The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第一話 転轍

 
 
 
 私の心にはリセットスイッチがある。
 辛い事も、悔しい事も、いつもそうやって遣り過ごしてきた……。
 
 
 
    第一話   転轍
 
 
 
 これだけ自分が混乱する事など、今まで一度たりとも無かったように思う。
 
 自室の机。広げられた赤本を前にして、先刻から一問も進んでいない自分がいる。有馬ありま志紀しきは大きく溜息をついてから、諦めたように過去問集を閉じた。肩のところで切りそろえられた黒髪が、彼女の心を表しているかのように、揺れる。
 いつになく長い梅雨。夏休みはもう目の前だというのに、一向に雲が途切れる事は無かった。志紀は今朝見た天気予報の天気図を頭に思い描いて、もう一度溜息とともに窓の外を見る。まだ日の落ちる時刻ではなかったが、曇天は夜空に似た昏さをはらんでいた。
 雨。一日中、雨。
 四時間目に化学準備室で聞いたあの雨音が耳から離れない。
 
 
 
 昼休みの喧騒をよそに、化学室を出た志紀は静かにトイレに向かった。
 必死で頭の中を切り替えて、恐怖と嫌悪と狼狽を押し殺す。足取りは速過ぎず、遅過ぎず。扉を押し開けて鏡の前に立つ。
 鏡に映る自分を見て、志紀は息を呑んだ。
 涙の跡は、さっき先生が丁寧に拭ってくれていた。思ったよりも目は腫れていなかったし、髪も乱れていない。制服も、タイも、普段どおり。いや、むしろ自分で結んだよりもタイの形が整っているかもしれない。
 だが、志紀は半ば呆然として頬に手を伸ばす。
「あれ? 志紀、こんなところにいたの?」
 トイレの扉が勢い良く開いて、彼女は思わずびくんと身体を震わせた。級友にして親友の理奈が三つ編みを揺らしながらにこやかに笑いかけてくる。
「学食かと思ってたよ。違ったんだ」
「あ、うん。今日はパン買って来たから」
「んじゃ、一緒に食べようよ」
 そう言いながら、個室へと向かう理奈が、ふと足を止める。
「どうしたの? 顔、赤いけど」
 志紀の心臓が一気に跳ね上がった。
「え? そ、そう?」
「そういや、化学室へお使い行ったっきり、何してたの?」
 
 そう、お使い。
 担当教諭急用のため、自習時間となった化学の授業。宿題のプリントを届けるようにクラス担任に言いつかって、一人訪れた化学室。
 そこで志紀を待っていたのは、留守の筈の化学教師、多賀根たがねろうだった。
 
「あ……え、っと、化学室で転んじゃって、プリントを部屋中にぶちまけちゃって。必死で探して集めて、もう大変で」
「……ったく、志紀ってば、ヘンなところドジなんだから。私の事笑えないぞ」
 鏡の死角に理奈が消えてゆく。鏡像の志紀が、上気した頬をそっと両手で押さえた。
 顔色が悪い、とか、青ざめている、とか。そんな凶相を危惧して覗き込んだ鏡面に映っていたのは、薔薇色の頬と潤んだ瞳、濡れた唇。
 志紀は瞬きも忘れて、鏡の中を見つめ続けた。
 
 
 
 この春に引退するまで、志紀は化学部の部長だった。それ故どうしても顧問である朗とは一緒に居る時間が長かった。文化系部にしては珍しく夏休みに合宿もあるから、所謂いわゆる「同じ屋根の下」で夜を過ごした事もある。文化祭の買出しに、二人きりで車に乗った事だってあった。
 あの、激情とは無縁そうな眼鏡の奥で、先生は、一体いつから私をそんな目で見ていたのだろうか。
 問題集を脇に避け、志紀は机の上に身をもたせかけた。
 
 嫌いじゃなかった。いや、先生の中では一番好きだった。生徒を見下す事無く、適度な距離を保ち、時に羽目を外し。それでもいつも理知的で、理性的で。
 
 じゃあ、今は?
 自分で自分に問いかけて、志紀は考え込んでしまった。
 
 あんな無理矢理。相手の尊厳を踏みにじってまで、自分の欲望を優先する人だったなんて。大体、教師が教え子に手を出すなんて、職業倫理にもとる事甚だしい。許される事じゃない。
 
 ……なのに、なぜ、怒りが湧いてこないのだろう。
 
 確かに、志紀は普段から簡単に激昂する性質ではなかったし、怒りが持続する方でもない。自分を把握しているからだろう、身の丈に合った、ある意味諦めの良い性格をしている。
 そう、それはまるでリセットスイッチのような。
 何か激しい情動が湧き起こりそうになったら発動する安全弁みたいなものは、気が付いた頃には自分に備わっていた。今回も、あまりのショックにそれが作動して…………
 …………違う。それだけが理由じゃない。
 
