The one who treads through the void

   [?]

CONTRADICTING BLOCKS 後日譚 傀儡

  
  
  
 驚愕のあまり、ただその場に硬直する志紀の視線の先、同じく呆然とした表情で朗が立ち尽くしていた。
 しばし黙って見つめ合う形となった二人だったが、やがて揃って我に返る。誰かに見られていないか、と大慌てで辺りを見まわす志紀の腕を朗が掴み、問答無用に化学室へと引き入れた。
 静かに、だが素早く閉じられる扉。
 たっぷり一呼吸の間ののちに、二人の口から大きな溜め息が漏れ出でた。
「あー、びっくりした」
 先ほどまでの悩みもすっかり吹き飛ばされた様子で、志紀がもう一度息をつく。それを受け、朗もまた大きく肩を落として、それはこっちの台詞だ、と志紀に言葉を返した。
「先生の驚いた顔、久しぶりに見たかも」
 門前払いを免れた喜びからか、志紀はつい満面の笑みを浮かべて軽口をたたいた。
 そう、驚いた顔どころか、そもそも朗と顔を合わせるのは三週間ぶりなのだ。遠くの廊下を歩く彼の姿を見つけても、駆け寄ることも手を振ることもできない自分の性格を、恨めしく思う毎日だったのだから。
 そんな彼女の笑顔に朗はほんの僅か目を細め、それから、素早く志紀から視線を外した。
「……つい、いつもの調子で隠れてしまったが、別にそんな必要はなかったんだったな」
 眼鏡の位置を直しながら志紀に向き直った朗の口元は、殊更に強く引き結ばれていた。
「もう帰ったんじゃなかったのか。忘れ物か?」
「……あ、はい……」
「それを取ったら、さっさと帰りなさい。息抜きは、もう充分だろう?」
 冷たい、声。
 志紀は小さく息を呑むと、悪戯を見つかった子供のように、思わず身体を縮ませた。
「忘れ物と言うか、あの」
 急に朗の顔を見ることができなくなって、志紀は足元に視線を落とした。慌てて鞄の中をかきまわすと、小さな包みを取り出す。
「これ。今日、バレンタインだから」
 辛うじて上げた目線は、せいぜいが朗の口元の高さまで。鼻の奥がつん、とする感覚を感じながらも、志紀はチョコの包みを朗に差し出した。
「これを渡したかっただけです」
 自分の声の冷たさに、志紀は少しだけ驚いた。これで、チョコを手渡した途端に走り去るのは、あまりに嫌味が過ぎるだろうか。そうして、涙にくれて帰途につく、と。
 大した悲劇のヒロインだ。そう胸のうちで冷笑しつつも、毒を含んだ蜜のように、その考えは志紀の奥底を痺れさせていく。潤み始める瞳とは相まって、志紀の心はどんどん冷え始めていった。
 そうだ。先生がチョコを受け取ったら、これ見よがしに逃げ帰ろう。そうしたら、ちょっとぐらいは先生も自分の態度を後悔してくれるかもしれない。まさか追いかけては来ないだろうけど、あとでメールぐらいはしてくれるかもしれない。
「……全く、君は……。受験に専念しろと言っただろう」
 朗の声音からは、何の感情も読み取ることができなかった。抑揚を押し殺した声が、改めて志紀を打つ。
 そして、朗は、白衣のポケットから両手を出そうともしなかった。
  
