The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 後日譚 傀儡

  
  
  
「さーて、野郎ども、ありがたく受け取りなー」
 理奈の豪快な笑い声とともに、実験机の黒の天板の上に、ビニール袋が放り出された。駅からの通学路にある小さなスーパーのロゴの入った袋からは、「お徳用アルファベットチョコ」の大袋が二つ、顔をのぞかせている。昨日の広告の品、どれでも二袋で二百九十八円也。
「来月のお返し、思いっきり期待してるから! ばーい、化学部女子部員一同!」
 英語の前置詞とはとても思えない間延びした発音に続けて、理奈が背後を振り返る。一歩下がった所に立っていた志紀は、思わず苦笑を浮かべて、自分の隣に立つ一年生と二年生の女子部員二人に、肩をすくめて見せた。
「素直に、みんなでチョコを食べながらお茶しよう、って言えばいいのに」
「何言ってんのよ、志紀。暗黒の受験生、せっかくなんだから、ハレの文化は楽しまなきゃ」
 折しも今日は、バレンタインデー! そう力説して、理奈はチョコの袋を開けた。
  
  
  
   傀儡  ― くぐつ ―
  
  
  
「大体、お前、幽霊部員のくせに、こういう時ばっかり化学室にやってくるんだな」
 熱い珈琲に顔をしかめながらも、嶺が口を尖らせて理奈をなじる。
「いいじゃん。ガスと水道が揃ってる部屋って限られてるんだから」
 センター入試も終わり、ここ楢坂高校ではもう既に三年生の授業は終了してしまっている。生徒達は自宅で、あとに控えた二次試験や私学の入試に備えることになるのだが、そこは変人揃いの楢坂生、「自宅じゃ集中できないから」「毎朝、電車に乗らないと落ち着かないから」「エアコンよりもダルマストーブが好きだから」などなど、多くの三年生が好き勝手な口実で登校してきては、図書館や教室で自習にいそしんでいるのだった。
 前期試験まであと十日。今日も今日とて、主だった面々は適当に息抜きしつつも赤本(大学別入試過去問集)やオリジナル(数学問題集)と格闘すること数時間、ようやく楽しい放課後に突入したところである。
「そういや、今年は柏木君はチョコ作らなかったの? 去年の美味しかったって噂だったから、楽しみにしてたんだけど」
 遠慮のない理奈の声に、部屋の片隅で紙コップを傾けていた陸が、苦笑を返した。
「鯛が逃げてしまったからなー。当分は休業」
「……は? タイ? 何のこと?」
「ノーコメント」
 チョコを一つ口に運んでから、陸は涼しげにそう答えた。首をかしげまくる理奈の横で一年生の女子が、両手で抱えたカップから立ちのぼる湯気に眼鏡を曇らせながら、至極無邪気な調子で口を開いた。
「先輩、鯛って言ったらやっぱり、海老で……」
 海老で鯛を釣るって、まさか……!
 志紀が慌てふためいて陸を振り返るのとほぼ同時に、化学室の扉がガラガラと開き、がやがやと大勢の足音が室内へと入ってきた。
「チョコの配給やってるって聞いたぞー?」
「ギブミー、チョコレートォ!」
「ゴチになりまーす」
「理奈ー、来たよー」
 物理部、生物部、剣道部、演劇部などなど、各部員の兼部先の友人達が、次から次へとやってくる。見る見るうちに、化学室は満員御礼状態だ。
 話題が鯛から逸れたことに心の底から安堵して、志紀は大きく溜め息をついた。
  
