あわいを往く者

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九十九の黎明 第十章 怪物

 マンガスが大きく息を呑んだ。
 気が遠くなるほどに長い沈黙ののち、彼は声に出して短く笑った。それから、両手を頭の後ろにまわし、白銀の仮面を外した。
 ヘレーと同年代か、少しだけ若い、落ち着いた風貌の男がそこに立っていた。いつぞやペリテの町でモウルが「似ている」と漏らしていたとおり、あの音の魔術師を彷彿とさせる顔かたちだった。
「そんな、まさか……」
 オーリが掠れた声とともに一歩後ろに下がる。
 モウルが、視線をマンガスから外さぬままオーリに呼びかけた。
「正気に戻ったか、オーリ」
「……すまん」
 オーリがぎりりと奥歯を噛み締める。
 そんな二人をマンガスはゆっくりと見まわして、そうして感嘆の溜め息を漏らした。
「義理とはいえさすがは我が弟だ。この程度のまやかしでは見破られてしまうか」
「この部屋に入る前から、あなたがエレグ兄さんではないかと疑っていたよ」
 なに? とマンガスが眉を上げる。
 僕の考え過ぎであってほしい、って祈っていたのに。そう絞り出すモウルの声は、たとえようもないほど苦かった。
「よく考えたら、ノーツオルスを拷問にかけよう、って、何も無いところから出る発想じゃないからね。そこに至るためには、裏切り者が必要だ。そして、裏切り者がいるのならば、拷問なんてする必要はないんだよ。矛盾が生じている箇所を突き詰めると、残された解は一つきりだ」
 ぐう、と、マンガスが呻き声を漏らす。
 モウルの目が、つぅと細められた。
「ノーツオルスが、自らを里の外の人間に装うというのは、実に有用だ。演技を徹底することで、〈誓約〉を破る危険性をゼロに近づけることができるからね。僕らだって、そうやってヘレーさんを捜しまわったものさ」
 ウネンはモウルの腕を支えながら、ああそうか、と内心で頷いていた。オーリ達と出会った時、彼らが「依頼を受けてヘレーを追っている」と言っていたことを思い出したのだ。
「姉さんはどうした。あんたは一体ここで何をしているんだ」
 抜き身のやいばのごとき眼差しが、マンガスを貫く。
 義兄と義弟は、真っ向からしばし睨み合った。
「ソリルは、死んだよ」
 ぽつり、と、マンガスが呟いた。
 モウルが、大きく目を見開いたのち、小刻みに首を横に振った。
「嘘だ。信じられない」
「ああ、嘘だったらどんなにか良いか」
 マンガスが薄く笑った。まるで泣いているかのような笑みだった。
「ソリルは、もう、どこにもいない。それもこれも、全て里の神のせいだ……。だからこれは私の復讐なんだ。里の神は勿論、唯々諾々と神に従うばかりの里を、里の全てを無くしてしまおうと……」
 ウネンの腕に掴まるモウルの手に、力が入る。
 ウネンはモウルの顔を見上げた。
 モウルが、ゆっくりとウネンに向かって頷いた。
「本当は、彼女が死んだ十五年前に、決着をつけるつもりだったんだ。なのに、ボロゥの奴が邪魔をするから……」
「お前が、ボロゥさんを殺したのか」
 淡々と語り続けるマンガスに、オーリが静かに問いかけた。微かに震える声に、底知れぬ怒りを滲ませて。
 マンガスは事も無げに「そうさ」と微笑んだ。越えてはいけない一線を、とうの昔に通り過ぎてしまった者の目をしていた。
「まあ、あの時は、奴を消せただけでも良かったけれどね。に逃げられたばかりか、次の候補までもが死んでしまって、おさ様はさぞかしご心痛のことだろう。しからば、もう心悩まずにすむように、我々が、圧倒的物量をもって、里の長い歴史に終止符を打ってやろう」
