The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第十六話 昼を司り、命をもたらす者

  
  
  
    五  出発
  
  
「おい、ちょっとは手伝ったらどうなんだ」
 薄暗い倉庫のそこかしこに積み上げられている道具や箱の隙間で、むくつけき体躯の影が身を起こした。その拍子に、細かい埃が戸口から漏れる日の光にキラキラと舞う。
 憮然とした声に応えて、倉庫の入り口近くに置かれた背の高い脚立の上で、人影が軽く身じろぎした。
「なんで僕が、新年早々から他人の家を掃除しなけりゃならないのさ?」
「探し物をしているのはお前だろう」
 手に持った木製の器のようなものを乱暴に放り投げて、ユエトはきびすを返そうとした。「解った。もういい。俺は知らん」
「いいのー? 僕が勝手に探し回っても?」
 脚立の天辺で読書にいそしんでいたユールが、無邪気な声を上げる。その声に、ぐ、と言葉に詰まってユエトは動きを止めた。
「いやー、一度ココを隅々まで漁ってみたかったんだよねー」
 観念したのか、再びユエトは物陰に身体をうずめる。
「あ、探してくれるんだ。ありがとー」
「手伝え」
「これ読み終わってからね」
 あまりにも勝手な言い草に、ユエトは歯軋りをしてから立ち上がった。つかつかと脚立の傍まで歩み寄り、梯子に手をかける。
「わ、わわわわっ、落ちるっ、落ちるって!」
「落ちろ」
「落ちたら、本が傷むじゃないか!」
 必死で脚立にしがみつく男と、それを容赦なく揺さぶる男と。黴臭い倉庫の空気が一気にかきまわされる。
 本気でユールを振り落とすつもりなのだろう、ひたすら脚立を揺らし続けるユエトだったが、唐突に、はっ、と顔を上げ、その手を止めた。
 ユエトは神妙な顔で脚立から手を放し、静かに外へと向かう。眩い冬の日差しの中に立ち、遥か西の空を白く切り取る連峰を見上げた。
「……空気が……、変わったね……」
 あとを追うようにして倉庫から出てきたユールが、そう言って空を見上げる。
「ああ」
「あの子達、上手くやったんだ」
「そうだな」
 抜けるような碧い空。上空高く舞う鷹が、甲高い笛の音をかき鳴らしていた。
  
  
  
 あの、混迷の宴から三日。
 一時は大混乱に陥るかと危惧された国政は、思いの他すぐに平常へと戻った。
 帝国の要職の大部分が新年の宴に出席していたということが、幸いしたのだろう。なにしろ彼らは、兄帝者の正体から企み、そしてその顛末をつぶさに見聞きしたばかりか、これまで兄の陰に控えていることの多かった弟帝が、威風堂々と自らを皇帝と名乗り上げるに至る一部始終を目撃していたのだから。
 アスラの存在を無に帰し、セイジュを唯一の皇帝として組織を構築し直すことに対して、説明や説得を必要とする者はほとんど存在せず、その作業はつつがなく進められている。また、今回の大事変に関わった人間に対する処遇にしても、異論が差し挟まれることはなかった。
 旧カラント領はかつての王家に返還され、各地に拘留されていた「赤い風」に加担した人間も全員が釈放される運びとなった。ほどなく彼らは、懐かしき故郷の地を目指して移動を始めることになるのだろう。
 邪神を滅するに尽力したその他の者達にも、漏れなく褒賞が下されるとのことだった。宮城に部屋を用意され、国賓としてもてなされ、シキ達はこれ以上はないというぐらいに落ち着かない日々を過ごしていた。
  
  
  
