食事を終えたボネは、量程車の記録をもとに通ってきた道の地図を書き起こした。タナの手が空くのを待って道以外の詳しい情報を聞き取り、そこに書き加えていく。
タナが毒虫毒蛇よけの香を焚くと、柑橘類を思わせる匂いが辺りに広がった。途端にユールが帳面片手にタナに駆け寄ってくる。材料は何だ、自分で考えたものか、誰かに教えてもらったのか、普段の生活でも使うのか。矢継ぎ早に繰り出される問いかけにそろそろ我慢も限界になったのだろう、タナは露骨に顔をしかめてみせた。
「さっきからどうでもいいようなことばっかり訊きなさるが、どういうつもりなんです」
言葉遣いこそ丁寧だが、その声には押し殺しきれない苛立たしさが多分に含まれている。しかしユールはなんら頓着せず、あっけらかんと言葉を返した。
「さっきも言いましたけど、僕は歴史を学んでいるんです」
「それとこれとに何の関係があるって言うんです」
馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻を鳴らしたタナに対し、ユールはさも意外そうに眉を跳ね上げた。
「関係大ありですよ。あなたがたがご先祖から大切に受け継いできた生活様式といったものも、僕にとっては知るに値する貴重な情報なんです。なんでもないような日々の生活の中にも、歴史のかけらは散りばめられているんですから」
リュがもの言いたげにタナを窺う。タナは相変わらず口を一文字に引き結んでいるが、眉間の皺は先ほどよりは浅い。
ユールは眼鏡の奥で目を細めると、いつになく落ち着いた声音で話を続けた。
「歴史学なんて道楽者のすることだとか言う人もいますがね、これは素晴らしい学問ですよ。過去に何があったのかを知ることで、我々は先人のありがたい智慧を継承することができるし――」
と、勿体ぶるように言葉を切ってから、得意げに口角を引き上げる。
「――先人の失敗を繰り返さずに済む」
日中は量程車を引きながら東へ進み、夕刻に野営地を決めて天幕 を設営。タナ(とユール)が夕飯を作る(のを見学する)間に、ボネはユエトの手を借りてその日の測量結果をもとに地図を書き足す。食事のあとで地図を案内 の二人に確認してもらう横で、ユールとユエトは自分達の記録をまとめる。
これを繰り返すこと十日、それまで延々と続いていた緩やかな起伏の繰り返しが唐突に終わりを告げ、見通しの良い開けた平地が眼前に広がった。
広さはワミルの五、六倍はあろうか、遠くを囲む岩山の裾野まで続く平坦な土地、そのいたるところにさまざまな大きさの瓦礫が散らばっていた。形や寸法が比較的揃っているものは切り石だろう、不規則に立ち並んでいるのは混凝土 か、人の背ほどのものが大半を占める中、細長い影のようなものがぽつりぽつりと大地に突き立っている。
「鉄の塔か。しかし大きいな」
ボネが錆びてぼろぼろになった結構 構造を見上げる。
「腕木通信塔を彷彿としますねえ。あ、あれは何だろう」
「待て、まずは拠点を作ってからだ!」
聞く耳も持たずに駆けだそうとするユールを、ユエトが容赦なく羽交い絞めにする。
日も傾いてきているから調査は明日以降にしよう、と自分以外の全員から説得され、ユールはしぶしぶ抵抗を諦めた。
翌朝。朝飯を終えるや、一行は探索に出発した。タナはこの遺跡に何度も来たことがあるとのことで、最初にと っ て お き の場所を教えてくれるという。
痩せた大地に乾いた丘という道中の風景とは少し異なって、遺跡のある盆地には細かな砂が一面に溜まっていた。埋もれた瓦礫に躓いたり砂に足を取られたり、四苦八苦しながらタナのあとをついていく。
「ここです。三年前まで建物の壁が残っていたんで、まだ砂がそんなに入り込んでいないはずです」
タナが指し示した先には四角い穴があいていた。深さは身長の三倍はあろうか、小さな家ならすっぽり収まってしまいそうな大きな穴だ。底には壁か柱かといった塊が、砂に埋もれきれずにでこぼことした陰影を作り上げている。
「あれ、何かの壁画じゃないかな!?」
鼻息も荒く穴の縁 から身を乗り出すユールを見て、タナが「おりられますか」と背負い鞄から縄梯子を取り出した。
「待て、ユエトがまだ、って、おいっ」
縄梯子の準備ができるや否や、ユールが我先にとくだっていく。ボネはきょろきょろと辺りを見まわしていたが、短く毒づいたのち「一人では危ないだろう!」とあとを追いかけた。
穴の底に着いた途端、梯子が大きく跳ね上がる。
あろうことか地上では、タナが必死の形相で縄梯子を引き上げていた。
「あんたらにはここで死んでもらう」
「は?」
ボネの口から素っ頓狂な声が漏れた。
「たとえ帝国の役人だとしても、遺跡見物に来た単なる物好きな人間だったらよかったんだ。けれど……、あの地図は駄目だ」
一瞬だけ目をきつくつむり、それからタナは苦渋の声を絞り出した。
「地図ができたら、帝国はハクイに攻めてくるつもりだろう、そうはさせない」
「まさか! 前 の戦の混乱もまだ収まりきっていないのに、そんなことをするわけがないだろう! 地図を作るのは、新しく領土となった土地を把握しておきたいからにすぎない!」
ボネの叫びに耳を貸す様子もなく、タナは昏い瞳をユールに向ける。
