柱くくる冠
兄達に見つからないように、慎重に、アイシャは門から少し離れた場所にある柵を乗り越えて外に出た。年に一度しかやって来ない西の隊商が到着したというのに、父や長兄に「お前は出ていくな」ときつく言われてしまったからだ。表階段の前では長兄の部下がは ね っ か え り の我が儘を警戒していたが、彼女は裏通りを駆使してその裏をかいた。はねっかえりの底力を甘く見てはいけない。
草を食 む羊やヤギに紛れて門前広場を窺えば、隊商の馬車や瘤馬 が所狭しとひしめいている。石を積み上げて造られた門の前では、隊を取り仕切る商人と長兄が言い合いをしていて、長兄の後ろには次兄と町の若衆が四人。いったい何が起こっているんだろう、とアイシャは物陰に隠れ隠れ彼らのほうへ近寄っていった。
「なんで今回に限って家町に立ち入り禁止なんですかい」
「いつも幕町の隊商宿で不自由していないだろう」
「そりゃあそうなんですが、新顔にデラフを見せてやりたくてさあ」
食い下がる商人の鼻先に、長兄が「ほらな」と人差し指を突きつける。
「半年前にカプルがナマクに襲撃された。ジョカの冬営地もややこしいことになっていると聞いている。そしてお前はナマクと仲がいい」
「こりゃ驚いた、間者扱いですかい。俺だけでなく、あいつまで?」
あきれたという表情で商人が「リース!」と背後を振り返れば、馬車と瘤馬の陰から一人の子供が姿を現した。
「こんな頼りない坊主を怖がるとか、若様らしくありませんなあ」
長兄が一瞬言葉に詰まったのを馬車の陰から見て、アイシャはちょっぴり愉快に思った。ふふん、と鼻を鳴らしつつ、商人達の顔がよく見える位置を探す。アイシャとそう変わらぬ背格好をした「新顔」のことがとても気になったからだ。
「こいつは仕入れの時に山向こうで拾ったんでさあ。痩せっぽっちで行き倒れていてね。ナマクと関係なんざあるわけないでしょう。ほらリース、デラフの若様達だ、ご挨拶しな」
いやしかし、と眉を寄せる長兄にも怯まず、リースと呼ばれた少年は元気よくぴょこんとお辞儀をした。
「初めまして! ダゥダの旦那様の所でお世話になっています、〈色なし〉のリースです」
その瞬間、周囲の空気がひび割れたようにアイシャには感じられた。どういうつもり、と彼女が唇を噛むのとほぼ同時に、商人の怒号が辺りに響き渡る。
「この馬鹿野郎!」
商人のこぶしがリースの頬に叩き込まれ、彼は後方に吹っ飛んだ。
「きゃあっ」
アイシャが思わず漏らした悲鳴を聞いて、長兄達が「アイシャ?」「姫さん!」と口々に声を上げる。
「お前はくるなと言っただろう! くそっ、ウェイルの奴は何をしてたんだ!」
「そんなことよりも、大丈夫!?」
乾いた砂の上に横たわるリースを、隊商の面々が遠巻きに見つめている。心配に思って駆け寄ろうとしたアイシャの前に、商人が慌てて立ち塞がった。
「申し訳ありません、姫様。こいつがとんだ失礼を……」
「でも、あんなに殴ることはないでしょう? まさか死んじゃったのじゃ……」
慌てて背後に目をやった商人が、「いや、大丈夫です、気を失ってるだけです」とアイシャをなだめる。
「お前はもう戻れ」と肩に置かれた長兄の手を、アイシャは勢いよく払いのけて、それからキッと兄達を見まわした。
「まさか怪我人をこのまま放っておくつもりなの?」
「あっちが勝手に仲間割れをしたんじゃないか。それに自分達で対処できるだろう?」
先ほどまでよりも歯切れの悪い口調で、長兄が商人に目をやる。しかし商人は決まり悪そうな表情を浮かべると、肩をすくめた。
「いや、それが、今ちょうど薬を切らしてしまってましてな……。ま、この程度なら一晩寝かせておけば翌朝には元気になってるでしょうが……」
舞い立つ砂ぼこりや照りつける日差しの中、リースはピクリとも動かない。
「兄様!」
アイシャの剣幕に、長兄が大きく天を仰いだ。
微かな唸り声とともに、額に載せた濡れ手拭いが枕の上にずり落ちる。瞼が開 き、夜明け前の空のような深い藍色の瞳にアイシャの顔が映り込む。
「先生! 目を覚ましたわ!」
明るい窓辺の座卓に向かっていた医者が、よっこらしょ、と腰を上げて蓐 に横たわるリースのほうへやってきた。身を起こそうとするリースを手振りで押し留 め、医者は枕元に腰をおろす。
「どれ、頭のほうは大丈夫そうか。纏布 が無かったら大変なことになっていたかもしれんな。頬はこれからまだもう少し腫れるだろうが、顎や歯は問題なし、裂傷もなし。運が良かったな、坊主」
頬の湿布を貼り直した医者は、「起き上がってもいいが、しばらくは安静にな」と言い置いて、元いた座卓へ戻っていく。
