あわいを往く者

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九十九の黎明 ありのままの

  
  
  
   ありのままの
  
  
  
 剣を握る時の気持ちは、明け方の空を見つめる時のそれと似ているかもしれない。まだ暗いうちから、井戸水を汲んだり豚に餌をやったり朝食の用意を手伝ったり、すべきことに追われてせわしなく動き回っていて、ふと、自分の指先の荒れ具合がはっきり見えるほど周囲が明るくなってきたことに気づいて顔を上げて、東の森の向こうからお日様の光が溢れ出すのを目にした時の、あの気持ち。
 あちこちで鶏達が大騒ぎしているはずなのに、不思議とどんな音も耳に入ってこず、まるでこの世界には自分一人しかいないのではないかとすら思える夜明けのひととき。藍色に橙が混じり、紫や緑が滲んでは薄れ、最後には一面の黄色で塗りつぶされてしまう空を見つめていると、時間の流れに置いていかれそうになる。
 練習用の木剣をそっと握り直しながら、イレナはゆっくりと息を吸い込んだ。昼下がりの裏庭、目の前にはイレナと同じく木剣を構える弟のアーモス。そう、今は夜明けではなく、ここにいるのはイレナ一人ではない。そして時の手綱を握るのは、他でもない、イレナの手にあるこの剣だ。
 アーモスの剣先が躊躇いを刻んだその一瞬、イレナはすかさず彼の間合いに踏み込んだ。イレナの突きを抑え込もうとする剣身を剣身で撫でるように巻き越え、左体側たいそくに追いやると同時に更に前進、右肘をアーモスの鳩尾に当てる。
 アーモスが「ぐえ」と情けない声を上げた。
「……肘ってアリなのかよ」
「あら、剣で思いっきり突いてほしかった?」
 イレナが敢えて意地の悪い笑みを浮かべてみせれば、アーモスが物凄い勢いで首を横に振る。そこに、下の弟デニスが「しっかりしろよ兄ちゃん」と駆け寄ってきた。
「姉ちゃんの動きに、全然ついていけてないぞ」
「偉そうに言うのなら、お前もやってみろよ」
「やだよ。兄ちゃんが勝てないのに、俺が勝てるわけないじゃん」
 アーモスは十五歳、デニスは十三歳。最近になってようやく背が伸び始めたアーモスに比べてデニスはまだまだ頼りないが、ああ言えばこう言うと口だけは達者だ。
 忌々しそうに舌打ちをしたアーモスは、誰もいない方角に向かって大きな溜め息をついた。
「だいたい姉ちゃんが強すぎるんだよ。お……」
 どうやら「女のくせに」とでも付け加えたかったようだが、アーモスはそれをすんでのところで呑み込んだ。
 良い判断だ、とイレナは何も聞かなかったことにする。
「そんなことないわよ。私だって、最初は下手っぴだったんだから」
「下手の度合いが違うんだよ」
 なあ、とアーモスに水を向けられ、デニスが「うん」と頷いた。
「背だってまだ兄ちゃんよりもちょびっと高いし、手足なんか俺らよりもずっと長いし」
「父さんだって『あいつは素質がある』ってずっと言ってたもんな」
 年齢差を差っ引いても、弟達に比べて確かにイレナは身体を動かすことが得意である。「娘は男親に、息子は女親に似る」と言う人がいるが、イレナ達はまさにその典型だった。
 イレナの父は、自分の血を色濃く引いているイレナに嬉々として剣術を仕込んだ。イレナ自身も、家の中で大人しく母や祖母の手伝いをするよりも、外で木剣を振り回すほうが断然好きだった。だが――
「ていうか、俺らが絶望的に剣術に向いていないんだよ」
 デニスが兄と自分とをひとまとめにして扱き下ろすが、悲しいかなアーモスにも異論は無いようだ。特大の溜め息一つ、恨めしそうな眼差しをイレナに向ける。
「いいよなあ、姉ちゃんは。父さんに期待されてて」
「は? 期待も何も、この間も『いつまでチャンバラごっこをやってるんだ』って文句言ってたじゃない」
 ――だが、イレナが十二歳を過ぎたあたりから、父親は「嫁の貰い手がなくなる」と彼女が剣をふるうことに反対するようになったのだ。三年前の地震のあとイレナがシモンと付き合うようになって、父親の剣幕も多少収まってきてはいたが、それでも事あるごとに「お前は女なんだから」と口煩いこと甚だしい。身勝手にもほどがある。
「でもさ、最近はそうかもしれないけどさ、小さい頃とか、父さんは俺らを放ったらかしで姉ちゃんを構ってばっかりだったじゃん」
 アーモスがいつになく寂しそうに零すのを聞き、イレナは慌てて両手を振った。
「だって、小さい時の二歳差って大きいわよ! 父さんはアムやデニが大きくなるのを待ってたんだって。それに正直なところ、あんた達はあまり剣術に興味がないみたいに見えたから、父さんも無理強いをしたくなかったんじゃないかな」
 そういえば、とイレナは何年か前の出来事を思い出した。父親のかつての衛兵仲間が子供を連れて訪ねてきた時のこと、彼は自分の息子がイレナほど剣術に熱心ではないことを酷く嘆き、イレナ達の面前で息子を悪しざまに罵りだしたのだ。