「街は、一連の異聞奇譚で持ちきりですよ」
 第三城壁の北東にある「白の塔」には、十二の客室が遠方からの滞在客のために用意されている。その「白の塔」の入り口ホールの脇にある、二間続きの広い茶話室の中央、豪華なソファの上に優雅に座しながらルーファスがにっこりと微笑んだ。
 対するリーナは、向かって右辺の椅子にちょこんと座って、ガラスのテーブルに置かれた紅茶のカップに手をつけることもできずに硬直している。
「どうなされました?」
「……いえ、もう、なんと言うか、身の置き所がなくて……」
 帝都に来て以来、屋敷に滞在するようルーファスに強く勧められていたにもかかわらず、リーナはそれを固辞して街の宿屋に投宿していた。それが一足飛びに皇帝陛下の居城である。上げ膳据え膳は勿論、こうやって面会人に会うために茶話室に降りれば、即座にお茶の用意までなされる有様に、リーナの、自称「繊細な神経」は擦り切れんばかりだった。
「仕方がありませんよ。リーナさん達は、今や陛下の大切なお客様ですからね」
「大切に思ってくださっているのは充分解ったから、もう放っておいてほしいんだけど」
 ふう、と肩を落とすリーナに、ルーファスは少しだけ眉を曇らせて、声を落とした。
「事態が事態ですからね。情勢がもう少し落ち着くまでは、渦中の人物にはあまり出歩いてほしくない、ともお考えなのでしょう」
「あ、それ、シキも言ってた。じょーほーとーせー?」
「情報統制ということもあるかもしれませんが、やはり一番は、あなた方が余計な面倒に巻き込まれないように、というご配慮だと思いますよ」
 ここは魑魅魍魎が跋扈ばっこする世界ですから、と、少し芝居がかった調子でルーファスは片目をつむった。
  
 二人のカップが空になる頃には、随分とリーナもこの場に打ち解け始め、時折いつもの豪快な笑い声も会話に混ざるようになってきた。
「ところで、他の方々は……?」
「シキとレイは、ちょっと前にタヴァーネス先生に呼ばれたとかで、出ていっちゃって。ルドス警備隊の三人は、部屋に籠もっているんじゃないかな」
 全員が一人ずつ部屋を与えられたものの、エセルが自分の部屋を使っている様子は全く見られなかった。三度の食事のたびに、エセルとインシャがいつも二人揃って遅れて食堂に現れるのを見せつけられ、リーナは隣の部屋との壁が分厚いことを何度も神に感謝した。
 そして同時に、そんな二人を一瞥したのちに不貞腐れた表情で皿をつつくガーランに、酷く同情もしていた。インシャが、時折申し訳なさそうにガーランに視線を投げることに、リーナは気がついたのだ。
 実際のところ、一体あの三人はどういう関係なのだろうか。今晩こそシキに問いたださねば、と、リーナは決意を新たに拳を握り締めた。
  
 突然黙り込んで何か思索に耽り始めた様子のリーナに、ルーファスは躊躇いがちに問いかけた。
「……彼は、どうしておられるのですか?」
「は?」
 リーナのあまりにも間の抜けた返答を聞き、ルーファスは思わず脱力した。てっきりサンのことを考えているのだろう、と思っていた彼は、気を取り直してもう一度リーナに問う。
「あの。サン殿は……」
「ああ! あいつ、ね。……知らないよ?」
 事も無げにリーナはそう言いきった。「例の王子様……じゃなかった、もう王様だっけ、に引っ張りまわされてるみたいで、話をするどころか、全然顔も合わせてないし」
「全然……、ですか」
「そ。見事なまでに挨拶もナシよ」
「……それでも……」
 私を選んではくださらないのですね。その言葉をルーファスは胸の奥に仕舞い込んだ。
「それでも、彼を待つのですか?」
 その一瞬、リーナの視線が僅かにぶれた。
 だが、すぐに彼女は大きな瞳をぐるりと回してから、きっぱりとルーファスに笑いかけてきた。
「待つも何も、あの時思いっきり『さよなら』って言われちゃったしなー。とりあえず家に帰って、仕切り直すわ」
「……そうですか」
「ユーティアさんにも、直接お礼を言いたかったんだけど……」
 間接的ながらも邪神滅殺に貢献したとして、ユーティアに、ひいては彼女の嫁家であるウォラン家にも褒美が下されたため、彼女は帰省の予定を切り上げて夫のもとへと帰ってしまっていた。おそらくは今頃、ウォラン家も大騒ぎの真っ只中だろう。
「色々ありがとうございました、って伝えてもらえますか。ドレスを貸してくださってありがとうございます、とも。お伽噺に出てくるお姫様みたいな格好ができて、すっごく嬉しかった、って」
  
 お伽噺。
 亡国の王が剣士とともに邪神に戦いを挑み、二人の魔術師がそれを助ける。
 邪なる企みが白日のもとに晒され、忌まわしき神は勇者達の手によって打ち滅ぼされる。
 そして、世界には平和が訪れた……。
  
