あわいを往く者

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九十九の黎明 第八章 追いすがる過去

  
    * * *
  
 何も、見えない。
 自分が目をあけているのかどうか、それすら分からない真の闇。月はおろか星明かりも何も無い、まったき暗闇が辺りを包んでいる。
 ――眠ったのか。
 聞き覚えのある声が、どこか遠くのほうから聞こえてきた。少ししわがれた、歳をとった男の声。
 ――どうやら、山で迷ってから助けられるまでのことを全く覚えていないようですな。
 彼よりは幾分若い、年配の男の声が応じる。
 ――それがいい。それがこの子にとって何よりだ。
 声が、急速に那辺へと遠ざかってゆく。
 粘り気を増した闇が、ざぷりと全てを呑み込んだ。
  
    * * *
  
「いいかげん泣き止んでくれないかなあ。ね、モウル」
 ぐすぐすと鼻をすすりながら、モウルが何度もしゃくり上げている。
 根気よく弟の頭を撫でていたモウルの姉、ソリルは、やれやれと肩をすくめると栗色の長い髪を揺らして立ち上がった。
「オーリ、モウルをよろしく頼むわね」
 宝石みたいな碧の瞳に覗き込まれ、オーリは思わず息を呑んだ。それから、力一杯「はい」と頷いてみせた。
「うん、いい返事。それに比べて、モウル。あなたはオーリよりも一つ年上でしょ、しっかりしなさいよ」
「一つ、じゃなくて、半年だけ、だもん」
 べそをかいていても減らず口は忘れないモウルに、ソリルの溜め息が降りかかる。
 そこに、「まあまあ」とソリルの夫のエレグが割って入った。
「君だってモウルと別れるのを寂しがっていたじゃないか。しかも彼はまだ七つなんだから、そう厳しいことを言ってやらなくてもいいだろう?」
 魔術師の証しである漆黒の短髪を風になびかせ、エレグが微笑んだ。モウルが姉の次に慕い懐いている義兄は、水使いのわざを生かしてオーリの父の診療所にもよく手伝いに来てくれていたため、オーリにとっても心安い「お兄ちゃん」なのだった。
「それはそうなんだけど……」
 ソリルが不貞腐れたように頬を膨らませる。
 エレグが悪戯っぽく口のをあげた。
「それか、もういっそのこと、このまま里で暮らしても……」
「だめよ!」
 即座にソリルがエレグの口を手で塞いだ。
「折角頑張って皆を説得したのに、そんなこと言ったら、全部無駄になっちゃうじゃない」
 声を潜めて迫るソリルに、エレグもまた小声で応える。
「冗談だよ。たとえ地の果てだろうと、この命ある限り、僕はどこまでも君とともにゆくよ」
 ソリルは頬を薄紅色に染めたのち、もう一度モウルとオーリの前にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、お姉ちゃんは、ちょっと海を見てくるから」
「海?」
 涙と鼻水で大変なことになっているモウルの代わりに、オーリがソリルに聞き返した。
「そう、海。にしん売りがやってくる灰色の冷たい北の海じゃなくてね、ずっとずっと南の、空の色よりも鮮やかな青色をした温かい海で目いっぱい泳ぐの」
「また、次のお祭りの時に、報告に戻って、くるんでしょ?」
 ひきつれる呼吸の合間に、モウルがぽつりぽつりと問いかける。
「よし、泣きやんだね、偉い偉い」
 ソリルが嬉しそうにモウルの髪――姉弟でそっくりな栗色の髪――をくしゃくしゃと撫でた。
おさ様の探索者として里を出るわけじゃあないからねえ。気が向いたら、かな。でも、その時はお土産いっぱい持って帰ってくるから、楽しみにしてて」
 ソリルとエレグの二人は互いに幸せそうに頷き合うと、大きな荷物を背負った。見送りの大人達とも挨拶を交わし、またね、と手を振って里の門をくぐる。
 二つの背中が、みるみるうちに小さくなってゆく。
『オーリ、モウルをよろしく頼むわね』
 オーリの耳の奥で、ソリルの声がこだました。
 そうだ、ぼくが泣いてはいけないんだ。オーリはきつく唇を引き結んだ。鼻の奥がツンとなるのを、深呼吸でやり過ごす。
 と、傍らから再び鼻をすする音が響いてきて、オーリは横目でモウルを見た。
「もう泣くなよ」
「泣いてないよ、くしゃみをしたから鼻水が出てきただけだよ」
 くしゃみの音なんて聞こえなかったけどな、と思ったが、オーリは何も言わずにおいた。
  
