どうやら泣き疲れてオーリの背中で眠ってしまったらしい。ウネンが次に気がついたのは、見覚えの無い部屋の寝台の上だった。
驚いて身を起こせば、すがすがしい早朝の空気がウネンの頬をそっと撫でる。きょろきょろと辺りを見まわしたウネンは、扉の横の椅子に座るオーリを見つけた。
「起きたか」
オーリはそう一言を残すと、さっさと部屋を出ていってしまった。と思いきや、ほどなくお盆を持ったモウルを連れて戻ってくる。
お盆の上には、パン粥の入った椀と梨の実が乗っていた。
二人によれば、昨夜ウネンを救出に行く前に、以前の宿を引き払ってこの宿屋に移っておいたのだという。ウネンを攫ったのが誰にせよ、女将の宿は犯人の知るところとなっているだろうから、再び狙われることのないよう念のために宿を替えた、とのことだった。
「女将さん、ウネンのことを随分心配してくれていたよ。お手伝いを頼んだばかりに、って責任も感じてたみたいでね。宿を替えると言った時も、文句を言うどころか率先してここを手配してくれた上に、値段交渉までやってくれてね」
なるほど、しっかりとした寝台二つに二人がけのテーブル一つという立派な部屋は、女将さんの頑張りの結果なのだろう。
他にも、顔見知りになった職人街の人々が、ウネンがいなくなったと聞いて大層心配してくれていたと聞き、ウネンはすっかり嬉しくなった。
時間をかけてゆっくりとパン粥と梨を平らげたウネンが、一息ついたあたりで、オーリとモウルが寝台の脇にそれぞれ椅子を運んできた。あの日、ウネンが二人と別れてからの出来事を、あらためて詳しく教えてくれ、というのだ。
ウネンは、自分が覚えている限りのことを、もう一度最初から順を追って二人に報告した。井戸端から塔の部屋へ、地下牢でのヘレーの様子、マンガスの要求とその目的。そうしてとうとうモウルの義兄エレグを襲った悲劇に話題が及んだところで、ウネンの話に聞き入っていた二人が、ガタンと椅子を蹴って立ち上がった。
蒼白な顔で「まさか」と呟くモウルの横で、オーリが愕然と目を見開いて「本当か?」と絞り出す。
ウネンには、「マンガスはそう言ってた」と答えることしかできなかった。
「ソリルさんは……、モウルの姉については、何か言ってなかったのか」
半ば放心状態のモウルの代わりに、オーリが問う。
ウネンはそっと首を横に振った。
「何も言ってなかった」
「それは、いつのことなんだ。おい、モウル、ソリルさん達から最後に手紙を受け取ったのはいつだ」
オーリの問いかけにも、モウルは何も反応を示さない。
立ち尽くすモウルをしばし見つめたのち、オーリは唇を引き結んで再び椅子に腰をおろした。
ウネンは慎重に言葉を選んだつもりだったが、所詮は焼け石に水をかけるようなものに過ぎなかった。言い方を変えたところで事実が変わるはずもなく、衝撃は真っ向から二人を、とりわけモウルを、打ちのめしたのだ。
痛む胸をこぶしで押さえながら、ウネンはオーリに返答する。
「いつのことかわかるようなことは、全然言ってなかった」
「どこで、どういういきさつで捕まえたのか、もか」
「それも、まったく」
ウネンは、思わず唇を噛んだ。役に立つような情報は何一つなく、ただ不幸の知らせだけを運ばざるを得なかった自分のことが、情けなくてたまらなかった。
重苦しい沈黙が、しんしんと部屋に降り積もる。
硬直したように突っ立っていたモウルが、大きな溜め息をついた。それから、どさりと椅子の上に腰を落とした。
「……エレグ兄さんや姉さんのことは、今はこれ以上考えないことにするよ……。どうにも情報が足りなさすぎる……」
モウルの声は、これ以上はないというほど硬かった。
「モウル……」
オーリが、躊躇いがちにモウルに声をかける。
