あわいを往く者

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黒の黄昏 第一話 二人の弟子

  
  
  
    二  愚計
  
  
 次の日、家事当番であるシキは、夜が明け始める前に鳥の声に助けられて起き出した。身繕いをしてから、まずは母屋の裏へと向かう。
 そろそろ春の息吹も感じられるようになってきたこの頃とはいえ、まだまだ朝晩は冷え込みも厳しく、シキはかじかむ手を息で暖めながら納屋の扉を開けた。手押し車を引き出してくると、飼い葉を二束、水桶とともに積む。いざ厩へ、と納屋の入り口へ向き直ったところで戸口に人影を一つ見とめて、シキはすっと目を眇めた。
「朝早くから、精が出るこったな。連れがあんなのだと、あんたも苦労するよな」
 口を開けば罵倒の言葉が溢れ出してしまいそうで、シキはダンの声が聞こえないふりをした。無言のままで、彼の前を素通りしていく。
「連れねぇな。あんたが知りたい事を教えてやろうと思って来たんだぞ」
 その言葉を聞いて、シキの足が止まった。途端にダンの両眉が得意げに跳ねる。
「俺に訊きたいことがあるんじゃねぇのか?」
 ゆっくりと背後を振り返って、それからシキは真っ直ぐにダンを見据えた。
「あいつが今、どこにいるか教えてやろうか?」
 にやけた口元が実に楽しげに言葉を吐き出す。「そんなに睨みつけんなよ。おお、怖ぇ怖ぇ」
 わざとらしく怯えてみせてから、ダンは大きく一歩を踏み出した。シキのすぐ目の前に立つと、粘ついた嘲笑を投げかけてくる。
「自分が一番あいつのことを知っているんだ、と思ってるんだろう?」
 へっ、と鼻で笑って、それからダンはくるりと背中を向けた。
「来なよ。あんたに現実を見せてやるよ」
  