 志紀の耳に、低い囁きが甦る。
 
 ――じっくりと感じさせてあげよう――
 
 そう、行為の如何はともかく、その声は、その指はとても優しくて。
 知らず口の中に溢れてきた唾を、志紀は静かに飲み込んだ。
 
 
 …………あんなに激しく、誰かに求められた事など、未だかつて無かった。
 
 
 ――君の事が好きだ――
 
 志紀はそっと自分の胸を触った。ずくん、と身体の奥底まで痺れるような快感が湧き起こる。
 気持ちが昂った時、こうやって自分で胸をいらう事は今まで何度もあった。こそばゆいような気持ち良さに、ちょっと妖しい声を出してしまう事だってあった。
 目を閉じて、両手で胸の先端を撫でる。ぞくぞくと快感に身体が震える。
 
 とても、……及ばない。
 この手が、他人のものに代わるだけで、あんなにも激しい官能が襲い掛かってくるなんて。それに…………
 
 志紀は、おそるおそる下腹部に手をやった。
 映画やドラマ、小説の濡れ場で、男女の交わりが快楽に直結するものだという事は知っていたが、彼女にはどうしても排泄のための場所であるという認識しかなかった。その意識をおして、戯れに触れてみても、胸とは違ってそこは如何様な感慨ももたらしてくれなかったから。
 なのに、あの絶頂感だ。意識が一気にどこかに引っ張られてしまうような、あんな感覚が人間に備わっているなんて。
 
 志紀は唐突に我に返って、慌てて激しく首を振った。
 切り替えなければ。
 私は化学室なんて行かなかった。何も、無かったのだ。そう、何も起こらなかったのだ……。
 
 
 
 翌日、金曜日。昨日までとはうって変わった快晴。むっとした草いきれが風にのって校舎内にまで侵入してくる。
 放課後の化学室に集まった部員達は、例によって例の如く、他愛も無い話に花を咲かせていた。いつもの面子が揃ったところで、親戚の海外旅行土産なんだ、と一人が取り出したマカダミアチョコの箱に、一同は歓声を上げる。
「よし、珈琲飲みたい人いるー?」
 志紀が立ち上がると、三人ほどの手が上がった。
「俺、紅茶がいい」
「私、緑茶」
「ややこしい事言うなら、自分の分は自分でしてよ」
「じゃ、俺はブランデー入り……っと」
「こらこら」準備室から、朗が顔を出す。「それは聞き捨てならないな」
「香り付け、香り付け。バニラエッセンスみたいなヤツだと思って」
 
 皆と一緒に笑いながら、志紀は殊更にリセットスイッチを意識した。
 敢えて視線を外さずに、今までどおりに朗の顔を見る。
「先生は珈琲ですか? 紅茶ですか?」
「じゃあ、君と同じものを」
 
 君、という呼びかけに、志紀の視線が一瞬ぶれる。
 名前を呼ばれるよりも、どこか秘密めいた響きを感じて、志紀は知らず息を呑んだ。
 
 お湯が沸騰する頃には、どこから聞きつけてきたのか、理奈を始めとする友人達が押し寄せてきて、化学室は十数人が集うカフェの様相を呈していた。もっとも、日替わり、部替わりで放課後に良く見られる風景ではあるが。
 
 
 そうこうしているうちに、五時を知らせるチャイムが鳴り響く。
「さてと、そろそろお開きにしような」
 朗の声に、ばらばらと皆は立ち上がって、コップ代わりに使っていたビーカーを洗いに流しに列を作った。片付け終わった他の部の生徒は、それぞれ帰り支度をするために化学室を退出していく。
 少し出遅れて最後尾に並んだ志紀の背後、ひらりと白衣が翻った。
「ああ、予定が無いなら、君はもう少し残ってくれ給え」
 
 びくん、と一瞬志紀の身体が震える。
 昨日のあの出来事を無かった事にするならば、志紀はこの申し出を受けなければならない。部長として、これまで何度も一人で先生の手伝いをしてきたのだから。
 
 早く返事をしなければ。焦る志紀の視界の端で、怪訝そうに一人の化学部員が彼女の方を振り向いた。
 俺も手伝おうか? って、言って欲しい。ここで待ってようか? って訊いて欲しい。
 級友達の目を気にしてか、最近頓に態度がよそよそしくなった幼馴染は、しばらくの間逡巡する素振りを見せていたが、「帰ろうぜー」との友人の声に「おう」と一言応えて背を向ける。
 
 志紀は軽く目を瞑った。そして一言
「はい、先生」
 と絞り出した。