あわいを往く者

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九十九の黎明 第十二章 守りしもの

「書庫の魔女!」
 ウネン達は口を揃えて、驚きの叫びを発す。
「そんな名前だったんだ……」
「って、モウル達も知らなかったの!?」
「だって、『書庫の魔女』としか聞かされてないんだもん」
 モウルが唇を尖らせるその横で、ヘレーが血相を変えて船を仰いだ。
「船の神よ! 先ほどあなたは、〈かたえ〉が散れば神も散る、と仰っていた。すると、二千年もの長きに亘って同じ神がひとところに存在するということは、ありえないのでしょうか!」
『〈かたえ〉を持つ限りは、そうだ』
 神の返答を聞くや、モウルが「まさか!」と絶句した。
 ヘレーはモウルを振り返ると、大きく頷いてみせた。それから、オーリ、ウネン、と順に皆の顔を見まわした。
里長さとおさの引き継ぎは、単なる知識の継承だと言われていたが、あれもきっと真名まなを引き継いでいるのだ。里の神が消えてしまわないように。書庫を、知識を、守り続けられるように」
 すっかり血の気の引いたヘレーとモウルの顔が、魔術の灯りを映してやけに白く浮き上がって見える。
 湧き上がる嫌な予感を押し殺しながら、ウネンはモウルに問いかけた。
「ねえ、モウル、前に『真名まなとは存在の根幹を成すもの』って言ってたよね。『〈たましい〉の振動』だとも。それを引き継ぐってことは、引き継いだ人の〈たましい〉はどうなるの?」
「……神との繋がりを保持し続けなきゃならないんだから、引き継がれる者の真名まなで、引き継ぐ者の真名まなを上書きすることになるんだろうね。当然、〈たましい〉も書き換えられることになる。となれば、新しく里長さとおさになった者の〈たましい〉は、かけらも残らない。つまり……」
 モウルの声が微かに震えている。
 オーリが静かな口調でそのあとを引き取った。
「つまり、俺のひいじいさんの中身は、書庫の魔女その人だ、ということか」
「船の神よ、書庫の魔女のアクセス権とは、一体?」
 ヘレーがあらためて先刻の神の言葉を問う。
 神が淡々と答えを返してきた。
『今しがた、narangerelのIDでR1エントランスドアのロックが解除された』
「アイディって? アールワンって?」
 ウネンの質問を受けて、ヘレーが神の言葉を噛み砕いてくれる。
「ナランゲレルの名のもとに、この船の右舷一番前の扉の鍵が外された、という意味だ」
里長さとおさがここへ?」
 眉をひそめるオーリに、モウルが小刻みに首を横に振った。
「まさか。あの足じゃ、そんな……」
「違う」と、ヘレーが奥歯を噛み締めた。「おさ様ではない。エレグだ」と。
「船の神よ! 私を中へ入れてくれ。ナランゲレルのIDを使って、神を滅ぼそうとしている者がいる!」
 船に向かってそう叫んでから、ヘレーはウネン達三人を振り返った。
候補として特別に、里の移民船の神座かむくら――中央制御室――に招き入れられた際に、おさ様が仰っていた。現在稼働している源文明の機械は二つある、と。一つは里の移民船。そしてもう一つが、上空を回り続けている通信モジュールだ、と」
「通信モジュールが、生きている?」
 目を丸くするモウルに、ヘレーは「ああ」と頷いた。
「運と目が良ければ夜明け前や日暮れ後に上空に見えるだろう? 通信モジュールは、自動修復システムとエネルギープラントのお陰で二千年間ずっと生きている。電磁パルス砲がもう使えないとしても、高高度で船のエネルギープラントを爆発させればそれと同じ効果が得られるだろう。通信モジュールは大昔に司令船によってロックされてしまったとのことだったが……」
「どういうことだ」
 眉間の皺を深くさせるオーリに対して、ウネンは半ば自分のために、理解できた範囲でヘレーの言葉をまとめてみた。
「ええと、二千年前に神様を滅ぼそうとした〈空を往く機械〉がなんとか今もまだ生きてて、それを爆発させれば神様を滅ぼすことができるんだけど、〈空を往く機械〉は司令船からしか動かせない、ってこと?」
