兄弟談義
北へ向かう徒歩の旅、宵闇に追い立てられるようにして入ったドラニーという町で一行は宿を決めた。すぐ南に大市で有名な商業都市があるからだろう、この町は規模の割に宿屋が充実しているようで、閑散期だったのも幸いし、三人は難なく望みどおりの宿を見つけることができた。表通りから一本だけ道を入った、あまり大きくはないが小ぎれいで、客層の悪くなさそうな宿屋である。
オーリとウネンを兄妹だということにして、部屋は一つ、寝台は二つ。寝藁は無し、毛布も自前、食事は全て宿の食堂でとる、という条件で幾らか値切りにも成功した。「滞在中、何かお手伝いできることがあれば遠慮なく言ってください」と付け加えたのも功を奏したに違いない、とモウルは先刻のやりとりを満足感とともに振り返った。どうせ必要な聞き込みを終えたらさっさと宿を引き払うのだから、この程度なら気前のいいことを言っても問題はない。
三人で力を合わせて寝台を一箇所に寄せ、雑魚寝の寝床を作ってから、夕食を食べに下へおりる。夫を早くに亡くしたという女将が切り盛りするこの宿は、別棟の一階に食堂があった。
厨房を預かっているのは、女将の弟夫婦とのことだった。子供好きらしく、ウネンの姿を見て「お嬢ちゃん、好物は何だい?」と二人して相好を崩している。
「なんでも大好きです!」とのイイ返事もだが、大真面目な顔で何度も頷くあの仕草が好感を引き出しているのだろう。こればかりは、二十歳を越えた男にはなかなか真似できるわざではない。自分ならどう反応するべきか、と考えつつ、モウルはオーリの隣、ウネンの斜向かいに腰をおろした。
「お兄ちゃんやお姉ちゃんって、色々と苦労が多いものなのかなあ」
パンを浸したスープを口に運びながら、ウネンが呟く。
モウルがチラリと横に目をやれば、オーリが物言いたげな様子でウネンを見つめていた。
「昼間のあの少年かい?」
このテーブルは、厨房に一番近い位置にある。兄妹設定を逸脱する会話は避けさせなければ。何気ない応答の裏で、そうモウルは警戒する
「んー、それもあるけど、そういえばコニャも送別会の時に弟くんや妹ちゃんのことをずっと気にかけていたなあ、って思って」
「親なり周囲の大人なりの手がまわらないのなら、身近な年長者が代わりを務めるしかないからね」
そろそろこのあたりで話題をウネンとオーリ自身に寄せて、設定を思い出してもらおうか。モウルが内心で居住まいを正すのとほぼ同時に、ウネンがパアッと輝くような笑顔を見せた。
「そうやって面倒をみてもらったから、あんなふうに『お兄ちゃん大好き!』ってなるんだね」
面白いようにオーリの動きが一瞬止まった、その時。
「『お兄ちゃん大好き』だって? とんでもねえ! あんな横暴な奴、誰が好きなもんか!」
横を通りがかった中年の男性客が、突然会話に乱入してきた。
「ほらほらお前、ちびっ子がびっくりしてるだろうが。酔っぱらうにはまだ早いだろ」
「酔ってねえよ。あまりにも聞き捨てならない言葉が聞こえたから、ひとこと言いたくなっただけだ」
連れの男に注意されても、兄嫌い男は主張をやめようとはしない。
「あいつのせいで、俺はずっと割を食ってばっかりだったし、挙句の果てにあいつは俺達に借金押しつけて逃げてしまいやがって……」
「うわ、酷い」
よせばいいのに相槌なんて打つものだから、兄嫌い男が完全にウネンの傍に足を止めてしまった。
「確かに、うちの兄貴もすぐに面倒なことを押しつけてくるもんなあ」
止めてくれていたはずの連れの男までもが、会話に参加しはじめる。
「そうそう、うちの姉ちゃんも、俺らに相談せずになんでも勝手に決めやがるし」
と、これは料理を運んできた食堂の主人だ。宿の女将の悪口になっているが、いいのだろうか。
「うちもだよ。あたしが何か言っても、姉ちゃんは全然聞いてくれないし」
「すーぐ威張ってくるんだよなあ……」
「子供の頃とか、言うこと聞かないつってすぐに叩いてきたしよぉ」
「年上だからって、いつもいつも一個余分にパンを食ってたし」
もうこうなったら場は簡単には収まらない。今この店には弟妹しかいないのか、と思いかけたモウルだったが、すぐに小さく首を振る。この状況に口を挟めば火に油を注ぐことになるのは自明の理だ、と。
悪口を言いたて合うほうはスカッとするのかもしれないが、延々と聞かされるほうはたまったものではない。さてどうしよう、とモウルがオーリと顔を見合わせていると、ウネンが難しい顔で口を開いた。
「ぼくだったら、弟や妹がいたら可愛がるのに……」
「坊主みたいに優しい兄貴だったらよかったなあ……」
ヨシこの調子で鎮火させよう、とモウルとオーリが頷くのと時を同じくして、「ちょいと。この子は女の子だよ」と宿の女将が登場した。どうやら一連の話をしっかり耳にしていたらしく、「あんた達、好き勝手に言ってくれるけどさぁ」などと火の傍で油の器をたぷたぷ揺らし始めている。
「そりゃあ中には性根がひん曲がってる奴だっているけどね、『弟や妹が生まれたら可愛がるんだ』って言う子は、今も昔も珍しくないだろ? でも、実際に下が生まれたら、子守りだのなんだの仕事が増えて、面倒ばかり背負 込まされて、それでご ん た (わがまま)なんて言われたら、手なり口なり出るってもんさ」