 熱に浮かされているかのように、マンガスは語り続ける。
 オーリが眉間に深い皺を刻んだ。
「里の神は、里を守るためならなりふり構わないだろう。お前は本気で神に勝てると思っているのか?」
「勝てるはずなどないだろうね。だが、それでいいのだよ。大いなる炎が軍勢を焼き尽くせば、もう里は隠れてなどいられなくなる」
 と、今まで呆然と会話を見守るばかりだったルドルフ王が、マンガスのこの言葉を聞くや、ひきつれた声を漏らした。
「そ、それはどういう意味だ。我が軍勢を焼き尽くすだと?」
 マンガスは、嘲笑も露骨に王を振り返ると、殊更に慇懃な態度で腰を折った。
「流石は国王陛下。よもやこんなにも早く正気を取り戻されるとは、思ってもおりませんでしたよ。本当に、素晴らしい矜持をお持ちであらせられますな」
「質問に答えよ!」
 王の、よく通る低い声が、壁に、天井にこだまする。
 マンガスが、さも心外そうに両眉を上げた。
「申し上げたでしょう? 多少の犠牲はつきものだと」
「多少、だと? 神の炎に焼き尽くされることがか?」
「多少ですよ。何故なら、本当の闘いはそこから始まるのですから。神と、ヒトとのね!」
 マンガスは、両手を振り開き、高らかに言い放った。
 あまりのことに、王が戦慄おののいて一歩あとずさる。
「さて、国王陛下には、今再び夢をご覧になっていただきましょうか」
 マンガスが懐に手を入れるのを見て、王が、慌てて扉へきびすを返した。
「誰か! 誰かおらんか! 誰か、この痴れ者を捕まえい!」
「おや、この私めのために、おん自ら人払いしてくださったことをお忘れですか」
 オーリが動くよりも早く、マンガスがマントの下から響銅さはり色の手搖鈴ハンドベルを取り出した。
 リィーン、と、質量すら感じられる鋭い音が鳴り響く。
 ウネンは咄嗟に両耳を塞いだ。
 オーリもモウルも、ウネン同様耳を押さえて、歯を食いしばっている。
 扉へ駆け寄ろうとしていた王の動きが、止まった。両手をだらりと身体の両側へ落とし、一切の表情が消えた顔で、その場で棒立ちになる。
「下地が無いとはいえ、三人揃って踏みこらえるとはね。痛い思いをさせたくはなかったのに」
 肩で息を繰り返すウネン達を、マンガスが下目にねめつけた。
「それにしても、彼女の連れが君達だったなんて、まんまと騙されたな……。いや、見違えたよ。すっかり大きくなって。オーリなんて、こんなに小っちゃかったのにな……」
 思いもかけず、マンガスの目元がそっと緩んだ。
「モウルも、まさか魔術師になれたとはね……。本当に驚いたよ。ずっとなりたがっていたもんなあ……」
 懐かしそうに昔を語る口角が、次の瞬間に吊り上がる。マンガスは凄惨な笑みを浮かべると、一段低い声で囁いた。
「折角夢を叶えたというのに、ここで終わりだなんて残念だね」
 マンガスが左手を振ると同時に、傍らの兵二人が同時に長剣を抜いた。
「お前達、こやつらを始末しろ。ただし子供は殺すな」
 長剣を手にした二人の兵士は、表情一つ変えずに、じりじりと三人のほうへ迫りくる。
 ウネンの手から杖をもぎ取ったオーリが、向かって左の兵士の前に進み出た。それを見て右側の兵が、挟みうちを目論んでオーリの側面につこうとする。
 モウルが懐から呪符を取り出し身体の前に突き出した。
 兵士達が怯む、その一瞬の隙を突いて、オーリが大きく前に踏み込んだ。いつぞやウネンに見せてくれたように、杖の先を相手の手元に突き入れ、剣を握る手をこじあける。
