あわいを往く者

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九十九の黎明 役目

ネタバレが含まれていますので、第八章読了後にご覧ください。
  
  
  
   役目
  
  
  
 勢いよく小屋の扉がひらいたかと思えば、小柄な人影が荒い息とともに中にまろび入ってくる。
 オーリは夕飯の皿から顔を上げると、何の用だ、と問う代わりに眉間に皺を寄せてみせた。
「今日の狩りで、怪我した、って、聞いたけど……!」
 真っ青な顔のモウルが、栗色の髪を振り乱しながら、オーリに詰め寄ってくる。
「ああ」
 オーリは、ついと手元に視線を落とした。
 包帯でぐるぐる巻きにされた右手は、動きの邪魔にならないように三角巾で首から吊られている。この半年で随分身長が伸びたとはいえ、十二歳のオーリに大人用の三角巾はまだ少し大きく、結び目から垂れ下がる余った布が、襟の内側に入り込んでこそばゆい。
牙狗きばいぬに噛まれたって……」
「ああ」
「どんな具合なんだ?」
「骨も筋も無事だし、薬飲んで飯食って寝ればすぐに治るだろう、って」
 オーリの答えを聞くなり、モウルが大きく肩を落とした。「大事だいじ無くて良かったよ」と一度はしみじみと嘆息したものの、すぐに「いや待て」と顔を上げる。
大事だいじ無いことないな。右手って利き手じゃないか」
「丁度いい左手の練習になる」
 オーリの真顔の返答に、モウルがこれ見よがしに眉を寄せた。
「修行熱心なのは結構だけどさ、そうは言っても、食事の用意とか大変だろ」
「飯は、怪我が治るまでは里長さとおさのところの人が届けてくれる」
 ふぅん、と相槌を打ってはいるが、モウルの眉間の皺は深くなるばかりだ。
「そもそも、普段から里長さとおさの世話になればいいんだよ、実のひいおじいさんなんだから。下で一緒に住むのは無理でも、地上の庫務所に住まわせてもらうことだってできるんじゃないの?」
「俺は、ここがいいんだ」
 そう言ってオーリは周囲を見回した。
 里から逃亡した〈裏切り者〉の手掛かりを求めて、天井裏から床板までひっくり返されたかつての自宅と診療所には、今はオーリとは何の関係も無い医者の一家が住んでいる。かつて祖母が住んでいたこの小屋だけが、オーリに残された唯一の家族の思い出なのだ。
 しばしの沈黙ののち、またも大きな溜め息がモウルの口から漏れた。
「そもそも、オーリは無茶し過ぎなんだよ。どうせ今回だってそうなんだろ?」
「牙狗を狩り出すのが、おれの役目だったから」
「そんなの、大人の誰かがすべき仕事じゃないか」
 あきれたと言わんばかりにモウルが唇を尖らせる。
 オーリは思わず顔をしかめた。
「おれだってもう一人前だ」
「本当の大人は、自分で自分のことを『一人前』だなんてわざわざ言うもんか」
 上手い返しが考えつかず、オーリはただ唇を引き結ぶ。
「現に、君は今、こうやって怪我してるじゃないか。ちょっと背が伸びたからって、すぐ調子に乗るの、どう考えてもコドモの証拠だろ」
「うるさい」
 会話を終わらせようと視線を逸らせるも、モウルはしつこくオーリの視界の中に入り込んでくる。
「オーリさ、まさか自棄ヤケを起こしてるんじゃないだろうな」
 静かな声にもかかわらず、モウルのその言葉はぴしゃりとオーリの頬を張った。
「ヘレーさんの消息がロゲンで途絶えたって話だけど、単に、間抜けな追っ手がヘレーさんに出し抜かれた、ってだけじゃあ……」
「うるさい!」
 行き場の無い苛立ちを、左のこぶしが食卓に叩きつける。
 静まりかえった小屋の中、スープの椀がカタカタと空気を揺らした。
自棄ヤケなんて起こしていない」
 大きな深呼吸を一つして、オーリは立ち上がった。頭一つ分背の低いモウルを見おろし、抑揚を殺した声を吐き出してゆく。
「心配しなくても、怪我が治るまでは、おれは、狩りには出られない」
「別に心配なんかしてないさ。馬鹿だな、って思ってるだけだ」
 尊大な態度で鼻を鳴らすモウルをしばし見つめたのち、オーリはきびすを返した。
「馬鹿で愚かな無駄飯食らいの役立たずのことなんか、放っておいてくれ」
「あ、おい、晩御飯の途中じゃないのか?」
 慌てるモウルを捨て置き、オーリは無言で小屋を出た。
  
  
  
