The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 後日譚 陥穽

  
  
  
 混乱した頭を抱えて、志紀は帰途に着いた。
 今日は一体なんて日だったんだろう。気の抜けてしまった思考のままに、彼女はこの数日の出来事をぼんやりと反芻していた。
 ――試写会のチケットが当たって、行こうと誘った先生に一度断られて、更に理奈にも振られたかと思えば、今度は先生が自分から声をかけてきてくれて。それで今日、別々に来るはずだった先生が来れなくなったとメールを寄越してきて、会場で柏木君に会って、喫茶店に連れてこられて、あんな話を聞かされて、帰る時になって嶺が現れて……。
 こういう日のことを、まさに厄日と言うのではなかろうか。そう自分に言い聞かせながらも、どうしても溜め息が出てしまう。こんなことじゃダメだ、シャキッとしなきゃ、と気合を入れ直すべく志紀が背筋を伸ばしたその時、鞄の中からケータイの着信音が響いてきた。
 誰からだろう、と首をひねった志紀の動きが止まる。
『R.T』
 ごくり、と志紀の喉が大きく上下した。
  
  
  
 巨大ターミナルから電車でひと駅のオフィス街。普段なら喧騒に満ち溢れている夕刻だが、休日ともなれば辺りはしんと静まりかえっている。そんな閑静な街角のビルの陰に隠れるようにして、一台の赤いコンパクトカーが止まっていた。
「試写会でたまたま化学部の友達に会って、それでもうちょっとだけゆっくりして帰るから。……うん、そう。うん、晩御飯は家で食べるよ。遅くならないようにするから」
 運転席の斜め後ろのシートで、志紀はケータイを鞄に仕舞い込んだ。変装用に、と手渡された紺色のキャップを目深にかぶり直す。
 待望のデートにもかかわらず、志紀の表情は浮かなかった。待ち合わせに指定されたバス停に赤い車を見とめ、助手席に駆け寄った志紀に、朗が厳しい口調で後ろの席に座るよう告げたことも、原因の一つに違いない。
 ――そりゃあ、あと三日は先生とのことを絶対に内緒にしておかなければならないわけだけど。でも……
 志紀の溜め息は、唸り始めたエンジンの音にかき消されてしまった。
「ドライブスルーなどを使って、車の中で食事をするという手もあるんだが……」
「そこまでしなくってもいいです」
 つい語尾が刺々しくなってしまったことを自覚して、志紀は慌てて運転席のほうを窺った。改めて考えるまでもなく、朗は都合と大いなるリスクをおしてわざわざ志紀に会いに来てくれたのだ。我が儘を言っている場合ではない。
 志紀の複雑な胸中に気づいているのかいないのか、朗は真っ直ぐ前を向いて運転に集中している。語るべき言葉を見つけられずに、志紀も黙って、窓の外を流れ去る街並みを見つめ続けた。
  
