あわいを往く者

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紅玉摧かれ砂と為る 四 誰がために

  
  
 全速力で坂を下ったラグナは、大通りの少し手前にある食堂の角を曲がった。靴音も高らかに路地を進み、裏手の木戸を入る。
「殿下、どこ行きなさるんだね!」
 鶏舎のすぐ脇にある裏口が開き、食堂のおかみさんが顔を出した。「殿下はお留守番だ、って、サヴィネさんが言ってたけど!」
「予定変更だ」
 おかみさんに一言だけ返して、ラグナは納屋の外に繋がれている愛馬の手綱をとった。
 いつもウルスの家を訪問する際、ラグナ達はこの広い裏庭で馬を預かってもらうことになっている。いかなる事態にもすぐに対応できるように、と、鞍をつけたまま待たされていたにもかかわらず、鹿毛かげの馬は、疲れた様子もなく精悍な眼差しであるじの命令を待っていた。
「予定変更、って、いいのかい?」
 おかみさんが、心配そうに眉をひそめながらも、木戸をあけてくれる。
 ラグナは小さく頷いてみせたのち、愛馬を曳いて街路に出た。
 来た道に目を凝らしても、ウルスが追ってくる気配はない。自分ではラグナを止められないと判断して、次なる手を打つべく鉱山へと向かったのだろう。
 ラグナはきつく口を引き結ぶと、ひらりと愛馬の背に跨った。
  
 町全体がいつになく重苦しい空気に包まれているようだった。
 町を東西に貫く大通りに出たラグナは、微塵の躊躇いも見せずに、馬首を東へ――ルウケの館に帰るのとは逆の道へと向けた。「俺が、先生に知らせに行く」とウルスに言いはしたが、もとよりラグナは直接領主の城へ向かうつもりだったのだ。なにしろ、ここから湖の対岸にある館へは二里近くの道をゆかねばならぬ。駈歩かけあしでも往復で半時間はかかる勘定だ。それだけの時間があれば、おそらく領主の城へ到達することができるだろう。
 夕焼けの朱が先刻よりも更に深みを増し、向かう東の空は、徐々にかち色に侵食され始めている。事故の影響か、目抜き通りにもかかわらず、往来は普段の賑わいが嘘のように閑散としていた。これならば、道ゆく人々に「どこへ行きなさるか」と一々声をかけられずに済む。速歩はやあしで馬を駆りながら、ラグナは微かに安堵の笑みを浮かべた。
『君は、王太子であるということの重みが、解ってるのか』
 ふと、先刻のウルスの声が、耳元に甦る。
 では、逆に、王太子ではないおのれに、果たしてどれほどの価値があるというのだろうか。ラグナの微笑に、嘲りの色が混じる。
 自分には、何も無い、と。
 たまたま天がラグナに与えたもうた、王太子という身分。だが、その唯一のものですら、陰で「半賤の王子」などと揶揄する者がいる有様だ。そして、彼らは、ラグナがしくじるのを、常に手ぐすね引いて待ち構えている。いや、今は好意的に受け入れてくれている者であっても、何かあればまばたきするよりも早く、その手のひらを反すことだろう。
 ラグナはそっと唇を噛んだ。
 平民の子である、という負い目は、物心ついた時から影のようにラグナの背後に控えていた。だからこそ、自分は優秀であらねばならない。ラグナはその一心でヘリストの厳しい指導をその身に受けてきた。父の、母の選択が間違いではなかったのだ、と証明するために。そして、自分を支持してくれる者達に報いるために。
 幾人もの人々の面影の最後に、ラグナはフェリアの顔を思い浮かべた。
 初めて会った時から、フェリアがラグナに向ける眼差しは、ウルスに対するそれと同じだった。もうずっと長い間、彼女は二人を等し並みに扱ってくれていた。ラグナとウルスが、主であり従である以前に従兄弟同士であるように、フェリアとラグナもまた、外界から切り離された「子供の世界」において、身分を越えた友情を育んできたのだ。
 だが、ラグナが友との性差を意識し始めるのと時期を同じくして、フェリアは他人の目を意識するようになった。彼女の言葉に敬語が交じるようになり、遂にはラグナのことを「殿下」と呼ぶようになった。
 自分と距離を置こうとするフェリアを前に、ラグナはなすすべを持たなかった。唯一手元に残った「学友」という関係も、彼女の考え一つで簡単に途切れてしまう儚いえにしだ。だからこそ、今、自分がフェリアに力を貸せるかもしれない、ということが、ラグナにはとても嬉しかった。
 お前を助けたい。ラグナの言葉を聞いたフェリアが涙に濡れた顔を上げたあの時、彼女の視線を真に独り占めにしたあの瞬間、自分の中に湧き上がった感情を、ラグナはなんと表現したらよいのか解らなかった。胸の奥から溢れ出す莫大な熱量に思考の全てを炙られながら、ラグナは、ただひたすら、彼女の力になりたいと願った……。
 深く息を吐き出すと、ラグナは彼女の幻影を頭から振り払った。ぴんと背筋を伸ばし、ふくらはぎで馬腹を圧す。
 馬の速度があがるほどに、ラグナの思考から雑念が消えてゆく。おのが道行きに全ての意識を集中させて、ラグナは街道を東へひた走った。
  