「いいか、皆。今度こそ連中を一匹残らずやっつけるぞ。前回は間抜けのおかげで、群れの半分を逃したからな」
 里の東に広がる森の入り口で、猟長である中年の男が、やいばのごとき視線をオーリに突き刺す。
 狩りの指揮者を務めるこの男は、五年前にヘレーが逃亡の際に殺害した薬師の実兄だった。「子供に罪はない」との里長さとおさのとりなしに渋々頷きはしたものの、彼が蛇蝎のごとくオーリを嫌っているということは、この五年の間に嫌というほど思い知らされている。
 オーリは平静を努めて、猟長の顔を真っ直ぐに見返した。
 猟長は、ほんの一瞬怯んだもののすぐに姿勢を正して、口元を憎々しげに歪ませる。
「何か文句でもあるのか? ええ?」
 肯定にしろ否定にしろ、オーリが何を言ったところで碌なことにならないのは、これまでの経験から明らかだ。オーリは黙って猟長を見つめ続ける。
 猟長が忌々しそうに鼻を鳴らしてから、居並ぶ男衆を見回した。
「やることは、いつもと変わらねえ。二人一組で森に入り、連中を一ノ沢へと追い立てるぞ」
 そうして猟長は次々と男達の名前を呼んでは、それぞれの持ち場を言い渡していく。
 最後の最後にオーリの名前が呼ばれるのを聞くや、一人の若者が異議を唱えた。
「彼一人でなんて、無茶だ。前回だってそれで怪我を……」
「前回は、こいつが勝手に先走ったのが悪かったんだよ」
 お前は俺達の先を行って、牙狗を狩り出せ。そう耳打ちする猟長の粘ついた声が、半月経った今でもまざまざとオーリの耳に甦る。
「だから、今回はこいつには二ノ沢で待機してもらうことにする。沢まで降りてきた他の組と一緒に、俺の組が待つ一ノ沢に牙狗を誘導する。それなら、安心だろう?」
「しかし……」
「なんだ、お前、こいつと組みたいのか?」
 猟長に睨みつけられ、若者がそっと口をつぐむ。
 オーリは黙って猟長を見つめ続けた。猟長以外の人間を見てしまわないように、敢えて視線を猟長から外さなかった。今しがたオーリの身を案じてくれた若者の立場をこれ以上悪くしないために、オーリができる唯一のことだった。
  
  
 森の中心部を流れる一ノ沢から、東に丘一つ越えた先にあるのが二ノ沢だ。
 平坦な河原の一ノ沢と違い、二ノ沢は、ごつごつとした大岩が幾つも転がっている足場の悪い谷だった。川面かわもを見下ろす斜面は両岸ともに崖と言うべき急勾配で、狩る者はおろか狩られるものも、気軽に降りてくることができるような場所ではない。
 前回のオーリの負傷は、猟長が期待していたほど彼の鬱憤を晴らしてはくれなかったに違いない。彼が声高にオーリの「勇み足」を吹聴すればするほど、自身の統率力にケチをつける羽目になってしまったからだ。
 だから猟長は、今回はオーリを「役立たず」に仕立てあげることにしたのだろう。狩場の外れに追いやって、「皆が頑張っている時に、あいつは一人ぶらぶらと遊んでいた」とでも言いふらすつもりなのだ。
 オーリは、軽やかな身のこなしで岩づたいに沢をさかのぼった。もう少し上流のほうへ行けば、左右の崖が崩れてなだらかになっている場所がある。誰かが獲物を追い立てて来るとすれば、その辺りしかない。
  