「そのとおりだよ」
『その里長さとおさというのが、ナランゲレルなのだな』
 ウネンとヘレーの会話に、神の声が割り込んでくる。
 ヘレーは、きっ、と船を見上げて、力強く頷いた。
「おそらく、そうです。あなた方と同様に、二千年間、真名まなを引き継ぎ続けておられます」
 ヘレーが語り終えるよりも早く、左方、船体に記された「RDOSS」のDの字の下方に赤い光が灯った。光のすぐ下には扉が見える。
『ゲスト用IDは、zochin。解除キーは、khuseltだ』
 ヘレーを先頭に、一同はそちらに向かって走り出した。
 至近距離で見る船は、とてつもなく大きかった。クージェやヴァイゼンの城さえも、すっぽりと中に収まってしまうに違いない。この大きさのものを全て金属で作るとすれば、一体どれぐらいの量の鉱石が必要なのだろうか。それを製錬するためには、どれぐらいの熱が、燃料が使われたのだろうか。想像すらできない世界に、ウネンは目が眩む思いだった。
 そもそも、こんな大きなものが空を飛ぶなんて、俄かには信じることなんてできやしない。竜巻を生む貝の物語のほうが、ずっと現実味のある話のように思える。
 だが、こんなとんでもない代物を、人類は遥か昔に作り上げたのだ。それも、神の手を一切借りることなく。
 これを作り出すまでに、人々はどれだけの知識を積み上げていったのだろう。どれぐらい長い時間をかけて。何人の人々の心血を注いで。この船だけではない。おそらく、この船を作るための道具や機械にも、相当な下地が必要のはずだ。それらをこつこつと組み立て、火を入れ、気が遠くなるほどの距離を渡って、人類はこの星へとやってきたのだ。
 まさしく、奇蹟だ。
 ここに来てようやくウネンは、源文明の復活を願うモウルの気持ちが理解できたような気がした。
  
 真っ先に扉の真下へと辿り着いたヘレーは、船体からコの字型に突き出た足掛に飛びついた。頭上の扉に向かって一直線に連なる足掛を、一段ずつ登ってゆく。
 次いでモウルが、そしてオーリに順番を譲られてウネンが、足掛に手をかけた。
『いつか、我々のあとを追ってやってくるであろう子供達のために、我々は文明を守らなければならない。どんな手段を使おうと。最後の通信で、彼女はそう言っていた』
 どこかしんみりとした口調で、神が語る。
 モウルが「最後の通信?」と空へ問いかけた。
『ガルトゥバートルは、古い知識を人々に手渡していくべきだと主張して、ナランゲレルと対立したのだよ。彼女を説得できなかった悲しみから、彼はほどなく他人との関わりを断ち、この森に隠棲したのだ』
 その時ウネンの脳裏に甦ったのは、国語教師のナヴィが語った昔話だった。書庫の魔女とともに人々を助け、邪竜との戦いののちに森の奥へと姿を消した、二つ名を持つもう一柱の神――
「森の賢者……」
『確かに彼は人々にそう呼ばれていた。そうか、彼は今もなお汝らの記憶に存在するのだな……』
 足掛は、扉のすぐ横を通っていた。ヘレーは扉の前に突き出た狭い足場に立つと、手慣れた様子で扉脇の小さな蓋をあけ、文字が記された鍵盤キーボードを、神に教わったIDとキーのとおりに押してゆく。
「中央制御室で、おさ様は、里の船で使用する命令語コマンドを教えてくださった。船を動かす仕組みシステムは司令船も移民船も共通だということも」
「それを、エレグ兄さんが響銅さはりりんで聞き出した、ってことですね」
 セキュリティの解除キーも一緒に。そう付け加えて、モウルが唇を噛む。
 微かな振動とともに扉がひらき、薄曇りの朝のようなぼんやりとした光が船内から溢れ出た。
 ヘレーが、モウルが、次々と中へと飛び込んでゆく。ウネンも彼らに続けて扉をくぐった。
 そこは、二メートル四方の小部屋だった。扉は、今入ってきたものと、対面にあるもう一つだけ。実用性のみを追求したような、のっぺりとした薄い灰色の壁、乳白色の床。天井に嵌められた四角い灯りが、どこかよそよそしい色味の光を振り撒いている。
