あわいを往く者

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九十九の黎明 第五章 旅立ち

  
  
 君の覚悟は確かに受け取った。挑みかけるような二人の眼差しを胸に、ウネンはその足でハラバルのもとへと赴いた。
 パヴァルナ行の報告書にヘレーのことを記載して、事態が動くことをただ期待しているだけでは駄目なのだ。意気地無しにもほどがある、と、ウネンは奥歯を噛み締めた。
 ハラバルの助手として入城して僅か二箇月。何の役にも立たないまま世話だけをかけて城を去るなど、迷惑にもほどがあるだろう。だが、この機会を逃しては、ヘレーと再会することは絶対に叶わない。
 扉にかかっていた鍵はオーリとモウルが外してくれた。あとは、自分の手で扉をあけ、そうしてこの足で前へ進むだけだ。
「お話があります」と机の前に立ったウネンを、ハラバルはしばし無言で見上げた。そうして、「場所を変えてお聞きしましょう」と席を立った。
 ウネンが連れてこられたのは、王の執務室だった。
 クリーナク王を前に、ウネンは膝を折って臣下の礼をとった。
「行方不明の父を捜しに行かせてください」
 今しがたの、そしてこれまでのハラバルの様子を見るに、ヘレーのことは王にも伝わっていると思われた。何より、既にオーリ達が城を出る手続きを進めている。その際にヘレーのことが話題にのぼらないわけがない。
 だが、ウネンは自らの口で始めから説明した。彼らの里や禁断の書のことなど、ウネンがあずかり知らないことは省いたものの、ヘレーが誰かに追われていることをも含めて、全てを王の御前でつまびらかにした。
「今のまま逃げ回っているだけでは、駄目なんです。ぼくは父を捜し出して、そして、父がもう追われることのないように、父の手助けをしたいんです」
 ヘレーのことを「父」と呼び表すたびに、ウネンの胸の奥底で、もやもやとした澱が揺らめいた。
 遠い昔、ロゲンの町で母親が客を取りはじめてすぐ、一人の客がウネンに靴をくれたことがあった。誰かが履きつぶしたぼろぼろの靴だったが、ウネンにとって、その靴は他人から貰った初めての贈り物だった。嬉しくて、とにかく嬉しくて、「もしかして」と思ったウネンは、その男におそるおそる「お父さん?」と問いかけてしまったのだ。
 問われた男は、それまでの優しい笑顔を一瞬にして凍りつかせると、逃げるようにして去っていった。激しい否定の言葉と、恐ろしいまでの嫌悪の眼差しをウネンに叩きつけて。
 ヘレーに拾われ、イェゼロ郊外に居を落ち着けて、ヘレーがミロシュにウネンのことを「娘だ」と紹介してくれた時は、ウネンは嬉しさのあまり思わず泣きそうになった。しかし、それでも、ヘレーを「お父さん」と呼ぶことはどうしてもできなかった。ウネンを「娘」と呼んだのは便宜の上でのことだったのかもしれない、との思いが、どうしても拭いきれなかったからだ。もしもロゲンの時のように、ヘレーにも拒絶されてしまったら。恐怖にさいなまれながら、ウネンはひたすら夢想した。この人が本当のお父さんだったらよかったのに、と、何度も、何度も。
おもてを上げよ」
 厳かな声でクリーナク王が言った。
 ウネンは唇を引き結んで顔を上げた。
「父親、と言ったか」
 ウネンの葛藤を見透かしたかのごとく、クリーナクが問うた。
「はい」
 ウネンは、全ての想いを眼差しに込めた。
「死にかけていたぼくを拾って、育ててくれて、勉強を教えてくれました。彼がぼくのことをどう思っているのかは分かりませんが、でも、ぼくにとっては、たった一人の親なんです」
 そうか、と息を吐いてから、クリーナクが頬を緩めた。それから、隣に立つハラバルを横目で見やる。
「世の父親の一人としては、こんなふうに父親を想ってくれる娘を引きめるなんてことは、到底できそうにないんだがね」
「まあ、陛下ならそう仰ると思っておりましたよ」
 ハラバルは、ふう、と肩を落としてウネンを見つめた。
「あなたの知識を他国に悪用されないように、というのがそもそものきっかけでしたからな。我がチェルナの人間である、ということを忘れないでいてくれれば、それで、あなたを城に呼んだ最低限の目的は果たせたと言えましょう」
 と、大きな溜め息がハラバルの口から漏れた。
「将来有望な助手がいなくなるのは、少々不本意ですがな。このまま、なし崩しにめ置くことはできないかと期待しておりましたが、叶いませんだか」
「ハラバル」
 クリーナクが、苦笑とともにハラバルを窘める。
「わたくしは、陛下ほど諦めのよい性格をしておりませぬゆえ」
 そうクリーナクに言い返したのち、ハラバルは傍らの机に置いてあった紙の束を手に取った。
「地図を作りながらゆく暇は、流石に無いでしょうから、パヴァルナ行の時のように、見聞きしたことを記録してきていただけますか」
「えっ?」
 カォメニ製の上質な紙の束を手渡され、ウネンはつい目をしばたたかせた。
「全て漏らさず、とは申しませぬ。旅路に余裕のある時のみでいいでしょう。この仕事、受けていただけますか」
 その瞬間、ウネンはハラバルの心遣いを理解した。彼は、形式ばかりの任務を与えることで、ウネンが城を出ていき易くしてくれたのだ。
 それに、と、ウネンは今一度口元に力を込めた。オーリ達が城を出たいと王に告げるにあたって、ウネンのことに言及していたであろうことは明らかだ。そうでなくては、これほど物事が滞りなく進むはずがない。自分が、今、どれほどの人々の厚意の上に立っているのか。そのことにあらためて思い至って、ウネンは知らず身を震わせる。
 大きく息を吸い、両の踵を合わせて姿勢を正し、そうしてウネンは、「謹んで拝命いたします!」と、腹の底から声を張り上げた。
  