  
 自意識過剰なのかもしれないけれど。
 熱い紅茶をゆっくりと楽しみながら、志紀はこっそりと目の端に陸の姿を捉えた。
 自分が「鯛」だなんて良い物だとは思わないけれど、諸々の態度やタイミングを考えると、陸が「釣り上げよう」としていたのはたぶん自分のことなのだろう。思わせぶりな台詞は単に彼の癖なのか、それとも失恋を自虐ネタに使おうとでもいうのか、はたまたおのれを振った相手をからかおうとでも……?
 起死回生を狙った捨て身の一撃、という言葉が脳裏に浮かび上がってきて、志紀は思わず背筋を震わせた。いかん、いかん。やっぱり自分は自意識過剰に陥っている。彼がそこまで執着すべき魅力が自分にあるわけがない。
「お前、それは『かいらい』って読むんだよ。『傀儡政権』だよ」
 一つ隣の、廊下への扉に一番近い実験机、珊慈の冷静なツッコミが聞こえたかと思えば、尻尾を踏まれた猫のような叫び声が当たりに響き渡った。びっくりして振り向いた視線の先、嶺が頭を抱えて仰け反っている。
「か、傀儡政権……! た、確かにそうも言うよな……」
「そうも、じゃなくて、そう言うんだよ」
 そのやり取りを聞いた理奈が、志紀の横で、ははーん、と小さく頷いた。
「センターの国語かあ。あいつ、自己採点してなかったのかな?」
「俺は過去を振り返らない! って吼えてたからなあ。あ、でも、流石に点数チェックだけはしてたみたいだけど」
 完全に人ごと、噂話モード、の二人に離れること三メートル、珊慈の容赦ない攻撃が嶺に襲いかかる。
「『傀儡』政権って、無茶苦茶慣用句だろ。何を選んだんだよ」
「………………くぐつ」
「くぐつぅ? くぐつせいけん? ありえねー!」
「そ、そりゃ、確かに、『政権』まで続けて読めばそうだけどさ、つうか、俺がそそっかしかったわけだけどさ、でも、そこだけだったら『くぐつ』って読めるじゃん」
「…………もしかして、『傀儡回し』?」
「おうよ」
「サムスピか……」
 がっくり、と肩を落として珊慈が呟いた。
「悪いか」
「……お前、あのゲームやり込んでたからなあ……」
「お前だって、かなりつぎ込んでいただろ!」
 アーケードゲームに登場する必殺技の名前から、話題はほどなくゲームそのものへと流れ、他の男子達も順次話に加わり始めた。随分前のことではあるが、くだんの格闘ゲームには男子部員が揃って嵌まっていたのだ。駅前のゲーセンで、次の電車を待ちながらプレイに熱中していた暑苦しい集団を、志紀も良く覚えている。
「それにしても、多賀根先生がゲーム上手かったのにはびっくりしたよな」
「そうそう。『昔とった杵柄だな』、なーんてさ」
 眼鏡を直す真似をしながら声を似せる嶺に、周囲から爆笑が湧き起こった。
「激似ー!」
 調子に乗った嶺は、なおも好き勝手な台詞で物真似を続行する。
「『ここでAボタンの連打は、論理的ではないな』」
「なんだよ、それー!」
「わけ解んねー!」
「……あ、先生」
 冷ややかに陸が漏らしたひと声は、盛り上がる一同を一瞬にして凍りつかせるに充分だった。全員、中でもとりわけ嶺が、硬直した表情のまま慌てて準備室へのドアを振り返る。
 簡素な木の扉は、しっかりと閉ざされたままだ。
「なんだよ、脅かすなよ、柏木」
「先生最近見かけないな、と言おうとしただけさ」
 口角を少し上げてそううそぶく陸の瞳は、悪戯に成功した子供のようにきらきら光っていた。
「よく言うぜ」
「なんとでも」
 お互いに不敵な笑みを浮かべて対峙する二人の間に割って入る形で、珊慈が事も無げに口を開く。
「ま、ウチの受験の準備とか、色々忙しいんじゃねーの?」
  
「そっかー、もうそんな季節だもんねー」
 珊慈の台詞を受けて、理奈がぽつりと呟いた。「入学、卒業、……なんだか、あっという間だったなあ……」
 受験が終わったら、どこか遊びに行こうよ、そう相談を始める友人達の傍らで、志紀はぼんやりと準備室に続く扉を眺めていた。鞄の奥底に忍ばせた小さな包みのことを考えながら。
  