  
  
 ヴァスティの隣町、ケルムの北の外れにブローム公の居城はある。
 もともとこの一帯は、三百年前に当時の国王から外孫に叙された領地だった。以来その係累であるブローム家が代々治めてきたのだが、先々代の当主が男子に恵まれなかったことから、長女の嫁家であるキッポ家が爵位を相続し、現在に至る。面積こそさほど広くはないが、国内でも有数の鉱山を抱え、第二次産業の隆盛とともにキッポ家は、臣民爵位の中で二番目の発言力を持つ一族となっていた。
 西方の山々が幽かな濃紅こいくれないの冠を頂く中、足元に押し寄せる宵闇を蹴散らし蹴散らし、ようやくラグナはブローム公の城に到達した。
 慣れない上に薄暗い道を半時間以上も早駆けしたせいだろう、全身汗にまみれ、疲労のあまり崩れ落ちそうになりながらも、ラグナは力を振り絞って馬から下りた。愛馬の首筋をつたう滝のような汗を申し訳程度に拭い、そっと口の中で感謝の言葉を呟く。頼もしい相棒が事も無げに鼻を鳴らすのを聞いて、ラグナは思わず涙ぐみそうになった。
 だが、ここで気を抜いてしまうわけにはいかない。ラグナはあらためて腹の底に気合を溜めると、柵の下りた城門の前へと馬を曳いていった。そうして、誰何の声を待たずして、高らかに名乗りを上げる。
「私は、カラント王クラウスが息子、ラグナ・カラントである! ブローム公爵アウグスト・キッポ殿にお目通り願いたい!」
 夏虫舞う篝火の傍ら、二人の門番が、全く状況が把握できていない様子で互いに顔を見合わせた。
 ラグナは胸一杯に息を吸い込んだ。はやる気持ちを必死で抑えつつ、取り出した懐剣を木柵の隙間から門番に差し出す。
「これを公爵にお見せすれば、お分かりになるだろう。とにかく火急の用件なのだ」
 柄頭に施された王家の紋章が、灯りに照らし出されるのを見て、年配のほうの門番が大きく息を呑んだ。震える手で懐剣を受け取るや、背後にそびえる主塔に向かって大慌てで走ってゆく。
 ほどなく、騒々しい足音や怒鳴り声とともに、ブローム公が姿を現した。
「こんなところでお待たせして、殿下に対して失礼であろう! 早う門を開けんか、この馬鹿者!」
 主人の怒声に、残っていた門番はもとより、付き従って来た使用人達もが、慌てふためいて門の脇へと走った。巻き上げ機を動かす重い音とともに、木の柵がゆっくりと持ち上がってゆく。
「気が利かぬ者ばかりで、本当に失礼いたしました。どうか、どうかお許しを……」
 ブローム公が、芝居がかった調子で地面に片膝をつく。
 恭しく差し出された懐剣を、ラグナは密かな溜め息とともに受け取った。
「いや、彼らは彼らの職務を忠実に全うしたまでのこと。約束もないのに押しかけた私が悪いのだ」
「なんとご寛大なお言葉でございましょうか! ささ、どうぞ中へ……。王都の城の壮麗さにはとてもかないませぬが、こう見えて我が城も……」
「火急の用件なのだ。ここでいい」
 詩歌を吟ずるがごとく滔々と語りだしたブローム公を、容赦なく遮って、ラグナは本題を切り出した。
「ヴァスティの鉱山で事故が起きた。大怪我を負った者が何人もいるのだが、町の癒やし手では力が足りず、貴公のところの優秀なる癒やし手のお力をお貸し願いたい」
「は?」
 ブローム公は、口を半開きにしたまま、しばしまばたきを繰り返した。たっぷり一呼吸の間ののち、ようやくラグナの言いたいことを理解できたか、両手を揉み合わせながら満面に笑みを浮かべる。
「流石、ラグナ殿下はお優しゅうございますなあ!」
 篝火が、ブローム公の口角に刻まれた微かな皺を、くっきりと浮かび上がらせた。
「しかし、鉱山には事故がつきものでございましょう。今年に入ってからも、私が知っているだけでも火事が二、三度。ちょっとした事故なら数え切れず。それでもの町の者が余所へ助けを求めるようなことは一度としてありませんでしたがねえ」
 皮肉ありげな声音に気がつかなかったふりをして、ラグナは慎重に口を開く。
「それは、あの町に高位の癒やし手が存在するからだ。だが、今回、その癒やし手自身が事故に巻き込まれてしまっている。貴公の助けが必要だ」
 わたくしめの、とブローム公が目を輝かせるのを見、ラグナはすかさず畳みかけた。
「事は、ヴァスティの町の問題だけではない。この辺り一帯の町村が、その癒やし手の恩恵を受けていると聞いている。領民の覚えめでたき貴公が、このような危機を見過ごすはずがないと思っていたが、どうか」
「勿論でございますとも。そういうことでしたら、喜んでヤルヴェラめをお貸しいたしましょう。ですが、もう日も暮れて、道中危のうございます。殿下にはお部屋をご用意いたしますので、出発は夜明けを待って……」
「一刻を争うのだ!」
 反射的に声を荒らげてしまったものの、ラグナは即座に「すまない」と頭を下げた。落ち着いて考えるまでもなく、非常識なことを要求しているのはラグナのほうだったからだ。いくら整備された街道といえども、夜間に馬を駆るのは非常に危険が伴うだろう。往路の苦労を思い返したラグナは、今更のように、サヴィネに任せよとのウルスの言葉を噛み締めた。
「王太子殿下にもしものことがあれば、なんとしましょうか。こればかりはいくら殿下の頼みといえども……」
「何故、私が単騎で貴公をおとなったか、分かるか」
 深呼吸一つ、ラグナは腹を括った。とにかく今は、一刻も早く癒やし手をヴァスティに連れ帰るのが先だ、と。
「ブローム公爵のお手を煩わせようというのに、私自身が礼を尽くさずにどうするか。それなのに、皆は私が行くことを頑迷に反対したのだ。名馬に『乗せられている』だけの私には無理だ、とな」
 敢えて尊大な態度で、ラグナはブローム公をねめつけた。
「それとも、貴公までもが、私の馬術が不安だと言うのか」
「め、滅相もございません!」
「ならば、何も問題なかろう。万が一のことなど、あるわけがないのだからな」
 もしもこの場にヘリストがいれば、どうなっただろうか。ラグナは心の中で苦笑いをした。恐らくは、危機管理の甘さや論理性の欠如を厳しく指摘されたのち、一大反省文をかかされることになるに違いない。
  