 兵士の剣が床に落ちた。剣を拾おうと反射的に身を屈めた兵士の顔面に、オーリは躊躇うことなく膝蹴りを喰らわす。
 兵士は鼻血を撒き散らして、後頭部から後ろへ倒れ込んだ。
 オーリは兵士の剣を拾うなり、ウネンとモウルを振り返る。
 一方モウルは、呪符を兵に突きつけたものの、そのままその場にへたり込んでしまっていた。
 呪符が不発に終わったと見るや、兵は俄然勢いを取り戻し、剣の切っ先をモウルに向けて突進してくる。
 オーリが、モウルの前に躍り出た。やいばやいばを巻き、兵の攻撃を押さえ込む。
 ふと目の端に動くものを捉えて、ウネンは左手に視線を向けた。
 先刻オーリの一撃を喰らって倒れていた兵士が、むくりと上体を起こすところだった。
 ウネンは慌てて床に転がる杖を拾い上げた。力無く座り込むモウルを庇うように、杖を構えてその前に立つ。
「悪い、ウネン。もう少し……、なんとかもう少し持ちこたえてくれれば……」
「解ってる」
 ウネンは腹の底に気合いをためた。既に賽は投げられたのだ。あとは天命を待つべく人事じんじを尽くすまで。
「それにしても、可愛い子供が危機に陥ってるってのに、なにやってんだよ、ヘレーさん……」
「もう二週間以上も、その、フェなんとかっていう幻覚剤を吸わされていたわけだから……」
 徒手の兵士はぼたぼたと鼻血を滴らせつつ、ウネンのほうへ迫りくる。
 兵と鍔迫り合いを繰り広げるオーリが、剣と剣とがこすれ合う音に負けじと声を張り上げた。
「ウネン! あいつに、ヘレーに呼びかけろ!」
「え、でも」
 前方の敵を警戒する一方で、ウネンはちらりとヘレーを見やった。
 ヘレーは、先刻の場所から一歩も動かないまま、ルドルフ王と同じく棒立ちになっている。その虚ろな瞳は、地下牢でマンガスの手に落ちた時と寸分もたがわなかった。
 あの時だって、ウネンはヘレーに呼びかけたのだ。何度も何度も、声の限りに。
 遠ざかってゆくヘレーの背中を思い出し、ウネンは杖を両手で握り締めた。どうせ無駄だよ、との声が、喉のすぐそこまで出かかった。
「大丈夫だ!」
 オーリの声がウネンの頬を張った。
 オーリは、兵の剣を大きく跳ね上げながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫だ。ただし、今度は!」
 ウネンは、ハッと息を呑んだ。
 その刹那、オーリが微笑んだような気がした。
「遠慮するな。思いっきりいけ!」
 オーリの声援で弾みをつけて、ウネンは胸一杯に息を吸い込んだ。腹の底にちからを溜め、全ての想いを声に乗せる。
「お願い、目を覚まして! !」
 薄暗い広間の隅々に、ウネンの呼びかけが反響する。残響が那辺へ吸い込まれていくのと同時に、ウネンの手元で、目に見えない何かが音ならぬ音をたてて弾け飛んだ。
 金色こんじきに光る〈囁き〉が、みるみるうちに周囲を満たした。
 光の波はウネンのもとへ打ち寄せ、集まり、そうして今度は光る糸となって、ウネンとヘレーと繋ぎ合わせる。糸は更にウネンとオーリを、そしてモウルやマンガス――いや、エレグまでをも繋げると、一際眩しく輝いた。
 やがて、遥か虚空から、新たな〈囁き〉が降ってきた。〈囁き〉と〈囁き〉は、互いに混じり合い、り合わさり、大きな網を作り上げてゆく……。
 光の網は、やがて空気中に溶け込むように薄れて消えた。
 何が起こったのか、ウネンにはよく分からなかった。ただ胸の奥底に、ほんのりとした温もりが感じられた。なんだかとても懐かしくて、今にも泣き出してしまいそうな気分だった。