  
 東の空が徐々に赤みを増していく中、シキは険しい眼差しでダンのあとをついていった。ほどなく街道の脇に生い茂る潅木は絶え、見通しの良い牧草地が目の前に広がり始める。彼の思惑が何であれ、当分待ち伏せの心配はないだろう。シキは心持ち警戒を解き歩調を早めた。
 教会の鐘楼が遠くに見えてきた辺りで、ダンは街道を逸れた。町の南側に広がる耕地をぬって、楠の大木がそびえる風見の丘へと向かっていく。冬を乗りきった小麦の青々とした葉に見送られながら、丘の向こう側へと斜面を回り込めば、見渡す限りの麦畑の一角に、周囲とは少々植生の異なる畑が現れた。小さな掘っ立て小屋が一軒、その真ん中にぽつねんと佇んでいる。
「薬草畑の道具小屋だ」
 シキが黙って先へと進もうとすると、ダンが慌ててその行く手を阻んだ。丘の麓に僅かに生い茂る低木の陰を指差して、自らもそこに身を潜ませる。
「気づかれると、ややこしいだろ。ここにあんたを連れてきたのは、奴には内緒なんだから」
 仕方なくシキも彼に倣って木陰に身を屈めることにした。
「あそこにレイがいるとでも?」
「そうさ」
 下品極まりない笑いを吐き出して、ダンがシキを振り返った。「薬草屋のカレンとな、二人連れ立って夜の遅くにあそこにしけ込んで、それから夜通し、しっぽりずっぽりお楽しみさ」
 その言葉が終わりきらないうちに、小屋のほうから木の軋む音が聞こえた。思わず茂みの隙間に顔を寄せるシキの視線の先、小屋の扉がゆっくりと開かれる。朝靄にけぶる農地を背景に、シキのよく見知った影が戸口に現れた。
 黒いズボンに黒いシャツ、灰色の長外套の裾が風にひるがえる。さらさらと風になびく黒髪を、今まさに首の後ろで一つに束ね、それからレイはこりをほぐすようにして大きく肩を回した。
 シキは身動き一つできずに、ただひたすら息を詰め続けた。と、再び扉が開き、今度は妙齢の婦人が姿を現した。
 イの町の大通り沿いで薬草屋を営む、未亡人のカレン。それがレイの逢瀬のお相手だった。森の向こうから昇り始めた太陽の、まだか細い光にも眩く輝く金髪に、同性も見とれる肉感的な身体。上衣のボタンを閉め終わったカレンは、とろけるような笑顔をレイに向けると、しなやかな指を彼の頬に滑らせた。
 シキの喉が、ごくり、と鳴った。
 カレンの両手がレイの顔を包み込んだかと思えば、レイがそっと身を屈める。降り注ぐ朝の光の中、ゆっくりと二人の唇が重なった。
 黒い髪を、白い指が乱す。小鳥が木の実を啄むようにして、カレンは何度も黄金こがねの髪を揺らす。
「おうおう、お熱いこって。カレンの奴、まだまだヤり足りねぇって感じだな」
 ダンの声が、どこか遠くから聞こえてくるようだ。シキはまばたきも忘れて、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 いくら色事に縁遠いといっても、シキももう一人前の大人だ。子供ではあるまいし、彼らがどんな関係にあるのか、先刻までここで何をしていたのか、解る。
 もっとも、その行為についてシキがどこまで具体的にっているのかと問うならば、甚だ心許ないとしか答えようがなかった。何故ならば、彼女は今までそういった話題に触れることを、可能な限り避けてきたからだ。
 彼女が師と仰ぐのは魔術師だ。癒やし手や精霊使いと違い、女が魔術師になることは非常に稀であった。いや、不可能だ、という声の上がらないことが不可解なほど、女魔術師という存在は実質ありえないと思われていた。
 ところが、一体どういう適性があったのだろうか、先生の指導のもと、彼女は魔術に関して素晴らしい腕前を発揮しつつあった。すると今度は他人からの嫉妬や偏見と戦わねばならない。そんな事情もあって、彼女は自分が「女」であることを極力意識しないように、意識させないようにしてこれまでを生きてきたのだ。
 そんな中途半端な自分を、先生とレイだけは受け入れてくれている、理解してくれている、そう思っていた。
『誰のせいで苦労してると思ってんだよ!』
 昨夜のレイの言葉が脳裏に甦り、シキは思わず唇を噛んだ。全ては、自分の願望であり、思い込みに過ぎなかったのだ、と。
 このまま今まで通り三人で仲良く暮らし続けられたらいい。そうレイも考えているに違いない、と思っていた。たとえレイがどんなにあちこちさまよい歩こうと、帰ってくる場所は先生と住むあの家なんだ、と信じていた。今の生活が失われてしまうことを恐れつつも、心の奥底では、そんなことあるわけない、と高をくくっていたのだ。
 ――だって、……一緒にいたかったから。
 振り返れば、いつだってそこにはレイの姿があった。野原を転げまわって遊んだ時も、教会で訃報に涙した時も、先生の家に来た時も。学校に行き始めて友達が増え、お互い少し距離を置くようになっても、視界のどこかにはいつも彼の姿があった。
 卒業後、先生の下で本格的に魔術の修行を始めた頃から、レイの態度はよそよそしくなってきた。もっとも、先生はそのことをとても歓迎しているようだった。お互いを好敵手と意識することができたのは幸いだ、そう先生は喜んでいた。これでこそ修行の効果が上がるというものだ、君達はもう子供じゃないんだからね、と。
 それでも、どんなに愛想がなくとも、シキの隣にはレイがいたのだ。時には喧嘩もしたけれど、二人で力を合わせて家事をこなし、競い合いながら修練を積んできた。
 ――もう、一緒にはいられないのだろうか。
 ちょっとしたことですぐに調子に乗っては先生に叱られ、でも全然懲りた様子もなく、先生が向こうを向けばまたすぐにふざけてみせたり、そうかと思えば別人のごとく神妙に修行に取り組んだり。そんなレイの様子は見ていて飽きなかったし、楽しかった。悪戯っぽく笑う顔も、得意げに胸を張る仕草も、真剣な表情で呪文を唱えるさまも、……素敵だった。