  
  
「当分の間、会わないほうが良いと思う」
 そう言った朗の、有言実行ぶりは素晴らしいものがあった。
  
「電話もかけてこないように。メールもだ。二次試験が終わるまでは受験に専念すること」
 センター試験が終わったその夜、報告を口実にかけた電話の向こうで、朗は淡々とした口調でそう志紀に告げた。
「志望校を下げる気はないのだろう? 浪人する気もないのなら、試験まで相当頑張らないとな」
 全くの正論に、志紀はただ頷くことしかできなかった。当初考えていた大学よりも一つランクを上げることを決意した以上は、死に物狂いで受験に挑まねばならないのは当然のことだからだ。
 志が高すぎるためか、暢気なのか、楢坂高校の卒業生は、実にその半数近くが浪人する。「四年制高校」「予備校の予備校」などとうそぶきながら、多くのクラスメイトが「今年がダメなら来年」と気楽に構えている中、志紀はあまり悪目立ちしないように気をつけながらも、毎日必死で問題集にとりかかっていた。
 失敗するわけにはいかない。たった数日会えないだけで、こんなにもつらいのだ。一年間も待てるはずがない。
 だからといって、志望校を変えるつもりはなかった。年末の模試で辛うじて叩き出したB判定を見せた時、朗はとても優しい目をして志紀の頭を撫でてくれたのだ。「春からは、週末、キャンパスで会えるな」と。
  
  
 どさくさ紛れに理奈達よりも先に化学室を退出し、志紀は手ごろな空き教室で化学室が無人になるのを待っていた。以前と同じ轍を踏まないように、下足は袋に入れて鞄の中に。下駄箱の上部片隅に埃まみれで放置されていた卒業生の置き土産の上履きを、自分の靴箱の中に身代わりに据えておけば、たとえ誰かが靴箱を覗いたとしても、志紀が校内に残っているとは思わないはずだ。
 ひとけの無い教室は、日が傾くにつれ次第に冷え込んできた。コートの前を合わせ、外から見られないように気をつけながら、志紀はそっと階下を覗き込む。
 見知った一団が、校舎から次々と吐き出されはじめた。
 嶺、高嶋君、柏木君、東野君、大沢君、猪村君……。一人ずつカウントしては、頭のリストから名前を消していく。理奈、かっち、笹ちゃん、武藤さん、……化学室にいたのは、たぶんこれで全員。
 志紀は、そろりと教室を出た。
  
 先生は、部屋に入れてくれるだろうか。
 センター以来、朗は徹底的に志紀を避けている。今日も、結局朗は一度も化学室には顔を出さなかった。
 去年のバレンタインには、皆と一緒に柏木君の手作りチョコを食べていたのに。普段も、誰かがお菓子を広げ出すと、「適度な糖分は、脳細胞の活性化に非常に有効だ」とか何とか、準備室からつまみに出てくるのが常だったのに。
  
 週末の百貨店のバレンタイン特設売り場で、物凄い人ごみにもみくちゃにされながら、志紀は桜色のリボンがかけられた小さな小箱を選んだ。中身は、欧州のとある王家御用達、との触れ込みの高級チョコ。華やかなショーケースの中、かわいい化粧箱に並べられたチョコレートはまるで宝石のようにも見えた。
 今まで、いわゆる「本命チョコ」を買ったことがなかった志紀は、たった三個のトリュフに数百円もの値がつくということに、ほんの少し驚きながらも、自分が急に大人になったような気分がして、胸躍らせて帰途についたのだった。
  
 部屋に入れてくれなかったら、チョコだけ置いて帰ろう。せめて、気持ちだけでも先生に届けたい。
 誰もいないことを確認しながら、志紀は慎重に一階へと降り立った。渡り廊下への開口部を素早く横切り……。
 志紀が化学室の扉の前に立った、その瞬間、目の前の扉が勢いよく開いた。