  
 ソリルとエレグが里を出ていってから一年が過ぎ、また春がやってきた。
 いつも頼っていた姉や義兄がいなくなったせいだろうか、泣き虫だったモウルがこのところめっきり泣かなくなった。以前はことあるごとにオーリにも泣きついてきていたのに、最近は静かなものである。
「絶対に魔術師になって、兄ちゃんが帰ってきた時にびっくりさせるんだ」
 そう言ってモウルは、今日も一人、里長さとおさの住む神庫ほくらへと出かけていった。里の神の神庫ほくらには、人が一生かかっても読みきれないほどの沢山の書物が保管されていて、モウルは毎日のように書庫にかよっては朝から晩まで本を読み続けているのだ。
 町並みの向こう、礼拝堂の丸屋根が、春の日差しを受けて輝いている。
 籠をさげてのお使いの途中だったオーリは、しばし足を止めてその威容を見つめていた。それから短く息を吐き出して、籠の持ち手を握りなおした。
  
「お昼ご飯、いつ食べる?」
 オーリは、テーブルに置いた籠から小鍋を取り出すと、背後の寝台を振り返った。
 寝台に腰かけたオーリの祖母が、お礼の言葉とともに「今からもらうよ」と枕元の松葉杖を引っ張り寄せる。
「歳はとりたくないもんだねえ。まさか、畑で転んだだけで骨を折ってしまうなんてねえ」
 足首のギプスを恨めしそうにさすりながら、祖母が溜め息をついた。
「お母さんは夕方に来るって。今日はこっちで晩御飯作って、ここでみんなで一緒に食べましょう、だって」
「ヘレーさんも来るのかい?」
「お父さんはご飯の時間には間に合わないと思う。気にせず三人で食べておいて、だって」
「いつも遅くまで大変だねえ」
 祖母はまたも溜め息を吐き出してから、よっこいしょ、と立ち上がった。
「オーリ、今日は畑の仕事はしなくてもいいよ。水やりぐらいならばあちゃんにもできるから、お前は神庫ほくらに勉強に行っておいで」
 知識はちからなり。里に連綿と伝わるその言葉どおり、常日頃から里長さとおさは勉強の大切さを人々に説いていた。礼拝堂の脇にある学びには、「ひか」と呼ばれる二人の里長さとおさ補佐が常に詰めており、里の子供達は家の手伝いの隙をみては、読み書きや算術などを教わりに行っていた。
「いいよ。今はそんな気分じゃないから」
 籠からパンの包みと水筒を出し、棚から取ってきた皿をテーブルの上に置き、フォークやスプーンを並べる。祖母の家のテーブルは家のものよりも幾分低いため、子供のオーリでも難なく手伝いができるのだ。
「でも、お前、ヘレーさんみたいな立派なお医者になりたいんだろう? だったら……」
神庫ほくらへはお母さんがやってきたら行くよ。だから、おばあちゃんは心配しないでゆっくりしてて」
「お前は本当に優しい子だねえ」
 祖母が目を細めた。そうして今度は、どことなく悲しそうに眉をひそめた。
「うちにもっとお金があれば、人を雇うなりしてお前にこんな苦労をかけなくてもすむんだけどねえ。ほれ、ヨーラスさんのところの坊は、一日中神庫ほくらに入り浸っているんだろう? いい御身分だねえ」
 この間までお前とずっと一緒だったのに、と呟く祖母の声を振り払うようにして、オーリは入り口へときびすを返す。
「畑に行ってくるから、何かあったら呼んで」
「色々すまないねえ。ありがとうねえ」
 どうってことないよ、と笑ってみせると、オーリは扉をぱたんと閉めた。
  