 涙をこらえて周囲を見まわせば、兵の腕をねじり上げたまま呆然と立ち尽くしているオーリの姿が目に入った。その向こう側では、マンガスも、何かに強く心を奪われている様子でぼんやりと佇んでいる。
「ようこそ、ウネン。我らが里へ」
 相変わらず床に座り込んだままのモウルが、嬉しそうにウネンに微笑みかける。
 ウネンは理解した。今、自分は、ノーツオルスとして里の神に迎えられたのだ、ということを。
  
 うめき声とともに、ヘレーががくりと床に膝をついた。二人の兵士やルドルフ王も、壊れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
 性懲りもなく、マンガスが再び手搖鈴ハンドベルを取り出そうとした。
 だが、それと時を同じくして、扉の向こうから騒々しい物音が響いてきた。
「陛下! ご無事ですか!」
「大丈夫ですか!」
 幾つもの靴音が、謁見の間へ近づいてくる。
 マンガスが、愕然とした表情で首を横に振った。
「何故だ……人払いしていたはずだ」
「いやぁ、やっぱり、見事なまでに『拡声器』だったようだね!」
 モウルが弾むような声で、ウネンに話しかける。
 ウネンは、モウルの目配せに応えて上着のポケットから呪符を取り出した。マンガスの語りの隙を突いて、密かに起動しておいた一枚の呪符。あの力技の魔術師マルセルの術でモウルが作った、出来損ないの呪符だった。
「まさか、呪符まで使えるというのか!」
「教え方がいいからね」
 モウルが満面に笑みを浮かべた。
「大いなる炎がどうのこうののあたりから、国王陛下が助けを求める声、陛下の兵を私物化しているさままで、つぶさに拡散させてもらったよ。途中で手搖鈴ハンドベルを鳴らされた時には、泣きそうになったけど。あの一瞬、呪符の風を押さえ込むために、ちからを使い果たすことになったからねえ。あ、今も進行形で筒抜けだから、何か皆に言いたいことがあったら、是非どうぞ」
 モウルの得意げな台詞が終わりきらないうちに、扉をあけるのももどかしそうに、近衛兵や官吏が謁見の間になだれ込んできた。
「諦めろ」
 オーリがマンガスに向けて剣を構え直す。
 マンガスが、そっと目を伏せた。
「そうだな、この計画は、諦めるかな」
 兵達、捕り手が、マンガスを取り囲む。
 マンガスは、力無く両手を身体の横におろした。
 その手の中に滑り落ちてくる、一枚の呪符。
 次の瞬間、マンガスを起点に、恐ろしいまでの閃光が周囲にほとばしった。
 部屋の中は、またたく間に阿鼻叫喚の坩堝と化した。湧き上がる悲鳴に、唸り声。その場にいた全員が、目を押さえて苦悶する。今この時、誰もがマンガスに注目していた。彼が放った強烈な光は、皆の目をあまねく射抜いたのだ。
 ウネンは、耐えきれずに床に膝をついた。視界が真っ白に染まり、眼底がずきずきと疼いている。自分が今、目をあけているのか閉じているのかすら分からない。
 と、突然何かがウネンの身体を揺さぶった。
 何か、が、何者かの腕であることに気がつく間もなく、ウネンはそのまま抱えあげられて、物凄い勢いでどこかへ運ばれていく。
「わっ、えっ、一体何っ?」
 ウネンが上げた悲鳴を聞いたか、オーリが、モウルが、ウネンの名を呼ぶのが聞こえた。
 どうした、何が起こっている、何も見えない、あの野郎、ふざけるな!
 真っ白な視界の中、オーリ達の罵倒の声がどんどん小さくなってゆく。やがてそれらは、扉が閉まる重々しい音を経て、ぱったりと途絶えてしまった。