マンガスが大きく息を呑んだ。
気が遠くなるほどに長い沈黙ののち、彼は声に出して短く笑った。それから、両手を頭の後ろにまわし、白銀の仮面を外した。
ヘレーと同年代か、少しだけ若い、落ち着いた風貌の男がそこに立っていた。いつぞやペリテの町でモウルが「似ている」と漏らしていたとおり、あの音の魔術師を彷彿とさせる顔かたちだった。
「そんな、まさか……」
オーリが掠れた声とともに一歩後ろに下がる。
モウルが、視線をマンガスから外さぬままオーリに呼びかけた。
「正気に戻ったか、オーリ」
「……すまん」
オーリがぎりりと奥歯を噛み締める。
そんな二人をマンガスはゆっくりと見まわして、そうして感嘆の溜め息を漏らした。
「義理とはいえさすがは我が弟だ。この程度のまやかしでは見破られてしまうか」
「この部屋に入る前から、あなたがエレグ兄さんではないかと疑っていたよ」
なに? とマンガスが眉を上げる。
僕の考え過ぎであってほしい、って祈っていたのに。そう絞り出すモウルの声は、たとえようもないほど苦かった。
「よく考えたら、ノーツオルスを拷問にかけよう、って、何も無いところから出る発想じゃないからね。そこに至るためには、裏切り者が必要だ。そして、裏切り者がいるのならば、拷問なんてする必要はないんだよ。矛盾が生じている箇所を突き詰めると、残された解は一つきりだ」
ぐう、と、マンガスが呻き声を漏らす。
モウルの目が、つぅと細められた。
「ノーツオルスが、自らを里の外の人間に装うというのは、実に有用だ。演技を徹底することで、〈誓約〉を破る危険性をゼロに近づけることができるからね。僕らだって、そうやってヘレーさんを捜しまわったものさ」
ウネンはモウルの腕を支えながら、ああそうか、と内心で頷いていた。オーリ達と出会った時、彼らが「依頼を受けてヘレーを追っている」と言っていたことを思い出したのだ。
「姉さんはどうした。あんたは一体ここで何をしているんだ」
抜き身の刃 のごとき眼差しが、マンガスを貫く。
義兄と義弟は、真っ向からしばし睨み合った。
「ソリルは、死んだよ」
ぽつり、と、マンガスが呟いた。
モウルが、大きく目を見開いたのち、小刻みに首を横に振った。
「嘘だ。信じられない」
「ああ、嘘だったらどんなにか良いか」
マンガスが薄く笑った。まるで泣いているかのような笑みだった。
「ソリルは、もう、どこにもいない。それもこれも、全て里の神のせいだ……。だからこれは私の復讐なんだ。里の神は勿論、唯々諾々と神に従うばかりの里を、里の全てを無くしてしまおうと……」
ウネンの腕に掴まるモウルの手に、力が入る。
ウネンはモウルの顔を見上げた。
モウルが、ゆっくりとウネンに向かって頷いた。
「本当は、彼女が死んだ十五年前に、決着をつけるつもりだったんだ。なのに、ボロゥの奴が邪魔をするから……」
「お前が、ボロゥさんを殺したのか」
淡々と語り続けるマンガスに、オーリが静かに問いかけた。微かに震える声に、底知れぬ怒りを滲ませて。
マンガスは事も無げに「そうさ」と微笑んだ。越えてはいけない一線を、とうの昔に通り過ぎてしまった者の目をしていた。
「まあ、あの時は、奴を消せただけでも良かったけれどね。嗣 ぎ手 に逃げられたばかりか、次の候補までもが死んでしまって、長 様はさぞかしご心痛のことだろう。しからば、もう心悩まずにすむように、我々が、圧倒的物量をもって、里の長い歴史に終止符を打ってやろう」
熱に浮かされているかのように、マンガスは語り続ける。
オーリが眉間に深い皺を刻んだ。
「里の神は、里を守るためならなりふり構わないだろう。お前は本気で神に勝てると思っているのか?」
「勝てるはずなどないだろうね。だが、それでいいのだよ。大いなる炎が軍勢を焼き尽くせば、もう里は隠れてなどいられなくなる」
と、今まで呆然と会話を見守るばかりだったルドルフ王が、マンガスのこの言葉を聞くや、ひきつれた声を漏らした。
「そ、それはどういう意味だ。我が軍勢を焼き尽くすだと?」
マンガスは、嘲笑も露骨に王を振り返ると、殊更に慇懃な態度で腰を折った。
「流石は国王陛下。よもやこんなにも早く正気を取り戻されるとは、思ってもおりませんでしたよ。本当に、素晴らしい矜持をお持ちであらせられますな」
「質問に答えよ!」
王の、よく通る低い声が、壁に、天井にこだまする。
マンガスが、さも心外そうに両眉を上げた。
「申し上げたでしょう? 多少の犠牲はつきものだと」
「多少、だと? 神の炎に焼き尽くされることがか?」
「多少ですよ。何故なら、本当の闘いはそこから始まるのですから。神と、ヒトとのね!」
