あわいを往く者

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柱くくる冠

  
 リースがアイシャと一緒に勉強するようになって三日が過ぎた。ダシュティの地理から始まって、簡単な歴史、人々の仕事や暮らしについてなどなど、まるで大地が雨粒を吸い込むかのように、それらの知識を彼はどんどん吸収していった。
「頭の回転が早いね!」
 教本を片付けながら、教師が満面の笑みを浮かべる。
「記憶力もいいし、異郷に来てすぐとは思えないよ。しかも文字も読めて計算もできるんだから、これはなかなかの逸材だなあ。どう、ウチの子にならない?」
 え、あ、と目を白黒させるリースに「あはは」と笑いかけてから、教師はよいしょと腰を上げた。
「さて、今日はこれから下の工房に呼ばれているんだけど、一緒に来るかい?」
「ファテ兄様が怒らない?」
 怪訝に思ったアイシャの質問には、愉快そうな目配せが返ってくる。
「彼が言ってたんだよ、他では見られないからな、って。せいぜい見識を広めて阿呆どもを見返してやれ、だって」
 長兄のいつものぶっきらぼうな口調が容易に想像できて、アイシャは「兄様ったら!」と目元を緩ませた。
  
 三人は教師を先頭に、広間に一番近い階段を何度も折り返してくだっていく。
「あれが昇降機。滑車とおもりを使って荷物や人を運ぶんだよ。手間と人手がかかるのが玉に瑕だけど」
 教師が指さしたほう、表階段のすぐ手前には、丸太で枠を組まれた塔が三つ並んでいた。それぞれの荷台は崖の高さを三等分するようにして昇降する範囲を分担しており、三基を順に乗り継げば、地上から穴の底まで行くことができるのだ。
 階段をおりきった所には、外とはまったく異なった景色が広がっていた。生い茂る木々に、一面の黒土、蔬菜畑。西側へ崖を沿っていった先からは、鉄を打つ甲高い音が木の葉擦れを突き抜けて聞こえてくるが、それに負けず劣らず辺りに響き渡るのが、賑やか極まりない鶏の声。
 畑仕事に精を出す人々と挨拶を交わしつつ、一行は鍛冶場があるのとは逆の方向に足を向けた。
 表階段の東側には石を敷き詰めた広場があり、その中央で男達が人力巻き上げトレッドウイール起重機クレーンの先端に材木を固定していた。そこから伸びる石畳の道を、三人は更に進んでいく。
 工房はデラフの町の東端にあった。建具など無い、崖を大きくくりぬいただけの空間は、職人達全員が起重機のほうに出払っているせいでガランとして見える。開口部近くには加工前の木材が積まれていて、鋸を始めとした沢山の工具があるじ達の帰りを待っていた。
「この天幕の柱は、ジョカに頼まれたものかな」
 教師の言葉を受け、アイシャは先日地上で長兄が商人に言っていたことを思い出した。
「冬営地がややこしいことになった、って……」
「ナマクに襲われたらしいね」
 アイシャが眉をひそめた時、「ジョカ、梟。ナマク、塩」と古語を復習するリースの小声が聞こえてきた。
 一気にアイシャの肩から力が抜ける。知らず零れた微笑みを、彼女はそのままリースに向けた。
「リースは上では隊商宿に泊まっているんでしょ?」
「寝床が足りないって言われたから、馬車で寝てる」
「じゃあ、今までに天幕に入ったことは?」
 リースがかぶりを振るのを見て、アイシャは、ならば、と胸を張った。
「ダシュティの天幕は大きくて立派でしょ。あれには長ーい柱が必要なのよ。でも、長くて丈夫な木材はここデラフでしか採れないの」
 次兄が言っていたとおり、デラフと喧嘩をして困るのは外の人間なのだ。アイシャは誇らしげに傍らの作業台を指さした。
「長いままじゃ運びにくいから、こんなふうに途中で継ぐように作るのよ。この技術もデラフにしか無いわ」
 ダシュティ一帯の遊牧民の天幕は、横から見れば三角形をしている。大人の背二つ分は丈がある柱を七つ、等間隔で環状に立てて、上部を束ねるようにして天冠と呼ばれる鉄の輪でめ、ヤギの毛で織られた布で周囲を包むのだ。天冠が煙突の役目を果たしてくれるため、寒い時期や天候が悪い時は室内で火を使うこともできる。