「一体、何の話を……」
 赤信号で停止し、そう口を開いた朗が急に咳込み始め、志紀は思わず前方へと身を乗り出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……あ、ああ、大丈夫だ。……一体、どんな話の映画だったんだい?」
 空気が乾燥しているせいだな、むせてしまった、と咳混じりの声を搾り出して、朗がちらりと視線を志紀に投げる。そんな一瞥にすら胸が高鳴る自分が恨めしく思えて、志紀は静かに顔を伏せた。
「どんな話、って、先生が前に言っていたとおりです。それとも、最初っから最後までネタバレしたほうがいいですか?」
「あ、いや、そういう意味じゃない。面白かったかい? それとも……」
「面白かったです」
「そうか」
 ――封切り後に、今度は二人で観に行くんですよね。
 その一言を志紀は飲み込んだ。
 彼女は、どうしてもそれを朗の口から聞きたかったのだ。悪いがもう一度付き合ってくれないかい? と。一緒に行こう、と、そう言ってほしかったのだ。
 沈黙が車内に降りる中、信号が青に変わった。
「……さて、夕食までに、となるとあまり時間は取れないな。ふらふら出歩くわけにもいかないし……、海でも見に行くかね?」
 望む言葉が得られぬままに、話題はあっけなく切り替わってしまっていた。焦る志紀の脳裏に、先刻の陸の台詞がこだまする。
 ――多賀根先輩は、今度……
 志紀は、膝の上の拳を、固く、固く握り締めた。
 そんなはずがない。だって、先生はこんなにも気を遣ってくれているじゃない。教師と生徒という許されざる関係が公にならないように。それは、近い将来に私達が大手を振って付き合うことができるよう考えてのことだ。決して、私と距離を置こうとしているわけではない。
 ――だから……四月になったら、映画が封切られたら、一緒に見に行くんですよね?
「…………先生」
「何だ?」
「あの……」
「海は嫌か? どこがいい?」
 やけに朗の声が冷たく聞こえて、志紀は一瞬だけ身震いをした。それから小さく息を吐くと、ぼそり、と呟くように声を漏らした。
「どこか、二人きりになれる所に行きたい」
「二人きりだが。今」
「そうじゃなくて……こんな、座席越しじゃなくて、先生とちゃんと話したい。人目を気にせずに、落ち着いて話がしたい」
 その一瞬、朗の肩が僅かに強張ったように見えた。
  
  
 ――自分は一体、何を拗ねているのだろう。
 控えめにライトアップされた洗面台の前に立ち、鏡に映る自分に対して、志紀は何度もそう問いかけ続けていた。
 全てをはっきりさせたいのなら、先生に一言尋ねれば良いだけのことだ。それをせずに、こうやっていじいじと思い悩むなど、馬鹿らしいにもほどがある。そう頭では解っているのだが、どうしても志紀は行動を起こせずにいた。
  
 先生が人目を避けるのは、私との関係をなかったことにするためではないのか。
 後腐れなく別れるための布石ではないのか。
  
 ――今までこんなこと、考えたこともなかったのに。あの晩秋の夜、先生の気持ちを知って以来、その言葉を疑うことなんて一度としてなかったのに。
 そこまで考えて、志紀は愕然と目を見開いた。今、自分は、朗のことを「疑っている」のだという事実に気がついて。彼の言葉を「信じていない」ということを自覚して。
 志紀は、自分の手元に視線を落とした。そうして、静かにゆっくりと拳を固める。
「やっぱり、訊くしかない」
「何を?」
 突然耳元に朗の声がして、志紀はばね人形のように勢いよく背後を振り返った。そのついでにあとずさろうともしたものだから、腰を洗面台の縁にしこたまぶつけてしまう。
「痛……!」
「大丈夫か」
 あまりの痛さに、志紀はその場に崩れるようにしてうずくまった。
 志紀の内部、なみなみと水をたたえた器の縁が、疼痛に共鳴して震えている。水面に立った波紋はやがて大きなうねりとなり、遂には外へと溢れだした。
「大丈夫じゃありません……!」
「え? どうした? どこをぶつけたんだ、見せ……」
「先生、お見合いするって本当ですか!?」
  
 ――『多賀根先輩は、今度お見合いするらしいんだよね』だってさ――
 ――教授の知り合いの娘さんらしいけど。ま、逆さに考えれば、多賀根はフリーってわけだから、有馬さんにとっては朗報ってことになるんじゃない?――
  