だが、意外にもモウルから返ってきたのは、ちからの籠もった鋭い眼差しだった。
「奴は兄さんが『廃人になった』って言っただけなんだろう? しかも、今のところそう言っているのは奴一人だけ。姉さんに至っては、存在すら言及されていない有様だ。こんな状況で僕らが今ここで彼らのことをうじうじと考えていても、仕方がない」
膝頭を握り締めるモウルの手の、関節という関節から血の気が引いている。それでもモウルは、平静を装うように、まるで自分自身に言い聞かせているかのように、一言一言を噛み締めて言葉を継いだ。
「要するに、怪物野郎をぶっ倒せば、全て片がつくってことだ。ヘレーさんのことも、兄さん達のことも。ならば、今はその方法を全力で考えるまでだ」
静かに言い切ったモウルに、オーリが「そうだな」と笑みを浮かべる。
「よし、ウネン。話、続けて」
モウルの瞳に、炎が灯る。
ウネンは「分かった」と力強く頷いた。
「なるほど。昨日の昼間に君を感知することができたのは、君が塔の屋上に出てくれたからだね、きっと」
一通り報告を終えたウネンに、二人が口々に「よく頑張った」とねぎらいの言葉をかけてくれた。
「ありがとう。でも、ぼくは運が良かったんだと思うよ。そもそも、その時にモウルがぼくを捜してくれていなかったら、感知のしようもなかっただろうし。屋上に出る扉も鍵がかかってなかったし」
オーリが救出に来た際は、屋上の扉はきっちりと施錠されていたとのことだから、あれは本当に奇跡の一幕だったのだ。
「で、マンガスの鈴 についてなんだけど、ペリテの音の魔術師と似たようなわざなのかな」
モウルの問いに、ウネンは二箇月前の記憶を索 った。
「うーん、どうなんだろう。アルトゥルさんの時にどんな〈囁き〉を感じたかなんて詳しく覚えてないからなあ。でも、マンガスの術のほうがずっと強力なのは間違いないよ。感情を誘導するどころじゃない。問答無用に意志を封じ込める感じ」
刃物のごとき鋭利な音が、真っ直ぐ耳の奥に突き刺さるようなあの感覚。脳髄に到達した音は鉤爪へと変化 して、ウネンの精神をその掌中に捕らえたのだった。あの時のことを思い出し、ウネンは恐怖から背筋 を震わせる。
「鈴 の術もだけど、慢性的な眩暈も気になるな……」
モウルの呟きを聞いて、オーリが心配そうにウネンの顔を覗き込んだ。
「今はもう大丈夫なのか?」
「あ、うん。ちょっとだけ頭痛はするけど、眩暈はしないよ」
「そうか」
ほっとした表情で椅子の背にもたれるオーリと入れ替わるようにして、今度はモウルが身を乗り出してくる。
「マンガスに捕まって気を失った時は、奴はその鈴 は使わなかったんだよね?」
「うん」
「あと、倦怠感と、息苦しさ、か……」
ふうむ、とモウルが難しい顔で顎をさすった。
「そういえば、ヘレーさんが貧民街に行っていたのって、どういう理由だったの?」
今日一日は大人しく身体を休めろ、と寝台からおろしてもらえないまま昼を迎えたウネンは、ふと、昨夜から訊きそびれていたことを思い出した。
テーブルで何か書きものをしていたモウルが、「ああ」と寝台を振り返る。
「銃を試作するとして、市井の職人の手を借りる際に、秘密を守るために君ならどうする?」
「ええと、部品ごとに違う工房に注文したり、時間を空けて注文したりする、かな」
そうだね、と満足そうに微笑んでから、モウルは話し始めた。
「それらを全部一人で追うのは不可能だ。しかも、ヘレーさんは一応『逃亡者』だからね。何人もの職人に聞き込みをし、協力をとりつけようとすれば、すぐに噂が広まってしまう。だから、ヘレーさんは貧民街に住む屑拾いの子供達に協力を求めたんだ。これこれこういう形の鉄屑や木屑を見つけたら教えてくれ、って」