 継手の複雑な形状をリースが興味深そうに見つめているところに、奥にある扉が開いて親方が顔を出した。
「来てくれたかカイ。ちょっとこの図面のことなんだが……」
 教師が奥の部屋に連れていかれるのを見送ってから、アイシャはゆっくりと辺りを見まわした。
 傾き始めた太陽の光が、大きな開口部から工房の中へと差し込んでいる。真剣な表情で作業台を見つめるリースの姿が、陽光を受けて眩いばかりだ。
 アイシャは、先刻教師がリースに向けた「ウチの子」という言葉を口の中で転がした。彼と一緒に勉強したこの三日間が、とても楽しかったからだ。
「ねえ、リースはダゥダ小父様に会うまではどうしてたの?」
 それは本当に他愛もない問いのつもりだった。だから、返ってきた言葉のあまりの重さに、アイシャは息を呑むことしかできなかった。
「僕は、期待外れの子だったんだって。それで親に売り飛ばされて……、鉱山やまでこき使われて……、満足に食事も貰えなくて……、隙を見て必死で逃げて……、ダゥダの旦那様に拾われた……」
 リースがおろおろと慌てだしたことで、アイシャは涙ぐんでいる自分に気がついた。
「嫌なことを思い出させてしまってごめんなさい」
「謝るのは僕のほうだ」
 一瞬だけ苦しそうに頬を歪ませて、うなだれて、それからリースは「でも、酷い人ばかりじゃなかったんだよ」と顔を上げた。
「家にいた時、隣のお兄さんがとても良くしてくれたんだよ。お兄さんがいなかったら、きっと僕は生きていなかった……」
 アイシャは自分の服の胸元を握り締めた。そうして、心からの言葉を口にする。
「またいつか、そのお兄さんに会えたらいいわね」
 リースは刹那目を見開き、次いで柔らかい笑みを満面に浮かべた。
「実は、ファテさんにちょっと似てるかも」
「ええっ、あんな頭の固い人に!?」
 遠慮も何もないアイシャの言いざまに、リースが笑いをこらえている。
「そうだよ。家族思いで、部族のことを真剣に考えてて、僕みたいな取るに足らない子供を気にかけてくれる……」
「でも、もうちょっと柔軟性があってもいいかと思うのよ」
 自分が誉められた時のような気恥ずかしさを押し殺しながら、アイシャは言葉を継いだ。
「それに。リースは取るに足らない人間なんかじゃないわ」
「どうして?」と心底不思議そうに彼が問う。
「……だって、私が、そう思うんだもの」
 答えになっていないのを承知の上で、アイシャはリースを見た。じっと見つめて、正面から目が合って、急に居ても立っても居られなくなって彼女は視線を足元に落とした。
「私なんて、父様や母様や兄様達どころか、町のみんなにお世話になってばかりよ。期待外れも何も、期待される前の段階よ……」
 俯くアイシャに、優しい声が降りかかる。
「あなたは皆にとても愛されているんだね」
「そうね……。でもそれは、私が族長の子だからというのもあると思うわ」
 少し冷静さを取り戻したアイシャは、目元に力を込めて再びリースをまっすぐ見つめた。
「父様が私達兄妹に仰るの。『我々はデラフという大きな天幕の柱なのだ』って。『おさの家の者としてお前達もそれぞれしっかりとした柱となって、ともに力を合わせてデラフの民を守るのだ』って」
 アイシャは、傍らの作業台に目をやった。完成間近な柱にそっと手を触れた。
「この柱も、町のみんなで力を合わせて、愛情を込めて、木々を大切に育てたのよ。勝手に登ったらすごく怒られたんだから」
 目を丸くするリースにアイシャは「ふふ」と笑んでみせたものの、すぐまた視線を柱に向けた。
「私は、立派な柱になれるかしら……」
「なれると思います。……でも」
 逆説の言葉にこわごわ顔を上げたアイシャは、強い眼差しに迎えられた。深い、深い、藍の瞳に。
「でも、あなたの誠実さと善良さは、幾つもある柱の一つというよりも、高みに在りて柱を一つに束ねる天冠にふさわしく思います」
  