 ヘレーとモウルは、既に正面の扉を抜けて通路へと駆け出していた。オーリに「行くぞ」と促され、ウネンも慌てて二人のあとを追う。
 入り口の部屋と同様、殺風景な景色がウネンの目の前に展開した。僅かな弾力を感じる床面は、何か樹脂の類で覆われているようだった。壁も……軽く触った限りは、金属が剥きだしというわけではなさそうだ。
『急いでくれ。くだんの人物は、われの制止に耳を傾ける気配が無い』
「彼を止めることはできないのですか?」
 走りながら、ヘレーが宙に問う。
くだんの人物は正規の手続きを経て船にアクセスしている。そして、われは船ではない上に、船はキカイであってヒトではないのだ』
 謎かけのような言葉の意味を問い質す間も無く、神は次なる指示をくだす。
『右手に階段がある。そこから二階上へ』
「分かった」
『階段を出て、右手奥の扉が中央制御室だ。くだんの人物はそこにいる』
 寸分の狂いもない直線と直角で構成された折り返し階段を、靴音も高らかに四人は駆け上がった。
 早くも息が上がってきたモウルとヘレーの間に、五段、六段、と、段差があいてゆく。
 ウネン達が目的の階に到着した時には、ヘレーの姿は既に廊下には無かった。右手のほうから扉のひらく音が聞こえ、間髪を入れずに「やめろ、エレグ!」の声が響いてくる。
 モウルとウネンを押しのけて、オーリが声のほうへと走った。
 ウネンも、モウルも、遅れじとあとに続く。
 扉をくぐった先は、見通しの良い広い部屋だった。ぐるりの壁には、闇を閉じ込めたかのような黒い鏡板が一面に張り詰められている。左右の向こう角には階段が一つずつ。吹き抜けの上階が夜陰に沈む。
 部屋の中央部分には、十はくだらない数の机が廊下に背中を向けて方形に並んでおり、全ての机上に、壁の鏡板とそっくりな四角い板が直立していた。それらの一番手前、右の端、他のものとは違って鮮やかに光り輝く鏡板を背景に、ヘレーがマンガスに掴みかかっている。
 マンガスは、酷く憔悴した形相をしていた。この寒さにもかかわらず、彼の額には幾つもの汗の玉が浮き上がり、しずくつたう頬には漆黒の髪がべったりと貼りついている。
〈誓約〉だ。ウネンは唇を引き結んだ。今まさに、あの、苛烈な苦しみが彼をさいなんでいるんだ、と。
「もうやめるんだ、エレグ! このままでは、君まで、ソリルさんのようになってしまう!」
「それで全てのかたをつけることができるのなら、本望だ」
 肩で息をしながら、黒髪を乱しながら、マンガスが笑う。
 オーリが剣を抜いた。「のけ、ヘレー!」と叫ぶや否や、二人に向かって走り出す。時を同じくして〈囁き〉が舞い、風の音がマンガスへと迫る。
 次の瞬間、新たな〈囁き〉が跳ねたかと思えば、マンガスの面前に突如として氷の盾が現れた。
 盾は、真っ向からモウルの風を弾き返し、衝撃でヘレーが二つ隣の机の前まで飛ばされる。
 オーリが突きを繰り出すも、剣の切っ先がマンガスの胸に届くよりも早く、水の球がオーリの胸元で破裂する。
「オーリ!」
 オーリが背中から廊下側の壁に叩きつけられるのを見て、ウネンとモウルの口から叫び声がほとばしった。
 マンガスは得意そうに口角を上げると、右手を軽く閃かせる。
 通気口と思しき連子れんじや床の継ぎ目から、水が細い糸となってマンガスの手元に集まってゆく。
 ウネンはベルトに挟んであった杖を身体の前に構えた。一撃は与えられなくとも、陽動ぐらいはできるはず、と、気合い一声マンガスへ突進する。
 鼻でわらう声とともに、水の塊がウネンの足元にぶつかってきた。見事に体勢を崩して、ウネンはあえなく転倒してしまう。
 しかし、マンガスの注意がウネンに向けられた、その僅かな隙を狙って、オーリが、モウルが同時に動いた。
 白刃はくじんがマンガスの喉笛へと迫る。
 風切り音がくうを走る。
 勝負が決した、と思われた刹那、マンガスの周囲で細氷が舞い立ち、オーリの身体がまたも壁まで吹っ飛ばされた。