「なるほど」
と、そこでモウルの口元が、皮肉混じりに歪んだ。
「悪くない考えではあったんだけどね。ただ、まあ、金銭で動かした人間は、それ以上の金銭で逆向きに動くこともある。年端も行かない子供なら尚更だ」
「それって、まさか……」
モウルが静かに頷いた。
「一人の子供がね、『君にこの仕事を依頼したのは誰だ』って、銅貨を握らされたらしい。赤茶色の髪をした呪 い師に」
ああ、とウネンは思わず溜め息を漏らした。吐き出した息の分だけ、腹の中に冷たい風が吹き込んだような気がした。
今のところ、マンガスは常にヘレーやウネン達よりも先手を取っている。目的のためならば手段を選ばぬ彼のもとから、果たして無事ヘレーを奪還することができるのか。唇をきつく引き結んだウネンに、モウルが得意げに手元の羊皮紙を閃かせた。
「まァ見ててごらんよ。多少後れを取ったけどさ、僕らが力を合わせれば、怪物野郎だろうが何とかなるさ」
「僕ら?」
扉横の椅子に座るオーリが、静かな声でモウルに問いかける。
モウルが悪戯っぽい表情でにやりと笑った。
「そう、僕ら。僕と、オーリと、そしてウネン、君にもせいぜい頑張ってもらうよ」
まさか自分が「僕ら」の頭数に入れてもらえるなんて思ってもいなかったウネンは、二度三度と目をしばたたかせた。
「だからお前は、何も気にせずとにかく身体を休めろ」
「本当、さっさと元気になってもらわなきゃ、困るんだよねえ」
片や心配そうに、片や肩をすくめながら、二人は揃って大仰に眉間に皺を寄せる。
ウネンは「うん!」と力一杯首を縦に振った。
明けて次の日、ウネン達三人は王城の前にやってきた。
クレーテ川から引き込まれた堀にかかる跳ね橋には、大きな荷物を担いだ商人や、荷馬車、はたまた何か用事を抱えた人々がひっきりなしに行き来している。
人の波に乗り、モウルを先頭に門へと近づいていけば、入城者を検めていた一人の官吏が、応対していた相手を放ったらかしにして、物凄い勢いでウネン達に向かって駆け寄ってきた。
「何かご用ですか、魔術師様」
「ええ、こちらにいらっしゃるマンガス様にお目通り願いたいんですけれども」
モウルがすまし顔で書状を官吏に手渡す。昨日に彼が宿のテーブルでしたためていたあの書類だ。
書状を受け取るなり、官吏は「しばしお待ちを」と門の中へと取って返していった。
「いつも思うんだけど、凄いね、黒髪の求心力」
魔術師様をお待たせしてはいけない、とばかりに駆け足で走り去っていく官吏を見送りながら、ウネンは小声で隣のオーリに話しかけた。身分も地位もない一般庶民に対して威張り散らすばかりの連中が、漆黒の髪と見るや、覿面 にその腰を低くさせるのだ。その恩恵に、ウネンも旅の間中随分と浴したものだった。
「貴重な人材だからな。だが、もてはやされる代わりに、面倒事にも巻き込まれる」
周囲の人々の視線を集めながら涼しい顔で佇むモウルを、オーリが目を細めて見やった。
「だから、旅をするとなると帽子やフードで頭髪を隠す魔術師も珍しくないが、あいつは、日差しを避ける以外にそれらを使わない」
「『馬鹿同士、折り合いをつけて』いる……のかな?」
ウネンは、ペリテの町で精霊使いのロミにモウルが言った言葉を思い出していた。術師をもてはやしたり、腐したり、そんな自分勝手な「馬鹿」に振り回されて一喜一憂してしまう自分達のことを、モウルは同じように「馬鹿だ」と評したのだ。
『馬鹿は馬鹿同士、折り合いをつけてなんとかしていくしかない。それが嫌なら――』
「いや、あれは、『馬鹿を振り切って』いるつもりなんだと思う」
「モウルらしいね」
「まったくだ」
互いに顔を見合わせて小さく笑った途端、前方のモウルが派手なくしゃみを一つした。