 一週間が過ぎ、隊商は次の町へと渡っていった。
 リースがデラフに残ることはなかった。
  
 冬の訪れとともに、招かれざる客がデラフにやって来た。
 兵馬を引き連れ現れた若者は、ナマクの世嗣でラオと名乗り、開口一番アイシャを嫁にくれと言った。
「ダシュティは変わらなければならない」
 幕町の天幕に集められたデラフのおもだつ者の前で、ラオはそう話を続けた。
「部族という小さな枠の中しか見ず、その場凌ぎに日々を重ねるだけでは、我々に未来はない」
「何故だ」
 族長が、怒りの滲む声で問う。
「何百年と前から、我らダシュティの民はこうやって生きてきた。何故今更それを変える必要がある」
「平原の人間は随分とお気楽なことだ」
 皮肉交じりに言い放つも、ラオの声は依然として落ち着いたものだった。
「一度山裾へ来てみたらいい。山向こうの連中がいかに虎視眈々とダシュティを狙っているのかわかるだろう。奴らは既に尾根を越えて金を掘り、トロナ石を狙って塩湖のほとりにまで姿を現している」
 デラフ側にざわめきが湧き起こる。
 ラオはここぞとばかりに語気を強めた。
「奴らが薪を食い荒らしたら、次は塩を。次は鯉を。そして次は木も食い尽くされるだろう。何故なら、奴らは草原の民ではないからだ。何百年も昔に我らが祖先はこの乾いた大地を選んだが、奴らは選ばなかった。賢明なるデラフのおさならばこの意味がお解りのはず」
 ラオが言葉を切るなり、重苦しい沈黙が場におりる。彼は一同をゆっくり見まわすと、一言ずつ噛み締めるようにして口を開いた。
「我らは、我らの民を守らなければならない。だが、部族ごとにバラバラでいては、西の鬣犬たてがみいぬに対抗するのは不可能だ」
「まさか、それでカプルを征服したのか」
 族長が発したかすれ声に、ラオが直接応えることはなかった。その代わりに彼は、族長を真正面からじっと見つめた。
「我らは、ダシュティという大きな天幕を支える柱にならねばならない」
 そして、一呼吸の間を置いて。
「私は、それを束ねる天冠となろう」
 族長が、長兄が、ごくりと唾を呑み込むのをアイシャは見た。やはり彼らにも、今ラオが言った「天冠タジ」という言葉が「王冠タジ」と聞こえたのだろう。
 ――この覚悟に盾突いた者達の末路は、カプルの名を挙げるまでもなく明らかだ。
 一同の脇に控えていたアイシャは、深呼吸をしてから静かに立ち上がった。
「承知いたしました」
「アイシャ!」
 上ずった族長の声がアイシャの胸を刺す。痛みを押し殺してまっすぐラオの前へと進み出れば、夜明け前の空のような瞳がアイシャを見返してきた。
 自分が正しいと信じる道をなにがなんでも貫こうとするあたり、確かにファテ兄にちょっと似ているかもしれない。アイシャは知らず笑みを浮かべた。
 実を言えば、少しばかり気になってはいたのだ。工房で、が天冠のたとえをよどみなく語っていたことが。あの時アイシャは、彼に、天幕の構造について詳しい説明をしてはいなかったというのに。
 きたるべき再会を確信しながら、アイシャはラオの手を取った。
  
  
  
〈 完 〉