  
 午後三時半の鐘の音とともに、オーリは祖母の家に帰りついた。水桶と鍬を乗せた手押し車を裏の物置に仕舞ってから、表へとまわる。
「あの人が、明日にでもまた足を診てくれるって。調子が良いようだとギプスを外せるかもって言ってたよ」
 炊事場横の窓から、オーリの母の声が聞こえてきた。思っていたよりも到着が早いのは、きっといつものように「もう診療所こっちの手伝いはいいから、早くお義母さんのところへ行っておいで」とオーリの父が送り出したからだろう。
 お父さんが忙しくしているのは、お父さんが優しすぎるせいだと思う。と、オーリは唇を尖らせた。手伝いに来てくれる人は時間どおりに帰すくせに、病気や怪我を看てもらいに来る人は時間が過ぎていても診療所に招き入れる。前にお母さんも「馬鹿だよねえ」とぼやいていた。
 でも、その馬鹿なところがイイんだよね。そう言葉を継いで笑みを浮かべた母のことも、そして母にそう慕われている父のことも、オーリは大好きだった。なんとなく照れ恥ずかしいから、一度も言葉にしたことはなかったけれども。
「ギプスがとれたら、山へ行けるかねえ」
 突拍子もない祖母の言葉を聞き、オーリは大慌てで表の扉をあける。
 幸い、オーリが何か言うよりも早く、母が「まさか!」と祖母に食ってかかっていた。
「完全に骨がくっついたわけじゃないんだから、しばらくは安静にしてなきゃ」
「もう治ったからギプスを外すんじゃないのかい?」
「ずっと動かさないままなのも足に良くないから、様子を見ながら少しずつ動かしていこう、ってだけよ」
 色々と面倒くさいものなんだねえ、と祖母が溜め息をつく。
「それにしても、どうしてそんなに山へ行きたいのよ」
「ほれ、毎年恒例のばあちゃん特製山菜餅、お前達もだけど近所の人らも楽しみにしててくれてねえ……」
「山菜なら明日にでも私が取りに行ってきてあげるから」
「そんな、お前、ただでさえ忙しくしてるのに、そんなこと頼めないよ」
 と、そこで母が戸口に立つオーリに気がついた。
「あら、お帰りオーリ。畑仕事お疲れさま」
「ただいま」
 母はカップに湯冷ましを注いで、「お手伝いありがとうね」とオーリに手渡した。
「今から神庫ほくらに勉強しに行ってくるんだって? 晩御飯ができたら呼びに行こうか?」
「いいよ。自分で時間を見て戻ってくる」
 母が、頼もしいね、と微笑んだ。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん」
 オーリは湯冷ましを飲み干してから、「行ってきます」と祖母の家を出た。
  
「あっ、オーリだ」
「おーい、オーリー!」
 オーリが神庫ほくらの在る広場の手前までやって来た時、道の向こうから二人組の少年がオーリの名を呼んだ。それぞれオーリよりも一歳と三歳年上の、少しやんちゃなご近所さんだ。
「今から学びに行くのか?」
「今行っても意味ねーぞ。なぁ」
 思わせぶりに目配せし合う二人に、オーリは内心で溜め息をつきながら仕方なく詳細を問うた。
「どうして?」
 途端に二人は生き生きと目を輝かせて、オーリのほうへ身を乗り出してきた。
「ヨーラスさんとこのチビが、質問があるとか言って書庫から出て来て、ひか様を独り占めしてんだよ」
「史上最年少のまじない師だかなんだか知らないけどよ、いい気なもんだよな」
「だからさ、チビが巣穴に引っ込むまで一緒に遊ぼうぜ」
「ぼくはいいや」とオーリが口にするや、裏切り者、という眼差しが二人から一斉に返ってくる。オーリは慌てて適当な理由をでっち上げた。
「今から山菜を取りに行ってくるから」
「山菜? そっか、オーリのばあちゃん、今、怪我してんだよな」
「そうかー、気をつけろよー」
  