 ルーファスはそっと溜め息をついた。
 普遍的な昔語りにも似た、嵐のようなひと時だった。自分には、それを為すすべもなく見守ることしかできなかった。唯一の救いは、この物語にほんの少しだけでも力を添えられたかもしれない、というささやかな自己満足のみ。
 そっと目を閉じれば、瞼の裏に未だ浮かび上がる克明な映像がある。いにしえの宿命を背負わされた「お姫様」が、手に刻んだ血文字を振りかざし、ドレスの裾をひるがえして邪神に戦いを挑む、その姿……。
 ――ああ、夢を見ていたのかもしれない。
 繰り返される日常の中に、突然飛び込んできた夢のかけら。
 責任感、連帯感。そして、……憧憬。決して交わるはずのなかった二本の線が、ほんの僅か重なり、寄り添い、そして……再び離れていく……。
「色々お世話になりっぱなしで、本当に良くしてもらって、私……何もできなくて……何も応えられなくて……」
 震えだす声音に、ルーファスは我に返った。
 リーナがくしゃくしゃに歪ませた笑顔を伏せるところだった。ぽたぽたと雫が、彼女の膝に落ちる。
「ごめんなさい……ほんとに……ごめんなさい……」
 ルーファスは、静かに深呼吸した。それから、しばし目をつむる。
 春の海のように穏やかな瞳を開いて、彼はそっと微笑みを浮かべた。
「顔を上げてください」
 泣き濡れたおもてをおずおずと上げたリーナに、ルーファスは優しく笑いかけた。
「私が好きになったリーナさんは、こういう時には、ちょっとびっくりするぐらいに豪快に照れ笑いをして、『ありがとう』って言うんですよ」
 涙を拭うことすら忘れて、リーナは呆然とルーファスを見つめる。
「私のほうこそ、色々ありがとうございました。貴女の……貴方がたのことは、一生忘れません」
 再び、彼女の大きな瞳から涙が溢れ出した。
「……騎士様…………」
「最後ぐらいはルーファス、と呼んでください。私達は、もう客人と案内人ではなく……友達なのですから」
 感極まったリーナが、ルーファスの首に飛びついた。そして、鼻声で何度も繰り返す。ありがとう、ごめんなさい、ありがとう……、と。
 ルーファスも少しだけ目を潤ませながら、黙って柔らかな茶色の髪を撫で続けた。
  
  
  
 宮廷魔術師長の執務室の中で、シキとレイは所在なく時間を持て余していた。
 タヴァーネス魔術師長様がお呼びです、と、ここまで案内されて来たわけだが、肝心の部屋の主の姿は室内に無く、二人はかれこれ半時近くもこうやって待ち続けている。
「おい、見てみろよ。これって、家にあったやつだよな」
 痺れを切らして、先ほどから室内をうろうろし始めたレイが、本棚から一冊の本を取り出していた。シキもその傍に寄り、彼の手元を覗き込む。
 それは使い古された古代ルドス語の辞書だった。レイの指がページを繰るたびに、古い書物独特の臭いが二人の鼻腔をくすぐる。
「確か、レイがうっかり書き込みをして、先生に物凄く怒られていたことがあったよね」
「ああ……、あれは確か……、あった、あった。だって、文字が細かすぎて、どこを読んでンのか解んなくなってくるんだぜ。目印の一つや二つ、つけたくなるじゃねーか」
「なりません」
 すまし顔で答えるシキに苦笑で返して、レイはぱたり、と辞書を閉じた。元あった場所に戻しながら、ぐるりと部屋全体を見まわす。
「……すげーよな」
「…………うん」
「ホントに、凄い人だったんだよな」
「うん」
 遥か昔のことのように思える、イの町での日々。
 絶望と孤独の中に放り出され、どうすれば良いのかも解らなかった自分の前に現れたその人は、少しぎこちない笑顔で手を差し伸べてきた。
 私のところに来ないか、と。
『私も、君達と同じぐらいの歳に孤児になったからね』
 彼があの邪神に魅入られた詳しいいきさつを、二人は聞かされていない。ともかくも彼は孤児になり、巫子となり、篤志家に拾われ、教育を与えられた。そして、魔術師となった。
『同一視していたかもしれないな。かつての自分と、君達とを』
 おのれの人生を巻き戻したかのように眼前で繰り返される情景を、彼はどのような気持ちで見守っていたのだろうか。同じような生い立ち、同じような立場の、二人の弟子を……。
  