「あの……ここは……」
おそるおそる上体を起こすリースに、アイシャは待ってましたとにじり寄った。
「ここはスビ先生の診療所よ。私はアイシャ、さっき上であなたを睨みつけていたファテ兄様の妹で、あそこにいるのが二番目の兄様のサミー」
窓辺に座る医者の右方、出入り口の土間に立つ次兄が「どうも」と会釈する。
「上?」と呟くリースに構わず、アイシャは更に身を乗り出した。
「いったいどういうつもりだったの?」
「え?」
「〈色なし〉って言ったでしょう?」
目元を険しくさせるアイシャとは対照的に、リースはきょとんと目をしばたたかせた。
「え? いや、隊の皆 が僕のことをそう呼んで楽しそうにしてたから、ここの人とも仲良くなれたらなと思って、それで……」
リースが喋り終えるよりも早く、アイシャは勢いよく次兄を振り返った。
「ねえ、今の聞いた!?」
小さく頷く次兄の眉間にも、深い皺が刻まれている。
「あっきれた! あのね、ダシュティで〈色なし〉っていうのはひどい悪口なのよ」
憤懣やるかたなく鼻を鳴らしたアイシャは、深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、未 だまばたきを繰り返すリースに語りかけた。
「ダシュティは髪色の濃い人が多いでしょう? そういう人が、髪の色が薄い人を馬鹿にして言うのよ」
しばし呆然としていたリースだったが、ほどなく我を取り戻し、次いでアイシャと次兄に視線を走らせる。アイシャは苦笑を浮かべつつ、おさげに編んだ茶色の髪を体の前に持ってきた。
「デラフは薄めが多いのよ。ご先祖様が山向こうから来たっていう話もあるみたいでね、なんと、ひいひいひいおばあ様なんて黄金 色の髪をしていたらしいのよ! びっくりよね!」
身振りもつけて少しだけ大袈裟にそう言えば、リースの面 から気まずそうな色が引いていく。
「あなたの髪も、とても綺麗ね。西の山の冠になったお日様の色だわ」
「あ、ありがとう、ござい、ます……」
怪我の影響か赤い顔をして、リースがもじもじと礼をする。それから彼は、躊躇いがちに上目遣いでアイシャを見た。「あの、あなたの髪も……」と、何かを言いかけて、アイシャの後方に――次兄のいるほうに目をやって、慌てた様子で姿勢を正す。
「ええと、じゃあ、僕、さっき、あなたがたにすごく失礼なことを言ってしまったんですね。ごめんなさい」
彼の眼差しは気持ちがいいぐらいにまっすぐで、アイシャは知らず顔をほころばせていた。
「大丈夫よ! ちょっとびっくりはしたけれど、知らなかったのだから仕方がないわ。それに、『言いたい奴には言わせておけばいい』だっけ? 兄様達なら気にしないもの」
ね? と水を向けられた次兄が、すまし顔で肩をすくめる。
「あー、まあ、デラフが羨ましい、って連中の鳴き声みたいなもんだしな。デラフにはデラフがあるからな。俺達と喧嘩をして困るのは外の奴らのほうだ」
「デ、デラフ? デラフに、デラフが?」
物慣れないリースの様子がとても微笑ましい。
「デラフはダシュティの古い言葉で『木』という意味よ。部族の特徴がそのまま名前になってるの。わかりやすいでしょ?」
「木……?」
予想どおりにリースが戸惑うのを見て、アイシャはもう我慢ができなくなった。腰を上げながら「こっちに来て」とリースの腕を引っ張る。途端に医者から「安静に」と咎める声が飛んできて、彼女は悲しそうに眉を寄せた。
「廊下に出るだけでも駄目かしら」
「俺が支えてゆっくり歩けば、どうですかね」
次兄のとりなしに、医者が「とりあえず立ってみて、眩暈がするかどうかだな」と溜め息をつく。
「……大丈夫、です」
「少しでも変な感じがしたら、早急に横になるように」
靴を履き扉をあけて、三人は部屋を出た。前方にせり出す上階の床が逆光を受け、対比で正面の空が真っ白に輝いて見える。
乾いた砂に覆われた地面が、数歩先で木製の床板に切り替わった。更に一歩、二歩、足元にくっきりと落ちる影から出て、行く手を遮る手すりの前に立ったリースは、言葉も無く目を見開いた。
眼下には、この辺りでは見かけることなどない青々とした森が広がっていた。刺すような日差しをものともしない、瑞々しくて深みのある緑。
視界を埋め尽くすように生い茂る木々にも、果 て はあった。今アイシャ達が立っている木で造られた廊下が、多い所では上下に七つも層を重ねる廊下が、そして廊下が貼りついている切り立った崖が、ぐるりと森を取り囲んでいる。その高さおよそ三十ザルゥ。アイシャの身長が一ザルゥ半もないことを考えると、気が遠くなるほどの雄大さだ。
