お菓子の日、の、お返しの日
どこか遠くで扉を叩く音がする。それから、微かな人の話し声。
そういえば、今日から冬仕舞いの市 が始まるんだった。きっと近所の人が母親を誘いに来たのだろう。テオは夢の中で合点すると、浮かび上がろうとする意識を抱え込んで、再び眠りの海に潜っていった。ぬるくて重い水を押しのけるようにして、どこまでも、どこまでも、沈んでゆく……。
「おい、テオ、買い物に付き合ってくれ!!」
底抜けに朗らかな大声と、部屋の扉をあける大音響とが、問答無用にテオの意識を引っ張り上げた。覚醒しきれないままに反射的に身を起こせば、つい数時 前に町の門で別れた相棒のマルセルが、満面に笑みを浮かべて寝台の横に立っている。
まだ靄のかかる頭をゆっくりと一振りしてから、テオは大きく溜め息をついた。
「それは、過酷な護衛の仕事をなんとか無事に終えて、十日ぶりにそれも夜中にやっと家に帰ってきたっていう人間を、日の出前に叩き起こして頼まなければならないことなのか。ていうか、お前は平気なのか。体力底抜けか」
魔術師のくせに頭脳労働が何よりも苦手なマルセルに、懇切丁寧におのれの非常識っぷりを突きつけてみるが、やはり彼はまったく聞く耳を持とうとはしない。
「早くしないと、目ぼしいものが売り切れちまうだろ!」
テオは再度大きく息を吐き出した。
「市 は明日もやってるだろ」
「今日じゃなきゃマズいんだよ! ほら、お菓子の日の、お返しの日!」
聞き捨てならない単語がマルセルの口から飛び出したことで、テオは思いっきり顔をしかめた。
「ん? どうした、テオ」
「お前……、まさか、貰ってたのか……。ああ、でも、確かにお前は、黙っていればそれなりに悪くない顔をしているし、体格もいいし、魔術師であるというのも……何も知らない人間なら、とても魅力的に思うかも……しれないが……、いや、それか、『好きな人』枠じゃなくて『お世話になった人』枠だとか……」
「何、ぶつぶつ言ってるんだよー。さっさと起きろよー」
誰に何を貰ったのか知らないが、浮かれるのは自分一人でやってくれ。テオはもう一度敷布の上に倒れ込むと、毛布を身体に巻きつけた。
「一人で行ってこいよ。俺は寝る」
「テオにも関係があるんだから、一緒に行こうぜ!」
「はァ?」
テオは渋々視線だけをマルセルに向けた。
「なんで俺に関係があるんだ? ていうか、お菓子の日って、確かその前の日からスヴェン達と一緒に山賊崩れを退治しに行ってたじゃないか。一体いつ贈り物を貰ったって言うんだ?」
「そりゃー、山賊退治の時にだよ」
「はァッ?」
驚いて身を起こすテオに、マルセルは淡々と話し続ける。
「いや、だからさ、あの時、スヴェンとお前で親玉を挟み撃ちにした時にさ、お前、もう少しで矢でやられるところだったろ」
連中を根城から狩り出し、崖の上に追い詰めた時のことだ。矢が空を切る音を耳元に聞いた瞬間の、腹の底が一瞬にして凍りついたかのような感覚を思い出し、テオは知らず唇を引き結んだ。
「ああ。……その、なんだ、あの時は助かったよ……」
「いや、それが、俺じゃねーんだわ」
「はァッ!?」
眠気もどこへやら、テオはマルセルに詰め寄っていた。
「お前じゃない、って、それ、どういう……」
「いやさ、あの時、お前を弓で狙ってる奴がいる、って気がついて、いつもどおりに風をビュンッてしたわけよ。けど、ちょっぴり出遅れてさ、そいつが吹っ飛んだ時には、矢は既にお前に向かって飛んでってしまってたんだ」
その時のことを思い出しているのだろう、マルセルの表情が悲痛に歪む。
「ああもう間に合わねえ、テオがやられてしまう、って、俺ぁ目の前が真っ暗になってさ、思わず心ん中で『助けてくれ!』って叫んだんだよ。『助けてくれ、ばあちゃん!』って。 んじゃ、お前の背中のギリギリんところで、矢がヒュッて逸れてくれたんだよ!」
一転して、喜びにパアッと顔を輝かせて、マルセルが両手を大きく振り広げた。大きな柄をしていながら、こういうところは――いや、こういうところ「も」だ――子供とまったく変わらない。
「帰りにヴィーリの奴が『今日はお菓子の日だ』って言ってるのを聞いて、あれはきっとばあちゃんから俺達への贈り物だったんじゃないか、って思ってさ……。だから、お前も一緒に、ばあちゃんの墓に供えるもの買いに行こうぜ!」
曇りのない笑顔で、マルセルがテオの顔を覗き込んでくる。
テオはそっと視線を伏せると、少し大げさに「やれやれ」と肩をすくめて、寝台から立ち上がった。
* * *