 いや、違う。
 俺には、シキがいた。
 私には、レイがいた。
  
 そんな小さな、だがとても深い相違が、全ての始まりだったのかもしれない。
 そして、それがなければ邪神の企みが潰えることはなかっただろう。ならば、これは必然だったのか、……それとも偶然だったのか。
「あのさ」
「何?」
 ポツリ、とレイが呟いた。
「前に、ロイが言ったろ。俺がロイに似ているって」
「うん」
「頭の出来や、真面目さとか、そんなのは置いといて、……確かに、俺はロイに似ているよな、と思う」
 シキは、黙ってレイの顔を見つめ続ける。
「なんつーか、な。結局俺達は臆病者なんだよ。お前に拒絶されるのが嫌で、わざわざ回り道を選んで、それで、余計にお前を傷つけてしまった」
 いつになく神妙な表情で、レイは右手の拳を握り締めた。
「あの時に、変な術なんかかけずに、お前を連れて家を出たら良かった。ならば……」
 まさしく今、レイは恐れていたのだ。きたるべき時を。
 いつか再び、正面きってロイと対峙する時が来るかもしれない。故郷の東の森で師と袂を別って以来、そういう予感は常にレイの中にあった。その時が来たらどうするか、何を言うか、それはこれまで散々考えてきたことだった。シキと無事再会を果たしたのちも、そのことがレイの頭から離れることはなかった。
 だが、いざこうやってロイの領域に足を踏み入れ、そのあるじを待つうちに、レイの頭の中は真っ白になってしまっていた。ポッカリと空いた思考に注ぎ込まれるのは、不吉な想像ばかり。
 ――もしも奴が、シキを諦めていなかったら……?
 いいや、「もしも」ではない。レイがロイの立場だったら、そんな簡単には諦めやしないだろう。ましてや、一度はその身体を手にしておいて。
 そして、シキは……、本当にロイを吹っきれたのだろうか……?
「レイ」
 優しい声で名を呼ばれ、自分がいつの間にか俯いていたことにレイは気がついた。
「レイは、いつから私のことを……その、……好き、だったの?」
「……憶えてねえよ」
 ぶっきらぼうにそう言ってからレイが顔を上げると、不機嫌そうに口を尖らせるシキと目が合った。見事なまでのふくれっ面に、先刻までの不安感が一気に吹き飛んでしまう。
「……お前、なんつー顔をしてんだよ」
「真面目に訊いてるのに、はぐらかさないでよ」
 底知れぬほどに深く真摯な瞳が、レイを真っ直ぐに射抜いている。レイは軽く息をついてから、やがて静かに語り始めた。
「……本当に、憶えてないぐらいに昔から、だよ。
 気がついた時から、俺の隣にはいつもお前がいただろ。それが当たり前のことだとずっと思ってた。学校に行き始めて、そうじゃないことが解って……」
 レイはそこでまた視線を逸らせる。「……どうやったら、お前が俺だけのものになるのか、ずっと考えてた。最初はたぶん、単なる子供の独占欲だったんだろうけど……」
 そこまで語って、レイはやにわに勢い良くシキを振り返った。
「じゃ、お前はどうなんだよ。俺のことを、いつから、どう思ってたんだ?」
「私は……」
 レイの勢いに少しだけたじろぎ、それからシキは静かに目を伏せた。「私も、同じ、だと思う。傍にいるのが当たり前だと思っていたレイが、だんだんと遠ざかっていくような気がして……。
 だから、せめて、家族として一緒にいられたら、と思ってた。……ずっと」
「シキ……」
 俯くシキの頭上、何か風が動いたと思いきや、その次の瞬間にはシキは肩を掴まれて本棚に押しつけられていた。間髪を入れず顎がすくい上げられ、レイの顔が近づいてくる。
 咄嗟のことに為すすべもなく、シキは目を白黒させながらレイの口づけを受け入れてしまっていた。
「……っ、何、考えて……」
 僅かな隙に抵抗を試みるも、再び柔らかい感触に言葉を奪われる。
「レ……イ……っ、やめ……!」
「いやだ」
 再々度、レイがシキの唇を啄ばむ。
「先生が、来る……って!」
「知るか」
 ぞくり、とシキの背筋を痺れが駆け抜けた。三日前の、邪神に見せられたあの悪夢がシキの脳裏に蘇る。にゅるり、と侵入してくるレイの舌の感触に、またもシキの身体を震えが走った。
 ――先生がいつやってくるか解らないこの部屋で、レイは一体……
「一体君達は、ここで何をしているのかね」
 心底呆れかえった、と言わんばかりの声が二人を打つ。
 眉間に深い皺を刻み、こめかみを指で押さえたロイが、戸口に立っていた。
  