 先生の合図で、レイはその勝ち気な瞳を僅かに細めると、厳かな指遣いで空気中に魔術の印を描いた。囁くような詠唱は、普段の彼の言動からは想像もつかないほどに繊細で、シキはただ黙って彼のしらべに聞き惚れるのだった……。
「すげぇよな、あの女」
 突然の濁声に、シキの心は一気に現実に引き戻された。「朝までハメまくって、そのまま畑仕事かよ。一体いつ寝るんだ?」
 枝の隙間から見える世界には、既にレイの姿は無かった。薬草の世話をするカレンの金髪だけが、畝の陰にちらちらと垣間見える。
 家事を当番制にしよう。レイがそう言い出したのが、一年前。丁度先生が州都へ遠出することが増えた頃だった。その結果、レイとシキの生活周期はお互いにバラバラとなった。同じ家に住みながら、彼と全く言葉を交わさない日もあった。
 ――なんだ、レイはもうとっくに……
 おのれが気づこうとしなかっただけで、とっくの昔にレイは自分の傍にはいなかったのだ。シキはすっかり血の気の引いた頬で、ふらりとダンのほうを振り向いた。
「なあ、深刻になるなよ」
 ダンが少しだけ気の毒そうな表情を作ってみせた。
「あの女がどういう奴か、あんたも知らないわけじゃないだろ? 俺だってな……」と、一転して卑猥な身振りを披露して、「まさしく、同じ穴のなんとやら、ってな。そんなわけだから、あまり気にすんなよな?」
 慣れ慣れしく肩に置かれたダンの手を、シキは反射的に払いのけた。その手が、肩が、小さく震えているのに気づいたダンの目が、ねっとりと細められる。
「気が強い女は嫌いじゃないぜ。口うるさくなければな」
「私に構わないで。……それから、レイにも」
 悲痛な面持ちで、それでもシキはレイの名を最後につけ加えた。
「同じ穴のムジナだと言ったろ?」
「レイは、あなたとは違う」
 はっ、と派手な嘲笑を吐き出してから、ダンがシキの至近に迫ってきた。
「いいことを教えてやろう。今日の晩、東の森近くで、一仕事する予定でな。
 俺の仲間がナガリャの町で知り合った旅人なんだが、独り身の行商人らしくてな、大きな金剛石を嵌め込んだ首飾りやら何やら、物騒な物をしこたま持っているんだとよ。
 可哀想に、夜盗に狙われたら最後、そいつは身ぐるみ剥がれて殺されちまうに決まってる。だから、そうなる前に俺様が保護してやろう、ってな」
「保護?」
 彼女らしからぬ攻撃的な調子で、シキは鼻で一笑した。鋭い視線に、刹那ダンが怯む。
「物は言いようってな。……勿論、レイのヤツも協力してくれるんだぜ」
 シキが表情を一変させるのを見て、ダンは至極満足そうに相好を崩した。
「言っとくがな、ヤツを説得しようとしても無駄だぜ。一人前の男が、オトモダチに説教されたぐらいでやめるなら、最初からやろうって言うわけないだろ?」
 なるほど、そうかもしれない。シキはきつく下唇を噛んだ。非常に不本意ではあるが、ダンの言うとおりに違いない。
 だが、だからといって、このままレイが犯罪に手を染めるのを、指を咥えて見ているわけにはいかなかった。彼が彼の道を邁進するというのならば、最初に踏み出すその一歩の向きを、大きく違えさせてしまえばいいのだ。力ずくでも。
「腕にものを言わせて、って顔だな。怖ぇ怖ぇ」
 腹が立つほど白々しい口調で揶揄してから、ダンが明後日の方角を向いた。
「ま、あんたにヤツが捕まえられたら、の話だな。あいつ、今日も帰らないって言ってたろ?」
 愕然としたのち、一気に殺気立つシキに、ダンの腰が引ける。
「おいおい、なんて顔してんだよ。やる気か?」
 それから、少しだけ引きつった笑みを口元に浮かべて、胸を張った。「でも、できねぇんだよなあ? 俺、何もしてねぇもん。無抵抗の人間には手を出せねぇよなあ、術師さまよ」
「悪事を謀っているだろう」
「証拠があるのかよ?」
 抜け目のない瞳をシキに向けて、ダンが喉の奥でくつくつと笑った。
「それに、俺の邪魔をしたところで、今度はレイのヤツが首謀者になるってだけのことだしな」
 今度こそ、シキの瞳に絶望の色が入った。そんなことになってしまったら、間違いなくレイは破滅する。
「警備隊に密告してもいいんだぜ? ダン・フリア様を捕まえるとなれば、現場を押さえるしかないだろうが、そうなりゃ、レイだって一蓮托生だ」
 自分には、何もできない。レイを助けることができない。そう考えた途端、シキの胸の奥がカッと熱くなった。潤み始める目元に力を込めるべく、奥歯を強く噛み締める。
 対して、すっかり調子を取り戻したダンは、手振りも豊かに熱弁をふるい続けた。
「大体、だ。そんなに深刻になるようなことじゃねぇだろ? 人殺しするわけじゃなし。そもそも、そのためにヤツの力が必要なんだからな。魔術でちょちょいと、標的を眠らせるのがヤツの役目さ。どうだい、実に紳士的じゃねぇか」
 そこまで言って、ダンは鷹揚に腕を組んだ。微動だにしないシキを、しばし無言で見下ろす。
「それとも……ヤツの代わりに、あんたがするか?」
 思いもかけない申し出に、シキは眉間に皺を刻んだまま顔を上げた。
「俺ぁな、常々あんたに一目置いてるんだ。女のくせに、媚びねぇし、ギャアギャアうるさく出しゃばらねぇし、それに強ぇしな。今だって、泣き喚きもせずに頑張ってる。正直、あんなヤツのせいで悲しむあんたを見たくないんだ」
 どの口がそれを言うか、と叫びたくなるのを必死で抑えて、シキは強く口を引き結んだ。視線の先では、ダンが悪魔の笑みを浮かべて立っている。
「あんたがレイの代わりに手伝ってくれる、ってんなら、ヤツには適当な理由をつけて、計画は中止だとでも言っておくが……、どうする?」