あわいを往く者

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紅玉摧かれ砂と為る 四 誰がために

  
  
 かさのかかった三日月が、正面に横たう山の彼方あなたへ沈まんとしている。頼りなげな光ではあったが、それでも、月のない夜とは比べるべくもない。銀色の弧が沈みきる前に少しでも前へ進もうと、ラグナ達一行はひたすら道行きを急いでいた。
 流石は勇猛なる騎士の騎馬、馬上で燃え盛る松明の炎を恐れることなく、着実に歩みを進めていく。そして、それ以上にラグナが感嘆したのは、乗り手である騎士達の豪胆さだった。馬手めてのみで手綱を制御することの難しさは言わずもがな、それに加えて彼らが弓手ゆんでに持つのは松明なのだ。体勢を崩しでもすれば、炎がおのれや馬体に襲いかかることになる。そんな危険をものともせず、二人の先導役は迷い無き足さばきで、時にラグナやヤルヴェラを気遣いながら、夜の闇を切り開いていった。
 眉月が山の陰へと隠れると、完全なる闇の世界が姿を現した。方角はおろか上下すら見失いそうな暗闇の中、それでも先へ進むことができたのは松明のおかげだった。コルメ山の東の枝尾根を越え、ヴァスティの町の灯りが見えるようになるまで、小さな二つの炎とそれに照らし出される僅かな空間だけが、彼らにとっての現実だった。
  
 往路の倍もの時間をかけて、ようやくラグナ達はヴァスティの町へと到達した。
 ラグナがウルスの家を出てからは、かれこれ三時間近くが経過している。もしかしたら、もう手遅れなのではないだろうか、というラグナの不安は、急いた男の声によって吹き飛ばされた。
「ラグナ様! おおおお待ちしておりました!」
 町の入り口に焚かれた篝火の向こうから飛び出してきたのは、エリックの父、ヴァスティ鉱山の経営者であるランゲ親方だった。
「ブローム公爵にお仕えしている、癒やし手のヤルヴェラです。怪我人はどこに」
 馬から下りようとするヤルヴェラを、親方は必死の形相で押しとどめた。
「ああ、そのまま、そのままで。怪我人は選鉱場でね。とても動かせる状態ではなくて。とにかく、先生、どうかこちらへ!」
 言うなり、親方はヤルヴェラを先導して走ってゆく。
 残されたラグナは、待機する松明の騎士達に騎馬を預けたのち、ゆっくりと篝火のほうを振り返った。
 眉間に険を刻んだウルスが、そこに立っていた。
 ウルスの反対を押し切って、しかも「俺が先生に知らせに行く」と嘘までついて飛び出してしまった手前、ラグナは彼に対してどんな顔をすれば良いのかわからなかった。しかしウルスが今ここにいるということは、おそらく彼には何かラグナに言うべき、伝えるべきことがあるのに違いない。覚悟を決めたラグナは、ウルスの傍へと歩み寄ると、胸一杯に息を吸い込んだ。
 だが、ラグナが謝罪の言葉を口にするより早く、ウルスが、いつもと全く同じ調子で話しかけてきた。
「あのあと、僕はなんとかサヴィネさんと合流できてね。サヴィネさん、君が勝手に出ていったって聞いて、すごく悪態をついていたよ。サヴィネさんでもあんな言葉を使うんだね、驚いた」
 口調こそ普段どおりだったが、ウルスの眼差しは先刻からと同じ、不機嫌そうなことこの上もない。
「サヴィネさんは、一連の出来事をヘリスト先生に知らせに一旦ルウケのお屋敷に戻ってから、君を追って単身ブローム公の城へ向かったよ。どうやら君達とは行き違ってしまったみたいだね。ヘリスト先生は、すぐにこちらへ駆けつけてくださって、助けが来るまでなんとかして怪我人の命を繋ごうと、癒やし手達と一緒に頑張ってくださっている」
 淡々と状況を報告し終わるや、ウルスはむすっとした表情で口をつぐんだ。そうしてくるりとラグナに背を向け、鉱山のほうへ歩き始める。
 ラグナは、慌ててその背中に、先ほどは言いそびれた言葉を投げかけた。
「すまない。悪かった」
 更に一歩を進んだところで、ようやくウルスが足を止めた。渋々といった態度で、ラグナのほうに顔を向ける。
「謝るのは、どういう理由で? 勝手なことをしたから?」
「館へ帰ると嘘をついて悪かった。勿論、勝手なことをしたことも、だ。そして――」
 先刻ラグナを出迎えた時の、ウルスの表情が脳裏に甦り、ラグナは一旦言葉を切った。
「――そして何より、心配をかけて悪かった、と思っている」
 その言葉を聞くなり、ウルスはまず目を丸くして、それからそっと溜め息をついた。視線をややラグナから外して、ぼそぼそと囁く。
「……別に、僕達は、君が王太子だから心配したんじゃないから」
 今度は、ラグナが目を丸くする番だった。
「フェリアが、大事なことだからきちんと伝えておけ、って。それと……」と、寸刻言いよどんだのち、ウルスは心持ち投げやりな口調で言葉を継いだ。「……助けたい、って言ってくれて嬉しかった、ってさ」
 伝令の仕事は終わった、とばかりにウルスがきびすを返す。
 ようやく我を取り戻したラグナは、坂道を上っていく従兄弟の背中を急いで追いかけた。
  
