煽り煽られ
迷いのない日差しが、足元にわだかまる雨の余蘊 を少しずつはがしていく。草原 を貫く街道は青空を映した水たまりで覆われ、人やロバが通るたび跳ねるように波打ってはきらきらと光る。
ウネンが王城に住み込みで働くことになり、今はその報告と引っ越しのために皆でイェゼロの町に帰る途中だ。
街道脇にちょうどいい木陰を見つけた一行は、頃合いなのもあってここで昼食をとることにした。伸び伸びと枝を伸ばした椎の木の周囲には、椅子にするのにちょうどよさそうな石が三つに、少し小ぶりな切り株が一つ。普段からここを通る人々の休憩場所になっているに違いない。まるでウネンのためにあつらえたかのような高さの切り株に、当人がちょこんと腰かける。
馬の背の荷物を整理していて出遅れたイレナは、ウネンのほうへ向かおうとして、切り株に一番近い石にオーリがそそくさと陣取るのを見た。
イレナは深呼吸を一つした。唇を軽く引き結び、もう一度ゆっくりと深く息を吐き出してから、ほかの石に――ウネンやオーリとは木の幹を挟んだ反対側になる位置に――腰をおろした。
昨日の町で調達した麦の穂パンは、焼き上げられてからまだ日が経っていないようで、スープにせずにそのまま食べることになった。
ちぎった穂の根本、柔らかい内相 があらわになった部分にかじりついたウネンが、幸せそうな表情で口を動かしている。お代わりは要るかな、塩漬け鰯は足りるかな、とイレナがウネンを気にしていると、隣の石に座っているモウルが、これ見よがしな溜め息をついた。
「そんなに彼女のことが心配なら、あっちに行けば?」
オーリと椅子を交換したらいいじゃない。あきれたような口調でそう続けたモウルに、イレナは思うさま眉間に皺を寄せた。
「別に、心配しているわけじゃないわ」
モウルが言う「心配」が、ウネンの食事量についてではないことは明らかだ。イレナは木の幹越しにオーリを見やった。
「気にならないといったら嘘になるけど……、でも、何かウネンと話したそうにしてたし、今は邪魔しないでおこうかな、って」
「へぇ、随分と信用してるんだね、オーリのこと」
皮肉でも嫌味でもなく、どうやらモウルは本気で驚いたらしい。目をしばたたかせる彼を見て、イレナは小さく肩をすくめた。
「そりゃあ、誰かさんとは違って、オーリには失礼千万なことを言われてないもの」
イレナがウネンを気にかけている理由として、「小動物を愛玩するみたいな」だの「自分の引き立て役が欲しいのか」だの放言したモウルを、イレナはまだ許してはいない。険しい眼差しを真正面からモウルにぶつければ、彼は僅かに顎を引いた。
「あー、まあ、あれは、オーリが種明かししたとおり、君の口を軽くしたくて、わざと神経を逆撫でしたわけでね。『怒り』は激しい情動だからさ、生じる隙 も大きいからね、それだけ動揺を誘うことができる、ってわけで……」
苦笑混じりに弁解を繰り出していたモウルが、一拍ほどの間、視線を逸らす。それから彼は再びイレナと目を合わせ、意外にも詫び言を口にした。
「あの時は失礼なことを言って悪かったね」
しかしモウルが見せた殊勝顔は、絵に描いたように見 事 す ぎ る ものだった。イレナの口から反射的に、冷ややかな声が零れ落ちる。
「悪口ってね、その人が言われて嫌だと思う言葉を使いがち、って聞いたことがあるわ」
「君、思った以上に、エグい煽り方してくるね……」
それも謝った相手に対して。と、今度は嫌味たっぷりな表情で付け加えるモウルに、イレナも負けじと対抗した。
「私は『子供』ですからね。口先だけで謝っとけばいいだろ、って思ってる人を相手に優しくするほど人間ができてないのでー」
「うわー、随分根に持つね……」
「お互いさまでしょ」
フンッと鼻を鳴らしたイレナは、その勢いのまま、もう丸一日以上も心の奥底でわだかまっていた不安を吐き出した。
「ウネンってば、せっかくお城で働けるようになったっていうのに、昨晩だってあんな難しい顔で考え込むばかりで……。正直、他人を小動物扱いしたり引き立て役にしたりする人間と、一緒にお城に行かせて大丈夫なんだろうか、って思うわ……」
深々と吐き出した溜め息が、頭上でさざめく木の葉擦れの音にかき消される。
モウルがやれやれと首を小さく横に振った。
「君の心配なんか知ったこっちゃないけどね、この僕が、悪口ひとつ言うのに自分の尺度でしかものを考えられないぼんくらだと思われるのは、すこぶる心外だね」
