The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 後日譚 陥穽

  
  
  
*  *  *
  
  
  
「さっさと服を着なさい。風邪をひくぞ」
「え?」
「ドライヤーは引き出しだそうだ。髪を乾かし終えたら、出るぞ」
「え?」
「親御さんが晩御飯を用意しているんだろう?」
「あ、はい、そうですけど……、って、え? あっ、うそ、もうこんな時間!?」
「最初からホテルという選択肢があったなら、ここで食事という手もあったんだが……、今更仕方がない」
「…………」
「どうした? 浮かない顔をして」
「……だって、私、ここに来て、洗面所とお風呂場しか見てないんですけど……」
「そうか? じゃあ、出る前に一通り見学してみるかい」
「いや、だから、そういうことじゃなくて! …………せっかくの初ホテルだったのに……」
「物足りなかった?」
「違います! せっかくベッドがあるのに、って……、いや、あの、その……」
「ベッドでヤりたかった、と……」
「いや、だから、ええと…………まあ、ぶっちゃけると、そんな感じ……かも」
「だが、シャワーを浴びたいと譲らなかったのは君だぞ」
「って、私のせいですか? 普通は、さっとシャワー浴びて、それから……ってなるでしょう?」
「つまり、これから更にベッドへ行きたい、と……」
「違いますー!」
  
  
 ホテルを退出する時の遣り取りを思い出しながら、朗は悠然とソファに背もたれた。
 時刻は深夜零時。あのあと、朗は志紀を家の近くまで隠密裏に送り届け、昂ぶり続ける気持ちを落ち着かせるべくしばし愛車で夜道を彷徨し、適当な店で夕食をとった。そうしてつい先ほど自分のアパートに帰りつき、お気に入りの缶ビールを開けたところだ。
 久しぶりに味わった志紀との濃密な時間を思い返し、朗は上機嫌でグラスを傾けた。そうして独りごちる。なんと素晴らしい「ご褒美」よ、苦労した甲斐があったと言うものだ、と。
 そう、は成功したのだ。
  
  
 三月も中旬、すっかり春めいた化学準備室の窓辺は、温室効果のお陰で汗ばむほどだ。ノートパソコンから顔を上げると、朗は大きく伸びをして椅子から立ち上がった。そっと窓を開けば、少し肌寒さを感じさせる風が一陣、机の上の本のページをぱらりと繰る。と同時に、部活に勤しむ学生達の声々が、静かだった部屋の中へと怒涛のごとく押し寄せてきた。
 せっかくの自由登校期間なんだから、学校など休んでどこかへ遊びに行けばいいのに。過去の自分のことは見事なまでに棚に上げて、朗は小さく溜め息をついた。グラウンドから響く運動部のかけ声を伴奏に、てんでばらばらに奏でられる楽器の音は、オーケストラ部のパート練習だ。校舎の壁に乱反射する破壊的なハーモニーに、演劇部の発声練習の声までもが加わった日には、落ち着いて仕事をするどころではない。いっそ休校となれば自分も休むことができるのに、ともう一度朗は息を吐いた。
 そんな「練習」や「特訓」とは縁遠いはずの化学部にも、毎日誰かしらが部活と称して登校してきていた。今日は男子ばかり五人、しかもつい先日卒業したばかりの人間まで一緒になって集まって、ようやく帰途に着こうかという頃である。
「お邪魔しまーす……」
 女生徒の声が聞こえてきて、朗は思わず耳をそばだてた。
「あり? 珍しいね、原田君だけ?」
 声の主は、志紀の友人の川村理奈のようだった。彼女もまだまだ高校生気分が抜け切れていないのだろう。
「おう。俺ももう帰るところ。有馬なら今日は来てないぞ」
「あ、そっか。用事があるって、今日だったっけ」
 一緒に帰ろうと思ってたんだけど、残念。そうぼやく声が風に乗って準備室にも届けられる。「残念」の言葉に、つい朗も密かに小さく頷いていた。
「ねー、原田君、つかぬことをお尋ねいたしますが」
 彼女にしては珍しい奥歯に物が挟まったような口調に、キーボードを打つ朗の手が止まった。
「最近志紀と一緒じゃないよね」
 一呼吸のは彼が溜め息をついたせいだ、と朗は想像した。
「悪いか。いくら家が近いつっても、俺には俺の、あいつにはあいつの付き合いってのがあるんだからさ、当然だろ」
「ふむ。で、最近志紀と話すことあった?」
 ――無い、だろう。そうであってほしいものだ。いや、そうでなければならない。
 今や朗は完全に仕事の手を止めて、隣で交わされる会話に全神経を集中させていた。
「やっぱりね! 本命はやはり原田君だったんだ!」
「なんだ、それ?」
「映画の試写会を一緒に見に行かないか、って志紀に言われたんだけど、言い方がビミョーに変でさ。何と言うか、どうも代打っぽいのよね、私」
 朗の眉間に深い皺が寄った。
「本命に振られたのか誘えなかったのか、って思ってたんだけど、そうか、誘う機会がなかったわけね」
 嶺の声は聞こえない。朗はじりじりと彼の言葉を待ち続けた。
「私、どうしてもその日都合が悪くなってしまったのよね。この際だから、原田君から志紀に声をかけてあげなよ!」
「……それは俺じゃねぇよ。絶対」
 ぶっきらぼうな声に深い悲しみが巣食っている。刹那、同情の色が朗の瞳に浮かんだ。
「えー? 断言するわけー?」
 そんな彼の様子に全然気がついていないのだろう。からかうような彼女の口調は、あまりにも残酷が過ぎる。
 たっぷり数秒間の沈黙のあと、いつになく切羽詰った声が、二つの部屋を繋ぐ木の扉を震わせた。
「……ゴメン!」
「別に、お前が謝るようなことでもないだろ」
「いや、でも、ゴメン。本当にゴメン! 私、そんな、無神経過ぎて……」
「気にすんな。謝られると余計にムカついてくるだろ。とにかく、誘われたのはお前なんだし、お前が行けないんだったら、きちんとあいつに返せよ。それに、もしかしたら――」
  