  
 何度目か知らぬ大きな溜め息とともに、ロイは執務机の椅子に身を沈めた。
 あの時、「偽装」の眼鏡を壊され巫子の証である黒髪に戻ったロイだったが、あるじの神を失った今は、その髪は再び生来の銀色を取り戻していた。急ごしらえの新しい眼鏡は少し度が合っていないようで、ロイは数度目をすがめてから視線を辺りに巡らせる。
 机の前には、頬を赤く染めて決まり悪そうに俯くシキと、照れを隠しているのか、白々しいまでに悪びれぬ様子のレイが並んで立っていた。
「……色々と言うべき事があったはずなんだが……、何かもうどうでも良くなってきたな」
 ふう、ともう一度溜め息を漏らしてから、ロイは椅子の肘掛に頬杖をつく。そのまましばらくの間無言で目を閉じ、それから静かに机の上に身を乗り出した。
「レイ、奇策はどう足掻いても奇策でしかない。出鼻を挫こうというのなら、仕掛ける相手と仕掛け方を見極めることだ」
 その言葉にレイは一瞬だけたじろいだものの、またすぐに不敵な笑みを浮かべる。
「でも、先生のやる気をそぐ効果はあったわけだろ?」
 先刻のキス。レイは最初からそれを先生に見せつけるつもりだったのだ、と知って、シキの眉が跳ね上がった。ロイは、同情の眼差しともとれる瞳をシキに向け、そうして再びレイのほうへと向き直る。
「……それは否定しないが、逆効果、ということは考えなかったのか? 後先考えないところは、一向に直らないようだな」
 ぐ、とレイが言葉に詰まるのを見届けて、ロイは少しだけ溜飲を下げたようだった。
もっとも、お前がそこまで身構えるのも解らないことはないが、な」
  
 沈黙とともに、どのような感情が彼らの胸に去来したのか。二人の弟子も、師匠も、心持ち視線を落として、凍りついたかのように身動き一つしない。
 やがて、ゆっくりとロイが顔を上げた。その気配を察知した二人も、同様に視線を戻す。あくまでも事務的な表情を崩さぬままに、ロイはシキとレイの顔を交互に見つめた。
「カラント王から、大体のあらましは聞いた。我らが古代ルドス魔術が『邪道』であったというのは……正直、厳しい話だな」
 眉をひそめながら、ロイは大きく息を吐く。
「宮廷内ばかりか、ギルドのほうでも大騒ぎのようだ。戯言だ、と言う者も少なくない。私とて、ルドス郊外での出来事がなければ俄かには信じられなかっただろう。
 ライアン先生が生きておられたなら、そして『真の魔術』をその者達に見せてくださったなら、話は簡単だったのだがな」
 ロイが、ザラシュのことを『先生』と称したのを聞いて、二人の表情は目に見えて明るくなった。それに気がつかないふりをして、ロイは話を続ける。
「先生はどうやら書きつけの類は何も残しておられなかったようだ。お前達は何か聞いていないだろうか?」
「……いえ、何も……。老師は真の魔術、特に神の真名について、それは自分で見つけよ、と、そう仰られていました」
「相変わらず、厳しいお方だ」
 その瞳がとても温かく見えて、シキは思わず口元を綻ばせた。その傍らで同様に目元を緩ませたレイが、ふと、怪訝そうに眉を上げる。
「ロ……、先生。先生は何故老師を裏切ったんだ?」
「……本当にお前は、遠慮というものを知らないな」
 苦笑を浮かべてから、ロイはゆっくりと背を椅子に預けた。
「先生がどういう咎で拘留されたかは、知っているのだな?」
 二人が神妙な顔で頷く。
「あの当時、アスラ帝の信仰改革に対する熱意は生半可なものではなかった。そして、先生はそれに水を差そうとしておられた。先生にそのつもりがなくとも、おそらく兄帝はその態度を反逆と捉えるであろう。私はそう考えた」
 ロイの眼差しが昏さを帯び、声音が更に低くなった。
「先手を打たなければ、共倒れだと思った。私は……、あの暗い世界には戻りたくなかったのだよ。もう、二度と」
 水を打ったような静けさに、暖炉の薪のはぜる音が響く。
 シキもレイも、語るべき言葉を見つけられずに視線を足元に落とした。
 同じ孤児という立場でありながら、それはなんという境遇の違いであろうか。時代が、場所が異なる、そう簡単に片付けてしまうにはロイの呟きはあまりにも痛々しく、二人は自分達に与えられた庇護の大きさを思わずにはいられなかった。
 そう、教会の皆はとても親切だったし、最低限とはいえども、飢えだって凌ぐことができた。イの町は貧しくとも平和で、……何より、温かだった。
「姑息な手段で先手を打とうというあたり、実に誰かさんと良く似てやしないか? レイ」
 自嘲にも似た笑みを口元に浮かべながら、ロイは椅子から立ち上がった。
「アシアス以外の神の復権については、またすぐに陛下からお触れが下されるだろう。真の魔術に関しては、追々研究が始まることになるはずだ。
 お前達に、帝都に残って研究を手伝ってほしい、との声も、宮廷内で幾つか聞かれるのだが……」
「手伝いぐらい、幾らでもしてやるぜ」
 レイの声に、ロイは心の底から驚いた表情を見せた。
「だが、それはここで、じゃない」
 少しだけ照れくさそうに、レイはシキの立つ左を見やった。「二人で相談したんだけどさ、俺達、旅に出ようと思うんだ」
「……旅?」
「そう。老師は、旅の果てに真理を手に入れた。たぶん、この世界のあちこちの、なんでもないようなところに鍵は転がっているんだ。俺達はそれを集めようと思う。先生達が、それを論究できるように」
  