人間性にケチをつけられたことよりも「ぼんくら」のほうが嫌なんだ、と思いはしたが、イレナは何も言わずにおいた。
「何をどう言えば相手を怒らせることができるのか、お手本になるものなんて世の中に山ほどあるからね。わざわざ僕の中に在る悪意を引っ張り出すまでもなく、そのへんにごろごろ転がっているものから適当に見繕ってお出しするまでさ」
なるほどそういう方向で話をまとめるのか、とわかったものの、イレナは黙って話の続きを聞く。
「図星だったら取り繕うだろうし、誤解だったら弁解するだろうし、それで口が軽くなればいいって思ったんだけど、まさかあんな即座に殺意に転換されるとは思わなかったよ」
「つまりあの時の言葉は、あんたの本心とは全然関係なかった、ってこと?」
まわりくどい話をイレナが一言でまとめてみせれば、モウルが木漏れ日を纏いながら爽やかに微笑んだ。
「僕に引き立て役が必要だと思うかい?」
「あー、はいはい、まったくほんとうに、そうでございますわね」
イレナがげんなりとした表情で肩を落とした、その時、彼女が耳を疑うような言葉がモウルのほうから聞こえてきた。
「……それに、引き立て役なのは僕のほうだからね」
聞き間違いでもしたかと思い、イレナは勢いよくモウルを振り返る。
モウルは、自分の手元に視線を落としたまま、淡々と言葉を吐き出した。
「オーリは口下手だからね。あの厳つい外見も相まって、彼はどうしても悪い方向に誤解されてしまう」
話の行く先がわからずじっと耳を傾けるイレナに、モウルが口角を引き上げてみせた。
「けれど、君はオーリに好印象を抱いている。おそらくウネンだってそうだ。つまりね、僕が悪く思われるほど、相対的にオーリの評価が上がるんだよ。『誰かさんと違って失礼千万なことを言ってこない』という、僕がいなければ成り立たない理由で、ね」
さも名案とばかりに、モウルが得意そうに胸を張る。
イレナはゆっくりと息を吐いた。それから胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「呆 れた……」
怪訝そうに眉を上げるモウルに向かって、イレナは疲れ切った声を絞り出した。
「別に、あんたがわざわざ小さくならなくてもオーリはそのままで充分に大きいし、まだ足りないっていうのなら、あんたはオーリがもっと大きくなる手伝いをしたらいいんじゃない」
イレナが最後まで言いきらないうちに、モウルの口がぽかんと開く。
彼女は急に気恥ずかしくなって、組んだ足に頬杖をつくと、顔を背けた。
「……たとえ話は得意じゃないのよ」
「そうみたいだね」
いかにも「笑いをこらえています」というようなわざとらしい声が飛んできて、イレナは反射的に彼の顔を睨みつけた。
「だーかーらー、なんでそうやってすぐに他人の気持ちを逆撫でするのよ! そんなんだから反感を買うのよ!」
「他人からどう思われようが、知ったこっちゃないさ」
うっすらと毒の混じったよそゆき笑顔が、正面から全てを拒絶する。
イレナは腹立たしさを奥歯で噛み締めた。胸の奥のもやもやを吐き出そうとするが、かすれた唸り声にしかならず、どうしようもないままこぶしを握り締めたところで――、はた、とあることに気づく。
「あ、でも、さっき『あの暴言は本心からの悪口じゃなかった』ってくどくどと説明してくれたわよね。『他人からどう思われようが、知ったこっちゃない』のなら、何も言わなくてもよかったんじゃない?」
嫌味というよりも素朴な疑問を、思いつくままにイレナが口にのぼせば、モウルの手から麦の穂パンの欠片がポロリと落ちた。
「あ、うわ、しまった、手が滑った」
モウルは、とってつけたように「しまった、しまった」と繰り返すと、パンを拾い上げながらさりげなく体の向きをずらす。
自分がモウルの視界から外れるのを待って、イレナはにやりと笑みを浮かべた。モウルがパンを落とす直前に、彼の面 に一瞬だけ浮かび上がった表情を思い返して。
昨夜の宿でイレナはウネンに、オーリとモウルについて語る際に自分の弟達を引き合いに出していた。『あの二人ね、何かやらかして叱られたあとのウチの弟どもの様子と、そっくりなのよ』と。
どうやらそれは的を射た意見だったようだ。イレナはモウルに聞こえないように「ふふふ」と笑った。
〈 了 〉