  
 本当にごめんね、と、最後に一言を残して理奈は帰っていった。
 やがて、がたがたと乱雑に椅子を直す音が聞こえ、嶺の気配も遠ざかっていった。廊下の扉が開いて閉まる。外から響いてくる楽器の音もいつしか途絶え、辺りは完全なる静寂に包まれた。
  
 ――これは、願ってもないチャンスかもしれない。
 朗は、からからに乾いた唇を舌で湿した。
  
 多賀根朗と有馬志紀が付き合い始めるのは、四月以降でなければならない。
 今現在、彼らの仲を疑う者はいない。だが、原田嶺は知っているのだ。志紀が、自分とは違う誰かと付き合っているらしいということを。
  
 ――すみません、先生、嶺に訊かれて、咄嗟に言葉が出てこなくて、つい、付き合っている人がいる、みたいなことを言ってしまって……――
  
「どこ行ってたんだよ」
「内緒」
「……誰といたんだよ」
「それも内緒」
 その会話ののち、彼はこう言ったという。「今は、そいつのことが好きなんだな」と。
  
 これは、非常に拙い事態だった。志紀が卒業する四月まで、朗はその隣に立つことはできない。空白の五ヶ月間をどう処理すれば良いのだろうか。
  
「とにかく、誘われたのはお前なんだし、お前が行けないんだったら、きちんとあいつに返せよ。それに、もしかしたら、事情が変わって本命と行けるようになるかもしれないだろ」
 その一瞬、嶺の声が微かに震えたのを朗は聞き逃さなかった。
 ――奴は来るかもしれない。志紀の相手が誰なのか、それを確認するために。
  
  
「志紀、先週に言っていた試写会だが、チケットはまだ持っているのかい?」
 無事に目的の物を手にして、朗が微笑む。
「せっかく君が私のために用意してくれた券なんだしね。一緒にはおれなくとも、同じ会場で同じ時間を共有するのは悪くない」
  
 これでまず、第一段階はクリアした。
 それから、なんとかして「彼」と二人きりになるのだ。他の部員に用事を言いつけるなり、上手く人払いができれば、あとはさりげなく話題を誘導していけば良い。
 そして……
  
「友人がくれたのだが、私はどうしても都合がつかなくてね。なら、教え子の誰か興味のありそうな奴に渡してくれ、と言われたんだ」
 そう言って、朗は白衣のポケットから、志紀に貰った試写会のチケットを取り出した。
「柏木が一番好きそうだな、と思ったのだが、どうかね?」
「確かに、あの映画は前売りを買うつもりでしたよ。流石は先生、僕のことを随分と理解してらっしゃる」
 口のを軽く上げたのち、珍しくも年齢相応の笑顔を浮かべて「彼」はチケットを受け取った。
「丁度、予定も空いていますしね。ありがたく頂戴します」
  
  
 柏木と映画館から出てくる志紀を見て、原田は間違いなく誤解したに違いない。しかも、二人はそのまま別れることをせずに、喫茶店へと席を移したのだ。
  
 窓越しに臨む二人は、こちらを向いている陸の表情を窺う限り、実に楽しそうに会話を弾ませているように見えた。朗ですら、うっかり悋気を起こしそうになるほどに。何も知らない嶺がどういう思いを抱くか、想像に難くない。
 更にどういうわけか、鉢合わせした嶺に対して陸は何も弁明をしなかった。地下道の反対側、鰻の寝床のような古本屋の、狭い間口の棚の陰から彼らの様子を窺う朗の目は、残酷に微笑む陸の姿を捉えていた。
 朗には、陸の気持ちが少し解るような気がした。彼もまた、おのれに足りない何かを原田嶺という存在に投影していたのだろう。ふと振り返った来し方の遠く、もはやどう足掻いても望むことのできない、あの眩しいほどに真っ直ぐな彼の眼差しを、疎み、妬み、その一方で心密かに求めていたのだ。
 しばし目をつむり、それからゆっくりと瞼を開く。
 グラスに残ったビールを一気に飲み干してから、朗は満足そうに小さく笑った。
  
  
  
〈 了 〉