  
  
 やりかけだった仕事を終わらせ、城の内外の世話になった人々に礼と挨拶をしてまわって、五日が経過した九月は九日、ウネン達三人の城を発つ準備が整った。
 その日の朝、出立の挨拶をしに王の執務室を訪れた三人の前に、クリーナクがなにやら長いものを手にして現れた。
「君のものだ」とクリーナクに促されて包みをほどいたウネンは、思わず驚きの声を上げていた。
 それは、一本の杖だった。いつぞや武器屋で見た槍のと同じような、樹皮や麻糸で幾重にも丁寧に補強が施された軽くて丈夫な杖だった。しかも、長さも太さもウネンの身体にぴったりと馴染んでいる。
「弟から、君達三人に謝礼を預かっていてね。何か記念品でも贈らせてもらおうかと考えていたのだが、彼らが『自分達は何も要らないから、その分も使って、丈夫な杖を君に作ってやってくれ』と、ね。旅路に身を守る武器は必携だし、もしも今は城に残るにしても、そのうちに絶対に必要になるだろうから、と」
 クリーナクのあとを引き取って、ハラバルが涼しい顔で口を開いた。
「時計工房の親方の兄君が、槍拵師やりこしらえしをしておりましてな。方位盤の図面を同封いたしましたから、きちんと先端に嵌まるようになっているはずです」
 時計工房へのお使いで親方に届けた封書の中身は、これだったのか。あの時いだいた違和感がすっかり解け消えて、ウネンは思わず息を漏らす。
 まるで悪戯が成功した子供のように、クリーナクが満足そうに微笑んだ。
「そういうわけなので、受け取ってくれるかい?」
 ウネンは、すぐには言葉を返すことができなかった。武器屋で見た、槍のの価格を思い出したからだ。しかもこの杖は、ウネンのためにわざわざ一からあつらえたものだという。その価値たるや、いかばかりか。
「でも……ぼくは城を出ていってしまうのに……こんな高価なものを受け取るのは……」
 恐縮するあまり身を縮ませるウネンに、クリーナクが悪戯っぽく片目をつむってみせた。
「なあに、彼らの言葉を借りるなら、『これだけ恩を売っておけば、よもや敵国にくみするようなことはないだろう』ってね」
 まさかモウルは国王陛下の前でも毒舌ぶったのか。思わずウネンはあきれ顔で傍らに目をやった。
「しかし、誰かのため、と口にするのが照れ恥ずかしいのは解るが、もう少し言葉を選ばないと、人間性を誤解されてしまうぞ」
 クリーナクも、苦笑を口元に浮かべてモウルを見やる。
 モウルが珍しく言葉に詰まる横で、オーリが表情一つ変えずに口を開いた。
「言っていい相手か否かは、見極めているつもりです」
「あ、ああ、そうか、うん」
 予想もしていなかった方向からの返答に、クリーナクが二度三度とまばたきを繰り返す。
 そうして王は、「それは光栄だ」と屈託のない笑みを満面に浮かべた。
  
「この杖を見るたびに、我らのことを思い出してくれ。そして、無事、父君と再会が叶った暁には、是非我が城へ戻ってきてくれないか」
 王達の見送りを受けて、ウネン達は城を出た。以前よりはほんの少しだけ見慣れた街並みを抜け、町の門へ向かう。
 目指すラシュリーデンは、チェルナ王国の北にある。イェゼロの町とは方角が逆となるため、ウネンは養父母や友人に直接近況を報告することを断念し、手紙を行商人に託すにとどめた。ヘレーを捜しにオーリ達と旅立つ旨と、「行ってきます」の言葉をしたためた手紙を。
 町の門の前で、ウネンはふと足を止めた。
 背後に首を巡らせば、活気あふれる家並の向こうに、幾つもの尖塔をいだいた豪壮たる王城が見える。
 ウネンは、あらためて杖を握りしめた。よし、と短く息を吐き出し、門をくぐる。
 道の先でこちらを振り返る二つの人影に追いつくべく、ウネンは少し歩調を速めた。