マンガスは、両手を振り開き、高らかに言い放った。
あまりのことに、王が戦慄 いて一歩あとずさる。
「さて、国王陛下には、今再び夢をご覧になっていただきましょうか」
マンガスが懐に手を入れるのを見て、王が、慌てて扉へ踵 を返した。
「誰か! 誰かおらんか! 誰か、この痴れ者を捕まえい!」
「おや、この私めのために、御 自ら人払いしてくださったことをお忘れですか」
オーリが動くよりも早く、マンガスがマントの下から響銅 色の手搖鈴 を取り出した。
リィーン、と、質量すら感じられる鋭い音が鳴り響く。
ウネンは咄嗟に両耳を塞いだ。
オーリもモウルも、ウネン同様耳を押さえて、歯を食いしばっている。
扉へ駆け寄ろうとしていた王の動きが、止まった。両手をだらりと身体の両側へ落とし、一切の表情が消えた顔で、その場で棒立ちになる。
「下地が無いとはいえ、三人揃って踏みこらえるとはね。痛い思いをさせたくはなかったのに」
肩で息を繰り返すウネン達を、マンガスが下目にねめつけた。
「それにしても、彼女の連れが君達だったなんて、まんまと騙されたな……。いや、見違えたよ。すっかり大きくなって。オーリなんて、こんなに小っちゃかったのにな……」
思いもかけず、マンガスの目元がそっと緩んだ。
「モウルも、まさか魔術師になれたとはね……。本当に驚いたよ。ずっとなりたがっていたもんなあ……」
懐かしそうに昔を語る口角が、次の瞬間に吊り上がる。マンガスは凄惨な笑みを浮かべると、一段低い声で囁いた。
「折角夢を叶えたというのに、ここで終わりだなんて残念だね」
マンガスが左手を振ると同時に、傍らの兵二人が同時に長剣を抜いた。
「お前達、こやつらを始末しろ。ただし子供は殺すな」
長剣を手にした二人の兵士は、表情一つ変えずに、じりじりと三人のほうへ迫りくる。
ウネンの手から杖をもぎ取ったオーリが、向かって左の兵士の前に進み出た。それを見て右側の兵が、挟みうちを目論んでオーリの側面につこうとする。
モウルが懐から呪符を取り出し身体の前に突き出した。
兵士達が怯む、その一瞬の隙を突いて、オーリが大きく前に踏み込んだ。いつぞやウネンに見せてくれたように、杖の先を相手の手元に突き入れ、剣を握る手をこじあける。
兵士の剣が床に落ちた。剣を拾おうと反射的に身を屈めた兵士の顔面に、オーリは躊躇うことなく膝蹴りを喰らわす。
兵士は鼻血を撒き散らして、後頭部から後ろへ倒れ込んだ。
オーリは兵士の剣を拾うなり、ウネンとモウルを振り返る。
一方モウルは、呪符を兵に突きつけたものの、そのままその場にへたり込んでしまっていた。
呪符が不発に終わったと見るや、兵は俄然勢いを取り戻し、剣の切っ先をモウルに向けて突進してくる。
オーリが、モウルの前に躍り出た。刃 で刃 を巻き、兵の攻撃を押さえ込む。
ふと目の端に動くものを捉えて、ウネンは左手に視線を向けた。
先刻オーリの一撃を喰らって倒れていた兵士が、むくりと上体を起こすところだった。
ウネンは慌てて床に転がる杖を拾い上げた。力無く座り込むモウルを庇うように、杖を構えてその前に立つ。
「悪い、ウネン。もう少し……、なんとかもう少し持ちこたえてくれれば……」
「解ってる」
ウネンは腹の底に気合いをためた。既に賽は投げられたのだ。あとは天命を待つべく人事 を尽くすまで。
「それにしても、可愛い子供が危機に陥ってるってのに、なにやってんだよ、ヘレーさん……」
「もう二週間以上も、その、フェなんとかっていう幻覚剤を吸わされていたわけだから……」
徒手の兵士はぼたぼたと鼻血を滴らせつつ、ウネンのほうへ迫りくる。
兵と鍔迫り合いを繰り広げるオーリが、剣と剣とがこすれ合う音に負けじと声を張り上げた。
「ウネン! あいつに、ヘレーに呼びかけろ!」
「え、でも」
前方の敵を警戒する一方で、ウネンはちらりとヘレーを見やった。
ヘレーは、先刻の場所から一歩も動かないまま、ルドルフ王と同じく棒立ちになっている。その虚ろな瞳は、地下牢でマンガスの手に落ちた時と寸分もたがわなかった。
あの時だって、ウネンはヘレーに呼びかけたのだ。何度も何度も、声の限りに。
遠ざかってゆくヘレーの背中を思い出し、ウネンは杖を両手で握り締めた。どうせ無駄だよ、との声が、喉のすぐそこまで出かかった。
「大丈夫だ!」
オーリの声がウネンの頬を張った。
オーリは、兵の剣を大きく跳ね上げながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫だ。ただし、今度は間 違 う な !」