 翻って、父が弟二人にそんな仕打ちをしたことは、イレナの知る限り一度も無い。身勝手な父親だがそこだけは評価してやってもいいかも、とイレナは胸中で呟く。
 神妙な顔でイレナの話を聞いていたアーモスは、少しばかり決まり悪そうに傍らのデニスを振り返った。
「まあ、正直、好きってほどではないよな……剣術」
「うん……」
 はにかみつつ頷きあう二人を見ているうちに、ふとイレナは一つの可能性に気がついた。もしや父が弟達にあまりつらくあたらなかったのは、彼らが愛妻に似ているからだったかもしれないということに。
 父親への評価を「ただの身勝手な親父」に容赦なく差し戻す一方で、イレナは大きくため息をついた。私もお母さんに似たかったな、と。
 子供の頃、母の手鏡を初めて覗かせてもらった時、イレナは大きな衝撃を受けたものだった。弟二人が互いによく似た容貌をしていることもあって、自分も彼らと同じく、いや、自分は女なのだからきっと彼ら以上に母親とよく似た優しい顔立ちをしていると思っていたのに、そこに映っていたのは父親と同じ強い眼差しをした、実に勝気そうな女の子だったからだ。
 確かに、物心ついて以来「この子は将来美人になるよ」と言われることはあっても、「可愛いね」と言われたことはついぞ無かった。髪のまとめ方を工夫して女らしさを出そうとしても、水面に映る自分の目元や鼻筋はどうしても父親を彷彿とさせる。髪の毛を短くして服装を選べば、今でも男子のふりができるのではないだろうか。そこまで考えて、イレナは、今は旅の空の下にいる親友――ウネン――のことを思い浮かべた。
 短い髪とシモンのお下がりの服のせいで誤魔化されているが、ウネンの顔つきはとても優しい。表情豊かでぱっちりとした目に、すうっと通った鼻梁、主張しすぎない鼻、形の良い唇、そしてなにより、ついつつきたくなるすべすべの頬っぺ。髪の毛を伸ばして可愛い服を着せたら、あのダーシャ姫にも引けを取らないお姫様になれるだろう。
 王城での晩餐会で見た王妃様やダーシャ姫のドレスを思い出し、イレナはしばしうっとりと心を遊ばせた。あの時はイレナもウネンも平服で席についたが、もしもあんなふうな素敵なドレスを着せてもらっていたら。そして、御伽噺にあるような舞踏会に連れて行ってもらったら。
 シモンと踊る自分を想像する間もなく、ウネンの「こんな服じゃ動きづらいよ」という声が聞こえたような気がして、イレナは吹き出しそうになった。
「やっぱりウネンはウネンだよねえ」
「? 姉ちゃん、何か言ったか?」
 デニスと「チャンバラごっこ」をしていたアーモスが、怪訝そうにイレナを振り返る。
 イレナはにっこり笑って首を横に振った。
「別になんでもないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
 我が親友は、普通ではなかなか思いつかないようなことを、時々するっと口にしてくれる。その痛快さといったら、相手の胸元ど真ん中に突きが決まった瞬間のよう。
『背が高いってことは、それだけ遠くをよく見ることができるってことだよね。それに、やっぱり、すらっとしてるのは格好いいよ!』
 ウネンにそう言われるまで、イレナは自分の背が高いこともあまり嬉しく思っていなかったのだ……。
「格好いい、か……。悪くないわよね」
 イレナは、大騒ぎしながら木剣を交える弟二人を見やった。優しい顔立ち、小柄な体格。イレナは「女のくせに」だったが、彼らは「男のくせに」で嫌な思いをすることがあるのかもしれない。
 女だからとか、男だからとか、そういうのを気にせずに暮らしていけたらいいなあ。イレナがそう独りごちたその時、母屋の陰からシモンが姿を現した。腰痛の薬をイレナの父に届けに来てくれたのだ。
 イレナは弟達を捨て置き、一目散に彼のもとへと走った。
「ねえ! ウネンから連絡あった?」
「それ、昨日も訊いてただろ」
「連絡があるまで、毎日でも訊くわよ」
 やれやれ、とばかりに大きく嘆息して、だがそれでもシモンは毎回律義にイレナに付き合ってくれる。
「手紙をことづける相手を探すのも楽じゃないだろうし、そんな暇があったら先を急ぐだろ」
「まだヴァイゼンには着いていないのかな」
「親父が言っていたが、早くて二か月はかかるらしいからな。今頃、国境を越えたかどうかってところなんじゃないか?」
 遠いなあ、と呟いて、イレナは視線を畑地の向こうへ、北へとやった。
「無事だ、ってことだけでも、モウルが、なんかこうスゴイ魔術でヒュッと届けてくれないかな」
「物凄く恩着せがましい顔をしそうだな」
「そうそう。それで、こちらが真面目にお礼を言ったら、変に照れて微妙な言い訳をするんだよね」
「やたら早口でな」
 今は遠いあの三人の声が聞こえるようで、二人は顔を見合わせてしばし笑い合った。
  
  
  
〈 了 〉