  
 ラグナとウルスが選鉱場の二層目に足を踏み入れたのとほぼ同時に、大きな歓声が室内にこだました。忙しなく動き回る人々の足音とともに、担架だ、治療院へ、と勇んだ声が辺りを飛び交う。
 広い部屋には、水力を利用した帯式運搬装置ベルトコンベアや作業台のほか、台車や貨車といった運搬具などが、あちこちに雑然と置かれていた。土埃舞う室内を、恐る恐る見回したラグナは、入り口から数丈先にある大きな作業台が、見るも無残にひしゃげてしまっていることに気がついた。まるで巨人に踏みつぶされたかのような残骸の向こうには、鉱車が鋼鉄の車輪を天井に向けて転がっている。辺り一面に散らばる廃石は、さながら崖崩れの現場のようで、被害に遭った者を救出した跡だろう、掘り返された廃石の隙間から、あけに染まった床が見えた。
「どいた、どいた!」と威勢の良い声とともに、担架を持った男達がラグナの傍らを走り抜けていった。ほんの一瞬、身体を硬くしたラグナだったが、彼らの瞳に希望の灯を見て、そっと肩の力を抜く。
 治療院へと向かう担架を無言で見送ってから、ラグナはゆっくりと部屋の中央へと歩みを進めた。
 人だかりに近づくにつれ、血なまぐさい、すえた臭いがきつくなってくる。
 足元の床に、怪我人を引きずっていったと思しき跡が赤黒く残っているのを見て、ラグナはあらためて腹の底に力を入れた。このままこの場から立ち去ってしまおうか、と考えかけるも、自分にも何か手伝えることがあるのではないか、との思いが、彼の足を前へと運ばせる。
 水の入った桶や敷布などを抱えた人々の輪の中に入り込んだ途端、吐き気を覚えるほどだった悪臭が一瞬にしてかき消えた。部屋中に舞い立っていたはずの砂埃も、空中を拭き清めでもしたかのように一切見受けられない。床の上に展開する凄惨な景色とは裏腹に、清々しい空気に満ち溢れた一角、その中心に師の姿を見て、ラグナはすぐに得心した。普段の生活ではあまり腕を振るわないが、ヘリストは王家に仕える儀仗魔術師だ。これは彼の仕業なのだろう。
「次は、こちらを」
 ヘリストが落ち着いた声で語りかけた先には、ヤルヴェラがいた。手水鉢の水を取りかえに下がる女性に礼を言いつつ、両手を手巾で丁寧に拭っている。
「あまりにも出血が酷い箇所を魔術で少し焼きましたが、まだ……」
「分かりました。先ずはそこから取りかかりましょう」
 ヘリストの傍ら、毛布の上に意識なく横たわるのは、ラグナの知らない年配の女性だった。右足が腿の部分まで酷く損傷し、残る三肢全てにも添え木が施されている。
 鉱山付きの若い癒やし手が、ヤルヴェラに場所を譲ろうと立ち上がりかけて、そのままばたりと床に倒れ込んだ。恐らく、ヤルヴェラが来るまでの「繋ぎ」として、力を使い果たしてしまったのだろう。屈強な男衆がすかさず人の輪から飛び出してきて、倒れた癒やし手を担いでゆく。
 入れ替わりに、ヤルヴェラが怪我人の傍に膝をついた。深呼吸ののち、指で空中に複雑な印を編み込みながら、厳かな声で詠唱を始める。
 静まりかえる室内、どこかで誰かが小さくすすり泣いている。
 長い祝詞を詠み終えたヤルヴェラが、両手でそっと患部を撫でた。その指先から、見えないちからが溢れ出すのが、術の素養のないラグナにもまざまざと感じられた。
 印を結び、呪文を唱え、ちからを注ぐ。一連の動作を、ヤルヴェラは根気よく何度も繰り返した。そうこうしているうちに、土気色をしていた怪我人の皮膚に、少しずつ生気が戻ってくる。
「これで当面は大丈夫、かな」
 大きく息をつくと、ヤルヴェラは汗で額に貼りついた巻き毛を掻き上げた。
 再度、歓声が辺りの空気を震わせる。
 二つ目の担架が運び出されたあとも、ヤルヴェラは休みなく施術を続けた。どの怪我人も、目を背けたくなるような有様であったが、優秀なる領主の癒やし手は、消えかけていた命の炎を、一つ一つ確実におこしていった。
 最後の一人となった怪我人が、フェリアの母であることに気づき、ラグナは耐えきれずに視線を人の輪の外に逸らした。思いつく限りの全ての神々に、ただひたすら、どうか助けたまえ、と、祈る……祈り続ける。
 五度目の歓声が、割れんばかりの拍手とともに湧き起こった。
 人垣が割れ、最後の担架が運び出される。
 担架の後についていたフェリアが、ラグナに気づいて足を止めた。
  