 河原に突き刺さる大岩の陰で待つことしばし。微かなざわめきが、どこか遠くから風にのってオーリのもとへと運ばれてきた。どうやら幾つかの組が獲物を狩り出すことに成功したようだ。
 果たしてこちらへはやって来るだろうか、と、オーリは息を詰めて一ノ沢の方角を見上げた。今すぐにでも加勢に行きたいところだが、持ち場を離れてしまえば、猟長に格好の餌を与えてしまうことになる。オーリは、手のひらに爪が食い込むほど、両のこぶしをきつく握り締めた。
 どうして俺の言うことが聞けないのか。流石は裏切り者の血を引くだけのことはある。自分勝手で、皆に迷惑をかけることを微塵も悪いと思っていないのさ。指揮者の命令に従わない人間なぞ、害悪にしかならない。邪魔だ、必要ない。
 ――必要ない。
 オーリは唇を噛み締めた。何故、おれは、にいるのだろうか、と。山盛りの憎悪と、取ってつけたような同情に埋もれながら、一体どうして、おれは……。
 そんなことをつらつらと考えていたから、いけなかったのだ。唸り声に気づいて背後を振り返ったオーリは、大岩を回り込んでくる、羊ほどの大きさもある一匹の牙狗を見た。
 上顎から喉元に向かって伸びる二本の長い牙は、まさに「牙狗」という名称に相応しい。その巨体を見るに、群れの親玉だろうか。背中から臀部に走る刀傷からぽたりぽたりと鮮血をしたたらせながら、劫火のごとき怒りを目に宿して、オーリに向かって飛びかかってくる。
 手負いの獣の鬼気籠もる咆哮が、オーリを圧倒した。ほんの刹那のたじろぎが、間髪を入れず絶望に置き換わる。
 防御しようと突き出した腕に、牙狗の爪が食い込んだ。
 景色がぐるりと半回転し、河原の石が背中を打つ。生臭い息とよだれを撒き散らしながら、オーリの面前で、死、が大きなあぎとを開く。
 次の瞬間、熱気がオーリの顔面を舐めた。
 今まさにオーリの喉笛を貫かんとしていた牙が、空に向かって跳ね上がった。苦悶の鳴き声とともに身体にのしかかる重みが消え失せ、肉の焼ける臭いが鼻をつく。
 驚いて上体を起こしたオーリは、火だるまになってのたうち回る牙狗の向こうに、呪符を掲げて立つモウルの姿を見た。
「お前……」
 モウルの栗色の髪が、べったりと汗で額に貼りついている。上気した頬といい、大きく上下する肩といい、どうやら相当急いでこの場に駆けつけてくれたらしい。
 オーリは、立ち上がるなり、先ずは目の前の牙狗に剣でとどめを刺した。それから、なんと礼を言ったものか、と、戸惑いながらモウルを見やる。
 オーリが何か言うよりも早く、モウルが険しい眼差しで口を開いた。
「前に君が言った『無駄飯食らいの役立たず』って、それ、僕に対する嫌味か」
 突拍子もない言葉に、オーリは思わず目を真ん丸に見開いた。二度三度とまばたきを繰り返し、一体何が言いたいんだ、と眉を寄せる。
「お前は役立たずじゃないだろう」
「オーリだってそうだ」
 モウルが即座に言い切った。
 オーリは、たまらずモウルから目を逸らせる。
「満足に役目を果たせないようじゃ、おれは……」
「無理な役目なんか役目じゃない。ていうか、そういうのは『嫌がらせ』って言うんだ」
 僕は詳しいんだ。そう鼻息も荒くモウルが胸を張る。
「オーリが言いにくいんだったら、僕が里長さとおさに言ってやる」
「やめてくれ」
「あんなクソ馬鹿に好き勝手言われて悔しくないのか」
 モウルの言葉に触発されるようにして、オーリの口腔内に苦いつばきが滲み出してきた。それを一息に呑み下して、オーリは奥歯を噛みしめる。
「おれは、裏切り者の……、人殺しの、子供だから……」
 往々にしてオーリに向けられる、冷たい視線。憎悪の発露が「嫌がらせ」程度で済んでいるのは、たまたま今の里長さとおさがオーリの曾祖父だからに過ぎない。
「それに――」
 ――それに、母親を死に至らせ、父親を罪に走らせて、それでもなお、のうのうと生き続ける理由が、一体どこにあるというのだろうか。
「解ったよ」
 モウルが大きく息をついた。
「オーリ、僕が、君に役目を与えてやる」
 殊更に尊大に、顎を突き出すようにして、モウルがオーリを見上げる。
「……役目?」
「君の腕前を見込んで、仕事を依頼しよう、って言ってるんだ」
「仕事?」
 話の行く先が全く見えず、オーリは目をしばたたかせることしかできない。
「ある人物の命を守ってほしい」
 モウルは、ほんの寸刻視線を宙に彷徨わせると、何かを思い切るように深呼吸を一つした。
「その人物とは、〈ヨーラス家のお坊ちゃん〉の友人だ。自分のことを役立たずだとか生きる価値が無い人間だとか言って、拗ねて、自暴自棄になって、馬鹿に言われるがままにホイホイ危険に身を投じる馬鹿の中の馬鹿だけど、〈お坊ちゃん〉にとっては大切な友人なんだ」
 モウルの口調があまりにも淡々としているものだから、彼が誰のことを話しているのか、オーリには一瞬理解できなかった。
 一拍遅れて彼の真意が染み通り、オーリの胸の奥がカッと熱くなる。
「〈お坊ちゃん〉は、根性がひねくれてて、性格も悪けりゃ底意地も悪いから、そいつしか友人がいないんだ。そいつが死んでしまったら……〈お坊ちゃん〉は一人ぼっちになってしまう……」
 話すほどに俯く顔を勢いよく振り上げて、そうしてモウルは、正面からオーリの目を覗き込んだ。
「だから、オーリ、自分を大切にしてくれ。僕の、たった一人の友人を奪わないでくれ」
 真剣そのものの眼差しが、オーリの眼底を貫き通す。
 と、その時、大勢の足音とともに「親玉はそっちか!」「大丈夫か!」との声が、丘の上から降ってきた。
 見上げれば、木々の遠くに数人の勢子の影が見え隠れする。
「依頼を引き受けてくれるのか、くれないのか、どうなんだ」
 わざとらしい仏頂面のまま、モウルが問うた。
 オーリは、静かに深呼吸をした。胸の奥に熾った炎は火勢を強め、今や全身を焦がすほどだった。
「……分かった。引き受ける」
 あまりの熱にのぼせそうになりながら、オーリは言葉を絞り出す。
 モウルが、これ見よがしに口角を上げ、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。
  
    * * *
  
「そこまで明確に自分の欠点を認識しているんだったら、少しは改善したらどうなんだ」
「生憎、僕は自分のこの性格が大好きなんでね」
  
  
  
〈 了 〉