あわいを往く者

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九十九の黎明 番外編 救出の夜

ネタバレが含まれていますので、第十章読了後にご覧ください。
  
  
  
   救出の夜
  
  
  
 がさりと薪が崩れて、暖炉が火の粉を吐き出した。大きく揺らめく炎に煽られ、焚き口のすぐ前まで押し寄せてきていた闇が身じろぐ。
 竈木かまぎのはぜる音が二度、再び部屋に静寂がおりた。時が過ぎる音すら聞こえそうな静けさが、夜陰を更に深くさせる。
 と、部屋の向こう隅、寝台の枕のほうから、小さな声が聞こえた。何か痛みをこらえているかのような、とてもか細い、苦しそうな声。
 窓辺に置いた椅子に腰かけていたモウルが、大きく息を吐いた。手慰みに弄っていた呪符を傍らのテーブルの上に置き、暖炉を挟んだ廊下側に目をやる。
「オーリ」
 闇がわだかまる扉の前に、周囲よりも一段暗い影があった。塔からウネンを救出した際の黒装束のまま、長剣を手に、微動だにせず椅子に座っている。
 モウルは、少し苛立たしげに、もう一度影に「オーリ」と呼びかけた。
 影は――オーリは、ただ一言、「なんだ」とだけ返した。
「なんとかしなよ」
「なんとか、とは、なんだ」
 そう応える間も、オーリは背後の扉やその外に注意を向けたままだ。再びウネンが連れ去られることのないよう宿を変えはしたが、相手が手練れの魔術師となれば、この程度の措置では全く油断ができないからだ。
 モウルが大きく溜め息をついた。
 寝台からは、依然として苦しそうな声が微かに漏れ聞こえてくる。
「『兄さん』なんだろ。可愛い妹が悪夢にうなされているんだ、なんとかしてあげなよ」
 そう言うモウルの声は、ひどくよそよそしかった。ついとオーリから視線を外し、室内で唯一の光源である暖炉をじっと見やる。
 一方オーリは、モウルの言葉を聞くなり驚いた様子でウネンのほうへと顔を向けた。耳を澄ますことしばし、寝息に混じる苦悶の色を聞き分け、大きく息を呑み込む。
『ぼく、ヘレーさんって、何度も呼んだんだ……。なのに、一度も振り返ってくれなくて……、返事もしてくれなくて……』
 最初は声を押し殺して、だが次第にこらえきれなくなって、やがて激しくしゃくり上げ始めたウネンは、そのままオーリの背中で眠ってしまったのだった。宿に着いて寝台におろしても、彼女が目を覚ます様子はまったく見られず、とりあえず朝までは寝かせておこう、とオーリとモウルは互いに頷き合ったのだ、が。
「一度起こしたほうがいいか」
「起きてしまうのならともかく、無理に起こすことはないだろ」
「いや、しかし」
 狼狽えるオーリに、モウルがこれ見よがしな溜め息を投げつける。
「頭を撫でるとか、手を握るとか、子守歌を歌うとか。安心させてやる方法なんて幾らでもあるだろ」
 背もたれに身を預け、やけに居丈高に言い放ってから、モウルは僅かに口元を歪めた。
「兄が妹を抱きしめてあげなきゃ、一体他に誰が彼女を抱きしめてあげられるっていうんだい?」
 親が子供を抱きしめてやらなければ。いつぞやのオーリの言を、モウルがなぞる。
 オーリの眉間に、皺が寄った。
「そんなことをしたら、起こしてしまうだろう」
たとえかそうじゃないかぐらい区別つかないかな?」
 君、馬鹿なの? と追い打ちをかけるモウルの、目が、つうと細められる。
「なんなら、僕が代わりに――」
 がさり、と薪が崩れる音がした。
 ぱちぱちと火の粉がはぜ、闇が揺らぐ。
 モウルが、深々と吐息を漏らした。
「――僕が君の代わりに外を警戒しておくから、さっさとウネンを落ち着かせてやりなよ、『お兄ちゃん』」
 そう言ってモウルはおもむろに腰を上げた。真っ直ぐオーリの前へと進みゆき、その椅子を空けろと左手をひらめかす。
 分かった、と言葉を返し、オーリは立ち上がった。剣を扉の横に立てかけ、黒闇を踏みしめ寝台のほうへと向かう。
 ウネンの枕元に立ったオーリは、たっぷり一呼吸の間、じっと彼女を見下ろした。
 それから、そっとその場に片膝をついた。
 暖炉の明かりもここまでは充分に届かない。闇に沈む毛布の陰、しかしオーリは、ウネンのすべらかな頬に、光る涙の筋を確かに見とめた。
 また、ウネンが、か細く呻いた。
 オーリは唇を引き結んだ。僅かな逡巡ののち、ウネンに向かってそうっと右手を差し伸べる。
 遠慮がちな手が、毛布ごしにウネンの背に触れた。無理に起こしてしまわないよう、優しく、とても優しく、小さな背中をたたく。
 毛布の塊が身じろぎしたかと思えば、呻き声がやんだ。浅く早く繰り返されていた呼吸が、オーリの手の動きに合わせるようにして、次第に落ち着きを取り戻していく。
 やがて穏やかな寝息が聞こえてくるようになるまで、オーリはウネンの背をとんとんとたたき続けた。
  
  
  
〈 了 〉