「くそっ、女将は姉御だった!」
「話にならねえ!」
さっそく「弟」連中が威勢よく噛みつく。
「言っとくけどね、下がなにかやらかしたら、それも全部『あんたお姉ちゃんでしょ、何してたんだい』って私が怒られてたんだよ」
女将のぼやきに応えるようにして、沈黙を守っていた「兄」が向こうのテーブルから声を上げた。
「下のために、つって早くに働きに出されてよォ、んじゃ、大きくなったら下が俺のために働いてくれるんか、つったら、全然そうじゃないしよォ……」
「そもそも、私ら『上』は、常に頭の片隅に『下』の存在を置いとかなきゃならなかったんだよ。そこんとこ解ってほしいもんだねえ」
「けどよぉ! ……」
「でもさぁ! ……」
「君にも義理のお兄さんがいたじゃない。お養父 上の息子さん。金の髪の」
「シモンは……イレナと似た感覚かなあ。お兄ちゃんっていうよりも、友達っていうのが近いかも」
「ふぅん」
女将達がこちらに注意を向けていないのをいいことに、モウルはウネンに語らせるがままにさせる。
「ダーシャ姫といた時は、妹ってこういう感じなのかな、って思う時もあったけど、でもほら、やっぱりお姫様はお姫様だから……」
考えを少しずつ言葉にしていたウネンが、そこでハッと目を見開いた。
「そうだ、オーリのところはどう? オーリは絶対にいいお兄ちゃんだと思うけれど、妹さんはどういう感じなんだろう?」
こいつは面白いことになったぞ、とモウルはすまし顔を作って横を見やる。
オーリがいつもの仏頂面で、訥々と言葉を吐き出していった。
「妹は……、うむ。元気、だな」
「仲はいいんだ? 兄弟がいて良かった、って感じ?」
「そうだな、妹がいて、良かった、と思う」
その刹那オーリが浮かべた微笑みに、言い知れぬ懐かしさと……、ほんの僅かの悔しさ――或いは羨ましさ――にも似た感情をかきたてられ、モウルは思わず唇を引き結んだ。
ウネンはといえば、今度はモウルに向かって屈託のない笑顔を向けてくる。
「じゃあ、モウルは? お姉さんと仲良かった?」
いつの間にか詰めていた息を静かに深く吐き出してから、モウルは殊更に軽い調子で肩をすくめた。
「前に言ったように、僕達には反目し合う理由がなかったのでね。歳が離れていたから、向こうがこちらを持て余してしまう可能性も大いにあったわけだけれど、幸いにも僕は平均的幼児よりも理知的だったので」
「それ自分で言うんだ」
即座にウネンから指摘が入る。打てば響くとはまさにこのことか。
「泣き虫の弟に結構手を焼いていたみたいだったがな」
オーリから目撃証言が飛び出してくるのも、モウルは折り込み済みだ。
「涙腺が多少緩くても、聞き分けがよければいいんだよ。姉さん本人にそう言われたし」
「うん、まあ、泣き虫な上にわがままだったら本っ当に大変だもんね……」
そろそろ外野も冷静さを取り戻し、いつしか場は反省会にも似た様相を呈していた。
「うちの子供達も、俺らみたいに『兄は酷い』だの『弟はズルい』だの思っているのかね……」
「うちなんて、たった二人だけの兄弟なんだから、いがみ合うなんてことしないでいてほしいねえ……」
「親なんてすぐにいなくなっちまうんだからよォ、兄弟で力を合わせて頑張らねえとだめだっていうのに……」
食堂の主人も、「よく考えたら、確かに姉ちゃんには随分と世話になったし、今もなってるんだよなあ」と顎をさすっている。
「よく考えるまでもないことだろ。……って、まあ、世話が焼ける弟だけど、なんだかんだ憎めないんだよねえ」
苦笑し合う女将達姉弟を見て、残る人々もいつしか口元をほころばせていた。
「言うて、お前んとこも、それなりに兄弟仲良くしてるじゃねえか」
「あんたんとこもな」
「いいや、俺は流されねえぞ! あんなクソ兄、絶対に、ぜーったいに許さねえからな!」
「はいはい、『中には性根がひん曲がってる奴もいる』って言ったろ? 運が悪かったねえ、ご愁傷さま」
食事を終え、部屋に落ち着いたところで、モウルはウネンに問いかけた。
「ウネンは、さ、もしも兄弟ができるなら、どういう感じがいい? 頼れるお兄さん? 優しいお姉さん? 優しいお兄さんでも頼れるお姉さんでもいいけど」
寝台に腰かけたウネンが、眉を寄せて可愛らしく小首をかしげる。
「どうして例に上がるのが上の兄弟ばかりなの?」
「下の兄弟よりも上の兄弟のほうが欲しくない? ていうか、さっき食堂で散々聞かされたとおり、下の兄弟なんて基本的に面倒くさいものじゃない。僕だって、オーリみたいな兄ならいてもいいかな、って思うけど、僕みたいな弟なんて絶対にごめんだよ」
「面倒くさい自覚あるんだ……」
間髪を入れず合いの手を入れてから、ウネンは視線を虚空に投げた。
「兄弟……うーん、具体的に想像できないや……」
夢見るように細められた彼女の目が、寸刻のちにいつもの強い光を宿す。
「どちらかといえば、やっぱり下の兄弟が欲しいかも! それで、思いっきり可愛がってあげるんだ!」
そう言って笑うウネンの、普段どおりの眼差しの奥、直前によぎった諦観の色。
「別にそこまで似なくてもいいのにさ」
「え? なにか言った?」
「この調子で兄妹のフリをよろしくお願いするよ」
怪訝そうに顔を見合わせるオーリとウネンを前に、モウルは小さく息をついた。
〈 了 〉