「先生にだって色々事情があるんだと思います。私、まだまだ子供だし、学生だし……」堰を切ってしまった感情は、大きなうねりとなって志紀をどんどん押し流していく。「でも、私だって……」
「志紀!」
 一喝ののちに暖かい手が志紀の頭の上に置かれた。
「……誰だ、そんな馬鹿なことを言ったのは」
「え……、あの……、その、えっと、……誰からって、あのぅ……」
 彼女のしどろもどろな物言いに頓着する様子も見せず、朗はそっと志紀を立ち上がらせた。それから大げさに溜め息を一つついて、両手を腰に当てる。
「その話はとっくの昔に断った。というより、断られた。だから君が心配するようなことはない」
「……そうなんですか?」
 ほっとしたような、気の抜けたような表情で、志紀は朗を見上げた。
 涙ににじむ世界の中央で、朗が静かに微笑んでいる。と、その瞳が妖しく光ったのを見てとり、志紀の心臓はどくんと大きく波打った。
「……そもそも、あれだけ私に抱かれておきながら、まだ私のことが信用できないのか?」
「え、いや、そういうわけでは……」
 気恥ずかしさからつい身をよじった志紀を、力強い腕が背後から抱きすくめる。この体勢では抵抗ができない、ということに気がついて、慌てて身体の向きを変えようとするものの、朗はそれを許さなかった。
「もっとしっかりと教え込まなければならない、というわけか」
 耳たぶに吹きかけられた息が、熱い。志紀の鼓動は今や早鐘のようだった。
「や、ちょっと、先生……、こんなところで……!」
 腹部に回された手を振り払おうとして身をくねらせた志紀だったが、扇情的なその動きは、とても抵抗しているようには見えなかった。朗は至極満足そうに笑うと、右手を胸のふくらみへと滑らせていく。
「こんなところで、って、ここをどこだと思っているんだ」
 ――そうだった。
 自分が置かれている状況を再認識して、志紀が絶句する。
、『来たい』と言うから来たんだぞ。私ではない。君が、だ」
 きっぱりと言いきる朗の言葉に、二十分前に車で交わされた会話が志紀の脳裏に甦った。
  
「人目を気にせず二人きりになる、となれば、ホテルしか思いつかないのだが」
「ホテル、って、ええと……」
「従業員の目があるから、一般のホテルは無理だな。無人受付のラブホなら条件に合致するだろう」
「らぶ……」
「だが……ホテルに行けば、たぶん……、話をするどころではなくなってしまうような気がするが……」
  
 本心はともかく表向きは躊躇いがちにそう告げる朗に、志紀は「構いません」と応えたのだ。朗はすぐさまケータイで当該施設を検索し、抜かりなく予約まで済ませ、車を目的地へと走らせた。
 記念すべき初ホテル、しかも志紀にとって、ラブホテルなどドラマの中でしかお目にかかったことのない施設である。本来の彼女の性格ならば、まず部屋の隅から隅まで探索してもおかしくないところだ。
 だが、色々思い悩み続ける志紀にそんな余裕があるはずもなく。部屋に足を踏み入れるなりお手洗いに直行した彼女は、洗面所の鏡の前で独り百面相を披露した挙げ句に、まさしく今、この状況に至る、と言うわけだ。
 過負荷状態の志紀とは違い、朗のほうはすっかり準備が整っていた。なにしろ場所が場所で、しかもしっかり予告済みなのだから、性急だ、と彼を責めるのはお門違いと言うものだろう。
「で、でも、……せめてシャワーを……!」
「そんな時間はないだろう。それに、今までもそんなもの使ってなかったろう」
「でも、ここにはあるんだし……」
 なし崩しに行為に至っていた感のあるこれまでと違い、今日は最初から明確な意図をもって、この場にやってきているのだ。恥ずかしさも普段の比ではない。志紀は真っ赤に頬を染めて、おのれの身体を這い回る朗の指を必死で引き剥がそうとする。
 だが、そんな彼女の抵抗をものともせずに、朗は着実に彼女のシャツのボタンを外していった。わざと手首で胸の先端を擦っては、彼女の身体を煽り立てていく。
「そんなにシャワーがいいなら、一緒に浴びようか」
 朗の囁きが触手のように志紀の全身に絡みつく。身体ばかりか心の自由までをも奪われて、志紀はがくりと朗に身を預けた。