上がった。得意そうに部屋の中央に歩を進めるジャンと入れ替わるようにして、五人はゆっくりとインシャに近づいてくる。
「前から気になっていたんだよ」
「ああ、なのに、あいつが邪魔ばかりするから……」
あらん限りの気力をふりしぼって一同をねめつけつつも、インシャは密かに驚いていた。彼らが自分のことを気にしていたという事実もだが、隊長のそんな行動にもついぞ気がついていなかったからだ。
どんな顔をして、どんなふうに、あの人は「邪魔」をしていたのだろうか。インシャの胸の奥が、少しだけ温かくなった。
しかし、粘度の高い男達の声が、否応なしに彼女を現実に引き戻す。
「ふん、流石『鉄の女』だぜ……」
背後にまわった一人が、耳元に口を寄せてくる。震えそうになる身体を必死で制御して、インシャは口を強く引き結んだ。
「中身も鉄か確かめてやろうぜ」
襟元に伸ばされた手をはたき返して、インシャは自分で上着を脱いだ。脱いだ上着を傍らの騎士に押しつけ、更にえんじのジャケットに手をかける。
「おいおい、自分で脱ぐか?」
「やめろよ。俺達が脱がせてやるから」
少し狼狽する一同に、ジャンが後方から声を投げた。
「あまり時間がありません。領主様が彼女をお呼びなのですよ。そうですね……まずは二人ぐらいでしょうか? 残りは城から帰ったあとということで。なあに、これから幾らでも楽しむ機会はあるでしょうしね」
その言葉に、インシャは一瞬息を呑んだ。
「どういうこと!?」
「他の男に抱かれた女を、果たして彼は許すでしょうかな?」
ジャンの口角が、ぐい、と吊り上がる。「我々の言うことをおとなしく聞いてくれれば、彼には内緒にしておいてあげましょう」
その声を受けて、右横に立つ騎士がインシャの胸元に手を伸ばす。服の上からそのふくらみを確かめるように、彼は指を這わせていく。それを皮切りに、他の男達も思い思いにインシャの身体をまさぐり始めた。
「そうそう。副隊長殿が俺達の奴隷だってことは、黙っておいてやるからさ」
「そのかわりに、たっぷり楽しませてもらうぜ」
「ああ。これから、ずーっと、な。よろしくお願いしますよ、副隊長」
「卑怯者! 約束が違う!」
インシャが男達の手を振り払う。だが、多勢に無勢、すぐに彼女は背後から羽交い締めにされ、動きを封じられてしまった。
「……口ごたえは、感心しませんね。貴女はおとなしく……」一歩前に進み出たジャンが、インシャの顎をすくい上げる。「我々の玩具になっておれば良いのです」
インシャの瞳に、初めて怯えの色が入った。
「い……い、嫌……っ」
六人の手が伸びてくる。押し寄せる、興奮した男達の息遣い。
奴隷……
玩具……
これから、ずっと……
「嫌ぁあーーー!」
インシャの絶叫に、硝子が割れる音がかぶる。
窓を突き破って床の上に転がった筒から、煙が湧き起こった。浮き足立つ男達も、インシャも、あっという間に煙幕に呑み込まれ埋没する。
激しく咳き込む男達の間をぬうように、一陣の風が走り抜けた。何かがぶつかる衝撃に、数名がバランスを崩して床に倒れ込む。
「何ですか! 一体何が起こっているのですか!」
狼狽したジャンの叫び声。だが、それに応える声は無い。皆、見えない襲撃者に怯えて、必死で手足を振りまわしてもがき続けているばかりだ。
やがて、煙は少しずつ薄れていった。割れた窓から吹き込む寒風が煙幕を散らし、部屋の扉から抜けていく。開け放された扉から。
煙の晴れた室内、六人の狼藉者が我に返った時には、インシャの姿はもうどこにも無かった。
「…………何やってンだ、副隊長」
「ガーラン……どうしてここに」
全力疾走ですっかり熱を帯びた空気を逃がそうと、ガーランはシャツの喉許を緩めた。
「……巡回中に見かけたんだ。馬車を。あいつ、前から胡散臭い目つきで副隊長を見てたからな、もしやと思って……」
そこまで一気に語ってから、ガーランは大きく息をついた。
「あんな奴にのこのこついていくなんて、一体、どうしちまったんだ」
唇を噛み、視線を逸らせるインシャの姿に、ガーランは不吉なものを感じて眉をひそめた。
「…………何を言われたんだ?」
「貴方には関係ありません」
あまりにも冷たい拒絶の言葉に、ガーランは為すすべもなく立ち尽くす。傷ついたような彼の表情に、インシャは気がつかない。
「領主様に呼ばれているので。早く行かなければ」
言うや否や、インシャは踵 を返す。咄嗟にガーランはその手を掴んだ。
少しだけ驚いた表情で、インシャがゆっくりと振り返った。
