The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 後日譚 陥穽

  
  
  
   陥穽
  
  
  
『すまない、行けなくなった』
 ケータイの画面を一目見るなり、志紀は大きく溜め息をついた。
 商都という名に相応しい巨大な駅の、改札の手前で思わず足を止めた志紀に、濁流にも似た雑踏が襲いかかる。慌てて彼女はケータイを握り締めたまま、大きな柱の陰へと避難した。
 もとより、朗とは待ち合わせをしていたわけではなかったし、一緒に行動する予定でもなかった。同じ日の同じ時間、同じ場所で同じものを共有しよう、ただそれだけの約束だったのだ。とはいえ、それすら叶わなくなった事実に、志紀は激しく落胆した。
「……帰っちゃおうかなー……」
 志紀は小さく唇を尖らせた。
 とりあえず返信しなければ、と改めて覗き込んだメールの文面にまだ続きがあることに気がついて、急いで画面をスクロールさせる。
『土産話を楽しみにしている。観る価値ありなら、封切り後にもう一度付き合ってくれ』
 つまり、このまま帰らずにしっかり目的を敢行しろ、と。
 先生ってば、勝手なことばっかり言うんだから。志紀はもう一度、深く深く嘆息した。
  
  
  
「先生、この映画、観たいって言ってたでしょ? 試写会の券が当たったんです!」
 三月上旬の月曜日、本命大学の合格発表の翌日、サクラサクの便りを手に古巣にやってきた志紀は、一番乗りを果たした化学室で、目をきらきら輝かせながら一枚のチケットを朗に差し出した。
「もう卒業式も終わったし……、その、一緒に行きませんか?」
「無理だな」
 間髪を入れずに放たれた言葉は、まるで氷の刃のようだった。志紀は大きく息を呑むと、思わず一歩をあとずさった。
「卒業式は、あくまでも形式上のもの。単なるセレモニーに過ぎない。四月一日までは、君は高校生で私はその教師なのだ」
 朗は、志紀から視線を外すと、わざとらしい仕草で眼鏡の位置を直した。
「もしもそれまでにこの関係が露見すれば……、解るだろう? 余計なリスクをわざわざ自分から負うことはない」
 すっかり意気消沈して俯く志紀の頭に、大きな手のひらが乗せられる。だが志紀がその温もりを感じ取る間もなく、朗はそっと手を引いた。
 廊下の遠くを賑やかしていた声々が、確実にその距離を縮めてきていた。朗はくるりと志紀に背を向けて、作業中だった教卓へと戻る。
「……あと半月の辛抱だ」
 朗のかそけき一言に、廊下の喧騒がかぶる。ほどなく化学室の扉に影がさし、悲喜こもごもの結果報告を携えたいつものメンバーが戸口に現れた。
「おはよー、志紀ー」
 むさ苦しい集団の後ろから理奈が顔を覗かせる。まだ微かに残る朗の手の感触を振り払うようにして、志紀は顔を上げた。
  
  
 そんなわけで、志紀は余ってしまったチケットを理奈との「デート」に使うことにした。「映画はアクションかサスペンスに限る!」と言いきって憚らない理奈は、科学系ドキュメンタリーと聞いて眉を寄せたものの、すぐにその大きな瞳をキラキラと輝かせて大きく頷いた。曰く、「スペースオペラのメイキングだと思えばイイってわけね!」と。
 ところが。
 次の土曜日、一緒にランチ、と待ち合わせたパスタ屋で、理奈は件のチケットを申し訳なさそうに差し返してきたのだった。
「ごめーん。どうしても抜けられない用事ができちゃって……。ホントごめん、マジごめん。チケット返すね」
 テーブルに額を擦りつけんが勢いで志紀に向かって手を合わせる理奈に、志紀は小さく溜め息をついてから、いいよ、と笑った。
「そっか、残念。んじゃ、また別の日に一緒に遊ぼ」
「本っ当にゴメンね。まさかピンポイントで予定がかぶるとは……」
 理奈の懺悔は、店のお兄さんがメインのパスタを運んで来るまで続いた。
 大皿二枚を器用にも片手で運んできた店員さんは、慣れた手つきでスープボウルをかたせ、薫り立つパスタの皿をテーブルに並べていく。ごゆっくりどうぞ、とお兄さんが去るや否や、理奈も志紀も腹の虫に急かされるがままに、我先にとカトラリーの籠に手を伸ばした。
 本日のランチメニューは、トマトクリームのフェトチーネ。フォークを動かすほどに、芳醇なトマトの香りが辺りに立ちのぼる。平麺パスタに絡まるソースはとてもクリーミィで、舌の上に載せればチーズのコクがたちまち口中に広がっていった。ともすればくどくなりがちなクリームソースだが、トマトの酸味と玉ねぎの旨味が絶妙のバランスで色を添え、濃厚さにもかかわらずその後味は爽やかとすら言える。
「これだったら、何杯だって食べられそうだよね」
 理奈が溜め息とともにうっとりと呟いた。志紀もまた、語るべき言葉を見つけられずに大きく頷くばかり。二人は会話も忘れて、しばしこの贅沢なひと時を心の底から味わった。
  