 替えの馬をお貸しいたします、との有難い申し出を受けて、ラグナはブローム公とともに厩へと場所を移した。
 ラグナが馬丁に愛馬を引き渡しているところへ、人影が一つ息せき切って飛び込んできた。
「お、お呼びですか、お館様」
「おお、ヤルヴェラか。すまんがおぬしにはこれから殿下とヴァスティまで行ってもらうぞ」
 壁にかけられたカンテラの光が、小柄な壮年の男の姿を浮かび上がらせる。見事な巻き毛を左肩で一つ括りにした癒やし手は、ブローム公の話をふむふむと聞いていたが、内容が王太子殿下の素晴らしい馬術に及ぶや、彼はちらりとラグナのほうを見やって、主人に見えないように悪戯っぽい笑みを作った。
「よいか、事態は一刻を争うのだ。私に代わって、しっかり殿下のお手伝いをしてまいれ」
 ヤルヴェラは、最前とは一転して真剣な表情になり、「承りました」と頭を下げた。
「エステラ殿のお噂は、私めも聞き及んでいます。殿下の仰るとおり、彼がもし死ぬようなことがあれば、それはお館様にとっても非常に大きな損失になるでしょうね」
 ラグナが想像していた以上に、ヤルヴェラは頼りになる男だった。「お館様の名代として全力を尽くす所存です」と、胸を張った彼は、そのまま流れるような弁舌で、松明を持った二騎の先導役をブローム公からもぎ取った。続けて、領主の名代に恥ずかしくない馬を、と、厩で二番目に立派な騎馬を借り受ける。勿論、一番勇壮な馬は王太子であるラグナのために。最後に、街道までの近道となる、城の南西に広がる庄を通り抜ける許可を得たヤルヴェラは、ラグナに向かって得意そうに片目をつむってみせた。