  
 最初に志紀の胸に押し寄せてきたのは、悲しみの大波だった。それが身体の内部を怒涛のようにせり上がってきて、一気に顔が熱くなる。
 涙が、溢れる。
 しかし、そう思った次の刹那に志紀の喉から迸ったのは、嗚咽ではなかった。
「……そんなに私、信用ないですか?」
 身体の隅々まで行き渡った悲しみは、いつの間にか怒りに変質してしまっていた。こぼれそうな涙を瞳に湛えたまま、志紀は静かに言葉を紡ぎ続ける。
「確かに私は、根性なしだし、諦めも早いし、自分に甘いし、だから頼りなく思うんでしょうけど、でも、最低限、やるべき事はしているつもりです。それとも、受験のこと以外は、ミリグラムも考えちゃだめなんですか?」
 俯く志紀の頭上で、朗が少し身じろぐ気配がした。
「待った。私が言っているのは、そういう意味ではなくて……」
「そういうことなんじゃないですか? 顔を見るのもダメ、挨拶するのもダメ。チョコを買いに行くのもダメなんでしょう? 受験に専念しろって、四六時中、寝ている間も受験のことしか考えちゃだめなんですか!?」
 思いあまって顔を上げた志紀の頬を、涙がひと筋つたっていく。
「これでも精一杯頑張っているつもりなんです! それでも……」
「志紀!」
 声を荒らげた朗の剣幕に、志紀ははっと我に返った。
 我に返って、気がついた。自分の言葉の内容が、徹頭徹尾、甘えでしかないということに。
 進学を選んだのは、自分の希望なのだ。誰に強制されたわけでもない。多少の無理をおして先生と同じ大学に行こうというのも、同じく自分の勝手。浪人したくないというのなら、いくら努力をしても、し足りないということなどない。二次試験までの僅かな期間、今頑張らなくて、一体いつ頑張ればよいというのか。それこそ、暢気に買い物に出ている場合ではないだろう。
 正論である。それはあまりにも、正論だった。
 唐突に、志紀は自分が情けなくなった。甘えて、ごねて、その挙げ句に泣いて、取り乱して、……なんて馬鹿な真似をしているんだろう、と。
「いいから、少し落ち着きなさい」
「…………はい」
 今度は恥ずかしさから、志紀の頬は燃えるように熱くなった。再び小さく身をすくませて、どうやってこの場から立ち去ろうかと頭を巡らせる。
 頭上に、大きな溜め息が聞こえた。と同時に、志紀の目の前から朗の姿が消える。
「とにかく、ここではまずいな。来なさい」
 そう言って、朗は準備室へと志紀をいざなった。唯々諾々と志紀がそのあとに従う。
 動揺未だ治まりきらず。それ故、志紀は気がつくことができなかった。朗の瞳が意味ありげに光ったことに。
  
  
  
「別に私は、君を信用していないわけではない。君の自制心も、自律心も、高く評価しているつもりだ」
 準備室の長椅子に志紀を座らせてから、朗は窓際のスチール机からキャスターつきの椅子を引っ張り出して来て、志紀に向かい合う位置に腰をおろした。座面高さの違いも相まって、思いっきり上から見下ろされる形となった志紀は、ますます身体を硬くしてかしこまる。
「君なら、余計なことにばかりかまけて、勉強をおろそかにしないだろう、とも思っているが……、万全を期して試験に臨むべきだ、と、そういうつもりだったのだ」
「……ごもっとも、です……」
 小さな声で返答する志紀に、朗は軽く鼻を鳴らした。
「もう我を取り戻したようだな。相変わらず切り替えが早い」
「いえ、あの、本当に、すみませんでした」
 いたたまれなくなって、真っ赤な顔で志紀は下を向いた。膝の上でもじもじと両の指を組み合わせながら、どうやって言い訳しようか必死で考えている。
 しばしの沈黙ののちに、朗は静かに口を開いた。
「多少の息抜きは、勿論必要だと思う。切り替え上手な君のことだ、羽目を外し過ぎることもないだろうしな……」そこで朗は一旦言葉を切った。やけに不自然な間を空けて、それから妙に粘り気を含んだ低い声で先を続ける。「だが、やっぱり試験が終わるまでは、私は君に会わないほうがいいだろう」
「え、でも、」
 話の行く末が、最後の最後で急カーブを描いたことに驚いて、志紀は弾かれたように顔を上げた。
 真っ向から、朗と志紀の視線が重なる。
  