 よかったな。ラグナはただそれだけを伝えたくて、フェリアの目をじっと見つめた。
 まだ怪我が治癒したわけではなく、予断は決して許されないが、一先ず生命の危機は脱することができたのだ。ここから先は、治療院の医師や薬師がその力を充分に発揮してくれるだろう。
 立ち止まったフェリアを残して、担架が運ばれていく。
 よかったね、よく頑張ったね、と、入れ代わり立ち代わり周囲の人々が、フェリアをねぎらい肩を叩く。
 その間も、ずっと、ラグナはフェリアを見つめ続けた。
 そして、それはフェリアも同じだった。零れんばかりに涙をたたえた瞳が、真っ直ぐにラグナの目を、更にその奥をも射る……。
  
 喜びに沸く空気を突き抜けて、ヘリストがヤルヴェラの名を呼ぶ声が聞こえた。
 感謝の言葉とともに深々と頭を下げるヘリストの姿を見て、皆が次々と口をつぐみ始める。夜道をおして馳せ参じてくれた皆の命の恩人が、一体なんと応えるのか、と、固唾を呑んで見守りながら。
 ヤルヴェラは、疲労の色濃いまなこを一度二度としばたたかせたのち、にっこりと笑みを浮かべた。
「お顔をお上げください、ヘリスト様。今回、私の術が成功したのは、それまで皆さんが怪我人の命を繋いでくださったからです。皆さんの適切な処置がなければ、おそらく私は何の役にも立たなかったことでしょう」
 と、そこで一度言葉を切って、それからヤルヴェラはラグナを振り返った。
「そして、王太子殿下が私を呼びに来てくださるのが、あと少し遅くても、私の仕事は無くなっていたでしょうね。危ないところでした」
 ヤルヴェラの話が終わりきるのを待たずして、大歓声が選鉱場内を揺るがせた。
 皆が一斉にラグナの傍に押し寄せる。感謝と歓喜の声が、雨のごとくラグナに降り注ぐ。ウルスが慌てて間に割って入るも、ラグナを庇うどころか、一緒にキスやハグを受ける羽目になっただけだ。
 人々に揉みくちゃにされながら、ラグナは必死で首を巡らせた。
 フェリアは、ラグナを取り囲む人の輪から少し離れたところに立っていた。
 二人の目が合った次の瞬間、フェリアが、そっとはにかんだ。ほんの刹那、瞼を伏せたのち、再び真っ直ぐにラグナと視線を合わせてくる。
 それから、フェリアは、ゆっくりと唇を動かした。「ありがとう」と。続けて、声なき声で、「ら、ぐ、な」と。
 ラグナの心臓が、一際大きく跳ねあがった。
 声にこそ出さなかったが、今、フェリアは、確かにラグナの名を呼んだ。あの、どこかよそよそしい「殿下」などという単なる敬称ではなく、はっきりと、「ラグナ」という名前を。
 ラグナは、必死で身をよじった。フェリアの許へ行こうと、夢中で人混みをかき分けた。
 ラグナが自分のほうへ来ようとしているのを見て、フェリアもまた駆け出した。頬をつたう涙を拭おうともせず、真っ直ぐにラグナに向かって。