「学生さん、あんたは、歴史を知れば先人の失敗を繰り返さずに済む、と言ったな。そうだ、我々は歴史から学んだんだよ。帝国とはいっさい関わるな、と。ワミルもサランも帝国に知 ら れ た から征服された。我らは同じ轍は踏まない」
ユールが小さく舌打ちをする。
ボネはちらりとユールに目をやった。
「私はともかく、帝国政府とは何の関係もない前途ある若者を殺すというのか」
「仕方がないだろう! まったく隙を見せないあんたが悪いんだ」
もはやボネには苦笑を浮かべることしかできない。
「のっぽの学生さんはリュのやつが足止めしている。我々だって無用な殺生はしたくない」
「それなら、こいつも助けてやってもらえないかね」
「それはできん。あんたは油断ならない。少しでも気を抜いたら反撃されるに決まっている」
取りつく島もない状況に肩を落としながらも、ボネは小声で傍らに語りかける。
「足がかりになるものや、抜け道が無いか探そう」
「それよりも、もう少し時間を稼ぎませんか?」
想像もしていなかった言葉が返ってきて、ボネは思わずユールを振り向いた。
ユールが、まるで世間話をしているかのような気軽さで口を開く。
「だって、身体がデカいだけの奴に、ユエが後れを取るなんてこと無いと思うんで……」
その言葉が終わりきらないうちに、頭上からうわずった悲鳴が降ってきた。
見上げれば、ユエトが短剣をタナの喉元に突きつけている。ボネは心の底からほぅっと安堵の溜め息をついた。
拘束したタナとリュを引き立てて、三人は野営地まで戻ってきた。
縄を打たれた二人を地面に座らせたボネは、自分達の天幕 から問題の地図を取ってくると彼らの正面に立った。
怯えを見せるリュと対照的に、タナは一向にボネと目を合わさず、不貞腐れた態度を崩そうとしない。
ボネは、やれやれ、と苦笑したのち、手に持った地図をパラパラとめくった。
「非常に残念ではあるが、これらの地図は破棄するよ。ここより東には行かずにワミルに引き返そう。これで手を打たないか」
タナが勢いよく顔を上げた。目を見開き、信じられないといった様子でボネを凝視する。
「君達の不安も解らなくはないからね。上司には適当に上手いこと言っておくよ。なに、こういうのは得意なんだ」
ほんの一瞬だけ悪戯っぽい笑みを見せ、そうしてボネはスッと目を細めた。
「私は案内 としての君を尊敬しているんだ。豊富な沙漠の知識に、並々ならぬ責任感、使命感。これらを散らしてしまうには忍びない。もし君達がこれ以上我々を害しないと誓うなら、私も君達を警備隊に引き渡すことはしないと約束しよう」
あくあくと空 を噛むタナの口から、「ほんとうですか」と掠れた声が零れ落ちる。
「本当に、不問にしてくださるんで……?」
「ああ。本当だ」
折よくユエトが焚火を起こしてくれていた。枯れ木を舐める炎の中へと、ボネは地図をはらはらと落とし入れる。
それらはまたたく間に鮮やかな橙の光を纏い、ゆらゆらと身をよじっては黒から灰へと色を変えていく……。
「ただ、もう少しだけこの遺跡の調査をさせてくれないか。この二人は、ここを調べるために私の荷物持ちとしてついて来てくれたからね。すぐにとって返すのはあまりにも気の毒だろう?」
だから案内をよろしく頼むよ、と微笑むボネに、タナとリュは何度も感謝の言葉を繰り返した。
食事の用意を案内 達に任せ、三人は天幕 に入った。
出入り口の帳 をおろすなり、ユールが「悪い人だなー」と横目でボネを見た。
「地図に書き起こす前の距離や方位の記録は、しっかり持って帰るんでしょ?」
その指摘に、ボネは一瞬だけニヤリと邪な笑みを返す。
「お前だって綺麗事しか言わなかっただろうが」
「綺麗事?」
「あそこで舌打ちが出た理由だよ」
ボネは軽く鼻を鳴らしてから、姿勢を正してユールとユエトを交互に見た。
「あらためて二人に問おう。お前達は何故歴史を学んでいるのだ?」
しばしの沈黙を置いて、ユールが降参とばかりに小さく両手を上げた。心持ちぞんざいな口調で、それでいて真剣な眼差しで、ボネの問いに答える。
「僕が歴史を学んでいるのは単に『自分が知りたいから』ですよ。過去から学ぶとかそんなの二の次、三の次だ。この世界が刻む物語を読み尽くしたい。そして僕の頭の中に世界を再現したい。歴史の改竄なんてやるはずがないでしょう? 全部台無しになってしまう」
一息にこれだけを語って、ユールは口の端 を上げた。「審問、ってこんな感じでいいんですかね?」と。
続けてユエトも、口重に話し始める。
「国が無くなる直前に、王妃様が俺達騎士見習いだけを集めたんだ。『これから世の中は大きく変わるでしょう。貴方がたは私の代わりに、世界が、歴史がどう動いてゆくのかを見届けるのです。そうしていつか再び巡り会えた時に、それらを私に報告するように』と」
途端に「え?」とユールが眉を寄せた。「いつか、って、確かあの国の王族は全員……」
ユエトはユールの呟きには何も応えず、ただ静かに言葉を結ぶ。
「王妃様は情報の正確さを尊ぶ方だった。だから俺も、歴史を改竄するつもりはない」
二人が答え終えるのを確認して、ボネが厳かに頷いた。
「なるほど。お前達は二人とも、歴史の傍観者でありたい、と言うのだな」
ユールが、ユエトが、神妙な表情で首肯する。
ボネはもう一度二人の顔を順に見やって、それから満足そうに溜め息をついた。
〈 完 〉