そう、デラフの集落は、断崖絶壁に囲まれた巨大な真円形の窪地にあった。周囲をめぐる岩壁をくりぬいて住居を作り、木の回廊や階段などでそれらを繋いでいるのだ。
「びっくりした?」
アイシャが悪戯っぽくリースの顔を覗き込む。
リースが、こくこくと首を縦に振った。
「穴が深いおかげで、底に地下水脈が露出しているんですって。だから、こんなにも豊かな森があるの」
「森もだけど……、家もすごい。こんなに大きな足場? 廊下? も、見たことない」
溜め息交じりのリースの言葉に、アイシャはすっかり得意になって、両手を腰にあて胸を張った。
「これがデラフの家町よ」
「家町?」
「そう。上のは幕町っていって、あそこの天幕は隊商宿や取引所になっているの。あと、家畜の夏営地でもあるわ」
目を輝かせて説明に聞き入るリースを前に、アイシャは思うさま頬を緩ませた。
日が落ちる前に、アイシャと次兄はリースを地上へ送っていった。表階段の終点である門の前では主人である商人が彼を待ち構えていて、餌を啄む鶏のように頭を何度も下げては恐縮していた。
来た道をくだりながら、次兄が大きな溜め息を吐き出す。アイシャはここぞと彼に問いかけた。
「いったい何をずっと気にしていたの?」
「気づいてたのか」と次兄が顔をしかめる。アイシャが「当たり前じゃない」とあきれてみせると、次兄は渋々といった調子で口を開いた。
「あいつ、ダゥダに殴られた瞬間に、小さく後方に飛んだような気がしたんだよな」
「それはどういうこと?」
「咄嗟に衝撃を逃がすように動いた、ってこと」
「つまり、何もしなかったらもっとひどい怪我になってた、ってこと?」
次兄は面食らったように二度三度とまばたきを繰り返し、それから「ははっ」と楽しそうに笑った。
アイシャも「ふふっ」と笑い返す。
「お前さぁ、今日、どうやってウェイルさんを出し抜いたんだよ」
「内緒」
「えー」
「だってファテ兄に報告するでしょ」
「石頭には言わない、って」
「だーめ」
次の日、アイシャがいつもどおり西二層の広間で勉強を教えてもらっているところに、長兄がやってきた。険しい眼差しで唇を真一文字に引き結び、右手でリースの腕を引っ張って。
「どうしたの兄様」
無言の長兄からリースに視線を移しても、当惑しきった表情が小刻みにかぶりを振るばかり。
長兄の目顔に応えて、アイシャは座る位置をずらして座茵 を半分空けた。彼はリースをそこに座らせると、長い、長い溜め息を吐き出した。
「お前はいつも仲間達にあんなことを言われているのか?」
おずおずとリースが頷くのを受け、長兄の口から再び特大の溜め息が零れ落ちる。
「デラフにいる間、お前はここでダシュティについて色々と教えてもらえ」
それから長兄は、奥に座る教師に「頼みます」と頭を下げた。
「知らないことは、知っていけばいいだけのことだ。ダゥダには俺から言っておく」
そう言って長兄は、来た時と同じように早足で去っていく。
「ああ見えて、彼、面倒見がいいからねえ」
しばし長兄を見送ってから、教師は「さて」とリースを振り返った。
「君が山向こうから来たという子かい。私はカイ。教師、っていうか、知識担当のなんでも屋だよ。よろしくね」
「リースです。よろしくお願いします」
「さっそくだが、君、ダシュティ、という言葉の意味は解るかい?」
リースが黙って首を横に振る。アイシャは反射的に「そこからなの!?」と声を上げていた。
眉根を寄せて、唇を噛んで、リースが服の胸元を握り締める。
「じゃあ、昨日、私はすごく自分勝手に喋ってしまっていたのね。ごめんなさい」
驚いた顔でアイシャを見つめるリースの前に、教師が地図の描かれた羊皮紙を広げた。
「ダシュティとは古い言葉で『草原』という意味で、我々は山のこちら側の草原地帯をそう呼んでいるんだよ。西の山地と、南の丘陵、北の湿地、そして東の大河に囲まれた地域のことさ」
ダシュティにはざっと20の部族が存在すること。そのほとんどが家畜を引き連れ夏と冬で拠点を変えていること。デラフのように一部の部族は町を作り、商いや畑作も行っているということ。教師は地図の該当箇所を指し示しては、まるで詠 むように朗々と語る。
「アナブは棗。ナマクは塩。……塩?」
町の名前とその意味を復唱していたリースが、ふと首をかしげるのを見て、アイシャは得意な気分で地図の上に身を乗り出した。
「ここの〈青の湖〉では塩が採れるからよ。それで、こっちの〈葦の湖〉には魚がたくさん」
教師がにこにこと見守る中、今度はリースが〈葦の湖〉沿岸の町を指さす。
「じゃあ、カプルは魚?」
「残念。鯉よ」
途端にリースが悔しそうに唇を尖らせて、アイシャは思わず笑みを零した。