「……ガーラン、……痛い」
「あ、ああ、悪ぃ」
慌てて手を放して、それからガーランはいつになく狼狽した様子で頭を掻き毟った。
「……ま、その、なんだ。あの連中がまだ諦めてないかもしれないし……、送ってくよ」
領主の城、第一城壁の門の脇、城壁にもたれてガーランは独り佇んでいた。
あの、慎重なインシャが、一体どうしてあんな軽率な行動に出たのか。彼はインシャを待ちながら、そのことだけを考え続けていた。
馬車のあとをつけて上り坂を走るのは、決して楽な仕事ではなかった。目的地と思しき店の前に降り立った二人を遥か彼方に認めた時、ガーランは自分が飛び道具を持っていないことを心の底から呪っていた。
石でも投げるか、それとも叫ぶか。思案しながら駆け続けるガーランは、インシャが自分から店の扉を押し開けるのを見て、思わず一瞬だけその足を止めた。
――抵抗一つせずに。そんな馬鹿なことがあるか。
開店前の社交クラブは、外部の目の届かない密室だ。「お忙しい」騎士様の根城になっているに違いない。いくら鈍いインシャでも、そんなところに一人のこのこと飛び込んでいけば、どんな目にあうかぐらい解りそうなものだというのに。
――何故だ。どうしてあんな馬鹿なことを。
何度目かの自問ののち、ガーランはある答えを考えまいとしている自分に気がついた。
――そうだ。インシャが、我が身を犠牲にしてまで守りたいと思っているであろう人間が、一人いる…………。
「隊長ばかりか、貴公もあの女に腑抜けにされているのですか」
冷たい声と同時に、足元に影がさす。ガーランが顔を上げると、目の前には騎士団組の警備隊員が一人。インシャをあの店に連れ込んだ奴だ。
彼は尊大な態度でガーランをねめつけ、それから手に持った女物の上着を差し出した。
「忘れ物ですよ」
自分の寛容さに自己満足しているのだろう、ジャンはガーランにインシャの上着を押しつけると、ぐい、と口の端 を上げた。
「こんなことをして、ただで済むと思わないことですね」
「あんたもな」
捨て台詞を吐いて立ち去ろうとしたジャンだったが、即座に投げられたガーランの言葉に訝しげに振り返った。
「あんたがどんな噂を広めようが、隊長は負けないさ。そんなことぐらい解んねえかな? ああ、馬鹿なら解らなくても無理ないか」
あからさまに自分を嘲り笑うガーランの態度に、ジャンの顔に朱が入った。
「それに、あの人を怒らせると怖ぇぜ? なにしろ、公爵様の三男坊だ。後ろ盾は充分なクセに、跡継ぎという枷はない。ぶち切れたら、なりふり構わねえぜ」
そこまで言って、ガーランは壁から身を起こした。ジャンを見下ろして、それからおもむろに凄んでみせる。普段、第一線でならず者を黙らせているその気迫に、ジャンの喉が大きく上下した。
「それとな、平民を舐めんなよ。俺達には、失うものは何もないからな。怒ると何するか本気で解んねえぞ。
あんたのお下劣な想像には付き合いきれないがな、インシャ・アラハンは俺達の大切な副隊長だ。今度また同じようなことがあれば……」
そして、たっぷり一呼吸の間を空けて、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「おまえを、殺す。どこに逃げようが、どこに隠れようが、必ず、な」
「ガーラン?」
領主との話が終わったのだろう、門から出てきたインシャが、怪訝そうにガーランに声をかけた。それからジャンの姿を見とめて、彼女は歩みを止める。険しい表情で。
一方、ジャンはすっかり青ざめた顔色のまま、精一杯の虚勢を張って、二人を交互に睨みつけた。
「ふん、お前達の無礼はなかったことにいたしましょう。だからさっきのことは誰にも言わないことですね。勿論隊長にも」
負け犬が遠吠えの果てに立ち去っていくのを見送って、インシャとガーランは同時に大きく息を吐いた。一気に気が抜けたのか、二人は揃って城壁にもたれかかる。
「一発ぐらい殴っておくんだったわ」
「一発だけ、って、副隊長にしては、随分寛大じゃねぇの?」
微かに頬をふくらませるインシャを横目で見て、ガーランは満足そうに頬を緩ませた。
だが、それもほんのつかの間のこと。
「で、領主様、何だって?」
軽く口にした自分の問いに、インシャの表情が目に見えて曇ったのを見て、ガーランの顔から笑みが消えた。
「何の用事だったんだ?」
「…………」
インシャが僅かに顔を背ける。不吉な予感に苛まれながら、ガーランは彼女の次の言葉を待ち続けた。