 ――仕方がないな――
  
 志紀には、朗の唇が、そう動いたように見えた。
 彼が、どこか嬉しそうに微かに口のを歪ませたように見えた。
  
「確かに君は、見事なスイッチを持っている」
 暗い炎が、朗の瞳の奥に静かに灯る。
「君がそれを完全に制御できるのなら、何も言うことはない。だが……」
 いや、違う。今「灯った」のではない。
「外部からそれを操作できる人間がいるとしたら……どうする?」
 既にそれは、彼の内部を焦がすかの勢いで、燃え盛っているではないか。
  
 志紀の口の中に、つばきが溢れてくる。
 一体全体、いつ、何が、先生に火を点けたというのだろうか。
  
「……だから、私と会わないほうがいい、と言ったのだ」
 凄みのある微笑を浮かべて、朗はもう一度そう繰り返した。
  
  
 静かな化学準備室、古い石油ストーブの燃える微かな音が聞こえる。
 朗がゆっくりと椅子から立ち上がった。低いテーブルを回り込み、志紀の目の前に立つ。
 身じろぎ一つすることができずに、でもどうしても視線を外すことができずに、志紀は長椅子に座ったまま遥か高みを見上げた。蛍光灯の光を背負った朗の表情は、逆光のためによく見えない。
 志紀の喉が、ごくり、と鳴った。
「傀儡回しが何か知っているかい?」
 静かな声とともに、しなやかな指が降ってくる。燃えるように熱いその指は、ねっとりと、志紀の髪をくしけずるようにして下方へと頭皮を滑っていく。朗が触れた部分を起点に、痺れにも似た感覚がじわりじわりと志紀の全身へと広がり始めた。
 くぐつまわし?
 麻痺しつつある意識の片隅で、志紀の一部がそう問いかける。
 そういえば、そんな単語を化学室で嶺が言っていた。その時は何とも思わなかったのに、今、脳裏に浮かび上がる字面がやけに妖艶に感じられるのは、どうしてなんだろう。
 ぼんやりと思考を巡らせる志紀のうなじを、朗の爪が軽く引っかいた。びくん、と過剰に反応する自分の身体を自覚して、志紀の内部もまた熱を帯びる。
 たっぷりとうなじを這い回った指は再び首筋を上へと戻り、またしても志紀の髪をいらいだした。
「傀儡回しとは、まだ大衆娯楽の少なかった時代に興った、人形遣いのことだ。一説には、人形浄瑠璃の元になったとも言われている」
 絡めては解き、思うがままに髪を嬲り続けた男の指は、次に志紀の耳たぶを優しくなぞり始めた。ぞくぞくと背筋を這い上がる震えに、身体の奥をざわめかせながら、志紀は朗の愛撫を受け入れ続けた。こねるように、時折つねるように、熱をもった指が耳たぶを蹂躙する。
 うっとりと夢見るような瞳で、志紀はただひたすら朗を見上げていた。指先以外微動だにしない彼の、影をまとう口角が釣り上げられる。
 朗の指が志紀の頬に伸びた。顎のラインを辿るようにして、指の腹が肌を舐める。
「大別して、糸で人形をあやつるのと、手で直接動かすという二つのやり方があるらしいのだが……」
 志紀の顎を先端までなぞったところで、朗の指は彼女から離れていった。
 と、思いきや、彼の両手が今度は志紀の頭を軽く鷲掴みにする。
 朗の腕に力が込められた。
 志紀の視線をおのが顔面から引き剥がそうとでもいうのだろうか、彼の手は彼女のおもてを下方へと向けようとしていた。ぎこちない動きで志紀のこうべがその角度を変えていく。
 朗の唇、首、襟元、緩められたネクタイ、灰色がかったカッターシャツ。それらが順に志紀の胡乱な瞳に映り込む。ブランドらしきロゴの入ったベルト、濃紺のスラックス。
 彼の腕の動きが止まった。
 志紀の眼前、スラックスの不自然なふくらみが大写しになる。
「定めし、君を操るのは……私の、声、かな」
 志紀の頭が、そっと解放される。にもかかわらず、志紀は視線を逸らせることができなかった。猛々しく隆起する、朗のモノから。