 二人組と別れたオーリは、そのまま広場を通り抜けて真っ直ぐ里の北門へと向かった。深く考えずに口走ったものの、山菜を取りに行くというのは案外良い考えのように思えたからだ。日没までまだ三時間近くあるとなれば、祖母を納得させられるぐらいの山菜は手に入れられるだろう。そうすれば、忙しい母の手を煩わせる必要もなくなるに違いない。
 オーリは門を出ると、去年に祖母に連れられて山菜を摘みに行った里山に足を踏み入れた。脱いだ上着のボタンを留め直し、袖を括って山菜を入れる袋代わりにして手に持つ。道からあまり離れないように注意しながら下草を踏み分け、祖母に教わったとおりに葉の形やにおいで目的の野草を探し出しては、若芽を上着の中に入れる。
「お前は本当に覚えがいいねえ」との去年の祖母の言葉を思い出し、オーリはにんまりと微笑んだ。「これは食べられる。こっちは毒」と互いによく似た草の見分け方をすぐに会得したオーリを、祖母ともう一人が少し大げさなぐらいに褒めちぎってくれたのだ。
『やっぱりオーリはすごいよ!』
 そう、もう一人。ぼくも一緒に行く、とついてきたモウルが目を輝かせてオーリに言った。「これで、うっかり山で迷っても、オーリが一緒だったら食べ物を見つけられるね!」と。
 摘んだ若芽を手に、オーリは里のある方角を振り返った。鬱蒼と立ち並ぶ木々の向こう、里の神の神庫ほくらの堂々たる姿が見えるような気がした。
『先生、質問があります』
 陰口を叩く者のことなどまったく意に介せず、真っ直ぐにひか達を見つめる眼差しが、オーリの瞼の裏に甦った。一年前、「モウルをよろしく頼むわね」と目を合わせてきたあの碧とそっくりな、貴石のごとく輝く深い瞳が。
『この間までお前とずっと一緒だったのに』
 先刻聞いた祖母の声がオーリの脳裏にこだまする。少し前までオーリと同じものを見ていたはずのあの瞳は、今は神庫ほくらの深奥にて、オーリには窺い知れない世界を映しているのだ。
 オーリは急に心細くなった。今、自分がたった一人でいるということに不安を覚え、慌てて道へ戻ろうとした。
 しかし。考え事をしていたせいで足元への注意が散漫になっていたのだろう、方向転換をしようと踏み出した右足が、落ち葉の下の朽ち木を踏み砕いた。
 あ、と言う間もなく天地がひっくり返った。
 オーリの身体はそのままごろごろと斜面を転がり落ちてゆく。右肩に、左足に、身体のあちこちに木の根や石がぶつかるたびに、痛みと衝撃で息が詰まった。なんとかして転がるのを止めなければ、と、オーリは無我夢中で腕をかく。
 次の瞬間、背中に大きな一撃を受け、オーリの意識は暗転した。
  
