The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 後日譚 陥穽

  
  
  
 制服姿を見慣れていた志紀には、はじめ彼が誰だか解らなかった。カーキ色の、ざっくりとした風合いの軽めのコートに、大きめボタンが印象的なネイビーブルーのチェックのシャツ。チャコールグレイのカーゴパンツとニットキャップが、普段の彼からは想像もつかないほどの野性味を醸し出している。
 合宿や遠足で見る男子の私服と言えば、大半がジーパンにシャツという通り一遍の組み合わせばかりで、まるで雑誌の切り抜きから抜け出したかのような陸の姿に、志紀はすっかり度肝を抜かれてしまっていた。大体、防寒具としてではなくファッションとしてニットキャップを着こなす男が、あの地味な高校に一体どれだけ存在するというのだろうか。やっぱり彼はダダモノではなかった、と妙なところに感心しながら、志紀はゆっくりと口を開いた。
「柏木君? どうしてここに?」
「君も試写会に? 奇遇だね」
 そう言って陸は穏やかに微笑んだ。志紀の問いには答えないままに。
  
 五ヶ月前のあの講演会の日以降も、陸の態度は何も変わらない。特別棟の二階の小部屋で志紀を床に組み伏せ、その身体を貪ろうとした時ですら紳士の仮面を外さなかった陸のことだ、本当に何事も無かったかのように、彼は志紀に対しても朗に対しても以前と同じ態度で接し続けていた。
 保身のための戦略でもあったのだろう。だが、それより何より彼のプライドが、あの顛末を許さなかったに違いない。彼は全力で過去を書き換えた。あの日の出来事を無かったことにしようとしたのだ。
 その是非はともかく、志紀には陸の気持ちが少し解るような気がした。ならばこの先、彼が再び自分に手出しをすることはないだろう。あの時何も起こらなかった代わりに、これからも何も起こらない。これは暗黙の取引なのだ。
 発端を考えれば、多少理不尽な気がしないでもないが、これで八方丸く収まるのならば構わない、そう志紀は考えていた。ただ……二度目は、無い、と。次に同じようなことがあれば、その時は倍にして報復する、とも。
 そんな志紀に対して、朗はきっぱり「甘いな」と切り返した。
「君が考えているほど彼はシンプルではない。執着心も非常に強い。油断すればまた狙われるぞ」
「でも、それは、彼が私に執着していれば、ですよね。私はそうは思いません。たぶん、彼は『私と関わった一連の出来事』には執着していても、『私自身』に対してはもうどうでもいいと思っていると思うんです」
「それが切り分けられるほど、人間というものは単純にはできていない」
 この私が良い例だ。そう吐き捨ててから、朗は真っ向から志紀の目を覗き込んだ。
「とにかく、柏木には気をつけろ」
  
 確かに、陸と学外でこうやって対面するなんてことは、志紀にとって全くの想定外だった。気をつけろ、気をつけろ、頭の中で朗の台詞を何度も反芻しながら、志紀は静かに唾を飲み込んだ。
「君『も』ってことは、柏木君も試写会に?」
「そうだよ。……有馬さん、一人?」
「あ、うん。お母さんが申し込んだら当たっちゃって。一緒に来るはずだったんだけど、用事ができて、それで私だけで観にきたんだ」
 十日前に理奈につつかれた穴を補強しておいて本当に良かった。志紀は心の底からそう思った。
「僕は知り合いに余った券を貰ったんだ。公開されたら観に行くつもりだったんだけど、まさか一足早く、それもタダで観られることになるなんて、思ってもみなかったよ」
 そう言って笑う陸は、とても嬉しそうだった。ついつられて、志紀の頬も緩んでしまう。
「そんなに好きなの? この映画」
「そりゃあもう。NASAお蔵出しの映像も使われてるって聞くし。やっぱり、スクリーンで見るのとテレビやディスプレイとじゃあ、迫力が違うからね」
  