 ロイの目が、つい、と細められた。
 机の天板に置かれていた両手が、そっと離れる。上体をゆっくりと起こし、ロイは居住まいを正した。
 急速に澄み渡る空気に、シキもレイも小さく息を呑んだ。それから慌てて背筋を伸ばし、正面に立つおのが師匠を見つめる。
 樫の机をはさんで、師と弟子達は静かに対峙した。
「私は、お前達を……、誇りに思う」
「俺だって」
 眼光鋭く、レイがロイを見返す。
「本当は、もう先生でも生徒でもない、次に会ったら思いっきり殴り倒してやろう、って決めてたんだけどさ」
 その言葉を、シキが静かに継いだ。
「やっぱり、先生は私達の先生です」
  
 しばしののちに、ロイは静かに目を伏せた。
 ありがとう。唇が微かに刻んだその言葉は、形を成さぬままにそっと風と散じていった。
  
  
  
 帝都と外とを別つ南門の傍らに、二台の幌馬車が停められている。簡素ながらもしっかりとした造りの馬車に、毛艶の良い立派な馬が繋がれていた。
 あれから数日、シキ達が帝都を離れる日。
 皇家の紋章入りの馬車で港までお送りしたい、というセイジュの申し出を丁重に辞退して、城下で御者ごと馬車を借りることにしたのだが、どうやら陛下は密かに手をまわしておられたようだった。契約金額に見合わぬ立派な馬車が待っているのを見て、一同はびっくりまなこで足を止める。
「……やられた」
「ま、ありがたく使わせてもらおうよ」
 シキがレイをなだめている間に、リーナがさっさと馬車の一つに駆け寄って、その中を覗き込んだ。
「うわー、すごーい! 水も食料も一杯積まれてるよー!」
「この分だと、ガシガルでは船までもが待っていそうだな」エセルが馬の背を撫でながら、にやり、と笑う。「礼を尽くしたい、とお考えなのだ。素直に受け取ることとしよう」
  
 まずは一度故郷に帰る、ということでシキとレイは意見の一致をみた。レイは勿論のこと、シキもおのれの私物をほとんど手つかずのままに放り出して家を出ていたからだ。
 海路と陸路を経て、おそらくはひと月以上かかるであろう長い旅。同行者は多いほうが道中の危険は少なくて済む。お願いだから見せつけないでよ、とぼやきながらも、リーナも一緒にイの町を目指すこととなった。
 同様な理由で、エセル達も途中のルドスまでは行動をともにする。こちらはこちらで、やはりガーランが、頼むからいちゃつくのはほどほどにしてくれ、と、エセルを拝まんばかりの勢いだった。
「いっそ、男と女で馬車を分けねえか? 丁度三人ずつなわけだし」
「……そのつもりだけれど?」
 悲愴な顔で訴えかけるガーランに、インシャが事も無げに答えた。頷く女性陣とは対照的に、レイとエセルが力いっぱい抗議の声を上げる。
「き、聞いてねえぜ、そんなの!」
「その組分けは不自然だろう!」
「言ってなかったっけ?」
「これ以外の組分けのほうが不自然です」
 なんだかんだ言って仲良く言い合う二組を見ながら、リーナとガーランは同時に溜め息をついた。
「ま、独り者同士、道中よろしく頼むわ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 握手を求めて右手を差し出しかけたガーランが、唐突に動きを止めた。そして、そのままその手を上に持っていくと、がしがしと頭をかきむしる。
「……いや、独り者は俺だけか」
 ガーランの視線が自分の背後に向けられていることに気がついて、リーナは怪訝そうに後ろを振り返った。
 そこに、サンが立っていた。
  