ウネンは、ハッと息を呑んだ。
その刹那、オーリが微笑んだような気がした。
「遠慮するな。思いっきりいけ!」
オーリの声援で弾みをつけて、ウネンは胸一杯に息を吸い込んだ。腹の底にちからを溜め、全ての想いを声に乗せる。
「お願い、目を覚まして! お 父 さ ん !」
薄暗い広間の隅々に、ウネンの呼びかけが反響する。残響が那辺へ吸い込まれていくのと同時に、ウネンの手元で、目に見えない何かが音ならぬ音をたてて弾け飛んだ。
光の波はウネンのもとへ打ち寄せ、集まり、そうして今度は光る糸となって、ウネンとヘレーと繋ぎ合わせる。糸は更にウネンとオーリを、そしてモウルやマンガス――いや、エレグまでをも繋げると、一際眩しく輝いた。
やがて、遥か虚空から、新たな〈囁き〉が降ってきた。〈囁き〉と〈囁き〉は、互いに混じり合い、縒 り合わさり、大きな網を作り上げてゆく……。
光の網は、やがて空気中に溶け込むように薄れて消えた。
何が起こったのか、ウネンにはよく分からなかった。ただ胸の奥底に、ほんのりとした温もりが感じられた。なんだかとても懐かしくて、今にも泣き出してしまいそうな気分だった。
涙をこらえて周囲を見まわせば、兵の腕をねじり上げたまま呆然と立ち尽くしているオーリの姿が目に入った。その向こう側では、マンガスも、何かに強く心を奪われている様子でぼんやりと佇んでいる。
「ようこそ、ウネン。我らが里へ」
相変わらず床に座り込んだままのモウルが、嬉しそうにウネンに微笑みかける。
ウネンは理解した。今、自分は、ノーツオルスとして里の神に迎えられたのだ、ということを。
うめき声とともに、ヘレーががくりと床に膝をついた。二人の兵士やルドルフ王も、壊れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
性懲りもなく、マンガスが再び手搖鈴 を取り出そうとした。
だが、それと時を同じくして、扉の向こうから騒々しい物音が響いてきた。
「陛下! ご無事ですか!」
「大丈夫ですか!」
幾つもの靴音が、謁見の間へ近づいてくる。
マンガスが、愕然とした表情で首を横に振った。
「何故だ……人払いしていたはずだ」
「いやぁ、やっぱり、見事なまでに『拡声器』だったようだね!」
モウルが弾むような声で、ウネンに話しかける。
ウネンは、モウルの目配せに応えて上着のポケットから呪符を取り出した。マンガスの語りの隙を突いて、密かに起動しておいた一枚の呪符。あの力技の魔術師マルセルの術でモウルが作った、出来損ないの呪符だった。
「まさか、呪符まで使えるというのか!」
「教え方がいいからね」
モウルが満面に笑みを浮かべた。
「大いなる炎がどうのこうののあたりから、国王陛下が助けを求める声、陛下の兵を私物化しているさままで、つぶさに拡散させてもらったよ。途中で手搖鈴 を鳴らされた時には、泣きそうになったけど。あの一瞬、呪符の風を押さえ込むために、ちからを使い果たすことになったからねえ。あ、今も進行形で筒抜けだから、何か皆に言いたいことがあったら、是非どうぞ」
モウルの得意げな台詞が終わりきらないうちに、扉をあけるのももどかしそうに、近衛兵や官吏が謁見の間になだれ込んできた。
「諦めろ」
オーリがマンガスに向けて剣を構え直す。
マンガスが、そっと目を伏せた。
「そうだな、この計画は、諦めるかな」
兵達、捕り手が、マンガスを取り囲む。
マンガスは、力無く両手を身体の横におろした。
その手の中に滑り落ちてくる、一枚の呪符。
次の瞬間、マンガスを起点に、恐ろしいまでの閃光が周囲にほとばしった。
部屋の中は、またたく間に阿鼻叫喚の坩堝と化した。湧き上がる悲鳴に、唸り声。その場にいた全員が、目を押さえて苦悶する。今この時、誰もがマンガスに注目していた。彼が放った強烈な光は、皆の目をあまねく射抜いたのだ。
ウネンは、耐えきれずに床に膝をついた。視界が真っ白に染まり、眼底がずきずきと疼いている。自分が今、目をあけているのか閉じているのかすら分からない。
と、突然何かがウネンの身体を揺さぶった。
何か、が、何者かの腕であることに気がつく間もなく、ウネンはそのまま抱えあげられて、物凄い勢いでどこかへ運ばれていく。
「わっ、えっ、一体何っ?」
ウネンが上げた悲鳴を聞いたか、オーリが、モウルが、ウネンの名を呼ぶのが聞こえた。
どうした、何が起こっている、何も見えない、あの野郎、ふざけるな!
真っ白な視界の中、オーリ達の罵倒の声がどんどん小さくなってゆく。やがてそれらは、扉が閉まる重々しい音を経て、ぱったりと途絶えてしまった。