 連れと思われたか、窓口のお姉さんが志紀に差し出した座席指定券は、陸の隣の番号だった。この状況でわざわざ席を離そうとするのも、あまりに自意識過剰のような気がして、とりあえず志紀はなりゆきに身を任せることにした。
 柔らかな照明に照らされた通路を進み、会場となるホールへと入る。お互い微妙な距離を保ったまま、二人は指定された席に向かった。上映までまだ二十分ほど間があるにもかかわらず、既に座席の半分が埋まっていた。そわそわと浮ついた空気が靄のように辺りに充満している。期待に満ちた、それでいてどこか取り澄ましたような、そんな雰囲気が少しこそばゆくて、志紀も知らずよそ行き顔で座席に腰を下ろした。
「いいよね、親が映画好きだと。うちなんて、『映画なんてそのうちテレビで放映するでしょ』の一言で終わりだから」
 大げさな溜め息とともに、陸がぼそりとぼやく。聞き慣れた台詞に、思わず志紀も隣に身を乗り出した。
「そうそう! ノーカット版が見たいから、って言っても、どこがカットされてるのか確認しなきゃ解らないんだからいいじゃない、って」
「え? でも、この試写会、お母さんが申し込んだって……」
 怪訝そうに眉を寄せる陸に、志紀は少し慌てて言葉を継いだ。
「あ、だから、これ無料だから。それに、ほら、こんなにマイナーな映画はテレビでしないだろうし、娘がサイエンス物とか好きだし、だから……」
 たっぷり一呼吸ののちに、陸はにっこりと笑みを作った。
「何だかんだ言っても、やっぱり理解のある親なんじゃん」
「うーん、そう言われると、そうなのかも」
 なんとか話を誤魔化せたか、と志紀が胸を撫で下ろしているところに、スピーカーが女性の声で歓迎と開始の挨拶を囁き始めた。
 うしおのようにざわめきが引いていき、場のフェイズが切り替わる。志紀は心持ち姿勢を正して、視線を前方のスクリーンに向けた。
  
(先生が来なくて良かった)
 闇に浮かぶ大きな四角い枠内に、上映に際しての注意事項がミニドラマ仕立てで次々と映し出されている。志紀は横目で陸の姿を窺いながら、もう一度安堵の溜め息をついた。
 いくら離れてそ知らぬふりをしていても、陸なら気づくに違いない。朗の姿に。更には彼らの関係に。
 教師と現教え子との許されざる関係、そんな強力なカードを手にした彼が、どのような行動をとるか。それは志紀の想像の範囲を大きく逸脱しており、もはや予測することなど不可能だ。そんな事態だけは、絶対に回避しなければならない。なんとしても。
(それに……)
 志紀はごくりと生唾を飲み込んだ。
 陸と隣合った席に座り、彼と語り合う姿を朗に見られたくない。やれ警戒心がなさ過ぎるだの、やれ学習能力はないのかだの、絶対にあとからお仕置……いや、小言を言われるに違いないのだ。
 画面中央に配給会社のロゴが現れた。荘厳なるしらべが、うねるように会場を包み込む。
 本来の目的を思い出して、志紀は眼前に展開する雄大な物語へ意識を集中させた。
  
  
 エンドテロップが始まると、いつも、長い旅を終えたような気持ちになる。
 完全に映画の世界に没頭していた志紀は、三十八万キロメートルの彼方からやっとの思いで魂を引き剥がし、大きく息を吐いた。
 ぼつぼつと、会場のあちらこちらで人々が立ち上がり始める。だが志紀は、スタッフロールも映画の一部なのに、と、半ば意地になってスクリーンを見つめ続けた。
 場内の灯りが戻り、日常が辺りに降りてくる。
 始まりと同じ女性のアナウンスに促されるようにして、志紀は席を立った。うん、と背筋を伸ばし、腰を伸ばし……
「このあと、何か予定ある?」
 すっかり失念していた隣の席から声がかかった。驚いて振り向いた視線の先で、陸が涼しげに微笑んでいる。
「え?」
「無いんだったら、お茶でも奢るよ」
「いや、その、もう帰ろうかな、って……、買い物もしたいし」
 思いっきり矛盾した答えを返していることに気づかないまま、志紀はじりじりと後退していく。対する陸は、志紀の不審な態度に頓着する様子もみせず悠然と立ち上がった。大きな動作でコートを羽織り、ニットキャップをかぶる。
「急ぐ買い物?」
 大きく頷こうとした志紀の動きが止まった。陸の次の言葉を聞いて。
「ちょっと話がしたいんだけど。君が好きな人について」