  
 すぐ近くに鴉の鳴き声を聞き、オーリは目を覚ました。自分がどこにいるのか理解できず、身を起こそうとして腕に走る痛みで、ようやく滑落の恐怖を思い出す。
 オーリはゆっくりと深呼吸をした。そうして慎重に手足を動かしてみた。
 あちこちがずきずきと疼くが、どうやら骨には異常がないようだった。助かった、と息を吐き、背後の灌木を支えになんとか立ち上がる。
 日は沈んでしまったのだろう、周囲はすっかり薄暗くなっていた。空を仰げば、正面の空の尽きるところが熾火のように光っている。反対側の空は夜色に染まり、黒々とした木の葉の隙間からは、真円に近い月が顔を覗かせていた。
 オーリが立っているのは小さな谷だった。確かこの少し先には沢があるはず。だが、何度か来たことがあるにもかかわらず、夕闇に閉ざされたこの景色は、今のオーリには初めて訪れる場所のように見えた。
 さて、どうしよう。痛さと心細さに涙ぐみながらも、オーリは必死で考えを巡らせた。転げ落ちてきた経路を辿って、来た道を戻れば里に帰ることができるわけだが、ひとたび道を見失ってしまうと、山に迷うことになる。夜の山を彷徨うことがどんなに恐ろしくかつ無謀なことかは、オーリにも充分に理解できた。
 かといって、まだまだ朝晩の冷え込みが厳しいこの季節、上着を無くした状態で助けを待っていられるものだろうか。口の中に溢れてきた苦い唾を、オーリは一息に呑み込んだ。目の周りが一気に熱を持ち、視界がみるみる滲んでゆく。
 その時、上のほうから微かに声が聞こえた。
 聞き間違いでも気のせいでもない、オーリの名を呼ぶ母の声だった。
「お母さーん!」
 オーリは全身全霊の力を込めて叫んだ。
「お母さん! お母さん! お母さんお母さんお母さんお母さん!」
「オーリ! オーリ、どこ!?」
 母の声がぐんと近くなった。
 オーリは服の袖で目元を拭うと、胸一杯に息を吸い込んだ。
「沢のほうに落ちた!」
「オーリ!」
 薄闇の中、斜面の上で小さく影が動くのが見え、オーリは必死で両手を振り回した。
「ここだよ! ここ!」
「大丈夫? 動ける?」
「うん、動ける!」
 真っ直ぐ届いた母の声に、オーリは嬉しさのあまり泣きそうになった。
「今行くから、待ってて! いいね、そこでじっとしてて!」
 そう言うや、母は慎重に斜面をおり始めた。灌木から灌木へとつたうようにして、足元を確かめながらゆっくりとくだってくる。
 ようやくオーリの傍へとやってきた母は、荒い息のまま、何も言わずに先ずオーリをそっと抱き締めた。
「無事で良かった」
 痛む身体をものともせず、オーリは力一杯母にしがみついた。それから「ごめんなさい」と心の底からの声を絞り出した。
「言い訳もお説教もあとで。おばあちゃん達も心配してるから、早く帰ろう」
 二人は固い抱擁を解き、斜面の上を見上げた。
「オーリが先に登って。母さんは下で支えるから。あそこの、バンザイしているような形の木が目印だよ」
 さあ早く、とオーリを急かしてから、母が不安げな眼差しを周囲に走らせた。
「さっきね、獣の声を聞いたような気がしたのよ。あまり遠くないところで。しかも複数」
 母の言葉が終わりきらないうちに、左斜め前方で唸り声が聞こえた。
 大きく息を呑む二人の目の前、闇に溶ける茂みの中から、小さな影が月明かりの中へと進み出てきた。
「赤狼……」
 母の喉がごくりと音をたてた。
 左手からも、もう一頭。そして背後の沢のほうからも、がさりと下草を踏む音が聞こえてきた。
「こんな里の近くにいるなんて……」
 オーリを庇うようにして、母が前に出た。赤狼から視線を外すことなく、足元に落ちている一メートルほどの長さの木の棒を拾い、唯一残された右手の方向へとじりじりと退しさってゆく。
「いいかい、オーリ、向こうにあるあの楠まで行こう。あの木に登って助けを待とう」
 それは、この辺りで一番大きな、しっかりとした枝ぶりの木だった。あの木ならば、オーリと母の体重にもびくともしないだろう。
 ゆっくりと距離を詰める三頭の赤狼を、棍棒と気迫で威嚇しながら、二人は慎重に楠へと向かった。
 だが。
 このまま無事に切り抜けられますように、との願いも虚しく、楠まであと七、八メートルというところで、すぐ右手の草むらから四頭目が勢いよく飛び出してきた。
 大きく口をあけ牙を剥きだしにした赤狼が、母の太腿にかぶりつく。
 母の口から悲鳴がほとばしった。
 四頭目は力一杯頭を振って、母を引き倒そうとする。
 母の身体が大きくかしいだ。かしいだが、母は気合いの一声とともに踏みこらえた。
「おまえ、なんかに、まけるものか!」
 血を吐くような母の叫びに頬を張られて、オーリは我を取り戻した。足元に落ちていた小鍋ほどの大きさの石を両手で持ち上げ、赤狼の背中に思いっきり打ち下ろす。
 苦悶の鳴き声が響き、赤狼のあぎとが母の足から離れた。地に倒れてのたうちまわる赤狼の、あけにぬめる鼻先を狙って、オーリは必死で石を打ちつける。「よくも、よくも」と喚きながら、何度も、何度も。
 仲間が動かなくなったのを見て、包囲の輪を縮めていた三頭があとずさった。
「オーリ、今のうちにあの木に登りなさい」
「お母さんは?」
「母さんはあとから行くから」
「嘘だ!」
 月明かりにも、母の右足が逃げるどころではない状態なのが分かった。おそらく、立っているだけで精一杯に違いない。オーリは溢れる涙を拭うことすらできずに、ただひたすら首を横に振る。
「馬鹿だよねえ」
 苦痛などまったく窺わせないいつもの母の声を聞き、オーリはびっくりして顔を上げた。
 だいすきだよ。噛み締めるようにそう呟いて、母がにっこりと笑った。
 何か言わなきゃ、とオーリが息を詰めるのと時を同じくして、母が動いた。歩けるような怪我ではないはずなのに、母は、物凄い力でオーリを引きずって、すぐ近くにあった立ち枯れた大木へと寄った。
 その根元、地表すれすれのところに、子供が腹這いで入り込めるぐらいのウロが穿たれていた。母はそこへオーリを問答無用に押し込むと、ウロの入り口を塞ぐように、持っていた木の棒を地面に突き立てた。
「絶対、母さんが守ってあげるから」
 闇の中で母が微笑む気配がした。
「『いい』って言うまで、絶対に出てきちゃ駄目だよ!」
 母がきびすを返すと同時に、赤狼の咆哮が聞こえた。
 落ち葉を蹴散らす幾つもの足音。
 一つ、二つ、確実に近づいてくる足音。
 入り乱れる獣の唸り声。
 地を蹴る音。
 押し殺した悲鳴。
 重たいものが倒れる音。
 獣の牙が発するおぞましい音。
 喘ぐような声ならぬ声。
 か細い、とてもか細い、すすり泣き。
  
 そうしてオーリは意識を失った。