The one who treads through the void

  [?]

CONTRADICTING BLOCKS 第一話 転轍

 
 
 
 見事な自己統制能力だ。
 自分の後について準備室の扉をくぐる志紀を見ながら、朗は胸の内で呟いていた。昨日に自分が為した事を、そしてこれから為そうとしている事すら、棚に上げて。
 普段の授業や部活で伺える志紀のニュートラルな立ち位置、あの見事なまでにイドラを排除した思考は、ここから派生しているのかもしれない。
 
 統制? いや、それとも……切り捨てているのか。
 ふっと頭に浮かんだ懸念を振り払うようにして扉を閉める。その拍子に志紀の肩に身体が触れたが、彼女は身じろぎ一つしなかった。
 
 その彼女が、先程一瞬だけ揺らした瞳。その先に居た人物の、わざとらしいほどそっけない様子。確か、彼とは、小、中、と同じ机を並べていた、と志紀は言っていた。
 開き直ってしまえればそうでもないのだろうが、幼馴染という宙ぶらりんな状態で友人達にからかわれるのは苦痛でしか無いのだろう。彼の態度はあの年頃には決して珍しいものではない。まあ、多少は幼な過ぎるような気もするが。
 志紀の視線から外れた彼が、常に彼女の姿を目で追っている事に、朗は気が付いていた。その事を彼女に教えるつもりは、…………絶対に無い。これまでも、これからも。
 
 馬鹿な奴だ。彼女は私が貰う。
 朗は、自分のテリトリーに無表情で立つ志紀の方に向き直った。
 
 
 
 どうして、「はい」なんて言ってしまったんだろう。
 どうして、この部屋にまた入ってしまったんだろう。
 
 ぐるぐるぐるぐる。頭の中が坩堝と化してしまっている。志紀は表情と感情を繋ぐスイッチを見失いながら、呆然と立ち尽くしていた。
 何も強制などされていないにもかかわらず、自分から先生の誘いに乗ってしまったのは何故なのだろう。そう、これでは、また先生があんな事を私にしても、それは同意の上という事になってしまう。
 ……そんな事、解っている筈なのに。
 そして、志紀の思考はまたぐるぐると同じところを廻り続けるのだ。
 
「志紀」
 朗の声に、心を置き去りにしたまま志紀は顔を上げる。その空虚な眼窩に、朗の眉が微かにひそめられた。
 しばしの間、彼は言葉を継ぐ事無く志紀を見つめ続ける。それから、静かに志紀の傍まで近づくと、耳元に口を寄せ、もう一度囁きかけた。
「……有馬さん」
 ほんの微かな身じろぎが返ってくる。朗はそっと身を起こすと、ねっとりとした声の調子はそのままに、志紀に話しかけた。
「…………今年の合宿のメインについてなんだがね」
 ゆるりと志紀が朗を見上げた。胡乱な瞳に次第に光が戻ってくる。
「去年は鍾乳洞見学だったじゃないか。今年もそうするか、それとも別な事を考えるか……、君の意見が聞きたいんだけど?」
 
 
 
「失礼します」
 準備室の扉を閉めて、志紀は化学室の机に置きっぱなしになっていた自分の鞄のところまで行く。張り詰めていた気持ちが一気にほぐれて、志紀の口から大きな溜息が漏れた。
 
 結局、先生は合宿の打ち合わせをしたかっただけだったのだろうか。
 だが、いつもよりも格段に粘度を増したような口調と、熱の篭った声。戸棚から昨年の資料を出す時に触れた手――明らかに偶然ではなくそれを装って、そっと志紀の手の甲に重ねられた、汗ばんだ掌。
 先生の机の上に広げられた資料を覗き込む時に、背後から覆い被さるようにして至近距離で囁かれた時は、昨日の事をまざまざと思い出さされて、志紀の鼓動は部屋中に響くかの如く高鳴った。
 
 無造作に置かれた鞄の脇、前屈みに机の上に手をついて、もう一度志紀は溜息をつく。
 てっきり、……されるのだと思っていた。
 
 志紀は知らず生唾を呑み込む。
 無事に解放されて、ほっ、としたのは間違い無い。だが、胸の奥底で、行き場の無い「何か」が密かに蠢いている。
 期待していた……のだろうか。
 まさか、と首を振る。だが、その思いを否定しきれない自分が、そこにいた。
 さっきまであんなに恐れていたのに、安全圏に戻ってしまうと物足りなく思うなんて。
 
「そんなに残念そうな顔をしないでくれ給え」
 
 突然、耳元で囁かれて、志紀は一瞬にして身体を硬直させた。
 微かな薬品臭は、白衣に染み付いたものだろう。
 黒色の机の天板を、ただ凝視する志紀の瞳は、見えるはずの無い景色を鮮やかに脳裏に送る。
 
 緩やかなウェーブをえがく前髪が、微かな動きに合わせて揺れている。
 眼鏡の奥で冷徹な目が笑っている。
 そして、薄い唇が紡ぎだすのは……
 
「どうやら、『戻ってきた』みたいだね。ずっと心ここに在らずといった風だったから」
 朗の腕が、そっと背後から志紀の身体にまわされた。
「抜け殻の君に興味は無いのでね」
 志紀が大きく喘ぐように息をする。言葉が、喉に貼りついて、何も言う事が出来ない。
 そうする事がまるで必然であるかのように、静かに、ゆっくりと、朗の両腕に力が込められた。首筋に柔らかいものが触れ、志紀は思わず背筋を震わせる。
 日の長い夏、時計は五時半をまわっているが、まだまだ太陽の位置は高い。南向きの窓から室内に差し込む陽光が、窓辺の硝子器具にキラキラと乱反射している。
「だめ……誰かに、見られる……」
 そう絞り出すように呟いた志紀の内部、心のどこかが悲壮な声を上げた。
 
 違う。そんな事が問題なのじゃなくて。
 拒否しなきゃ。
 嫌だ、と。
 帰らせてください、と……。
 
「……準備室に行こうか?」
 朗が志紀の手をひいた。もう片方の手に志紀の荷物を持って。
 簡素な木の扉に二人が消えていく。
 そして、鍵をかける音が無人の化学室に響き渡った。