「でも、このチケットどうしようかなー。ね、理奈、誰か観たがってそうな人知らない? 私の分も合わせれば、誰か欲しい人見つからないかな?」
 食後の珈琲片手に、志紀はテーブルの上の試写会の券を指でコツコツと叩いた。その言葉に、理奈が目を丸くしてジンジャーエールのグラスから顔を上げる。
「え? 志紀、行かないの?」
「ん……。観たくないわけじゃないけど、一般公開されてからでも別にいいかな、って」
「せっかく応募したのに? 勿体なくない?」
「葉書代しかかかってないから、まあいいかな、って」
 そこで、理奈の瞳が意味ありげに光った。
「つーまーりー、この映画が好きな誰かのために申し込んだ、ってわけね!」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、理奈はテーブルの上に身を乗り出してくる。流石は演劇部、顎に手をやって思案する仕草も一々大げさだ。
 想定外のツッコミに志紀はすっかり取り乱して、あわを食ったように両手を振って弁解を始めた。
「え、あ、いや、そうじゃなくって、だからさ、もしも当たったら儲け物だし、ほら、受験の運試し、みたいな……」
「またまたぁー。やーねぇ、志紀ったらー」
 どこのオバサンかと言いたくなるような身振りを披露してから、理奈はゆっくりと椅子に背もたれた。それから、打って変わって優しい瞳で志紀に微笑みかけてきた。
「もしも『振られた』ってんなら仕方ないけどさ、そうじゃないんだったら思いきって誘ってみたら? 本命を。……って、あ、違うわよ、用事ができたのは本当。そんな、ライバルに気を利かせるような心の広い理奈サマじゃありませんからね!」
 誰だか知らないけど、そこんじょそこらの馬の骨なんかに志紀は渡さないもんねー、とおどけて笑う理奈だった。
  
  
  
 地下街を出た志紀は、眩しさのあまり一瞬だけ足を止めた。
 目が眩むほどの青空がビル群の上にのしかかっている。埃っぽい風と排ガスの臭いが恨めしくなってしまうぐらいの、日本晴れ。そういえば別な友達がピクニックに行く計画を立ててたっけ、と志紀はまた大きく溜め息をついた。
 こんなことになるなら、さっさとチケットを捨ててしまうんだった。そうすれば、あの時、あんな申し出に首を縦に振ることもなく、今頃は清々しい春の空気の中で、気の置けない仲間達とお弁当を広げて、楽しいひと時を過ごせていたことだろう。そう悔やみながらも、志紀は律儀に試写会の会場へと向かい始めた。
  
「志紀、先週に言っていた試写会だが、チケットはまだ持っているのかい?」
 そう、あの時。理奈との約束が白紙に戻ったその翌々日。化学室にやってきた志紀を見るなり、朗はこう問いかけてきたのだ。それはもう、うっかり見惚れてしまいそうなほど柔らかい笑顔を、珍しくも溢れさせながら。
「え? はい、ありますけど……」
「貰ってもいいかな? やっぱり私も行こう」
 その言葉を聞いた志紀の胸に、まず押し寄せてきたのは、喜びよりも不安だった。朗にあれだけ強く説教されたあとでは無理もない、志紀は形の良い眉を思いっきりひそめて、朗を見返した。
「え? あ、でも、その……、誰かに見られたら……って」
「ああ。だから、一緒に行動するわけにはいかないがね」
 ますます深い皺が、志紀の眉間に刻まれる。見事なまでのしかめっ面を目の当たりにして、朗は口のを大きく引き上げた。
「せっかく君が私のために用意してくれた券なんだしね。一緒にはおれなくとも、同じ会場で同じ時間を共有することぐらいは許されるだろう。そうは思わないかい?」
  
  
 目指すは、駅前から少し離れた所に建つ百貨店。お洒落な生活雑貨を主に扱うこの建物の地下に、会場となる映画館がある。
 買い物客でごった返す店内から少し外れて、地階へのエレベータに乗り込んだ。財布の中から招待券を出し、いざ劇場窓口へ、というところで、志紀は耳にした。自分の名を呼ぶ微かな声を。
 聞き間違いか、空耳か、空耳ではないのならば、それは本当に自分に向けられた声だったのか、ならば誰が自分を呼んだのか、……そういった思考を勢いよくスキップして、志紀は声の主を求めて背後を振り返った。「先生、」と声に出さなかったのは、単に偶さかの結果に過ぎない。
「ああ、やっぱり有馬さんだ」
 柏木陸が、そこに立っていた。