「あぁ、もう、しつこいな……」
 心底面倒臭そうな表情で、マンガスが右手を閃かせた。
〈囁き〉が歌い、水の球がそれぞれオーリとモウルに襲いかかる。それらは抗う間もなく二人を壁に打ちつけると、氷の枷と化して彼らの手足の自由を奪い取った。
「しばらくそこでおとなしくしてくれたまえ」
 それでもまだ〈囁き〉と〈囁き〉はせめぎ合い、マンガスの周囲でひっきりなしに風刃が氷の盾を削ぐ。
 大きな溜め息ののち、マンガスが眉をひそめた。
「その子をここまで連れてきたということは、君達にも神に抗う心積もりがあったんじゃないのか? どうして、そう頑なに私の邪魔をするのだ」
 立ち上がり、杖を構えてマンガスの隙を窺っていたウネンは、この言葉を聞くや、ぎくりとして後ろを向いた。入り口の横の壁に磔にされたモウルのほうを、おそるおそる振り向いた。
「そんなことも分からないのかい?」
 不敵なモウルの問いかけに、マンガスが僅かに鼻白む。
 モウルの口角が、ついと引き上げられた。
「あんたのことが気に喰わないからに決まってるだろ」
「お前……」
 マンガスがこぶしを握り締める。だがすぐに彼は血相を変えると、やにわに背後を振り返った。
 モウルの口から舌打ちが漏れる。
 マンガスの視線の先、光る鏡板の前に立ったヘレーが、一心不乱に机の上の鍵盤キーボードに指を走らせていた。
 打鍵の音に合わせて、鏡板に文字が表示されてゆく。
 取り消しますか――はい
 接続を切りますか――はい
「邪魔をするなと言っている!」
 マンガスの叫びとともに、水の鞭がしなった。ヘレーの身体はすぐ横の壁まで打ち払われ、そのままオーリ達と同様、四肢をがっちりと氷で固められる。
「あなたは……あなただけは、を理解してくれると思っていたのに」
 ふらり、とマンガスがヘレーのほうに向き直った。
「我々の手に源文明が残されておれば、ツェウさんが死ぬこともなかったのに……。そう、あなたもと同じなのに。神とやらに振り回され、愛する者を奪われ……」
「私だって、現状を打破したいと思っているさ! だが、この方法はリスクがありすぎる!」
 氷で手足を壁に縫いとめられた状態で、ヘレーが咆える。
 マンガスが、そっと目を伏せた。
「ああ。我が神も、さっきから散々警鐘を鳴らしてくださっているよ」
「ならば、何故!」
 ヘレーの悲痛な問いかけに、マンガスは再び顔を上げた。そうして、どこか寂しげな笑みを浮かべて、腰の短剣を抜き放った。
「やめろ、兄さん!」
〈囁き〉とともに風が乱舞するも、マンガスの周囲にただ氷のかけらを散らすばかり。
 オーリが怒号を上げて枷を壊そうと試みるが、頑強な氷は軋みさえもしない。
 マンガスがヘレー目がけて短剣を振りかざす。
 ウネンは無我夢中でマンガスに向かって駆けだした。
「ヘレーさんを、殺させやしない!」
 冷ややかなまなこで、マンガスがウネンを振り返る。
 二人は、三メートルほどの距離をあけて対峙した。
〈囁き〉を〈囁き〉が迎え撃ち、細氷が宝石のように煌めきながら宙を舞う。
 氷の盾がマンガスの視線を遮った転瞬、ウネンは、オーリに教わったとおりに、間合いの外から一気にマンガスの懐へと踏み込んだ。
 ウネンのことを完全に侮っていたのだろう、驚きの表情を浮かべてマンガスが大きく一歩をあとずさる。だがウネンは、マンガスに間合いを取らせることなく、渾身の力を込めて杖で彼の手首を打った。
 金属質の音を立てて、短剣が床に落ちる。
 マンガスに拾われまいと、ウネンが短剣を遠くへ蹴り出そうとした時、「気を抜くな!」とのオーリの声が響き渡った。
 え、と思う間もなく、影がウネンに覆いかぶさってきた。腰のあたりに焼けつくような痛みが走り、両足から一気に力が抜ける。
 床の上にへたり込んでしまったウネンは、何が起こったのか解らないまま、茫然と顔を上げた。
 マンガスが、もう一つの短剣を握って、目の前に立っていた。