「おー、レヒトじゃねーか。こんな早くに珍しいな!」
マルセルが、道の向こうに大きく手を振る。
朝靄にけぶる大通り、冬仕舞いの市 が立つ中央広場に向かっていた二人は、古道具屋のレヒトに出くわした。
「マルセルにテオ! もしかして君らもお菓子の日のお返しを買いに?」
道を渡って傍までやってきたレヒトがそう言うのを聞き、テオは胡乱な眼差しを彼に投げる。
「『君らも』って、まさかレヒトも……」
「なんだよ、テオ。そんな疲れ切ったような顔をして。寝不足かい?」
まあね、とテオが頷くなり、レヒトが、待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。
「それじゃあ、目覚まし代わりにここは一つ、今日の日に相応しい、愛と感動の物語をしてあげよう!」
「いや、要らないし」
テオが速攻でお断りを入れるも、やはり彼もまったく聞く耳を持とうとはしない。
「覚えてるかな。今年の『お菓子の日』はかなり寒かっただろ。奥の暖炉の火を強めにして、店番しながらちょくちょく様子を見に行ってたんだけど、何度目かに店に戻ってきた時に、カウンターの上に見慣れない包みが置いてあるのに気がついたんだ。
そう、折しもこの日はお菓子の日。好きな人やお世話になった人に、主に女性が贈り物をする日だ。もしや。いやいやまさか。そうドキドキしながら俺が袋をあけると、甘くて香ばしい匂いがふわっと辺りに漂った。果たして、袋の中には焼きたてのお菓子が七つ八つと入っているじゃないか! 母さんや姉さん以外からお菓子を貰ったのは初めてだったから、そりゃもう嬉しくってさ。
ところが、だよ。送り主を示すものが何もない。手紙も、書きつけも、手掛かりになりそうな印も、何にも、だ。誰がくれたか分からないお菓子を食べるのって、ちょっと躊躇わないかい?」
立て板を流れ続ける語りが、ふと途切れ、レヒトのキラキラと輝く瞳が二人の聴衆を順に見やる。
「……ああ、うん。マルセル、君はそうだろうさ……。……そうだよな、テオ、やっぱりちょっと不安になるよな?
美味しそうな焼き菓子を手に、俺はしばらくの間どうしたものかと悩んでいた。悩みながら、なんとなくそのお菓子を二つに割ってみた。すると、お菓子の割れた部分から、なんと、女の子の声が聞こえてきたんだ! 『美味しく作れるかな』って。
俺は驚いて、もう一つのお菓子も割ってみた。今度は『上手く焼けるかな』って声がした。ちょっと不安そうに、でも、とても嬉しそうに、生地を捏ねる微かな音と一緒に、ね。
ああそうか。俺は合点した。このお菓子を作った子は、生地の中に周りの音も一緒に練り込んじゃったんだ。
俺はその子の手掛かりが欲しくて三つ目のお菓子を割った。そのお菓子には『ちゃんと伝えられるかな』って声が入ってた。更に続きを聞こうと俺が四つ目のお菓子を手に取った時、突然、店の扉が勢いよく開いたんだ。
入り口には、赤色のおさげの、とっても可愛い女の子が立っていた。女の子は、俺を見るなり、頬を赤く染めて俯いた。
『あのぅ、私、手紙を入れ忘れて……』
お菓子から聞こえてきたのと同じ声だ。つい手に力を入れてしまった俺は、持っていたお菓子をうっかり割ってしまった。
『私、あなたのことが――』
お菓子から響く自分の声を聞いて、女の子は目を見開いた。そして、耳まで真っ赤になって、『聞かないで!』と顔を手で覆ってしまった。
『うん、聞かないよ』
俺の返答に、女の子は愕然とした表情で顔を上げた。だから俺は、にっこり笑ってこう続けたんだ。『君の口から直接聞かせてほしい』って。――どう、ロマンティックな話だろ?」
本職の講談師も顔負けの、よどみのない物語り。途中からすっかり聞き入ってしまっていたテオは、返事も忘れてその余韻に浸るばかり。
と、傍らに「へえー、偶然だな!」とのマルセルの声を聞き、テオはようやく我を取り戻した。一体なにごとか、と隣を見やれば、マルセルが真剣な表情で顎をさすっている。
「俺の母ちゃんも、いつも世話になってるから、つってレヒトん店にお菓子持ってって、で、袋に手紙入れ忘れた、って、あとから慌てて持ってったって……」
マルセルの言葉を聞くや、得意げだったレヒトの顔がみるみる萎れていった。
「そうだよ、本当は小母さんだったよ! でもさ、少しぐらい夢見たっていいだろ……」
「あー、なんか、その、すまん……」
「ま、話は面白かったよ」
靄が薄れゆき、前方から人々のざわめきが聞こえてくる。
溜め息を道連れに、三人は大通りを歩き続けた。
〈 了 〉