  
 言葉もなく、サンを指差したままパクパクと口を動かすリーナの面前、サンは視線を逸らしたまま、ぼそり、と呟く。
「ユエトさんに、この剣を返さなければならなくて……、俺も一緒に行っても良いかな?」
「……い、良いけど、たぶん。その、えっと、……ルドスまで?」
 激しく動揺しながら、身振りも大袈裟にリーナが返答する。
「いや……、カラントに行くことをお袋にも言っておかないといけないから」
「あ、まあ、そうだよね。うん。お母さん心配していると思うしっ」
 微妙に焦点の定まっていないリーナと、視線を合わそうとしないサンとの間に、重苦しい沈黙が降りる。
「……じゃ、同行者一人追加、って、皆に言ってくる、ね……」
 いたたまれなくなって、リーナがきびすを返そうとする。ぎくしゃくと身体をひねったところで、サンが静かに彼女の名を呼んだ。
「リーナ」
「はいっ?」
 過負荷状態な頭のままに条件反射で振り返ったリーナだったが、呼び止めた当のサンが未だ煮えきらない態度で視線を外しているのを見るうちに、だんだんと彼女の中に怒りが込み上げて来た。
「……あのさ。目ぇ見て話してくれない?」
 サンがおずおずと正面を向く。リーナはそれを真っ向から睨みつけた。
 ややあって、冷ややかな視線のまま、リーナはサンに向かって右手を突き出した。
「で。とりあえずさ、二択でいい?」
「……は?」
「一。『さよなら』って言ったんだから、何も期待するな。
 二。『さよなら』ってのは、やっぱ、ナシ。前言撤回。
 さあ、どっちよ」
  
 二本指を突きつけられたサンの、栗色の瞳が緩む。
「……リーナは、優しいな」
「な! な、何を突然言い出すのよ!」
 顔を真っ赤にさせて動揺するリーナをよそに、サンは再び視線を落とし、訥々と語り始める。
「俺さ、……失敗するのが、怖いんだよ」
 それは、おそらくは初めて彼が吐露する、の物語だった。
「どんなことでも、失敗するぐらいなら、最初から望まない。そうやってこれまで生きてきた。だけど……」
 気持ちを奮い立たせようとして、サンは固く目をつむった。「リーナなら、許してくれる、受け入れてくれる。俺はそう思ったんだ。俺が何か馬鹿なことをやっても、馬鹿なことを言っても。甘えているってことは充分解ってる。でも、俺は、リーナと一緒なら……安心できるんだ」
 一気にそれだけを語り、サンは顔を上げた。今度こそ真っ直ぐにリーナと視線を合わせてくる。
「『さよなら』はナシだ。俺と一緒にいてほしい。これからも、ずっと」
 その言葉が終わりきらないうちに、リーナがサンの胸に飛び込んでくる。彼はその身体をしっかりと抱きとめた。
 もう放さない、そう言わんばかりに。
  
  
  
「見送らなくて、良かったのですか?」
 おのが執務室の窓辺で、セイジュがゆうるりと室内を振り返る。視線の先には、書類を届けにやってきたロイの姿があった。
「……笑顔で彼らを見送ることができるほど、私はまだ人間ができておりませぬゆえ」
 少しだけ意外そうな表情を作ってから、セイジュは優しい瞳をロイに投げかけた。
「あなた方の間に、どのような確執があるのかは解りませんが、悔いが残らなければ良いのですが」
「悔い、ですか」
 オウム返しに一言だけ呟いて、ロイは口をつぐんだ。しばし無言で、何か深く考え込む様子を見せていたが、やがてゆっくりと顔を上げると窓の外へと視線を投げる。
「悔い……、なるほど。悔いが残る……か」
 手元の書類の束を脇机に置き、ロイは少し改まった口調でセイジュに語りかけた。
「陛下、少し失礼して、窓を開けてもよろしいでしょうか」
「構わないよ」
 場所を譲るセイジュに一礼して、ロイは窓の傍に立った。観音開きのガラス窓を押し開き、遥か眼下に広がる帝都の街並みを静かに見下ろす。
 南北に街を貫く大通り、その行き着く先にある南門。彼ら……いや、彼女は今、あそこにいる。
 ロイは両手をゆっくりと掲げた。
 真の魔術は、これからその謎を紐解かれていくことだろう。だが今は、この禁じ手の術で充分だ。ロイは複雑な印を空中に描き、慎重に呪文を詠唱する。それから、一言二言、小さな声で何かを呟いた。
  