「それにしても、酷い臭いだな、ここは」
 突然響き渡った濁声が、皆の喜びに水を差した。
 聞き覚えのある声に、ラグナは咄嗟に足を止め、入り口を振り返る。
 ラグナの周囲に押し寄せていた人々も、一斉に黙り込み、そっとラグナから身を引く。
 一同の視線の先には、眉をひそめ口元を手巾で覆った、ブローム公の姿があった。
「どうやら怪我人とやらは助かったみたいだな」
 ヤルヴェラが、ブローム公には見えないように大きく溜め息をついた。そして、すぐに何事もなかったかのようなすまし顔に戻り、主人の前に進み出る。
「まだまだ油断はできませんが、皆さんのご協力あって、一応は命を繋ぐことができました」
 ヤルヴェラの返答に、ブロームは更に眉間の皺を深くした。
「『ご協力』したのはお前のほうだろう。助けを求めてきたのはここなんだから」
 ぐるりを見まわしたブローム公は、ラグナに目をとめるや、途端に目元を緩ませた。
「ラグナ様直々にお願いされなければ、ヤルヴェラを遣わすことなど考えもしませんでしたからな。お前達は、しっかりとラグナ様に感謝するように!」
 と、ブローム公の背後から、なにやら騒がしい音が聞こえてきた。
「お待ちください」「危のうございます」との声とともに、複数の靴音が戸口をくぐってくる。ブローム公が慌てて後ろを振り向き、制止するように両手を振った。
「エリナは外で待っていなさい。危ないし、臭いし、お前が来るような場所じゃないよ」
「でも、お父様、殿下もそこにいらっしゃるのでしょう?」
 艶やかな栗色の髪の少女が、軽やかな足取りでブローム公の傍にやってきた。教会の壁画に描かれた神の御使いが、絵から抜け出してきたかのような、華やかで愛くるしい姿に、皆は一様に息を呑む。
 予想もしていなかった展開に、ラグナは硬直したまま目をしばたたかせた。エリナと呼ばれた娘の背後に、疲れきった表情で佇むサヴィネの姿を見て、辛うじて我を取り戻す。
 エリナはつかつかとラグナの前までやってくると、ラグナの右手を両手でぎゅっと握りしめた。
「ラグナ様、ああ、なんてお優しいんでしょう。人助けのために、危険も顧みず我が城へ飛び込んでこられたお姿、本当に凛々しくてございましたわ。私、心を打たれてしまって、それで、こうやってお父様にお願いして、私もラグナ様のお手伝いに参ったのでございます」
 ヘリストが、大儀そうにラグナ達の傍へとやって来る。
 ラグナは、今こそはっきりと思い知った。何故ウルスがあんなにも頑なに、ラグナが領主に会いに行くのを止めたのかということを。そして、事態はもうラグナ一人の手におえるようなものではなくなってしまっている、ということも。
 冷たい手で臓腑を鷲掴みにされたような感覚に襲われて、ラグナは勢いよく後ろを振り返った。
 そこに居たはずのフェリアの姿は、もうどこにも無かった。