  
 一陣の風が、街路を走り抜ける。
 手前の馬車に荷物を積んでいたレイが、弾かれたように顔を上げた。その剣幕に驚いたサンが、怪訝そうな表情を作る。
「どうした、レイ」
「……『風声』だ」
「ふうせい? なんだ、そりゃ」
「風に声を乗せて遠くまで飛ばす術だ」
 険しい顔で、レイは辺りを見まわしている。
「声? 何も聞こえなかったけど?」
「この術は範囲を指定できるんだ。腕前が良い奴ほど、声を届ける場所を限定できる」
 解説しながらもきょろきょろと視線を巡らせるうちに、レイは見つけてしまった。真っ赤な顔で立ち尽くしている、シキの姿を。
「くっそう、ロイの奴……。おい、シキ! お前、何を聞いた!?」
「な、何も聞いてないよ!」
「嘘つけ! 顔が真っ赤じゃねえか!」
「聞いてない! 聞いてないってばー!」
「いいや、絶対何か聞いただろ!」
  
  
「最後の、自己満足です。溜め込んでいるのは身体に悪いですからね」
 不思議そうに自分を見つめるセイジュに、ロイはにっこりと笑いかけた。
  
 おのれの腕の中、邪神に乗っ取られたシキが囁く甘い言葉。
 性懲りもなく身体の内部に火が点るのを自覚した、あの時、ロイは気がついたのだ。自分と彼女との間に横たわる、途方もなく昏い深淵に。
 そして、全てが終わってしまったということに。
 いや、違う。終わったのではない。そもそも始まってすらいなかったのだ、……この恋は。
  
「陛下のお蔭で、すっきりしました。ありがとうございました」
 上機嫌で退出していくロイを見送って、セイジュは再び窓辺へと寄る。
 見上げた紺碧の空に、大きな翼が、一つ、二つ、円を描いていた。
  
  
  
「あの野郎、一体何を言いやがったんだ? おい、シキ、白状しろ!」
「もう、何だっていいじゃん、勘弁してよー!」
「良くない!」
「いいの!」
 大騒ぎの二人を横目で見ながら、ガーランが最後の荷を馬車に乗せる。
「なあ、隊長」
「何だ? ガーラン」
「アスラ神が滅したことで、この世界は何か変わってしまったのか?」
 いつになく真剣なガーランの眼差しに、エセルは右手を顎に当て、ふむ、としばし思案した。
「さて、どうなのだろう。インシャ、君はどう思う?」
「……『神』という存在そのものについて、何も解っていない現状では、その答えは見つからないと思います。
 ですが、そもそもアスラは何千年もの間その神格を封じられていました。その間も、日々変わらずに『夜』は黄昏とともに訪れましたし、『死』も、容赦なく人々を連れ去っていきました。今更の者がいなくなったところで、何が変わるとも思えません」
「けどよ、神が存在しさえすれば、その声を聞くことも、我々の声を届けることだってできたんじゃないか?」
 ガーランの言葉を聞いて、エセルが再び考え込む。
「なるほど。アスラ神がいなくなったことで、死も夜も制御不能なものになるかもしれない、と。我々は、しんに暗黒の世界と、向き合わねばならなくなった、ということか」
 本当の夜、がやってくる。
 ガーランもインシャも、口火を切ったエセルすらも、その幽玄なる響きに、一瞬息を呑んだ。眩い陽光の下にもかかわらず、言い知れぬ畏怖がうねるように湧き上がってくる。
「だが、俺達はそれに抗うすべを持っている」
 三人が驚いて振り返ると、レイが不敵な笑みを浮かべて立っていた。「そうだろ? シキ?」
「うん」
 強い光を瞳に込めて、シキが遠くを見つめる。
  
 たとえ今が、暗黒に至る黄昏時なのだとしても。
 黎明は再び訪れる。そのことさえ忘れなければ。
  
  
「そろそろ出発しないー?」
 リーナの能天気な大声が大通りに響き渡る。それを合図に、皆は馬車に乗り込んだ。
 馬に鞭が入れられ、車輪が大地を噛む。
  
 さあ、帰ろう。
 そして行こう。各々の道を。
 天空高く舞う鷲が、名残を惜しむように一声を上げた。
  
  
  
  
  
  
〈 完 〉